第1451回 大谷翔平選手の”遊び”と、世俗世間の無聊の慰めの違い。

大谷選手の通訳が、スポーツ賭博で7億円近い借金をして、大谷選手の口座から埋め合わせをした事件が世間を賑わす前、大谷選手の新妻が、五千円のバッグを持って海外遠征に同行している写真が取り上げられているのを見て、いいなあと思っていた。

 二人が付き合って数年が経ち、その間に、野球以外の副収入も含めて年間に数十億円の稼ぎがある彼に、新しいバッグをねだってもいないし、プレゼントもされていない、そもそも、そういう必要性を感じていないという雰囲気が、新しい時代だなあと。

 少し前までは、「セレブ」という言葉で象徴される姿が、カッコいいとされていた。有名人でお金持ちと一緒になって、着飾って、贅沢な暮らしをすることが素敵だと憧れ、そういうポジションを狙う輩も大勢いた。

 大谷選手は、「チャラチャラした人は好まない」という言い方をしていたが、「セレブ」っぽさを装いたい人は、その「チャラチャラ」の中に含まれ、五千円のバッグでも何の不満も不自由も感じていない自然体の彼女のような人が、自分に合っていると感じた。

 大谷選手は、いくらお金があっても、おいしいものを食べるためや、高価なワインを飲むために、外食をすることはないという。

 スパゲティに塩をかけて食べるというくらい、食べることは、身体を作るためと徹している。

 そういうストイックさを、チャラチャラした人たちは、遊び心がないとか、余裕がないなどとケチをつけるかもしれない。

 しかし、そもそも「遊び」というのは、白川静さんの言葉によれば、神遊びが原義であり、神とともにある状態を言う。

 それは、人間的なものを超える状態を言う語である。

 大谷選手は、大リーグという世界最高峰の舞台で二刀流に挑戦して、結果を出しているわけだが、そのことについて、誰もが、従来の人間の常識を超えた何かを感じているわけで、そういう意味で、大谷選手は、真の意味で、自分の全時間を、「遊び」に投じている。

 あまりにも人間的な俗世間での虚栄や無聊の慰めのための「趣味」程度のものを、遊びだと勘違いしている人が多い。

 人間的なものを超える状態を「遊び」というなら、それは、全身全霊で行ってこそのものだと言える。

 そして、人間的なものを超える状態というのは、大谷選手のような超人的なスポーツマンだけの特権とは限らない。

 「人間的なもの」の定義は、一般的に人間が理性分別で決めてしまいがちな常識の範疇にあるものと言える。

 大谷選手というのは、結果を出したことは、当然素晴らしいのだが、結果を出す前、他の人たちが「無理だからやめておけ」と決め付けていた二刀流に、頑なまでに挑戦しようとしていたことが、すでに「人間的なもの」を超えていた。

 さらに、投手として出場しているのに、体力温存を考えず、全力疾走して、走塁まで果敢にやろうとする姿勢が、一般的な人間の理性分別(つまり打算や計算)を超えていた。

 現代社会では、仕事とプライベート(自分の趣味的な時間)を分けるべきだという論調が強い。

 これについて、私は、若い時から、ずっと疑問に感じていて、そうした社会の風潮は自分には関係ないというスタンスでやってきた。

 だって、そういう考えだと、自分の趣味的な時間が重要で、それを支えるために、しかたなく仕事をやっているということになる。そうすると、その仕事の時間は、自分にとって不毛だということになる。寝る時間を除けば、人生の半分以上の時間を捨ててしまうことになるのだ。

 仕事と自分の時間の区切りがなく、トイレや入浴の時も、朝、布団の中で目覚めた時も、ずっと仕事のことが思い浮かぶような状態を、不幸だと言えるかどうか、という問題がある。

 もしそれが、誰かに強制されたり、自分の本意でないことならば、不幸だ。しかし、自分の本意として、その仕事を選択して、その仕事に苦しみもあるけれど十分な喜びも感じているのならば、自分の時間を、仕事に関すること全てに費やしていても、不幸ではない。

 むしろ、そのように夢中で没頭しきっている状態こそ、一種の「人間的なものを超える状態」であり、真の意味で、遊びだとも言える。

 なぜなら、思いもよらぬ閃きなどは、そうした忘我の集中状態で起こることが多いからだ。

 職人さんや、科学者なども、同じだ。

 ニュートンが、木からりんごが落ちるのを見て引力を発見したというエピソードは、歩いている時もずっと頭の中で考え続けていたからこそ、目の前の出来事と、自分の脳内回路がつながったのだと思う。

 世俗的で趣味的なプライベート時間の喜びと、忘我の集中状態で閃きを得た時の喜びは、喜びとしては次元の違いがある。

 この息抜きではなく、本気の状態で得た喜びを知った者は、息抜きの喜びは、大したものだと感じられない。

 5000円のバッグの代わりに、数十万円のバッグを身につけたところで、それがどうしたの? という感覚になる。

 私は、これまでの人生で、総資産が数千億円の超大金持ちや、芸術家や写真家や作家や学者の家を訪れたり、通い続けたことがある。

 そして、はっきりとしていることは、いくら高級そうな家具や装飾で飾っていたとしても、単なる置物にしか見えない状況と、その人の「からだ」や「魂」とつながっていると感じられる状況の違いだ。

 前者は、その場所に、他の誰かが住んでいても大して変わらないが、後者は、その場所に、その人が住んでいるからこそ、その世界が成り立っていて、だからこそ、記憶に残り続ける。

 後者で一番衝撃的だったのは、白川静さんだった。世紀の大学者の家だから、広々とした日本庭園付きの純日本家屋かと思っていたが、真逆で、これは松岡正剛さんも書いていたと思うが、その書斎は、撮影カメラも入れないような狭い所に莫大な書物が積まれて、そんな穴蔵のようなところで偉大な探求を続けておられたが、時空を超えた探求の旅であることが、その空間からも伝わってきた。

 作家の日野啓三さんも、自ら好んで、洞窟のような光の入らない狭い部屋で執筆をしていたが、意識の変異のために、その方が良いと言っていた。

 大谷選手の妻が、高級ブランドで身を固めた(チャラチャラした)女性で、大谷選手の隣に並んでいたら、不自然で、なんだか体裁が悪い。

 5000円のバッグを身につけていても、それが、その人の内面も感じさせて、似合っていて、素敵であるということが、この時代に、とても新しい風を送り込んでいるように感じる。

 大谷選手のような影響力のある人間は、当人が意識していなくても、社会の風向きを変える可能性がある。

 世俗的な分別や流行による価値観の影響を受けずに、自分の持ち時間の全てを、自分が夢中になれることに集中できて、自分のカラダと魂を作る物をそばに置いて吸収して、虚栄の消費目的のものには関心を持たない。

 ほぼ毎日が、全身全霊という「遊び」の境地。それは、子供時代がそうだったし、おそらく、縄文人もそうだった。縄文人は、だから、同じ暮らしを10,000年続けていた。変える必要がなかったし、変えたいとも思わなかったから。

 現代の最先端を生きている大谷選手のメンタルは、とても古代に近いように思う。

 

 

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第1450回 縄文時代に遡る巫女神が、時代を超えて伝えていること。

御前崎。(静岡県御前崎市)。

南海・東海大地震が起きた場合、もっともダメージが懸念される原子力発電所である浜岡原発は、太平洋に突き出た静岡県御前崎にある。

 この場所は、四国から近畿にかけての中央構造線を東に伸ばして、伊豆下田の伊古奈比咩命神社(白濱神社)、そして大島の波布比咩命神社を結ぶライン上にある。

 不思議なことに、このライン上には、古代の巫だと思われる女神の聖域が、数多く並んでいる。

 最も西が瀬戸内海の姫島で、比売語曽(ヒメコソ)神社が鎮座しており、阿加流比売(アカルヒメ)神を祀っている。この女神は、古事記では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっているが、親の国へ帰ると言って日本の難波にやってきた。つまり、古い時代の日本の女神である。

 そして、赤い玉と関係しているこの神の「赤」は「朱」であろうと思われ、辰砂=硫化水銀(丹生)に通じている。

 四国から近畿にかけて、この中央構造線のラインは水銀の産地であった。

 平安時代の歴史書である『続日本紀 』によれば、「698年 、伊予の国より朱砂が献上された。」という記録が残っているように、愛媛県松山市に丹生神社、愛媛県三条市には壬生川地域(かつては丹生川と記録されている)がある。

 このライン上における近畿の吉野地域では、丹生津比売が最初に降臨したとされる吉野川流域の丹生酒殿神社、その東に丹生川上神社、そして、伊勢神宮の西の多気町の丹生大師や丹生神社など、「丹生」の聖域が続いている。

