第1460回 日本人の潜在的な心の在り方と、海人とのつながり。

古代に対する関心の持ち方は人それぞれだが、私は、卑弥呼のクニがどこにあったかということよりも、日本人の潜在的な心の在り方に関心がある。
 日本の縄文時代は10000年も続いており、明らかに大陸の影響を受けたと思われる弥生時代以降の歴史は、その4分の1でしかない。だから、縄文時代の日本人の心が完全に消え去ってしまったとは思えず、それが、どのような形で今日まで引き継がれてきたのかを辿りたいという思いがあって、私は古代世界のフィールドワークに没頭している。
 そして、その鍵を握るのは、海人だと思っている。海人というのは、海や川で漁を営むだけでなく、船を使って遠方と交流していた。
 20世紀の人類学を切り拓いたとされるマリノフスキが、南太平洋のニューギニアでフィールドワークを行い、近代世界からは未開人とされた人々の洗練された思考を明らかにした。
 彼らの文化は、近代西欧に比べて劣っているわけではなく、異なるだけで、非常に研ぎ澄まされ、豊かで、繊細な秩序を持っていた。
 マリノフスキや、彼に続いたレヴィ=ストロースは、対象を外から眺めて上から目線で相手のことを結論づけるのではなく、対象の懐の中に入っていって、内側からその全体像を感じ取るというフィールドワークを対象を理解するための方法としたのだが、これは、人類学に限らず、どの分野においても重要な姿勢だと思う。
 物事を頭の中だけで理解しようとすると、自分の常識や経験の範疇に当てはめて整理しがちになる。そうした理解は、自分の世界を広げることにつながらない。
 これは、歴史を対象とする場合も同じ。過去の営みを、現代に比べて劣っていると現代人は考えがちだが、歴史のどの段階においても、それぞれの時代ならではの、非常に精密で豊かな秩序世界が築かれている。
 マリノフスキの調査で興味深いのが、トロブリアンド諸島における「クラ交易」と呼ばれるもので、これは、ニューギニア島の東に広がる500kmほどの海域の島々を結ぶ交換の制度だ。
 500kmというのは、日本では鹿児島から紀伊半島、そして紀伊半島から房総半島くらいの距離にあたる。
 トロブリアン諸島の住民は、カヌーの船団を編成して、海域を時計回りと、反時計回りに移動しながら交流を行うのだが、このクラ交易の中心になるのが、時計回りの方は赤い貝の首飾りで、反時計回りの方では、白い貝の腕輪。これを欲する側は、これを手にいれるために出かけていく。しかし、どれだけ大変な思いをして手に入れても、自分の物として所有できず、しばらく保持した後、これを取りに来た別の島の人に渡さなければならない。そのようにして、この腕輪や首飾りは、島々のなかをゆっくりと移動していく。
 現代的な「交易」は、何かを所有したい場合は、その見返りを差し出して自分の物にする。しかし、クラ交易で受け取ったり手渡したりする腕輪や首飾りは、お互いが行き交うためのモチベーション装置にすぎず、クラ交易は、別の島々の共同体を結び付けて、衝突を避けるための仕組みになっているのだ。
 この交流のために、彼らは危険な航海に出るわけだが、出発の際には安全祈願の呪文を唱え、航海の途中も祈りを続ける。
 20世紀になっても、この地球上には、こうした西欧近代とはまったく異なる文化の仕組みを維持していた人々がいたわけで、古代日本の海人も、もしかしたら、このトロブリアンド諸島の人々のような価値観で交流を行っていたかもしれない。
 縄文時代の装身具で有名なのが糸魚川のヒスイだが、これは北海道から沖縄まで流通しているし、伊豆諸島南部の三宅島、御蔵島八丈島に生息するオオツタノハノの貝を貝輪に仕上げたものが、北海道まで広域に分布していた。
 海を行き交う人々の力なくして、こういうことはできなかっただろう。
 そして、物の交換という形で各地と交流していた人々は、情報交換をも行っていたわけだから、後に、物語の伝承の担い手になっていっただろう。 
 日本の古代において、物語伝承に大きく関わっていただろうと思われる人々がいる。
 それは、和邇氏と呼ばれる人たちで、この後裔が柿本氏や小野氏であり、多くの古代文学者を生み出している。
 和邇氏は、祖を吾田片隅とし、吾田というのは、南九州に拠点を置いていた海人勢力とされている。
 なぜ和邇氏が、物語伝承と深く関わっていたと考えられるのか?
 それは、古事記などにおいて、もっとも多く登場するのが和邇氏関係であることや、歴史の節目となる重要な出来事に、和邇氏の陰が見え隠れしている(その多くが悲劇的主人公だが)からだ。
 史実かどうかはともかく、古代の物語として特に重要な天孫降臨において、ニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメは、別名が、神吾田津姫であり、これは、南九州の海人勢力である吾田の女神とされる。そして、このコノハナサクヤヒメを祀る代表的な聖域が、日本全国の浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社だが、この神職は、和邇氏の後裔である富士氏がつとめてきた。
 また、これも史実かどうかはともかく、古代日本の英雄ヤマトタケルは、母親の播磨稲日大郎姫が、播磨風土記において、和邇氏の娘とされている。
 そしてヤマトタケルの父、景行天皇は、丹波道主命の娘の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)だが、丹波道主命の父、日子坐王の母は、和邇氏の娘、意祁都比売命(おけつひめのみこと)である。
 つまり、ヤマトタケルには、父母を通じて、和邇氏の血が流れていることになる。
 仁徳天皇皇位を譲るために自殺をした菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)=宇治が聖域の母親も、和邇氏だ。
 コノハナサクヤヒメに象徴されるように、女性を通じて、和邇氏の影響力が潜んでいる。
 そして、神話のなかでコノハナサクヤヒメの父とされるのが大山祇神で、この神は、名前に山を含みながら、渡しの神ともされ、瀬戸内海の大三島が重要な聖域であるように、海上交通と大きく関与していた。山の神でもあるのは、船を造るためには山の樹木は欠かせないからだろう。
 大山祇神は、伊豆周辺では三島明神とされ、その后神として、大島の波布比売、伊豆半島の伊古奈比咩命、神津島の阿波比売などがおり、阿波比売は、近畿や四国では天津羽羽神で、”はは”というのは蛇のことである。波布もまた、同名の蛇が南西諸島にいる。
 古事記における大山祇神と結ばれ子を産んだとされるのは、野椎神(のづちのかみ)であり、これも蛇である。
 縄文土器には蛇のモチーフが多く見られるが、縄文時代、蛇は聖なる生物であった。
 大山祇神の后たちが蛇を象徴しているのは、大山祇神が、縄文時代からの海上交流に関係する渡しの神であるからだと思われる。
 この大山祇神の娘のコノハナサクヤヒメと、他の文化圏からやってきた者の象徴であるニニギが結ばれた。神話は、日本の古代を、そのように伝えている。
 そして、和邇氏(後の小野氏)の痕跡は、古代のまつりごとの中心であった畿内だけでなく、関東においても残されている。

