私の写真論

 今の世の中には、ありとあらゆる表現が溢れているので、どれか一つを取り上げて批判しても意味はなく、批判ではなく、自分がこうだと思うものに添って自分の活動を続けて、批判したいものを超えていかなければならないのだろうとは思う。

 それでも、今年の木村伊衛兵賞受賞の梅佳代のハプニングスナップショットをメディアがもてはやしていることについては、私なりの見解を述べておきたい。

 現在、「風の旅人」の来年の二月号以降のことをぼんやり考え始めており、今日、新宿の紀伊国屋に立ち寄ってみると、本屋の至るところに梅佳代の本が三冊セットで並べられている。

 町中で面白おかしい光景をスナップで撮る。それが賞をとって、ヒット作になり、時代の寵児のようになってメディアなどの露出が大きくなっているから、本も売れる。メディアは、メディアを活性化させるために、いつもこうした構造で人気を増殖させる。

 梅佳代の写真について、「写真のおもしろさをストレートに感じさせてくれる。日常生活のなかで起きている不可思議な小事件、出来事。それを見逃さず写真に記録して見せてくれる。思わず笑いがこみあげ、もっと見たいと眼が訴えかけてくる。」などと賞賛されたりするから、おそらく、今、写真学校などに通っている人で、これに続こうとする人が増えるだろう。

 そして、このスタイルはやろうと思えばさほど難しいことではないから、同じようなものがたくさん出るだろう。そして飽きられる。

たくさん出る前に、飽きられる可能性が高い。

 あのようなスナップのハプニングものを、シャッターチャンスをうまくとらえているなどと評する人がいるが、私はそのように思えない。あの種の人間の面白さは、その辺に溢れている。どこかの街角に立って、あの種の面白さだけを待ち続けていれば、幾つものケースに出会うし、その瞬間を撮り逃がしても、待っていればまた同じような光景と出会う。あの種の面白さを見ても、笑う人はいても、驚いたりしない。あり得ないとも思わない。誰しも心のなかで少しは認知しており、「こういうのって、あるよね」と受け止める。あの面白さというのは、既に自分の認知済みのものを再確認して、共感して、納得できる安心に裏打ちされているのだと私は思う。

 現代の社会で、人間の変な面白さは、敢えて探し出さなくても溢れている。テレビとかでもしょっちゅうその類のことが流されている。農家の人を登場させて、お笑いタレントが突っ込みを入れて、ボケた感じの対応を皆で笑うということは日常茶飯事であり、そうしたことを、ストレス社会の一服の清涼剤などと言う。

 本当の意味でシャッターチャンスを逃さないというのは、珍しくも何ともない光景を待ち構えて撮るということではなく、めったに現れないけれど、とても大事な瞬間を捉えるということ。それを逃すと、同じような瞬間は、なかなか巡ってはこない。そうした瞬間をただ写せばいいのでなく、そのものの内実をより引き出す構図や光の加減のなかで捉えること。大事だけれど、微妙で見逃しやすいものだからこそ、その内実をより引き出す技量が必要になる。同時に、何が大切かを感じ取る感受性が大事だろうと思う。

 あのハプニングスナップショットには、内実を引き出す技量などは感じられない。技量が無いと何にも感じとれないような微妙な瞬間を撮っておらず、誰が見てもわかる大仰な表情とか、誰が見てもわかる明確な動作ばかりが写っている。それ以前の問題として、何が大事か伝えてくるような、もしくは何が大事か改めて考えさせるような、揺らぎは伝わってこない。表現者の側に、そうした葛藤があまりないからだろう。

 誰が見てもわかるような大ざっぱなアクションでコミュニケーションして面白さを伝えるのは、ハリウッド映画が典型だが、あのハプニングスナップショットは、表現のスタンスとしてはそれと同じようなものだ。

 写真もまた娯楽と割り切ってしまえばいいという考えもある。

 しかし、ハリウッド映画は、ギャラをもらって俳優が演じているが、ハプニングスナップショットには、普通の人が写されている。普通の人が、娯楽の材料にされている。その感性は、非常にテレビ的だ。だからテレビにも受けが良いのだろうと思う。

 あの種の写真をもっと見たくなるというのは、そこにあるものの内実が豊かだからではなく、娯楽映画のように、刺激を与えてくれるからだろう。

 その刺激とはいうのは、自分を何らかの形で変容させる刺激ではない。

 私は、自分を何らかの形で変容させる刺激こそが“美”だと思っているが、あのハプニングショットの刺激は、そうではなく、テレビのお笑い番組のような退屈しのぎなのだと思う。

 あの種のものがもてはやされればされるほど、写真というものは、その程度のものという感覚が広がり、写真表現への期待は下がってくる。というより、写真に限らず、「表現」がこの時代の突破口になるなどという期待は既に誰ももっておらず、ファッションブランドと同じように好き嫌いのコレクションにすぎない現状であり、「表現で可能なスタイルは全て出し尽くしてしまえばよい、全て出し尽くして飽きられてしまえばよい、全て飽きられたところからしか、本当のものを評価する空気は出てこないだろう」という認識を、もしかしたら賞の審査員の一部が持っている可能性もある。

 紀伊国屋で少しうんざりした後、四谷三丁目のニエプスというギャラリーで、「風の旅人」の第27号に掲載している粱さんの写真展を見て、そこにあった星玄人さんの写真集に目を通した後、すぐその近くのLOTUSというギャラリーで行われていた有元伸也さんの写真展を見た。彼らは、30代の若手だが、様々な葛藤を抱えながらも時流に乗ることなど考えず、写真によって何か大事なことを伝えようとしている。といって何か大事なものを決めつけているのではなく、大事なものに目を凝らしながら、それを少しでも引き寄せようとして写真を撮っているように感じられる。