 また、この中央構造線の東西ライン上に、日本の他の地域ではほとんど見られない天津羽羽神の聖域が幾つか見られる。

 徳島を流れる吉野川において、日本最大の川中島である善入寺島、和歌山の紀ノ川河口の朝椋神社、吉野三山の波宝神社などだ。

 また、天津羽羽神は別名が 阿波咩命で、伊豆諸島の神津島や、静岡の御前崎の北、掛川の粟ケ岳山頂の阿波波神社などに祀られている。

 この 阿波咩命 というのは、『続日本後紀』によると、三島大明神大山祇神)の正后とされている。

 そして、三島明神大山祇神)の後后が、伊古奈比咩命であり、この女神は、丹生の聖域を結ぶ東西ライン上、御前崎の東、伊豆の下田の伊古奈比咩命神社に祀られている。

伊古奈比咩命神社

 さらに、このラインの東の端にあたる大島は、波布比咩命の聖域であり、伊豆諸島の創世神話三島大明神縁起』(『三宅記』)によると、この女神もまた三島大明神大山祇神)の正后とされている。

 続日本後紀では、阿波咩命(天津羽羽神)が三島明神の正后である。

 斎部広成が807年に編纂した『古語拾遺』の中で、「古語に大蛇(おろち)を羽々(はは)と謂ふ。」とあり、さらに神話の中でスサノオが八岐大蛇を斬った剣は、「天羽々斬剣(あめのははきりのつるぎ)」とも記されているので、天津羽羽神は、大蛇(おろち)神である可能性が高い。

 そして、大島の波布比咩命の「はぶ」もまた、同名の蛇(波布=ハブ)が南西諸島に生息している。

「ハ」は、葉や歯や鼻や端や橋や箸など、先端や尖ったものを指す言葉で、ヘビの形もそれに通じるので、三島大明神大山祇神)の正后とされる二女神、「ハブ」の波布比咩命と、「ハハ」の天津羽羽神は、ともに大蛇と関わる女神ということになる。

 縄文土器には、この蛇のモチーフが多く見られる。

 古代地中海世界において、蛇を象徴する神はメドゥーサであるが、これはギリシア先住民族の女神で豊穣の神でもあった。しかし、新時代のギリシャ文明を象徴し都市の守護女神であるアテーナーの支援を受けたペルセウスによって、怪物として殺害されてしまう。

 天津羽羽神は、四国では別名が大宜津比売(オオゲツヒメ)だが、古事記において、この女神は五穀の起源である。しかし、高天原を追放されたスサノオに食物を求められた大気都比売神は、鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理している光景をスサノオに見られ、そんな汚い物を食べさせていたのかと殺されてしまう。

 古代ギリシャと同じく、古代日本でも蛇神は先住民族の豊穣の女神だったが、価値観の異なる新しい文明世界において、汚らわしいものとして扱われた可能性がある。

 三島大明神大山祇神)の娘でありながら、ニニギに選ばれたコノハナサクヤヒメと違って、醜いからと忌避されたイワナガヒメの物語もまた、そのことを別の角度から伝えている。(一般的に思われているように不美人だから選ばれなかったということではないだろう)。 

 いずれにしろ、この東西のライン上には、四国、吉野、伊豆と、三島大明神および、その后の聖域が多い。

 三島大明神大山祇神)の后として記録されている女神たちは、名前は異なっていても、基本的には同じで、先住民(縄文)の世界観を象徴する女神であり、阿加流比売(アカルヒメ)や丹生津姫も、そこに含まれると考えられる。

 この丹生関連の東西ライン上にある静岡の御前崎にある白羽神社の祭神は、太古より白羽大明神と伝えられているが、白羽大明神がどういう神なのかはわからない。

 しかし、ここは、延喜式内社の服織田神社と考証されており、服織田というのは服部と同じく、古代日本において機織りの技能を持つ集団である。

 古代、織物は、神や先祖霊に捧げる最高の供えものであった。布を織る者は、禊をして身を清め、布を織る場所も水辺であった。ニニギの天孫降臨の時、最初に出会ったコノハナサクヤヒメやイワナガヒメも水辺で機織りをしていたように、古代の巫女との関連が深い。

 そして、白羽神社は、延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ、往古は馬をお祀りしていた。これは竜蛇信仰とつながっている。水辺で馬を育てると、水神・海神の竜蛇が馬を孕ませ、竜馬、すなわち素晴らしい良馬が産まれるという伝承が、各地に残っているのだ。

 また、白羽神社の近くには、竜神伝説が残る桜ケ池を御神体とする池宮神社(祭神は瀬織津姫)が鎮座しており、これらを合わせると、御前崎もまた竜蛇信仰の土地ということになる。 

 天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメは、大山祇神の娘とされているので、母親は、三島明神の后、つまり先住民の女神だということになるが、コノハナサクヤヒメは、別名が神吾田津比売で、南九州を拠点とする海人族と関わりが深い。

 瀬戸内海の大山祇神社は、三島大明神大山祇神)の代表的聖域であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・国の重要文化財の指定をうけた日本の武具類の約4割がこの神社に集まっており、甲冑の保存は全国一である。

 だからかどうか、ここは、日本総鎮守とも称される。

 御前崎の白羽神社も、武門武将の崇敬が篤かった。

 大山祇神が、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めたのは、神の力にすがったというより、この神を祀る集団勢力の力を頼ったということだろう。

 天孫降臨というニニギが、大山祇神の娘のコノハナサクヤヒメと結ばれたという神話も、外からやってきたニニギが、この国を治めていくうえで、以前からこの国に存在した大山祇神に象徴される勢力の力が必要だったということを伝えている。

 縄文に遡る古代の世界観は、コノハナサクヤヒメという女系と三島大明神大山祇神)に象徴される海人勢力によって、後世へと伝えられていくのだ。

 そして、その海人勢力というのは、日本列島の東西に伸びる中央構造線に沿った水銀の鉱脈に関わる「丹生」の海人勢力であると思われる。

 大山祇神三島明神)の影響力の範囲が、四国から伊豆にかけての丹生の東西ラインと重なっていることが、そのことを裏付けている。

 丹生=辰砂=硫化水銀は、防腐と防水の効果があり、船の建造において有用だった。

 そして、この海人勢力は、表の政治にはあまり顔を出していないが、婚姻関係を結ぶ巫の女性と、水上交通を通じて、政治を裏側から支えていた。

 島国の日本では、人や物資の移動に海人のネットワーク力が欠かせなかった。この海人のネットワーク力は、縄文時代糸魚川のヒスイや、八ヶ岳神津島や姫島や隠岐などの黒曜石が沖縄や北海道を含め全国各地に流通していた事実からもわかる。

 縄文時代から受け継がれた先住民の文化は、蛇神である大宜津比売がスサノオに殺されたように、律令制の新しい文明世界においては、表世界からは排除されているように見えるが、実は、水面下で脈々と受け継がれていた。

 その文化の担い手は、アメノウズメに象徴される人たちであった。

 アメノウズメは、天岩戸の神話において、岩戸の前で力強くエロティックな動作で踊って八百万の神々を笑わせ、アマテラス大神を外に出すために活躍した女神だ。

 谷川健一は、笑いを、「人間の原始的情念」が噴出したものとして捉え、天の岩戸におけるアメノウズメの行為は、古代の巫が行った神託の祭事にその原形を見ることができると指摘している。

 同時に、アメノウズメは、猿女君・稗田氏の祖とされるが、この中には、古事記編纂において、様々な口承を記憶し、その内容を太安万侶に伝えて記述させた稗田阿礼がいる。猿女君は、口承伝承を担っていたのだ。

 古代の巫に通じるこの勢力の影響力は、律令制が崩れつつあった10世紀頃から、再び大きくなっていく。

 女流文学が花開く国風文化、そして、芸能の発達の背後に、この勢力がいた。  

 現代では、夏の風物詩になっている盆踊りは、お盆の時期に先祖を供養する行事でもあるが、その起源は、10世紀、空也によって始められた踊り念仏だとする説がある。

 空也は、生存中から醍醐天皇落胤(正妻以外の身分の低い女に生ませた子)という噂があり、醍醐天皇というのは、源氏の身分で生まれながら天皇に即位した歴史上唯一の存在であり、源氏に臣籍降下していた宇多天皇と、藤原胤子という京都山科の小野郷の宮道列子の娘の血を引いている。

 紫式部は、父母とも、その母方が宮道氏の血統であり、源氏物語の明石入道は、自分の娘が産んだ娘が天皇に嫁いで世継ぎを産むということで、宮道列子の父、宮道弥益と重ねられている。

 この宮道氏が何ものなのか明確な記録はないが、宮道神社の祭神が、宮道氏の祖神であるヤマトタケルであり、ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫は、播磨国風土記では、父が和邇氏とされる。

 和邇氏は、後に、柿本氏や小野氏となり、多くの文学者を輩出しているが、宮道氏が、その系譜であるとすれば、京都市堀川通にある紫式部の墓が小野篁と隣り合わせである理由にもつながるし、宮道列子の子の藤原定方が、右大臣となりながらも歌人であり、さらに紀貫之の後援者として「古今和歌集」の編纂の陰の立役者であったことにつながってくる。

 踊り念仏の祖である空也が、醍醐天皇の子であるとすれば、宮道列子の曽孫ということになり、同じ系譜の中に存在している可能性がある。

 この踊り念仏を全国に広めたのは鎌倉時代の一遍だが、一遍の系譜は明確で、彼は、愛媛の海人勢力である河野氏の次男だった。河野氏は、大山祇神を奉斎してきた越智氏の後裔である。