 武蔵国一宮は、聖蹟桜ヶ丘に鎮座する小野神社である。
 小野神社から多摩川をはさんで対岸が、武蔵国国府が置かれた府中だ。
 そして、古事記において、ヤマトタケルが野火に囲まれた時、草彅の剣によって難を逃れた場所は相模国となっており、その候補地が、厚木市小野で、ここにも小野神社が鎮座している。
 ヤマトタケルが船で房総半島に渡ろうとした時に嵐が起こり、それを鎮めるために妻の弟橘媛が犠牲となって入水するが、その前に詠んだ歌、「さぬさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」のなかに、「小野」の地名が記されている。 
 そして興味深いことに、聖蹟桜ヶ丘の小野神社と、厚木の小野神社を結ぶラインの延長上が神奈川県二宮町の吾妻山で、ここにコノハナサクヤヒメを祀る浅間神社があるが、この吾妻山には、入水した弟橘媛の櫛が海辺に流れ着いて、それを埋めて故人を偲んだという伝承もある。
 この二宮町は、縄文時代の痕跡が多く残っているが、古墳も多く、全体では200近くが確認されている。しかし、他の地域のような土を盛り上げてつくる古墳は存在せず、丘陵の斜面に横穴を削って埋葬する横穴墓ばかりだ。
 横穴墳は、全国的に見ると、内陸部には少なく沿岸部や重要河川沿いに多く作られている。
 地域的には、大分、熊本、福岡、島根、静岡、神奈川、千葉、茨城、福島、宮城に多く、東京、埼玉、宮崎、石川、奈良が、これに続いている。
 そして、横穴墓として全国的に有名なのが、埼玉県比企郡吉見百穴で、200基を超える墓穴を見ることができる。

 この場所は、聖蹟桜ヶ丘にある武蔵国一宮の小野神社の真北42kmである。そして不思議なことに、武蔵国の小野神社から、ヤマトタケルの野火の伝承がある相模国に小野神社を通って、弟橘媛の櫛が埋められたという伝承地で横穴墓が集中する二宮町までも42kmなのだ。

 



 吉見百穴の場所は、内陸部であるが、荒川の水上交通路を使って東京湾まで出ることができる。そして、この群集墓がある小山からの見晴らしはよく、秩父の山々から富士山まで一列に望むことができる。古代の関東もまた、河川交通と海上交通によって、各地が結ばれていた。
 (続く)


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第1459回 時代の先端を疾走し続ける91歳。

 現在、東京と京都で同時開催中の川田喜久治さんの写真展。
 本日、東京のPGIギャラリーでのオープニングパーティがあったので、野町和嘉さんと訪れた。
 川田さんは、私と同じ1月1日生まれだが、今年、なんと91歳になった。
 2022年の秋の展覧会でお会いして以来なので1年半年ぶり。さすがに、これくらいの年齢の方は、1年とか2年後に会うと、老いを感じるのが普通で、今回もそれなりに覚悟をして出かけたのだが、まったく変わっていなかったのでびっくり仰天。
 野町さんも、前回、川田さんとお会いしたのは私と一緒だったので、同じく1年半ぶりで、その変化の無さに、「化け物だあ」と唖然。お顔に皺やシミが出ているわけではないし、背中はまっすぐだし、パーティのあいだも、ずっと立ったままで、疲れたそぶりもない。
 食生活はどうなっているのかと聞くと、最初に出てきた答えが、「肉と魚を交互に食べている」とのこと。「肉ばっかり続くとさすがにねえ」と、まるで、中年にさしかかった30代とか40代の答え(笑)。
 この食生活は私と同じだとうれしくなってお酒のことを聞いた。私は、ほぼ毎日、少量だけれど飲んでいて、休肝日がない。酔っ払うためではなく、食事がおいしくなるから飲んでいるだけなのだが、辞めた方がいいですかねえと川田さんに伝えると、「僕も毎日飲んでいるけれど、お酒は飲んでいた方がいいよ、気分が高まるでしょ。」との答え。まるで私の心の声を代弁してもらったようで、一安心。
 まあ、こうしたことは前置きで、本当に驚いたのは、展示されている写真が、この1、2年に撮った新作ばかりなのだけれど、ものすごく斬新であること。芸術家に年齢なんて関係ないとはいえ、90歳を超えて、生涯でもっともエッジが効いた作品を作り出しているのは尋常ではない。
 しかも、川田 さんは、ほぼ毎日のように撮影し、インスタグラムにアップしているのだが、その写真を、その日のうちに自分でA2サイズのプリントにして、それを展示しているのだ。
 後になってから展示用にプリントを制作するというのが一般的な写真家がやることだが、川田さんは、撮影時のリアリティが鮮明なうちにプリントまで仕上げることをモットーとしている。
 もちろん、時間を置くことで熟成されるものもあり、その時にプリントを作れば、まったく異なるものになるかもしれない。しかし、それはそれで構わず、それはまた別の作品だという意識を川田さんは持っている。
 とにもかくにも、川田さんにとって現在進行形の作品は、そのスピード感が命。なぜなら川田さんは、刻々と変化し続ける時代社会と向き合って作品を作り続けており、”旬”であることが何よりも大事。優れた料理人の仕事の速さと同じ。
 川田喜久治さんというのは、日本の戦後写真界の牽引者であり、川田さんが所属していたセルフ・エイジェンシーの写真家集団VIVOのメンバー、東松照明さん、奈良原一高さん、細江英公さんなどは、写真界の伝説である。
 だから、戦後間もない頃のvivoの時代のエピソードが語られたり書物で読む時に、川田 さんの名前が出てくると、とても不思議な感じがする。
 今、目の前に、現役バリバリの当人がいるわけで、夢を見ているような気分になる。
 しかも、年に一回ほど、筆達者でセンスのいい直筆のご連絡をいただいたりする。
 私は、川田さんとは16年ほどのお付き合いになるが、出会った時すでに75歳になっていたということだが、その時も若々しかったのだが、話をしている時の感じは、当時と今、まったく変わりがないのも驚きだ。発する言葉も明晰だし、人の話に対応する柔軟な対話力も健在だ。
 その秘訣は、やはり、上にも書いたように、毎日、集中して自分がやるべきことをやり続けていることだろう。そして、色々言い訳したり、もったいをつけたり、後回しにせず、スピード感を維持し続けていることが大きいと思う。
 小説家の丸山健二さんが、毎日、少しずつでもいいから必ず数行ずつ書き続けるということを言っていたので、それを川田さんに伝えると、「毎日数行を欠かさずに続けて一年で一冊の長編小説になる。そういうものだよね」と即答。
 少しずつであっても、集中を途切れさせないということが大事とも言っていた。
 私も実践できているかどうかはともかく、まったく同じ考えで、昔のように、あれもやりたい、これもやりたいという気持ちはなく、一意専心できればそれでいいという思いが強い。
 一意専心の極北は、白川静さんなのだが、私が地道に行っている「日本の古層」のプロジェクトについて、川田さんは、気遣ってくださっているのだが、白川さんの「字訓」や「字統」に通じる極めて大きな仕事と言っていただいた。私にとって、これはどんな言葉よりも、心の支えになり、勇気づけられる言葉だ。
 ピンホール写真についての感想など、いろいろな方からいただいているのも励みだけれど、白川さんの名前を出して評価してくださるのは川田さんだけで、つまりそれは川田さんも白川さんのことを深く理解しているからであり、私にとって二重に嬉しい。
 20代、30代の未来を背負う若い表現者には、川田 さんの作品の中に漲っている疾走感と、時空を超えたスケール感を、ぜひ感応してもらいたい。
 評論家が、あれこれ分別くさく分析する時間を許さないほど、川田さんは、彼らの言葉の前を走り続けている。