 私は、「風の旅人」の誌面で、そうした写真の力を最大限に引き出して、この情報過剰な社会のなかで埋もれてしまいがちな彼らの作品の魅力や、その価値と意義を、もう少し浮かび上がらせたいと考えている。写真の売り込みにおいても、そうしたスタンスのものは大歓迎だし、そのベクトルとまったく逆行していて大切な視点を曇らせるようなもの、そのことに対してまったく自覚できていないと感じさせられるものは、拒絶している。電話だけでもそうした違いが察せられる。写真は見なければわからないというのは違っていて、見るべきものかどうかは、それ以前に、その人のスタンスに垣間見える。写真もスタンスで撮るものだと私は思っているから。

 私が「風の旅人」を制作するうえで求める写真は、24日の日記にも書いたように、

現代社会を覆う価値観のなかで見失われがちなものや、不当にないがしろにされているものに秘められた豊かさや美しさに焦点を当てて、現代の商業主義が仕掛けてくる虚構の豊かさや美しさの平坦さや嘘っぽさをあからさまにしたい」という考えに添ったものだ。

 

 誰しも、世界や、社会に対する自分なりの認識を持っている。

 良いもの悪いもの、綺麗なもの汚いもの、豊かなもの貧しいもの、素晴らしいもの、ひどいもの、面白いもの面白くないもの、大事なもの、そうでないもの・・・、そうした認識について、自分では自分の感覚でそれを判断していると信じているが、実際は、外から擦り込まれていることが多い。だから、世間の価値観(流行)が変わったら、自分の感じ方や考え方も、ころころ変わる。自分のなかに軸がなくて、周りに引きずられている自分のことを、誰しも少しは意識していて、そのような状態に対して、不安も感じている。その不安に向き合っている人もいるし、その不安を手軽な娯楽などで、その都度解消している人もいる。

 その不安を忘れさせてくれるものの方が、売れる。その不安を増幅させるようなものは、あまり売れない。それが現在の「表現」に関する消費傾向だと思う。

 梅佳代のスナップショットのように、「こういうのって、あるよねえ」と納得しやすいものは、自分が拠り所にしている世間の価値観や、自分の世界認識に対する安心を与えてくれる。

 自分が世界の10%にしか関わっていなくても、その中の価値基準に従っていていいのだという気楽な気分を得ることにおいて、有用なのだ。

 それに比べて、「自分が認識している世界は10%にすぎないのではないか」という不安を与えるものを、多くに人は敬遠したくなる。昨日見た有元さんや星さんの写真は、そういう類のものだ。

 そういうものを避け続けていると、ますます自分が認知する世界に固執するようになる。それで人生の最終時点まで逃げ切れればいいのだが、そんなに甘い筈はなく、人生の節目において、自分が見知っている世界の小ささを思い知らされることになるだろう。

 美しいものは、恐い。それは、自分自身の内実を何らかの形で変容させる力があるからなのだ。流行に合わせて自分を変えていても、それは表面にすぎず、内実は変わっていない。だから流行は恐くない。

 美しいものより、自分に優しいものの方が受け入れられやすい時代だから、梅佳代の写真がもてはやされる。

 自分に優しいものに取り囲まれながら逃げ切れればいいのだけど、それが不可能だと知っている人は、自分の認識を覆してくれるものを求め、それによって、自分を常に再生させていきたいと願う。

 自分を壊すことを避け続けている人は、自分を壊すことを極端に恐れる。しかし、実際に、自分の価値観や認識を覆される経験のある人は、それが快感であることを知っている。

 有元さんは、現在、新宿の写真を撮っているが、ホームレスと一括りにされて一つのイメージで片付けられる人々と接するたびに、自分の認識が引きはがされる快感を得ると言う。

 彼が撮っているホームレスと言われる人の写真は、私が見た同じテーマの写真のなかでもっとも荘厳で美しかった。

 その人たちが生きる全時間が美しいのではない。一日の大半を美しいとは感じられないような時間を過ごしていたとしても、美しいと感じられる瞬間がある。人生を積み重ねて生きていることそのものが美であると実感させられる瞬間がある。

 めったに見れないものは無視して、よく目につくものだけで全てを判断してしまうのが、現代人の癖だが、写真の素晴らしさは、そのめったに見れないものを、永遠にできることなのだ。

 ホームレスと言われる人にかぎらず、誰であっても、自分が生きている時間の全時間が美しい筈がない。そして、大半がつまらないからといって、全てがそうだと決めつけてしまう悪い癖がある。自分がつまらないから、他人を笑うことで気分を解消する。そのようにして、それでなくても目につきにくいものが、ますます見えにくいところに追いやられて行く。

 しかし、生きていくうえで本当に力になるものは、全時間のなかの僅かであったとしても、生きていることがかけがえのないことだと実感できる瞬間なのだ。

 その貴重な瞬間はますます無視されて目につきにくくなるばかりだが、そこにある大事で美しいものに目を凝らしているスタンスの方が、街を歩けば割と目につくハプニングを追いかけ回していることよりも、現代社会では大切なことだと私は思うし、表現者として信頼もできる。

 だから、本屋にあからさまに目立つように陳列されているものよりも、四谷三丁目の裏通りの小さなギャラリーに隠れているような写真を掬いとっていかなければならないのだろうと思う。

 


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