 踊り念仏は、念仏を唱えながら、集団で”とんだり、跳ねたり”するもので、こうした行動によって、参加者に恍惚感と自己開放をもたらすものだった。

 やがて、念仏を唱えるかわりに歌を唄う「念仏踊り」となり、それが盆踊りになっていったと考えられる。

 10世紀、菅原道真の怨霊騒ぎの頃に登場した空也と、13世紀の一遍のあいだの12世紀に、”大勢で一緒になって念仏を唱える”という融通念仏という宗教運動が起きた。これが、集団での踊りという形になっていくが、1300年、京都の壬生寺において、融通念仏を行っていた円覚上人によって、壬生大念仏狂言が始まる。

 人々が念仏を唱えているなかで行なわれていたこの狂言は、台詞を発するのではなく、大きな身振り手振りで、念仏の教えを表現するもので、現在まで脈々と伝えられている。

 「壬生」というのは、もともとは「丹生」である。

 また、丹生と関連の深い丹比氏の丹比文子は、菅原道真の怨霊の神託を最初に受けたとされる巫女であるが、中世の風流踊や、出雲の阿国の初期歌舞伎の様相を今に伝えているとされる綾子舞は、彼女がルーツだという説がある。

 丹比氏の代表的人物が、飛鳥後半の白鳳時代左大臣という政権トップだった丹比嶋という人物で、彼が、柿本人麿の支援者だった。柿本氏は和邇氏の後裔であり、この柿本氏と、綾部氏という語り部集団の娘のあいだに生まれたのが柿本人麿だった。

 この丹比氏は、大阪の住吉大社のところが拠点で、住吉神と深く関わっていた。そして、住吉大社の摂社に、式内社の大依羅神社があり、呪的集団の依羅(よさみ)連が、ここを拠点としていたのだが、柿本人麿の妻、依羅娘子が、この出身だった。

 丹比と、柿本人麿は、この線でつながっていたのだが、柿本人麿は、母と妻を通じて、古代の魂を継承していた。

 そして、丹比氏は、大嘗会の時に田舞を奏した記録があるので、古舞を管掌する家柄だったようだ。

 アメノウズメが象徴しているように、「踊り」それじたいに、古代の巫の行為が反映されているが、それが丹比氏という「丹生」関連勢力に受け継がれ、律令制開始期に活躍した柿本人麿を後援(丹比嶋)し、律令制崩壊の10世紀に、菅原道真の怨霊の神託を受けた最初の人物(丹比文子)となった。

(丹比文子は、菅原道真の乳母だったという説がある。)

 また、海からやってくる神を迎える踊りで、海人族と関係していると思われる鹿島踊りが、三島大明神と関わりの深い伊豆半島周辺に集中的に伝わっているが、綾子舞と鹿島踊りの共通点は、一般の日本舞踊に見られる「当てぶり」=(歌詞の意味を動作に置き換えること)が存在しないことだ。

 綾子舞と鹿島踊りは、きわめて抽象的で内発的な動きが多く、それは物語の内容に従属する動きではなく、トランスに入るための鍵、つまり神に近づく、もしくは神と一体化する動きだと考えられる。

 現在、巷に溢れるアートは、近代西欧文明の根幹にある「万物の尺度を人間に置く」の価値観の産物であるので、自己が解釈する世界の表現、自己のコンセプトに従属させた表現、すなわち、自己を映す鏡と言える。

 それに対して、日本の古来の芸術表現は、縄文時代に遡る八百万の神々の信仰に、神道の思想と多様な仏教思想が重なり合って、複雑に変遷を繰り返してきたが、その深層においては、一貫したものが流れている。

 それは、アメノウズメの踊りに象徴されるように、「人間の原始的情念」につながるもので、自己の分別を超えて神懸かる状態で行われる。

 古代の巫は、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護する存在だった。数日前にタイムラインで書いた石牟礼道子さんの「悶えて加勢する」という言葉が、これに該当する。

 その表現は、現代アートによくある類の自己を映すものではなく、アマテラス大神を岩戸の外に導き出したように、神を映し出す鏡であると言える。

 そして、丹生の女神が、そのことに深く関わっている理由は、辰砂(丹生)の朱色が血のように深い赤色で、生命の力が照り映えるような色であるからだろう。

 さらに言うならば、4つのプレートの上という微妙なバランスで保たれている島国の日本において、中央構造線は、南北に分断する裂け目である。

 南海・東海トラフ大地震など周期的に日本を襲う大災害に対して、中央構造線上に祀られた巫の女神が鎮めの祈りを担っていた可能性もある。

 9世紀、貞観の大地震と富士山の大噴火の後、三島大明神大山祇神)の娘のコノハナサクヤヒメが、富士山の噴火を鎮めるために浅間神社に祀られたことが、そのことを裏付けている。

 

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 ここに書いたことを含め、3月30日(土)、31日(日)に、京都でワークショップセミナーを開催します。詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。

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第1449回 大震災と、この国の祈り。

 南海・東海大地震が起きた場合、もっともダメージが懸念される原子力発電所が、静岡の浜岡原発で、さらに、プルサーマル発電を継続中(2024年7月終了の予定)の愛媛県伊方原発も不気味だ。

 日本の原発は、岬や半島など、古代の聖域に建設されているものが多いが、浜岡も伊方もそうである。

 そして、太平洋に突き出たところに作られた静岡の浜岡原発静岡県御前崎)は、なんとも気になる位置にある。

 ここは、近畿の中央構造線のライン、和歌山の紀ノ川から伊勢神宮のラインの延長上で、さらに、日本列島を東西に分断する糸魚川・静岡構造線にそっている。

 浜岡原発の真北にある南アルプスは火山のない山脈で、この東側に面する富士山や伊豆半島、伊豆諸島から東が、東日本火山帯の西端だ。

 ちょうど東日本火山帯の境界線を睨むような場所が、浜岡原発のある静岡の御前崎から掛川なのだが、ここは、弥生時代の後期銅鐸の東端(掛川市長谷)にあたる。

 銅鐸というのは、前期と後期に分けられ、前期は朝鮮半島から入ってきたもので小型で装飾はなく、内部に鳴らすための舌がついており、このタイプは九州などにも多く見られる。

 しかし、2000年前頃から銅鐸が大型化して装飾が施され、鳴らすための舌がなくなり、日本特有の祭祀道具になった。この後期型を近畿型銅鐸というが、この分布範囲は限定的で、東端が静岡の掛川で、西端が広島の世羅(黒川遺跡)、四国では四国中央市(上分西遺跡)となる。

 その後期型銅鐸の最大の製造地が、奈良の唐古遺跡で、この場所の東経135.80は、近畿のど真ん中。南端が潮岬、北端が若狭の常神半島だ。

 この南北のライン上に、藤原京、飛鳥の天武天皇陵、山科の天智天皇陵、宇治、京都の比叡山麓の小野郷、山科の小野郷、そして陰陽道の四神相応図(東西南北の守護)の描かれたキトラ古墳高松塚古墳、そして吉野においては、丹生川上流の丹生川上神社(下社)が位置している。

 この近畿の真ん中のラインは、明らかに祭祀的な意味合いが強い。そして、2000年前の段階で、この霊的ライン上の銅鐸製造基地である唐古遺跡から、銅鐸の埋納地の東西の端に位置する静岡の掛川四国中央市が、ほぼ同距離(215km)であることが気になる。

 古代、近畿の真ん中は、権力者の拠点というより、どうやら、祭祀的な中心地であった。この場所が、日本列島の火山帯から最も遠いということが、何かしら意味をもっている。

 銅鐸は境界に埋められて邪霊の進入を防ぐ魔除の祭祀道具でもあるので、日本列島の東西の火山帯の端に埋められていることが、そのことにつながっている。

 さらに気になるのは、掛川の粟ヶ岳の山頂に、古代の磐座祭祀場である阿波波神社が鎮座しているが、ここの祭神の阿波比売は、別名が天津羽羽神で、吉野三山に鎮座する波宝神社の本来の祭神と同じだ。

波宝神社)
 この天津羽羽神は、全国的に、この名前で祀られている場所は限られており、その場所の大半は、伊勢と丹生川上神社(下社)を結ぶ水銀ライン上である。吉野以外では、和歌山の紀ノ川河口、四国の吉野川の日本最大の川中島である善入寺島だ。

 さらに、このラインを西に延長したところにあるのが瀬戸内海の姫島で、愛媛の伊方原発から近い。

 ここは黒曜石の産地で、比売語曽(ヒメコソ)神社が鎮座しており、阿加流比売(アカルヒメ)神の聖域だが、この女神は、古事記では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっているが、親の国へ帰ると言って日本の難波にやってきた。つまり、古い時代の日本の女神である。

 そして、赤い玉と関係しているこの神の「赤」は「朱」であり、丹生に通じている。

 阿加流比売は、もともとは丹生都比売だった住吉神と関係が深く、 住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』では「子神」と記録されているが、その住吉大社の東北東約6kmに赤留比売神社が鎮座し、特定の祭祀を共同で行っている。