 

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第1458回 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。

昨夜の地震の状況を知ろうと思って、朝、テレビをつけたら、屋台を引きながら無料でハーブティーをふるまい、薬に関する相談などにのっている若い薬剤師が紹介されていた。
 彼がこういうことをするようになったきっかけは、病院の待合室で、患者さんが隣の人に対しては気軽に自分の症状や心配事について話をしているのに、いざ医師や薬剤師の前に来ると、素直に心の中を打ち明けてくれないことがあって、自分と患者さんのあいだにある壁のようなものを取り払う必要を強く感じたからだと言う。
 彼は、壁の外側から相手と接するのではなく、壁の内側に入って相手と接することが大事だと思い、そう思うだけでなく、具体的な形にしたことが素晴らしい。 
 医療分野に限らず、「外側から見る」ことと「内側に入って見ること」の違い。
 この違いこそ、意識の転換、すなわち世界の転換に関わる大きなポイントでないかと私は思っている。
 「外側から見て分析する」ことの問題は、レヴィ=ストロースが、100年前に文化人類学の研究において問題提起していたことだ。自分が向き合う対象を、博物館の展示物のように整理することを目的化しているような学問研究に対しての問題意識。
 こうした「外から目線」は、今日的学問の隅々なで行き渡った目線であり、その学問的目線から派生した今日的な情報伝達において普通になされていることである。
 相手を単なる「物」として冷たく扱うということ。その「物」じたいに、魂などまったく感じていないことが当たり前になっているが、対象が人間である場合も同じ。その行き着く先は、人間も、ただの「数値」に置き換えられて判断される現実である。
 結婚相手の人間の優劣は所得で判断され、 健康度を計る目安は、血圧や血糖値がいくらか?であり、芸術作品の素晴らしさを判断する目安は販売数や集客数。ニュースソースの優劣は視聴者数。SNSやユーチューブでは、いいね!の数で一喜一憂。
 南海トラフ地震においても、想定震源域で「マグニチュード6.8以上の地震が起きたとき」に、気象庁は専門家による検討会を開くことになっているそうで、昨夜、豊後水道で起きた地震は、想定震源域であるものの、基準を下回るマグニチュード6.6だったため、検討会は開催されないと気象庁から発表があった。
 現代社会において、数字の力、その説得力は最強であるらしい。
 しかし、数字には現れにくい(現時点では現れていない)内実というものがあり、未来の種は、そこに潜んでいる。
 そして、外側から見ているだけでは、その内実に触れることができない。
 リヤカーを引きながら、相手と同じ目線で語り合うことを始めた若い薬剤師は、そのことがわかっている。
 「わかっている」とか、「わかっていない」という言葉も、安易に使われており、専門家と称する人は、世間一般では、わかっている人だとみなされている。
 しかし、経営評論家に、本当の経営ができるだろうか。写真評論家や芸術評論家に、いい作品が作れるだろうか?
 作る側と評論する側では、役割が違うとか専門が違うと言われるけれど、本当にそれでいいのだろうか。
 外から評論することと、実際に会社を経営することや作品を作ることのあいだに、言いようのない隔たりがある。そして、この隔たりの中にある言うに言われぬものこそが、実際の経営や作品作りにおいては、極めて重要な鍵である場合が多い。
 経営評論家が、実際に会社の経営者にならないとしても、経営者の身近にいるアドバイザーとして、毎日のように起きる複雑なトラブルや課題に対して、その都度、優れた経営者が判断するように、素早く、適切な判断ができるようでなければ、信頼できる経営評論家とは言えないだろう。
 写真評論家や芸術評論家にしても、実際に写真を撮ったり作品を作ることを行わなくても、クリエイターが、作品をまとめた形で発表するための作品集や展示会などを行う場合、口先でああだこうだと言うだけでなく、最も適切な形でアウトプットするための具体的な対応ができなければ、信頼できる評論家とは言えないだろう。
 なぜなら、相手(作品)のことをわかるというのは、相手(作品)を分析することではなく、相手(作品)の中に秘められた力を引き出せること、生かせることだからだ。
 これは、会社組織の中の上司と部下の関係においても同じ。部下のことをわかっている上司というのは、部下を分析して、それらしく評価付けする人ではなく、部下の力を引き出せる人。
 それができる人は、リヤカーを引いている若い薬剤師のように、相手との併走ができる。
 昨日、希望者に対して実施しているポートフォリオレビューを行った。
 私のポートフォリオレビューは、一般的によくあるように、写真家が持参する作品を見て、あれこれ分析したり、上から目線でアドバイスをするといったことは行わない。
 私のポートフォリオレビューは、実際に本や展覧会などのアウトプットを行うことを想定したうえで、その写真家と一緒に、作品を組み上げていく。もちろん、手を動かすのは私であり、写真家が、それを見ながら、どう思うか、どう感じるかをくみとって形にしていく。
 私は、20年以上、それこそ無数の写真家の作品に対して、そのように対応してきた。そして、その集中時間を苦としていないので、時間を忘れて没頭してしまう。 昨日も、午後1時から始めて、休憩もなしに、午後7時半まで行った。
 写真をセレクトしながら構成して、全体の入り口となる表紙からタイトルから、展開から、具体的なレイアウトデザインまで、一挙に60ページほどの形にした。
 だいたい、いつもこのくらいのボリュームまで作り上げて、後は、ソフトの使い方や印刷発注の方法などを伝え、写真家自身の手で続きを行えるようにしている。
 もちろん、この時間で私と写真家が併走して作ったものを絶対視する必要はなく、家に帰って冷静になって自分で手を加えていけばいいし、そのようにして改良したものをPDFで送ってもらえば、それを見て、さらなる対話を行えばいいと思っている。
 目指すべきは、その人が作り上げていくものとして、最適で最善のものであること。
 「数字」ではなく「内実」で人の心に働きかけができるもの。
 展覧会などに行って、心の中では、そんなにいいとは思っていないのに、有名人が絶賛していたり専門家が高評価を与えていたり、なんかの賞を受賞していたり、世間で評判のようだから「いいもの」なんだろうなという感じで見るのではなく、その「内実」に、本当に心が動かされるのかどうか。
 そうした「内実」のあるものを作り出して、それが伝わることこそが、作り手として本当の喜びであることを、わかってほしい。心の底でわかっていながら、社会の壁で実践できていない人に、実践できる方法を、具体的に伝えたい。 
 表現者を自称する人々が世の中に溢れかえっており、何のために表現行為を行うのか?という根本的な問いに立ち返るところから、表現を志す人は始めなければいけないのではないかと思う。
 しかし、それを、言葉で説いているだけなら、口先だけの評論家と同じであり、口先ではなく、実際に手を動かして、具体的な形にして、見せることが大事な時代になってきているのではないだろうか。
 口先だけの分析なら、もはやAIの方が上手にできる。 AIが苦手なことは、言葉にならない微妙で繊細なものの中に、大事な種が秘められていることを察する力だろう。
 屋台を引きながら、一人ひとりと対話しながら自分の心の中に蓄積していく人々の繊細微妙な心模様は、屋台を引く人間だけにわかる経験であり、その経験は、標準化された言葉に置き換えて、他の人に簡単に伝えられるものではない。
 それをわかろうと思えば、自分も、実際に屋台を引くしかない。

 

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第1457回 地震のサイクルと、日本社会のサイクル。

昨夜遅く、愛媛、高知で震度6弱地震が発生した。これは本当に怖い。南海トラフの前の、不気味な足音のような気がしてならない。
 台湾から宮崎、そして四国と、最近、立て続けに、中央構造線の南側の地震が続いている。
 1995年の神戸での大地震以来、北海道、新潟、鳥取、東北、熊本、そして能登と、ほぼ5年間隔で、中央構造線の北側で大きな地震が発生してきた。
 そのあいだ、大きな地震が発生していなかったのは、東海、近畿の南部、そして四国と、中央構造線の南側で、南海トラフ地震が発生した場合に大きな被害が想定される地域だった。
 前回の南海トラフ地震が発生したのは1945年。その前が1854年。80年から100年のサイクルで発生する南海トラフ地震は、日本列島の下に潜り込むプレートにエネルギーが蓄積して起こるわけだから、これはもう必ずどこかのタイミングで起きる宿命にある。
 そして、そのサイクルの期間に入ってきた。
 太平洋戦争や明治維新といった時代の転換期と重なるように起きた南海トラフ地震
 単なる偶然なのか、それとも人間社会にも、一定のサイクルがあるのか。
 私たちは、知らず知らず、ずっと同じ価値観と同じ体制が続いていくような錯覚に陥っているが、歴史を振り返れば、そんなことはありえない。そして、そうした体制変化や価値観の変化には、自然現象が大きく関わっていた。
 フランス革命以前の10年は、気候が不順で、厳しく寒い冬や、冷夏によって、旱魃が起こり、人々はパンを手にいれることができず、ギロチンで死ぬのも飢餓で死ぬのも同じだという思いが、人民の爆発につながった。
 同じ頃の1782年から1788年、日本は、天明の大飢饉に見舞われ、杉田玄白の『後見草』では、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状であったと記録されている。こうした状況のなか、1783年、浅間山において、歴史上、最も激甚な災害をもたらした大噴火が起きている。
 今日の四国の地震の直前、インドネシア北スラウェシ州にあるルアン火山で大規模な噴火が発生しているが、その場所は、日本の四国から台湾を通るフィリピン海プレートの南の端にあたる。
 4月9日には、近いところで、マグニチュード6.6の地震があったばかり。
 地震速報が終わった瞬間から、テレビでは、能天気な馬鹿笑い声を響かせる番組が流されて、まるで神妙な事態から気を逸らすことが、(消費誘導のために)重要視されているかのようだが、そうした気分に流されず、真剣に自分ごととして、覚悟と備えが必要な段階に差し掛かっているのだろうと思う。
 *専門家は、今回の地震は、南海トラフとまったく関係ないとは言えないが、地震発生のメカニズムが異なるため、直接的な関係はないと思われると声明を出している。
 しかし、南海トラフのメカニズムを、どれだけ把握していると言えるのか? 前回の発生は、80年前であり、太平洋戦争の終戦直前の混乱期。 
 ほとんどデータなど得られていないはずだし、データがあったとしても、メカニズムの真相などわからない。
 地震の専門家は、地震が起きた際に、いつも後付けで説明するだけであって、事が起きた後、後付けの説明を聞いても、何にもならない。