 そして、この「丹生」のラインの東端となる静岡の浜岡原発のすぐ近くに、白羽神社が鎮座している。

 ここは、式内社の服織田(はとりだ)神社の候補地であるが、服織田というのは服部と同じく、古代日本において機織りの技能を持つ集団である。

 古代、織物は、神や先祖霊に捧げる最高の供えものであった。布を織る者は、禊をして身を清め、布を織る場所も水辺であった。ニニギの天孫降臨の時、最初に出会ったコノハナサクヤヒメやイワナガヒメも水辺で機織りをしていた。

 身にまとう衣服は、依代であり、神や王のために織物を織る巫女には、それだけ神聖な力が求められていた。

 さらに、この神社の近くに、池宮神社が鎮座しており、祭神は、前回のタイムラインでも記事にしたように、丹生とつながり物語の伝承と関わりの深い和邇系の「小野」が、全国に広げた祓いの女神、瀬織津姫である。(宇治の橋姫も瀬織津姫の別名)。

 浜岡原発がある糸魚川・静岡構造線にそった地域の掛川から御前崎の太平洋に突き出たところは、近畿型銅鐸の東端でもあり、丹生や織物に関わる古代巫女の聖域ということになる。

 (阿波波神社)

 また、掛川の阿波波神社の祭神、阿波姫(別名が天津羽羽神)は、神々が集う島ともされる神津島でも祀られている。そして、神津島は、古代、黒曜石の産地だが、丹生のラインの西端の阿加流比売(アカルヒメ)の聖域、瀬戸内海の姫島も、黒曜石の産地だった。

 この二つの島の黒曜石には特徴があり、姫島の黒曜石は乳白色で、神津島の黒曜石は、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』にも登場するように、銀河の星々を思わせる無数の白い小さな斑晶が、黒い石に浮かびあがっている。

 真っ黒なだけの黒曜石ではなく、そうした特徴が古代の人々に好まれていたようで全国的に流通していた。その黒曜石の島が、阿加流比売や阿波姫といった丹生と関わる女神の聖域であった。島から他の地域に黒曜石を流通させるためには、当然ながら、海人族が関わっていた。

 そして前回のタイムラインでも書いたことだが、7世紀末の白鳳の時代、そして9世紀末の貞観の時代、南海・東海大地震を筆頭に各地で大地震が相次ぎ、浅間山や富士山の噴火があった。その時、丹生の巫の影響力が表に出てきたような文化的な変化、それに伴う政治的な変化があった。

 日本の震災と、丹生の巫は、どうやら深い関係がある。

 丹生(辰砂)という赤い鉱石は、生命の色でもあるが、大地の火の色でもある。福でもあり禍でもある赤色。古代人が、この辰砂の赤で刺青をしたのは、生命の赤をもって邪の赤を制するということか。

 日本には、「禍福は糾える縄のごとし」という言葉があるように、禍と福は表裏一体であり、怨霊は、丁寧に祀ることによって守神にもなる。

 震災の多い国で生きるためには、人間の力を超えた自然の前に、抵抗することはかなわず、だからといって、完全に諦めてしまっては生きていけない。

 その究極の狭間から、日本ならではの叡智が生み出されてきたのだが、その叡智は、古代の丹生の巫のスピリットと共通している。

 そのスピリットとは、20世紀を代表する預言者である石牟礼道子さんが文学を通して説いていた、心構えとしての「のさり=自分の及ばぬ大いなるもののはからいを引き受ける」と、行動の指針としての「悶えて加勢する」こと。

 それは、平成の天皇が実践してきた祈りのかたち、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を全身全霊で行うこととも同じだった。

 また、古代の巫は、預言者であった。未来の出来事を告げる予言ではなく、預言とは、きたるべき世界を前にして、人々の心構え、行動の指針を示すことを意味する。

 人間というものは、平常時においては預言者の言葉に耳を傾けたりせず、時には不吉な存在として迫害をしたりする。

 南海トラフ地震などのように、壊滅的な災害がもたらされた時に初めて、その言葉を自分ごととして受け止める人が増えたのだろう。

 古代、白鳳時代(7世紀末)や貞観時代(9世紀末)に起きた深刻な災害をきっかけに、潜在的に進行していた様々な矛盾を抑えきれなくなり、文化的な変化や、それに伴った政治的な変化が生じたことが、それを示している。

 おそらく、現代も同じなのだろうと思う。

 

 

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第1448回 震災国日本の祈りのかたち。

(さらに昨日の続き)。

 古来、日本の天皇は政治的権力者というより、この国の祭祀の要に位置しており、この国の祭祀の根幹は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって人々に恵みをもたらし災難から守護するために祈るところにあった。

 しかし、8世紀の律令体制によって、そうした古来の巫の影響力は弱められ、国家鎮護の祈りは、仏教によって執り行われることになった。

 また、古代の巫の祈りは歌人に継承されていたが、例えば挽歌のように人の死に際して本気で魂を招魂しようとする歌は、持統天皇に仕えた柿本人麿を頂点として終焉し、その後は次第に世俗的な世界の中で、個人の感傷を吐露したり情景を愛でるうえでの技巧や教養の程度を競うものになっていった。

 それが10世紀頃から、次第に古代のスピリットが復活していく状況となり、国風文化が花開いていく。 

 その原因として、中央集権的な律令体制が崩壊していったことがあるが、9世紀後半に立て続けに起きた大規模な自然災害もあったのではないかと思われる。

 864年から866年にかけて富士山が大爆発を起こした。文献上に残る最大の爆発であり、この時の噴火で埋没した地域が、現在の青木ヶ原樹海となった。

 そして、869年には東北で貞観地震が起きた。この時の津波は、2011年の東北大震災の時とほぼ変わらない高さで、東北の太平洋側沿岸部に壊滅的な打撃を与えたのだが、この時の津波が、福島原発津波対策の想定に入っていなかったことが問題視された。

 また、東北の貞観地震の18年後の887年に、津波を伴う東海大地震南海大地震が同時発生したことが、津波堆積物からわかっている。2011年の東北大震災の18年後は2029年であり、これは南海トラフ地震が起こる想定期間内である。

 ちなみに、天武天皇の死(686年)の直前の684年にも、南海と東海に大地震があったことが記録されている(白鳳大地震)。

 山崩れ、河涌くなどと記され、諸国の官舎、寺、神社なども多く倒壊した。

 『日本書紀』には、679年の筑紫地震が記録され、その時から天武天皇の死(686年)までに「地震」の記録が集中している。さらに684年に伊豆諸島の噴火、685年に、信濃における火山灰によると見られる被害も報告されて(浅間山か焼岳の噴火)、火山活動も活発化していた。

 藤原京の建設は、天武天皇が亡くなった頃に一旦停止されて、690年頃から持統天皇によって再開されたとされるが、もしかしたら、この期間の大震災の影響があったのかもしれない。

 この大震災の後に即位した持統天皇(女帝)は、一般的な認識では、後継者候補だった草壁皇子が病気で亡くなってしまい、その子の軽皇子(後の文武天皇)が7歳と幼かったので、「つなぎ」として即位したと理解されている。しかし、実際は、685年頃から天武天皇は病気がちで、持統天皇が政務を執っていた。天災などで混乱する国内事情を背景に、古代の巫女的な立場で即位した可能性もあるのではないだろうか。

 柿本人麿も、持統天皇のことを「現人神(あらひとがみ)」として崇め奉る歌を詠んでいる。

 持統天皇は、天智天皇の娘であるが、天智天皇の父母である舒明天皇斉明天皇は、それぞれ押坂彦人大兄皇子の子と孫にあたり、押坂彦人大兄皇子の母は、息長広姫である。息長は、神話の中の神功皇后息長帯比売命)や息長水依姫など、丹生の巫女の家系である。

 壬申の乱(672)の後の天皇は、天武系とされ、平安時代になって天智系が復活したなどと一般的には思われているが、実際には、持統天皇の次、持統天皇の血が流れる文武天皇が若くして亡くなった後に即した女帝の元明天皇の父は、持統天皇と同じ天智天皇であり、その次の女帝の元正天皇は、元明天皇の娘である。

 すなわち、天武天皇の死後は、3人の女帝を通じて、天智天皇の血統が続いており、天武系ではない。

 この3人の女帝は、文武天皇聖武天皇といった男の世継ぎが幼少だったためと説明されるが、文武天皇聖武天皇が即位した時も、病気がちだった彼らに代わって政務を遂行したとされているので、単なる「つなぎ」ではなかった。

 そして、古代史の謎の一つとされているのが、持統天皇による吉野離宮通いである。

 持統天皇は、33回も吉野離宮行幸している。

吉野離宮の候補地、宮滝遺跡。この辺りの岩盤は緑色片岩であり、中央構造線上の特徴を反映している。四国の吉野川も同じであるが、四国では、緑色片岩は王の石とされ、古墳の石室や聖域などに積極的に使われている。四国と近畿、同じ吉野川でつながっている。

 この吉野宮の造営は、同じく女帝の斉明天皇の時(656)で、その頃、天皇主導での土木工事が相次ぎ、その有様は、「狂心」と揶揄されている。

 しかし、その土木工事の内容は、たとえば香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせるなど、防衛の気配がある。

 当時は、百済新羅に滅ぼされる(660年)など白村江の戦いの直前であり、吉野離宮を造営した656年には、「高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。」という記録もあり、近づく戦争に備えた外交交渉が行われていた時期でもあった。