 

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第1456回 女性天皇が続いた時代。

愛子さま明治神宮に初参拝。
 この方は、なんだか巫女のようなオーラを漂わせている。
 現在、皇位継承順位は、第一位が、秋篠宮文仁親王で、第2位が、文仁親王の長男の悠仁親王
 これは皇統に属する男系男子にのみ皇位継承権を認めるという皇室典範のためで、小泉政権の時に、女性天皇の可能性が検討されたのに、皇室典範改正に慎重な安倍晋三が総理大臣になってから、改正の動きは止まってしまった。
 平成の天皇は、男性だけれど、古代の巫のようだと私は思っていた。
 私の感覚だが、秋篠宮家の人々には、現代的な空気が強く感じられる。
 現代的というのは、個人主義的な分別が根幹にある。
 巫というのは、個人主義的な分別が非常に弱くて、自分のことよりも、大きなものに対して、自分の魂を捧げるような存在であり、愛子さまの方に、そうした巫のような空気を感じる。
 男系男子にのみ皇位継承権があるなどという考えは、いったい、どこの何ものから出てきたものなのか。
 この国が天皇を中心にして一つの秩序にまとまっていったのは、一般的に思われているような、3世紀以降のヤマト王権の時代ではない。
 西暦500年頃まで、共通文字もなかった時代、日本の隅々まで官僚機構によって統治できるはずがないし、武力による長期的制圧も現実的ではない。一つの氏族や勢力に、それだけ強力な武力が集中していたとも考えられない。
 統一に向けての明確な動きは、現在の天皇の血統を遡れる最も古い第26代継体天皇からと考えるのが自然なことで、その後、抵抗勢力などとの攻防を経て、ようやく西暦600年頃に、一つの体制にまとまっていったと考えた方がいいだろう。
 17条憲法の「和をもって尊し」に象徴される推古天皇の時代だ。
 しかし、一つにまとまった新しい体制を維持していくのは、簡単なことではなく、いつの時代でも、反動勢力はいる。
 そうした不安定な時代が続くあいだは、女帝が、多く即位していた。 
 学者は、男性の世継ぎが幼かったためのつなぎだと説明するが、そうではないだろう。
 なぜなら、推古天皇の後は、皇極天皇(後に斉明天皇として重祚)、持統天皇元明天皇元正天皇孝謙天皇(後に称徳天皇として重祚)と、圧倒的に、女性天皇の方が、即位期間も、人数も多い。
 このあいだに、長期にわたって即位していた男性天皇は、存在しない。
 聖武天皇の25年が最長だが、病気がちだったため、譲位した後の元正天皇が政務を行っていた。
 天武天皇の時も、晩年は病気がちで、持統天皇が政務を行っていたとされるわけだから、この200年は、女性天皇によって日本という国は、一つにまとめられていたのだ。
 とくに、私が気になるのは、持統天皇元明天皇元正天皇と、女帝の力によって律令体制が整えられていった7世紀後半から8世紀前半だ。
 実はこの時、白鳳巨大地震(684)や、浅間山の噴火(685)が起きた。地震は、南海トラフが凄まじい破壊力で巨大な津波も起きているが、その前後に、かなり大きな地震が頻発したことが記録に残っている。
 律令体制が始まったことと、この自然災害の関係性は、どこにも書かれていないが、律令体制というのは、かなり特殊であり、それまで先祖代々守ってきた土地を、天皇に差し出して、改めて借りるという制度だ。
 そんなこと、ある日、突然に求められても、「はいそうですか」とならないのではないか。日本全国の人々に武力で強制するということだって、簡単にできるとは思えない。
 この時、この国の人々の内面にどういう変化があったのか、考える必要があるのではないかと思う。
 最近、各地で地震が頻発し、南海トラフ地震が起きるサイクルの80年から100年という(前回は1945年)時期にさしかかってきた今、愛子さまの古代の巫女のような佇まいを見た時、持統天皇元明天皇元正天皇というのは、このような感じだったのではないかと、ふと思った。
 天皇というのは、我儘な権力者ではない。
 平成の天皇のおことば、
 「国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」 
 そして、日本中をくまなく訪ね歩き、災害があれば被災者のもとに駆けつけて寄り添い、膝をついて、一人一人の顔を見ながら語りかけておられた姿勢。
 現在は、「象徴天皇」と呼ばれているが、これが本来の天皇の姿だったのではないだろうか。
 こうした役割を担ううえで、天皇は男でなければならない、などという時代錯誤で頑迷な発想が、この国のためになるとは、どうしても思えない。

 

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第1455回 自分の計画通りに作るのか、何かに導かれるようにして作るのか。

レヴィ=ストロースは、生命原理は、エンジニアリング(設計思想)ではなくブリコラージュで成り立っていると述べた。
 毎月、東京と京都で交互に行っているワークショップセミナーの冒頭で、このことについて詳しく説明してから本題に入ることにしている。
 ウィキペディアなどで「ブリコラージュ」を調べると、「寄せ集め」とか中途半端な説明になってしまっているので、もう少し具体的な説明が必要だ。
 たとえば石工が作る石垣とか、宮大工が作る建築物、工業製品だと、ダイソンが作った掃除機などが、ブリコラージュに該当する。
 設計図を作って、それに基づいて完成させるのではなく、石や木など、物づくりに用いる物の声に耳を傾けるようにして、手や身体を動かして作り上げていくもの。
 日本庭園と、ベルサイユ宮殿の庭園の違いは、ブリコラージュと、エンジニアリングの違いだ。
 ダイソンの掃除機も、創業社長がいろいろなパーツを組み合わせて1000くらいプロトタイプを作って、ああでもない、こうでもないと、完成させていったと言う。
 私は、自分の仕事においても、無意識のうちに、ブリコラージュで行ってきた。
 私は、編集人だから、写真や文章を組み上げていくことが重要なつとめであり、写真構成などにおいても、全ての写真を見て、それこそ耳をすませるように集中して、写真と写真が呼びあっているのを察知するような感覚で組んでいく。
 自分の頭の中で設計図やコンセプトみたいなものを作り上げて、それに適った写真を選ぶとか、説明の道具として写真を選ぶとか組んだりしたことはない。
 このブリコラージュの方法で、川田 喜久治さんや細江英公さん、東松照明さんや石元泰博さんなど戦後の日本写真界の牽引者や、セバスチャン・サルガドやジョセフ・クーデルカなど海外の写真家の写真も構成してきたが、私が選び、組んだ写真のままで、ほぼ全てがOKだった。そして、それを面白いと気に入ってもらえることの方が多かった。
 自分自身の身の回りにある物にしても、デザインや色合いを統一するといったことを重視しないし、コンセプチュアルな作品を所有していない。器などにしても、デザイン重視のものよりも、焼き締めという釉薬をつかわず炎の力だけで焼いたものが好きだ。
 家具は、無垢のものが好きだし、椅子もたくさんあるが、同一規格でそろえたりせず、手触りや風合いとともに、異なるもののあいだの調和を考慮して選んでいる。
 作り手や選び手の頭の中が透けて見えるような物(エンジニアリング=設計思想)というのは、すぐに飽きてしまう。
 毎日、ベルサイユ宮殿の庭園を散歩するよりも、スティーブジョブスも通ったという京都の西芳寺苔寺)を散歩した方が、日々、異なる触発を受けるのではないか。
 飽きるかどうかだけでなく、石壁や建築物などがわかりやすいが、エンジニアリング的なアプローチで作ったものよりも、ブリコラージュで作られたものの方が、長い歳月を生き抜く。石工や宮大工の作ったものは数百年も残るけれど、現代の設計思想で作った家や壁の寿命は短い。 
 そして、ブリコラージュの力というのは不思議なことに、実践し続けていると、感度が鋭くなってくる。石工や宮大工の場合、石や木の声がよく聞こえるようになるだろうし、私の場合、写真の声がよく聞こえるようになる。自分で言うのも何だが、私は、誰かの写真集を作る場合、写真のセレクトと構成が、かなり速い。
 文章も、内容の深度や上手いか下手かは別として、計画的に考えて書いているのではなく、降りてくる言葉をブリコラージュ的に組み合わせているだけだから、かなり速いし、推敲もほとんどしない。
 写真の選択や構成に関しては、プロとして長年行ってきた仕事なので、速いだけではダメで内容が伴っていなければならないが、膨大な写真の中から高速で写真を選び、高速で構成した私のアイデアを写真家に見せても、だいたいにおいて、不満を持たれたことはなかった。
 写真に関して気難しいと言われた森永純さんや鬼海弘雄さんの写真集も、そのように作ったし、大山行男さんの場合、一般の写真家は最初のセレクトを自分で行ってある程度厳選するが、大山さんはそれをやらないので、何千枚という写真の全てに私が目を通している。
 風の旅人の創刊の時、北海道の水越武さんのところに行って、仕事部屋で一人にしてもらって3時間以上はかけて集中して全ての写真に目を通して選んで構成したのだが、掲載しようと思ったものだけ選んで持ち帰ろうとした時、水越さんは、「それだけでいいのですか?」と驚いていた。
 私はそれが当たり前だと思っていたが、聞くところによると、一般的な編集者は、使うかどうかわからない膨大な数の予備を持ち帰るのだそう。なので紛失されると困るから、デュープをとった上で送っていたらしい。私は、写真を見ながら展開を決めて写真の数を厳選していたので、オリジナルをそのまま持ち帰らせてくれた。
 それ以来、風の旅人は、デュープではなく一点かぎりの貴重なオリジナル写真を使うことが当たり前になり、写真印刷のクオリティの高さを評価されていたのも、そのあたりに理由がある。
 ブリコラージュというのは、エンジニアリング(設計思想)と違って、物を選ぶ人間側に尺度を置かず、物の中に秘められた力を引き出すことを重視する。
 石垣作りにおいて、エンジニアリング(設計思想)だと捨てられてしまうような歪な形の石は、ブリコラージュだと、うまく当てはまると、歯止めのように周りの石の力を受け止めてくれる。
 ブリコラージュは、自分の計画のために人や物を利用するのではなく、生かすという発想になるのだ。
 数日前に 『生成と消滅の精神史』に関する記事で触れたのだが、ホメロス神話のイリアスの時代、古代人が「神の声」に従って動いていた、というのは、このブリコラージュを、象徴的に、神話的に描いただけのことではないかと思う。
 ここ8年ほど私の意識は、どっぷりと日本の古層に向けられているが、この場合も同じで、私は、読書などを通じて自分の頭の中で構築した設計に基づいて計画的に動いたりせず、まず現場第一。
 フィールドワークを重視しているのは、その場の気配や見える景色が、自分の意識の深層と、どう反応するかを確かめるためだ。
 長年行ってきた写真の構成と同じように、一つひとつの風景や、その土地の記憶に耳を傾けて、それらが、どう結びついていこうとしているのか、読み取ろうとして、文章を書いたり、ピンホール写真を撮ったりしている。この場合の写真は、自分の主体的な目的意識が曖昧になるピンホール写真が相応しい。
 カメラで撮影するというのはshootという英語でもわかるように狙い撃つということであり、かなり自己中心的な行為だ。
 それに対して、ファインダーもシャッターもないブラックボックスピンホールカメラは、長時間露光で何ものかを招き入れるという感覚の行為となる。
 そういう感覚で続けていると、不思議なことにシンクロニシティが増える。
 おそらくベテランの石工などもそうだろう。その時に必要な石が、まるで向こうから声をかけてくるように、目に入りやすくなる。
 4月7日に、亀岡の千代川を訪れたのは、フィールドワークのためではなく、京ことばの源氏物語の語り会のためだったが、その会場が、保津川桂川)に面していて、対岸に丹羽富士の牛松山や、愛宕山が見えた。

千代川地域の保津川桂川)のほとり。保津川の向こうに丹羽富士の牛松山が見える。

 