 飛鳥時代蘇我と物部で天下が二つに分かれて争った後、「和を持って尊し」という17条憲法の精神で長期に渡って政務を行ったのも女帝の推古天皇だった。

 これらの「女帝」は、男帝のあいだの「つなぎ」ではなく、歴史的転換の時代、積極的な意味があったのではないかと思われる。

 話を吉野離宮に戻すが、吉野は丹生の本拠であった。そして、丹生というのは辰砂(硫化水銀)のことで、古代から、石棺の中に敷き詰められたり刺青で用いられるなど聖なる赤色であり、これは巫女が身につける袴の色でもある。

 また、丹生は、船の防水や防腐のために用いられていたので海人族と深い関わりがあり、海人族は、海から河川を遡って、その鉱脈を探し求めた。その丹生の最大の鉱脈が、吉野から伊勢にかけての地域である。

 この海人族は、贄と呼ばれる食膳に関わる人々、木材の調達や造船に関わる人々など役割に応じて束ねられていったが、その中で、祭祀や物語の伝承に深く関わる勢力がいた。それが和邇氏だった。和邇氏の祖は吾田片隅といい、吾田というのは、南九州を拠点とする海人族で、この地の女神が、神吾田津姫(別名が、コノハナサクヤヒメ)だった。

 コノハナサクヤヒメを祀る神社が浅間神社だが、全国にある浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社の神官は、和邇氏の後裔である富士氏が世襲してきた。

 そして、持統天皇の時代、臣下の中で最高位にいたのが、丹比嶋であり、彼が、柿本人麿の支援者であった。

 丹比というのは、丹生のことである。丹比氏は、大嘗会の時に田舞を奏した記録があるので、古舞を管掌する家柄だった。

 この丹比氏は、大阪の住吉大社のところが拠点で、住吉神と深く関わっていた。そして、住吉大社の摂社に、式内社の大依羅神社があり、呪的集団の依羅(よさみ)連が、ここを拠点としていたのだが、柿本人麿の妻、依羅娘子が、この出身だった。

 住吉神というのは、住吉大社に言い伝えられるところでは、神功皇后新羅征伐に貢献した後、吉野の藤代嶺に祀られていた。しかし播磨風土記では、神功皇后新羅征伐に貢献した後に吉野の藤代嶺に祀られていたのは、丹生都比売だと記述されている。

 この二つの神は、もとは同じで、時代環境の変化に応じて、名称と役割が変わったのだろう。

 そして、柿本氏は、南九州の海人をルーツとする和邇氏の後裔だった。この柿本氏と、古代の語り部集団だった綾部氏とのあいだに生まれたのが、柿本人麿だ。

 小野氏もまた和邇氏の後裔だが、奈良時代以降、語り部集団だった猿女氏を吸収し、その職掌を執り行うようになっていったことが記録に残されている。

 柿本や小野は、文字の無かった時代の語り部たちとの関係を深め、集団の中に吸収し、口承から文字による伝承への転換を促進した。それが「文学」の起源となった。

 天智天皇の娘で、息長広姫という丹生の女神の血を受け継ぐ持統天皇の時代に、丹生の本拠である吉野離宮に何度も行幸し、その時代の政権トップが、田舞を奏するなど丹生の巫と関わりの深い丹比氏の嶋で、彼が支援する柿本人麿が、持統天皇を「あらびとがみ」として称えた。

 南海トラフ地震や火山噴火など天災が多かった時代、持統天皇は、丹生の巫女の役割を担って政務を行っていたのではないだろうか。

吉野川の芝崎の奇岩と呼ばれる地域で、古代、南九州の海人族、隼人の居住地域だった。近くに、阿陀比売神社が鎮座しており、コノハナサクヤヒメを祀っている。阿陀は吾田である。コノハナサクヤヒメは、南九州の海人、吾田の女神であり、和邇氏と関わりが深い。

 また吉野は、役小角が築いた修験道の拠点であり、修験者たちは、吉野の海人勢力とつながっていたからだと思われるが、全国的なネットワークを持っていた。そのため、奈良時代の前半、朝廷に弾圧されながら全国的な奉仕活動を展開していた行基集団を支えていたのも修験者たちだった。

 律令制というのは、土地から離れることを禁止する制度であるが、その時、行基が、自由に各地を移動するためには、それを支援する勢力の支えが必要であり、それが吉野の修験者たちのネットワークであり、持統天皇もまた、このネットワークを通じて、全国の情報を集めることができただろう。持統天皇の吉野離宮通いは、祭祀的な意味だけでなく、そういう現実的な意味合いもあったと考えられる。

 持統天皇が即位した7世紀後半の歴史的転換の時代、火山噴火や大地震が続いていたが、それから200年後の9世紀後半にも、富士山の大噴火や、東北および南海・東海大地震が連続した。

 この頃から、再び、上に書いたように、和歌の精神が蘇り、903年の古今和歌集が編纂された。

 そして、ここでも再び、持統天皇の時と同じく「丹比」が登場する。丹比文子という巫女が、菅原道真の怨霊の神託を受けたと告げ、人々は、その祟りを極端に恐れるようになり、道真の改革を阻止しようとした勢力が次々と亡くなっていき、律令制の要である班田収授も終焉した。

 また、浅間神社の祭神であるコノハナサクヤヒメと富士山の関係は、実は不明瞭なのだが、864年から866年にかけての貞観の富士大爆発の前は、浅間神社は静岡側にしかなく、その頃までは富士山そのものが御神体だった。

 しかし、貞観大爆発の後、山梨県笛吹市に、富士山の噴火を鎮めるためコノハナサクヤヒメを遷座して浅間神社が創建された。これを機に各地に浅間神社が広がっていく。

 コノハナサクヤヒメは、ニニギの天孫降臨後、最初に登場する巫女であり、これは、南九州の海人族の女神である神吾田津姫の別名である。そして、同じ吾田をルーツとする和邇氏系の富士氏が、富士山本宮浅間大社の神官を世襲した。すなわち、富士山の噴火を鎮めるという国家的な祭祀に和邇氏の後裔が関与し、その過程で、和邇氏と関わりの深い古代の巫女神のコノハナサクヤヒメの霊力を復活させることになったのだろう。

 古今和歌集を編纂した紀貫之の後援者は、紫式部の祖でもある藤原定方だが、彼の母、宮道列子の実家の宮道氏は、京都の山科の小野郷を拠点としており、小野は和邇氏の後裔である。さらに、宮道神社の祭神は、祖神のヤマトタケルであるが、ヤマトタケルの母、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)の母も、和邇氏である。

 9世紀後半の大震災の後にも、和邇氏や丹生に関わる古代の巫女の力が復活しており、この勢力は政治の表舞台には出ていないが、新たな文化的潮流に関わっており、それは、柿本人麿の時代と共通している。

 一度できてしまった体制は、大陸の国のように外からの侵攻がない島国日本では、そう簡単に変わらず、矛盾を抱えたまま続いていくことになるが、大震災などが起きると、それを起点に、劇的に変わる可能性がある。

 明治維新は、列強による外圧が大きな要因であるが、ペリーの黒船来航の翌年、南海トラフ地震が起きている。いくら政権のトップが体制を変えようとしても、人民がそれを受け入れるかどうかも大事な問題であり、大震災というのは、人々の人生観や世界観に大きな影響を与える。

 明治維新政府は、欧米の列強に対抗するためにどういう国家の枠組みを作るかということを検討し、その時、日本が選択したのは、一番真似のしやすいイギリスの立憲君主国制度だった。つまり、天皇の位置付けをビクトリア女王のようにすること。この時、長い時代を経て、再び、国政の中心に天皇が戻ってきた。

 しかし、イギリスと日本では大きな違いがあった。イギリスの王室というのは、日本の朝廷に比べて、かなり世俗に近くて開かれている。だから、メディアも、イギリス王室に関するスクープを狙う。

 現在のチャールズ国王は、ダイアナ妃のことなどスキャンダルだらけだが、日本の天皇で同じことがあったら、天と地がひっくりかえるような衝撃がある。

 日本の天皇は、イギリスの王室と違って世俗を超えた存在であり、それゆえ明治政府が天皇を権力装置の中心にもってきたことで、神国日本のようになってしまい、太平洋戦争の悲劇が起きた。

 戦後、GHQは、天皇を戦犯にして天皇制を廃止しようと考えていたが、天皇は、世俗を超えた存在ゆえに日本人の心の要にあることを理解し、苦肉の策として象徴天皇というポジションを作り出した。

 戦争の当事者となった昭和天皇は別として、戦争に対する真摯な反省を心中に抱く平成の天皇は、古代の天皇の位置付けに近いところにあられたように思われる。

 平成の天皇は、退位の際、2016年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」において、次のように述べられている。

「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間、私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。

 私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

 天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

 こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」

 天皇は、「おことば」の中で、「天皇の務め」あるいは「象徴的行為」として、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を二つの大きな柱として位置づけている。このことを全身全霊で行うことが難しいお身体となったので、退位を決断された。