 川の向こうは、以前に訪れたことがある小川月神社だと思い、桜も綺麗だし、待ち時間が3時間ほどあったので周辺を散策することにした。
 この千代川の一帯は、月読神の聖域であることや、瀬戸内海沿岸や紀ノ川に集中している石棚付き石室を持つ古墳が集中的に作られた場所であることは知っていて、以前、探検したことがあった。
 そして、源氏物語の公演時間が近づいたので戻ろうと思った時、ふと、以前このあたりを探検しながら、田んぼの真ん中にあって、車では近づけず、道路沿いに駐車スペースもなく、諦めた神社があったことを思い出した。
 この日は徒歩だったので、田んぼの畦道を歩いて近づいて行った。鎮守の森がこんもりとしていて、なかなか風情がある神社だった。これが、藤腰神社だった。

導かれるように田んぼの畦道を歩くと、こんもりとした鎮守の森があり、丹生の女神にも通じる野椎命という蛇神を祀る聖域があった。

 

 そして祭神を確かめたところ、野椎命だったので、驚きとともに合点した。全てのパズルが解けたように感じた。
 その内容は、昨日の記事に書いたのだけれど、、野椎命というのは、この一ヶ月ほど、何回か記事にした大山祇神三島明神)の妻で、南九州の吾田の海人族の女神だ。
 大山祇神三島明神)の妻で、吾田の海人族の女神は、地域によって名前が異なる。四国では大宜津比売、近畿では天津羽羽神、静岡の掛川あたりや神津島で阿波比売、伊豆の大島で波布比売。
 野椎命もそうだが、いずれも共通しているのは、竜蛇の女神だということ。
 そして、イザナミが生きていた時、つまり陰陽の調和が保たれていた縄文時代からの精神を反映している女神で、最近のタイムラインで何度か書いた「丹生の女神」の祈りに通じる存在だ。
 亀岡の月読神の聖域が集中しているところに、この野椎命の聖域がある。
 日本書紀のなかに描かれている月読神に関する奇妙なエピソード。保食神の食べ物の提供の仕方が気に入らないからと殺してしまったこと。古事記の中で、スサノオが大宜津比売を殺してしまった理由も同じ。そして、殺された女神たちは、大地豊穣の神となった。これは、古代ギリシャの蛇神であるメドゥーサと同じだ。
 亀岡の千代川に、石器時代縄文時代から続く千代川遺跡があり、さらに、明らかに外から進入してきた勢力のものだと思われる石棚付き石室を持つ古墳が集中していること。そのうえ、この場所の近くに、第26代継体天皇天皇に即位する前に、次の天皇になることを望まれながら恐れて逃げてしまった倭彦王が被葬者とされる古墳まである。 
 この場所は、間違いなく、古代における新旧の価値観が、せめぎあったところだ。
 新旧の価値観がせめぎあったところは、亀岡もその重要な場所の一つであるけれど、ここが全てなのではない。
 先週訪れた吉野の丹生の聖域もそうで、その場所にも、祟り神を鎮める御霊神社が多く築かれていた。亀岡の場合は、野椎命の代表的な聖域である稗田野神社のすぐ近くに御霊神社がある。
 不思議なのは、昨日のタイムラインでも書いたが、それらの新旧攻防の聖域が、なぜか、一本の規則的なラインでつながっていることなのだ。
 これについての私の考えは、そのライン上の一点が新旧攻防の舞台だったのでなく、おそらく、その周辺地域全体が舞台だった。そして、日本の場合、後からやってきた勢力は、前の勢力を駆逐してしまうことを行わず、門客神のように門を守る神にしたり、御霊信仰によって祟り神を守り神にするということを行っているので、地域全体の中から特定場所を選んで聖域として残す際に、各地に起きたことの連関性を示すために、聖域を規則的に配置することを行ったのではないかと思われる。
 いずれにしろ、何の目的も持たずに、源氏物語の語り会の待ち時間に、ふと脳裏に降りてきた導きのまま足を運んだところにあった蛇神=野椎命の聖域が、この一ヶ月ほどずっと追い続け、吉野まで足を運んでいたことともブリコラージュ的に組み合わさった。
 最近は、このシンクロニシティが、かなりの深度で起きていることが実感される。

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第1454回 古代、聖から邪に転換した竜蛇神。

 

 数日前に、近畿の真ん中の縦長の盆地の北と南の端にあたる吉野と京都を結ぶ丹生の女神のことについて書いたが、今度は、その京都を軸にした東と西の関係について考えてみたい。
 吉野三山に鎮座し、蛇神の天津羽羽神を祀る波宝神社の真北に位置する上賀茂神社は、京都を代表する二つの聖山、比叡山愛宕山を結ぶ東西の同緯度ライン上に鎮座している。
 この東西ラインは、東に行けば近江富士の三上山で、西に行けば亀岡の出雲大神宮にいたる。