 平成の天皇と皇后は、日本中をくまなく訪ね歩き、災害があれば被災者のもとに駆けつけて寄り添い、膝をついて、一人一人の顔を見ながら語りかけておられた。

 東北大震災の時にも、被災地を訪問し続けるとともに、国民全体に「おことば」を伝えられた。

 長年の良き助言者であった美智子さまの言葉、「振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました」のとおり、平成の天皇には、イギリス王室のような、カリブのリゾート地での優雅なサマーバケーションなどなかった。

 戦後の象徴天皇の祈りは、国家の安泰と国民の幸せを祈って古くから続けられているものと同じであり、その祭祀の本質は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々を災難から守護するために祈ることと変わっていない。

 平成は、北海道南西沖(1993)、阪神・淡路(1995)、鳥取西部(2000)、中越(2004)、岩手・宮城内陸部(2008)、東北・東日本(2011)、熊本と鳥取中部(2016)、胆振地方中東部(2018)と、ほぼ5年以内に一度の大地震があり、さらに雲仙普賢岳の大火砕流、各地の水害など大災害が頻発した時代だった。

 今年初めの能登の大震災、継続している千葉の揺れ、南海トラフの発生が間近に予測されている現在、平成の天皇の「おことば」にこめられた祈りを、真に受け止めるべき状況であることは変わらない。

 問題は、国民が、どれほど象徴天皇の位置付けを理解したうえで、震災国という宿命的な状況に即して暮らしを整えていけるかだろう。

 そのためには、文化の力が大きく関わってくる。

 10世紀の国風文化の中で極まっていったのが、「もののあはれ」の世界観であり、源氏物語を頂点として、中世の日本文化の核には、これがある。

 文化は、人々の人生観や世界観に影響を与える。

 文化に関わる表現活動を行っている人たちに、そして、それらを受け取る側に、どれだけ、その自覚があるかどうかが問われ、試されている。

 

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第1447回 巫の力と、天皇制。

室生龍穴神社(奈良県宇陀市)の奥宮の「吉祥龍穴」。ここが「善女龍王」の聖域。 「善女龍王」は、仏教における龍を統率する女神で、空海が京都の神仙苑(しんせんえん)で雨乞いを行った時に現れたとされる龍王でもある。伝説によれば、善女龍王は、奈良市の猿沢の池にいたが、天皇の食事を奉仕していた女官が、用無しにされたことで悲嘆にくれて猿沢の池に身投げをしたのをきっかけに、身を移し、最終的にここに至ったとされる。

(さらに昨日の続き)

 古代、巫の力は、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護する存在であった。

 そして、古代の歌人には、この巫の力が宿っていた。

 柿本人麿の出生地は、いくつかの候補地があるが、有力な場所が、終焉地とされる島根県の石見である。そして、益田市の戸田柿本神社が、人麻呂の生誕地に建てられているとされ、遺髪塚など遺跡がある。

 この地の伝承では、語部の綾部氏を伴って大和から石見に下った柿本氏(和邇氏の後裔)と、綾部氏の娘との間に生まれた子が人麻呂である。

  綾部氏は代々巫女が世襲したといわれ、 人麿は、この巫女の母から、古代の様々な叡智を吸収した。

 数日前のエントリーにも書いたが、8世紀に律令制が始まる前、「歌」というのは、人間社会の事情を超えたところにアクセスするための魂の運動だった。

 柿本人麿までは、人の死に際して歌を詠む場合、本気で魂を招魂しようとし、自然を歌う場合も、本気で、自然の魂と一つになっていた。しかし、柿本人麿以降、しだいに他人事になっていって、(個人的に)情景を愛でるだけとか、自分個人の感傷を歌う程度のもの(今日の「私ごと」の表現)となって作者の魂の質が低下し、他者(外界)を自分の魂に引きつける力が弱くなっていった。

 石牟礼道子さんの言葉、「人間だけでなく、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる」ということを、リアルに感じていた時代と、その感覚が薄れていった時代の分岐点が、奈良時代にあり、9世紀になると、和歌は消えて、ほとんど漢詩ばかりになった。

 しかし、10世紀、律令制という中央集権的体制が崩れつつある時、再び、和歌の力が復活し、11世紀初頭の「源氏物語」へとつながる。この時期を起点として、それ以降の中世において、古代の巫の力は、河原者や琵琶法師など境界の人々によって、受け継がれていく。

 日本には古代から葬送などの仕事に従事する人などは、「穢れの人々」とみなされ、徳川幕府が、士農工商身分制度を確立した時、この枠組みに入りきれなかった人々は、差別の対象となった。

 しかし、古代において、たとえば京都の比叡山麓の八瀬童子は、天皇の死に際して棺を運ぶ人たちであったが、ここは外交で活躍した小野妹子小野毛人の痕跡が残る小野郷であり、小野というのは、柿本と同じく和邇氏の後裔である。

 平安時代小野篁が、昼は天皇に仕え、夜は地獄の閻魔大王に仕えたという伝承があるように、「穢れの人」は境界の人である。境界の人々が担う穢れは、聖性と表裏一体であって、そこに祭祀や外交を司る者たちも位置付けられていたのだ。

 その境界の人たちは、供御人(くごにん=天皇の飲食物を貢納していた人々)、召人(めしゅうど= 宮中で行われる歌会始めの際、題にちなんだ和歌を詠むように特に選ばれた人。)、そして神人(じにん=社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった)という職能人でもあった。 

 これらの職能民は、非人などとよばれたが、神社仏閣や、朝廷とも深く結びついていたし、各地を自由に移動することができた。

 そもそも、律令制の時代は班田収受に基づく人頭税であり、人々の移動は禁止されていたが、その崩壊とともに、人々の移動は激しくなった。その際、境界の人たちは、各地を結ぶネットワークの要になっていき、そんな彼らが、古代の海人族のように、各地の伝承を物語化していき、中世の語り部的な集団となっていった。

 能や歌舞伎や浄瑠璃などをはじめ、中世日本文化を特徴づけるものは、ここから生まれてきた。

 こうした境界の人たちが神聖さを帯びていたのは、日本の天皇が、政治的権力者というより祭祀の要に位置しており、その祭祀が、古代の巫女的な性質を帯びていたからだ。その天皇の血肉に関わっていたのが、境界の人たちだった。

 戦後の日本社会は政教分離を原則としているので、天皇による宮中祭祀は、天皇の私的行為に位置付けられているが、その祭祀は、国家の安泰と国民の幸せを祈って古くから続けられているものである。

 その祭祀の本質は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護するために祈ることと変わっていない。

 しかし、こうした天皇の祭祀は、「人間だけでなく、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる」という感覚が薄れて、万物の尺度を人間に置き、力を持って世の中を支配する競争の時代になると、政治的道具に利用されてしまう恐れがある。

 日本の近代化は、欧米の列強に対抗するためにどういう国家の枠組みを作るかということが課題であった。その時、日本が選択したのは、一番真似のしやすいイギリスの立憲君主国制度であり、天皇の位置付けをビクトリア女王のようにすることだった。

 しかし、イギリスの王室というのは、日本の朝廷に比べて、かなり世俗に近くて開かれている。だから、イギリスでは王室のスキャンダルがありえるが、日本の場合、皇室のスキャンダルの取り扱いは、イギリスに比べて、はるかに難しい。日本の天皇は、世俗を超えた存在なのだ。

 それゆえ天皇を権力装置の中心にもってくることで、神国日本のようになってしまった。だから、戦後、苦肉の策として象徴天皇というポジションを作り出した。

 天皇は、世俗を超えた存在ゆえに日本人の心の要にあるから、戦犯扱いにして天皇制を廃止するわけにはいかない。

 日本が外からの力や影響で急速に変化したのは、近代以降だけでなく、奈良時代後半から平安時代の中頃まで顕著に見られたことだった。

 この二つの時代に共通していることは、外からの影響で日本社会が急激に変化していった時代であること。1300年前は、唐による羈縻(きび)政策(戦いで打ち破った地域を力づくで搾取しながら支配するのではなく、その国の制度を唐と同じものにして、懐柔していく統治スタイルのこと。)によって、そして近代は、盲目的と言えるほどの欧米化政策によって。

 近代の日本社会の変化によって生じた精神的な特徴は、シンプルに言うならば、「理性分別によって自分の損得を優先的に考える」ということに尽きる。

 現在、世の中を覆う価値観は、これが当たり前になっているが、13年前の東北大震災において世界中の人々が驚いたように、日本人は、大震災などの時に、潜在的に備えている美意識が表面化することがある。

 多くの人が、「理性分別によって自分の損得を優先的にする」という側面を抑制し、なかには自己犠牲的な行動をとる人が増えるのだ。

 20世紀の巫と言える石牟礼道子さんの言葉の「のさり」と、「悶えて加勢する」という言葉のように、他人の苦しみも、大いなるもののはからいを引き受けるという境地で、自分ごととして引き受ける力が強まるのである。

 古代から脈々と受け継がれている巫の力は、天皇制が維持されているのと同じく、失われていない。

 日本に希望が残っているとしたら、そのことに尽きるのかもしれない。

 

 ここに書いたことを、3月31日と31日に京都で行うワークショップで、掘り下げます。

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第1446回 悶えて加勢する巫の力。

(昨日の続き)

 世界中の文学のルーツには悲劇がある。悲劇には、人間の心の深いところを揺さぶる力がある。だから後々まで伝承され、記憶が引き継がれる。

 現代社会のように、人間の欲望を刺激するものが溢れ、悩みや不安を一時的に紛らわす娯楽に不自由しない状況でも、人のために尽くすことを願う人たちも多い。

 欧米風に表現することが好まれる現代では、「コンパッション」という言葉が使われる。これは、相手を深く理解し、相手の役に立ちたいという純粋な思いを持ち、相手と共にある力のこと。

 古代においても、この「コンパッション」の道を歩むものがいて、それが巫であった。

 古事記において登場する女性の多くは、この巫であり、その多くは、悲劇的な存在として描かれている。 

 古事記の中では、とくに、「和邇氏」関係という設定の人物が、女性だけでなく男性でも多い。

 その代表が、仁徳天皇皇位を譲るために自殺した菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で、ヤマトタケルもまた、母親の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が、和邇氏の娘である。

 ヤマトタケルは、古代日本で最も有名な英雄ではあるが、父に恐れられ疎まれて、わずかな従者も与えらずに九州の討伐を命じられ、討伐から帰るとすぐに東方の蛮族の討伐を命じられた。そのためヤマトタケルは、父が自分に死ぬことを望んでいるのかと嘆く。そして、最期、望郷の歌を詠んで亡くなるわけで、明らかに、悲劇の主人公である。

 和邇氏は、後に柿本氏や小野氏となるが、ともに歴史上に名を残す文学者を輩出している。

 歴史探究の好きな人たちのあいだでは、和邇氏とか物部氏とかを古代の血族集団と捉え、その系図などを細かく辿る人たちも多いのだが、これは一種の職業集団であろう。

 欧州では、ホメロスの時代から吟遊詩人と呼ばれる人たちがいた。彼らは定住者でなく、各地を旅しながら、歌や音楽とともに、物語を伝承していったが、日本でも同じだろう。

 日本のような島国おいて、各地を自在に移動できるのは、縄文時代から自由に海を行き交っていた人たちで、それが後に海人族として束ねられていったのだが、彼らにも職能の違いがあり、安曇氏のように日本海側を主たる活動範囲として食膳と深い関わりを持つ勢力もあれば、紀氏のように、太平洋側で活動し、木材の調達に深く関わる勢力もあった。

 日本列島は、黒潮にそった南側が森林資源が豊かであり、九州南部、四国、紀伊半島、伊豆にかけて木材を調達し船舶を製造する海人勢力は、森林資源を求めて海から河川深くに分け入っていく。河川沿いは、川が削り取った地質が剥き出してあり、鉱脈が見える。とくに船の防水と防腐に効果のあった辰砂=丹(硫化水銀)を欲していた彼らは、鉱山開発の人々でもあった。

 辰砂がとくに豊富なところは、近畿の吉野から伊勢にいたるルートで、大和水銀鉱山奈良県宇陀郡)は、明治時代まで採鉱が続いた日本最大の水銀鉱脈であり、伊勢国飯高郡丹生は、中世まで代表的な水銀鉱床だった。 

吉野の丹生川神神社。

 現在でも、各地に丹生という地名が残るが、それらは、辰砂の採鉱現場である所か、辰砂と関わりの深い人々が拠点としていた所だった。

 辰砂というのは、船の防水や防腐だけでなく、様々な用途がある。金の精錬も、水銀アマルガム法で行われるし、大仏などのメッキも水銀と金を化合させたものを全身に塗って、沸点の低い水銀だけ蒸発させる方法をとる。

 そうした実用性だけでなく、古代から辰砂は、たとえば古墳の石室に敷き詰められてたり、刺青に使われていたことが魏志倭人伝に記録されたり、祭祀的にも用いられていたことがわかっている。神社の鳥居もそうだ。

 辰砂の朱色は、血のように深い色で、古代人にとって、生命を象徴する色でもあったのだろう。

 万葉の時代、辰砂の朱と白が特別な色として歌が詠まれた。

 白は、「きよし」、「さやけし」。 朱の色を、「にほふ」、「てる」、「ひかる」、「はなやか」と詠まれた。

 この朱と白が、日本の国旗であるが、神道の巫女が着用する衣装も、上半身の白い小袖と、下半身の赤い袴の組み合わせである。

 「きよし」は、穢れがないことで、「にほふ」は、現在では嗅覚を意味するが、もともとは染色で花草木の色によく染まるという意味で用いられるなど、生命の力が照り映えるような状況である。

 日本の国旗である日の丸のことについて議論される時、赤を「太陽」とだけ結びつけて、皇祖神に位置付けられるアマテラス大神の重ね、天皇を中心とする国家神道の象徴として捉えられ、そのことを支持するか、それとも反発するかという構図になってしまう。

 しかし、赤と白は、巫の衣装でもあり、巫とは何なのかという視点から、このことを深く考えることも大切だ。

 古来より巫女は神楽を舞ったり、神託を得て他の者に伝えるものと考えられていたので、神話において、天岩戸の前で舞いを行った天鈿女命(あまのうずめのみこと)が、巫女の原型とされている。

 しかし、天岩戸に籠もったアマテラス大神も、別名が「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」で、「ヒルメ(日孁)」の孁は、「巫」と同義であり、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられている。

 また、アマテラス大神の天岩戸籠りの原因となったスサノオの狼藉も、アマテラス大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、スサノオが機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ血まみれの馬を落とし入れたことであるが、織物をする女性は、古代の巫女を象徴する姿である。

 古代、織物は、神や先祖霊に捧げる最高の供えものであった。布を織る者は、禊をして身を清め、布を織る場所も水辺であった。水は、穢れ祓いに通じている。

 ニニギの天孫降臨の時、最初に出会ったコノハナサクヤヒメやイワナガヒメも水辺で機織りをしていた。そもそも、ニニギの母親の栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)も機織りの神である。

 身にまとう衣服は、依代であり、神や王のために織物を織る巫女には、それだけ神聖な力が求められたということになる。

 全国的に存在する鶴の恩返しの伝承は、人間界の存在ではない鶴が、織物を通して、人間の老夫婦を豊かにする物語なので、巫女の物語の様相を帯びている。

 この物語のなかで重要なポイントは、恩返しのために機織りを行う鶴が、自分の羽毛で機を織っているので、日に日に痩せ細っていくことだ。

 巫の霊力が発揮されるのは、自己犠牲も厭わない「コンパッション=相手とともにあること」ゆえのことである。まさに、石牟礼道子さんの「悶えて加勢する」という言葉が、これに該当する。

 巫は、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護する存在だった。

 琉球王国では、17世紀まで、ノロによる神女体制が続いていたが、琉球神道における「ノロ」が、そうした古代の巫女の姿を今に伝えている。

 そして、上に述べたように、辰砂(丹生)の朱色は、血のように深い色で、古代人にとって、生命を象徴する色でもあったゆえに、丹生と、巫女の結びつきは、いくつも見られる。

 たとえば聖徳太子は、太子町の叡福寺に、なぜか二人の女性とともに埋葬されている。

 一人は、母親の穴穂部間人。そして、もう一人が、最愛の妻の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)である。

 膳部菩岐々美郎女の実家、膳氏は、主に食膳を司り、軍や外交などでも活躍した海人系。

 この膳氏の古墳が集中しているところが若狭の膳部山の麓で、上ノ塚古墳などがある。ここは、古代から遠敷(おにゅう)郡だが、7世紀後半の藤原宮の木簡では「小丹生評」と表記されており、ここもまた「丹生」であり、聖徳太子の妻、膳部菩岐々美郎女もまた、丹生の巫だった。

瓜割の滝。日本有数の名水。若狭の遠敷郡。7世紀後半の藤原宮の木簡では「小丹生評」と表記されている。聖徳太子の妻の実家、膳氏の拠点。

 古代、丹生の巫は、その呪力によって王を支え、実家の海軍力でもまた王を支えていたが、政治の表舞台には立つことなく、陰で支えていた。

 例外的に表舞台に立って活躍した神話上の人物が、新羅討伐を行った神功皇后応神天皇の母)であるが、彼女に神が憑依して神託を告げるという内容が示されていることから、巫女であることがわかる。

 神功皇后の本名は、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)であるが、息長氏の聖域は、滋賀県の丹生(米原市)である。

 丹生の巫と関わりが深い息長と、悲劇的な巫の伝承の多い和邇の結びつきを示しているのが、近江富士の三上山に降臨した天御影命の娘の息長水依姫と、彦坐王という和邇氏の血を引く皇子が結ばれたという神話伝承だ。

 二人の子の丹波道主命の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が、第12代垂仁天皇に嫁いで景行天皇を生み、この流れが後の天皇の血統になると示されている。

 さらに和邇氏は、全国にある浅間神社の総本社の富士山本宮浅間大社の神官として、皇祖神のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメを祀ってきた。コノハナサクヤヒメは、別名が神吾田津姫で、これは、南九州を拠点とする海人族の女神だが、和邇氏の祖も、吾田片隅命(あたかたすみのみこと)で、同じ吾田である。

 これが史実かどうかわからないが、こうした伝承が残されていることじたいが、これら伝承の背後に、丹生と和邇の勢力が存在していたことを暗示している。

 

ここに書いたことを、3月31日と31日に京都で行うワークショップで、掘り下げます。

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 3月30日(土)、31日(日)に、京都で開催するワークショップセミナーの詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。

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第1445回 この時代の巫の力。

 2011年の東北大震災から13年が経った。
 ここにアップしている石牟礼道子さんの写真は、風の旅人の第48号(2014年6月1日発行)に掲載しているロングインタビューの時の写真で、写真データを確認したら、ちょうど10年前の2014年3月11日になっている。
 このインタビューの時、ご病気の状態は悪くて、パーキンソン病のため、お身体もずっと震えておられて、写真なんか撮れそうもなかった。でも帰り際、部屋を出かけたところで、意を決して振り向いて、思いきってお願いしたら、了承してくれ、小さなカメラを向けたら、その瞬間だけ震えが止まり、童女のような表情になった。
 こんな石牟礼さんの顔は初めて見た。
 私は、風の旅人の第45号から「3.11以降を生きる」というテーマで、作家の宮内勝典さんや丸山健二さん、染色家の志村ふくみさんと、ロングインタビューを重ねていた。
 そして48号のテーマを「死の力」と決めた時から、石牟礼道子さんにインタビューを依頼したいと考えていた。
 当時の石牟礼さんのご病気が重篤であることは、石牟礼さんを尊敬する人たちのあいだでは常識だった。
 しかし、風の旅人の第47号で志村ふくみさんをロングインタビューした時、雑談のなかで、「昨日、石牟礼さんと電話で会話をした」という話が出た。さらに、志村さんは、石牟礼さんと懇意なので、自分のロングインタビューを石牟礼さんに送ってくれと私に依頼した。
 それで、石牟礼さんには、まだそういう力が残っているのだと思ってしまい、私は、ロングインタビュー依頼のお手紙をお書きした。
 すると、若い頃の石牟礼さんの才能を発掘し、その後ずっと支え続けてこられた渡辺京二さん(2022年に他界されたが、この方の『逝きし世の面影』という本に私も多大な影響を受けた)から、石牟礼さんは、年末年始からご病気が一段と酷くなって、状態が良い時はあるにはあるが、約束できる状態ではない、来ても話ができないかもしれない、それでもということならばと、非常に微妙なご連絡があった。
「死の力」というテーマでお話を聞けるとしたら、日本に、石牟礼さん以上の方はおられないということを渡辺さんもご理解されていて、だから、運命に賭けるしかないだろうということだと、私は受け止めた。
 そして、本の発行が6月1日なので、病状が落ち着くまで、3月末まで待とうと思っていたが、4月になってしまい、ほぼ諦めたところ、突然、付き添いの方からお電話があった。今ならお話ができるかもしれないと。それを聞いて私は、すぐに羽田に向かい、その日の夜のうちに熊本入りをした。
 だから、実際に石牟礼さんをインタビューしたのは、2014年3月11日ではない。にもかかわらず、撮影した写真データに、2014年3月11日と刻まれている。
 その謎はともかく、インタビューは、自分で言うのはなんだが、奇跡的な内容となった。
 きれぎれの言葉であったが、病状の重い石牟礼さんから、「生類の命と、大調和の世界。」という内容に相応しい広がりと深みのある話を聞くことができた。
 この奇跡が実現したのは、二つのシンクロがあったからだ。 
 一つは、石牟礼さんが、白川静さんをこの世で一番偉い人だと思うほど深く尊敬していたことで、私が、白川さんに依頼した連載の最後にあたる風の旅人第15号の「人間の命」を、インタビューの場に持参していたこと。
 そして、前日の深夜に熊本に着いて、適当に素泊まりで安い宿を予約したら、たまたま湯の児温泉だったこと。真っ暗な中、宿に到着し、朝起きて窓を開けて初めてわかった。目の前の不知火海の風景は、石牟礼さんの「椿の海の紀」の舞台であり、石牟礼さんが子供の頃、過ごした場所だった。
 石牟礼さんにお会いしてすぐ、そのことを伝えたら、石牟礼さんはすごく喜んでくださって、目を輝かせて、子供の頃の話をたくさんしてくださった。
 今、ここで石牟礼さんの話をしているのは、ここ数日、古代の巫の話を書いてきたのだが、石牟礼道子さんというのは、まさに現代の巫だと思うからだ。
 その石牟礼さんは、白川静さんのことを、「私が探し求めているところを、先に行く人」、「古代の神さまは、きっとこういう人だったろう」と言っていた。
 私は、風の旅人を50号で終えてから「日本の古層」の本を、これまで4冊作ってきたが、全てに、白川さんの言葉を引用している。日本の古層の取り組みは、白川静さんと石牟礼道子さんという神さまと巫とのご縁を、自分では意識しながら続けている。
 神さまのことはともかく、巫とは何なのか?
 これは預言者であると私は思う。未来の出来事を告げる予言ではなく、預言とは、きたるべき世界を前にして、人々の心構え、行動の指針を示すことを意味する。
 そして石牟礼文学の預言は、心構えとしての「のさり=自分の及ばぬ大いなるもののはからいを引き受ける」と、行動の指針としての「悶えて加勢する」に凝縮しているように思う。
 古代の巫は、その霊力で王を支えたと、昨日のタイムラインで書いた。
 こうした構図が、源氏物語にも反映されていると。
 ならば、その霊力とは何なのか?
 それは、特殊な超能力ということではなく、石牟礼さんの「のさり」と「悶えて加勢する」という言葉のように、人の苦しみも、大いなるもののはからいを引き受けるという境地で、自分ごととして引き受けて悶えて加勢する力なのではないかと思う。
 理性分別で自分の損得を考えてしまう人間にはできないという意味において、これは特殊な力なのかもしれないが、現代では「コンパッション」という言葉が使われる。「相手を深く理解し、役に立ちたいという純粋な思い、相手と共にいる力のこと」だと説明されるのだが、巫は、その力がかなり強力で、時に応じて自己犠牲も厭わない、むしろそれを喜びとするくらいのものが、巫の霊力だったのではないかと私は思う。
 苦境に陥っている人間を救う力は、まさにこうした巫の霊力だった。
 現代社会のなかの価値観では、こうしたことはバカバカしいと思う人が多いかもしれない。
 どちらかといえば、現代社会には、自分が人に何かをやってもらうこと、自分が楽な状態であることを幸福だと思わせるバイアスが強くかかっている。そして、そういう「幸福」を得ようとして、うまく立ち回ろうとする人も多いかもしれない。
 そういう人にとって、巫は、愚かで悲劇的で不幸な存在にしか見えないだろう。
 しかし、いくら美味しいものを誰かに食べさせてもらって、いろいろなところで遊ばせてもらって、何の不自由もなくても、自分が誰の役にも立っていない、人に必要ともされていない状態が、果たして人間にとって幸福だと言えるだろうか。
 それは、誰の心にも記憶されないということでもある。
 古事記などに登場する女性の多くは悲劇的であり、その悲劇の主人公は巫の立場であるが、そもそも、歴史上、今日まで伝えられている文学の大半は悲劇である。
 その主人公は、人に尽くしていない人間ではなく、人に尽くしたり、誰かのために犠牲になっている人間である。
 悲劇は、人間の心に強い働きをする。だから記憶される。
 こうした巫の在り方は、社会状況によっては、現代のように、暗いとか重いなどと敬遠される。
 それは、自分が安住している世界の土台を揺るがせたくないからだろう。
 しかし、いくら見ないふりをしても、人間の現実は、そうはいかない。そもそも、人間は、生老病死から自由ではない。
 人間にとって、本当の意味で“生きる”とはどういうものなのか?
 人それぞれで構わないと脇に流すことができるのは、安泰した状態にいる時だけで、いつまでも、それが続くとは限らず、誰しも人生のどこかの時点で、人間の現実に直面することになる。その時に、本当の救いがどこにあるか真剣に考えざるを得ない。
 巫というのは、古代も現代も、人間の理性分別によって曇らされた生の本質を、身をもって示す存在だ。
 それは文学の世界に限らない。3.11の震災の後、私は、現地で奮闘する介護会社の人たちを取材し続けたが、その人たちの言葉や行動は、まさに現代の巫だった。
 自宅に残された高齢者を助けようとして、逃げるのが遅れ、津波に飲み込まれて九死に一生を得た人もいる。
 その時、その人の心の状態は、ひたすら「必死」だった。この必死が、自らの犠牲につながることもあるが、生きていることの証でもある。
 後のことを計算せずに、「必死」を積み重ねるだけで人生を全うする人もいる。「必死」を経験したことのある人は、「必死」のない状態では、心に張り合いがなくて、生きている気がしなくなるからだ
 後のことの計算ばかりしていて、必死を経験せずに、それで本当に幸福になれるのかどうか。
 巫は、古代も現代も、人のために必死になれて、そのことを本望だと潔く受け止めて、生を全うしている人なのだろう。
 そういう姿勢は、人の心に間違いなく力を与える。霊力というのは、オカルト的な超能力ではなく、リアルに生命力につながったものなのだ。

 

 

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