 不思議なことに、この東西ラインには、「御影」という名が深く関係している。
 三上山に降臨したのは、鍛冶の神、天御影命であり、比叡山の西麓には御蔭山がある。下鴨神社の祭神である賀茂建角身命は、ここに降臨したとされる。
 さらに、亀岡の出雲大神宮の背後にそびえる山も、御影山だ。
 天御影命が鍛冶の神ということからか、この東西ラインには、鍛冶関連の場所も並ぶ。近江の三上山の近くには、製鉄関連の遺跡や、日本最大の銅鐸の出土があるが、京都の愛宕山上賀茂神社のあいだにある高山寺あたりは、世界最高品質の仕上げ砥石の産地であり、この東西ライン上の西の端には、現在、砥石館(亀岡市)があるが、ここは、中砥としては世界最高品質の青砥石の産地だ。
 金属製品は、砥石がなければ、使い物にならない。
 さらに言うならば、愛宕山カグツチの聖域で、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命は、火雷神の子である。
 火雷神は、カグツチの火によってイザナミが黄泉の国で醜い姿になっていた時、その身体に現れていた神。
 この火雷神は、奈良の葛城を拠点にしていた鍛冶関連氏族の忍海氏が祀っていた神で、現在、そこには葛木坐火雷神社が鎮座している。
 火雷神というのは、鍛冶の際の火花が象徴化された神だと思われる。
 そしてカグツチというのも、単なる火の神ではなく、古代の産業革命を引き起こした火であり、なぜなら、カグツチの火で陰部に火傷を負ったイザナミの大便から生まれたのが陶器の神であるハニヤスで、陶器というのは、器として使われるだけでなく、鉄製品の鋳鉄技術においては、高温で焼き固めた須恵器という陶器が必要だった。
 そして、瀕死の状態のイザナミの尿から生まれたのが、もともとは水銀の神であろうミズハノメだ。ミズハノメは、一般的に水の神のように思われているが、この神を祀る代表的な聖域である丹生川上神社の鎮座地は、丹生(辰砂=硫化水銀)と関わりの深い地だ。水銀というのは天然では液体状態で存在せず、そのほとんどが辰砂という硫黄との化合物で存在しているが、この化合物を熱することによって液体水銀を分離して取り出す。火傷を負ったイザナミの尿からミズハノメが生まれたというイメージは、辰砂を熱して水銀を取り出す工程に重ねられている。
 そして、このようにして取り出された水銀は、化合しやすい性質なため、金や銀や銅の精錬に利用される。
 このように鍛冶など新技術と関わりが深いラインが、近江から京都にかけて東西につらぬいているが、このライン上の亀岡のところで、日本の歴史上極めて重要なことが、1500年前に起きている。
 御影山の麓の出雲大神宮の真西700mのところに千歳車塚古墳があるのだが、これは、6世紀前半、第26代継体天皇の時代に築かれた全長が82mの前方後円墳であり、古墳時代後期としては丹羽地方最大だ。
 そのため、この古墳の被葬者は、倭彦王とされている。
 倭彦王というのは、第25代武烈天皇が後継者の子供をもたずに亡くなった時、天皇への即位を望まれた王なのに、殺されるのではないかと恐れて逃げてしまったため、代わりに継体天皇が即位することになったという奇妙なストーリーが、日本書紀に残されている。
 現在の天皇の血統を遡れるのは、第26代継体天皇までである。それゆえ、もし亀岡の倭彦王が逃げなければ、天皇の血統は違ったものになっていたということになる。
 この話が史実かどうかはわからないが、たとえフィクションであったとしても、なぜ、亀岡の地が、天皇の血統の分かれ目であるかのような記録が残されているのかが気になる。
 現在、丹羽と丹後は分かれているが、律令制以前は但馬、丹後も含んで丹波国造の領域とされ、その中心が、亀岡だった。
 国府が置かれていた場所は、千歳車塚古墳から北西2.0kmの八木町だと考えられている。
つまり、丹羽というのは、若狭湾日本海を通じた大陸への玄関口で、その政治的拠点の亀岡は、桂川を通じて京都から瀬戸内海、奈良方面にも出られやすいところだった。
 この地は、平安後期に台頭した清和源氏とも関わりが深く、神蔵寺は、鬼退治で有名な源頼光藤原道長の後援者でもあった)が帰依し、源頼政首塚も亀岡にある。
 足利尊氏が、鎌倉幕府打倒の挙兵をした地も、亀岡の篠村八幡宮だ。
 日本海畿内をつなぐ要衝の地である亀岡は、古代から、歴史の転換に関わる場所だった。
 そして、比叡山愛宕山と亀岡の出雲大神宮を結ぶライン上で、もう一つ気になるところがあり、それが、昨日訪れた千代川町だ。

石器時代から中世にかけての千代川遺跡のある場所は、保津川桂川)の向こうに、丹羽富士と称される牛松山を望むことができる。

 保津川桂川)の西、現在、千代川インターチェンジがあるところに、石器時代から中世まで続く千代川遺跡があった。
 そして、このあたりには、18基にも及ぶ拝田古墳群がある。
 なかでも16号墳は、和歌山の紀ノ川下流域の岩橋千塚古墳群や、瀬戸内海沿岸に見られる石棚付石室を備えた古墳だ。
 亀岡盆地は、この石棚付石室を備えた古墳が7基発見されており、全国的には紀ノ川流域に次いで集中している。この石室の分布が、海人勢力の紀氏の活動域と重なっているため、内陸部でありながら、亀岡も、海人勢力と関わっている可能性が高い。
 というのは、この千代川には、保津川を挟むように月読神の聖域があり、とくに小川月神社は、延喜式名神大社である。
 亀岡に月読神の聖域があるのは、現在、京都の松尾大社の摂社になっている月読神社との関わりが指摘されているが、京都の月読神社も、もとは延喜式名神大社であり、その歴史は、隣の松尾大社より古い。
 日本書紀によれば、京都の月読神社は、西暦487年に、壱岐から亀卜がもたらされた場所である。
 日本の卜占は、弥生時代から牡鹿の肩甲骨を使った鹿卜が行われていたが、6世紀以降は、亀卜が吉凶の判断を司ることになった。
 亀卜が導入された時期は、今来という渡来人が大挙してやってきており、訓読み日本語や官僚制度など、その後の日本の秩序形成において重要な役割を果たした。
 そして、月読神というのは、三貴神の一神でありながら、アマテラスやスサノオと比べて、神話の中の存在感は小さく、物語は一つだけであり、しかも、かなり特殊な内容だ。
 その内容は日本書紀に記録されており、月読神が保食神と対面する時、保食神が饗応として口から飯を出したので、「けがらわしい」と怒って保食神を剣で刺し殺してしまい、保食神の死体からは、牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となったというものだ。
 古事記の中では、これと同じ内容の物語が、スサノオ と大宜津比売(オオゲツヒメ)のあいだで起きている。
 数日前のエントリーで、大宜津比売の別名が天津羽羽神で、”はは”というのは蛇を意味し、大宜津比売が殺されるエピソードは、古代ギリシャにおいて、蛇神で豊穣の神であったメドゥーサが、都市秩序の守護神(=合理主義精神)のアテナイの助力を受けたペルセウスによって殺されたことと同じだと書いた。
 日本においても、縄文土器には蛇のモチーフが多く用いられており、蛇は豊穣神だった。
 しかし、日本に新しい秩序がもたらされた時、蛇神は、邪悪な神として殺された。そのことが、スサノオによって殺された豊穣神である大宜津比売、月読神によって殺された保食神の物語に象徴されているのだろう。
 さらに、数日前のエントリーにおいて、大宜津比売の別名の天津羽羽神は、阿波比売という名を持ち、この女神は、『続日本後記』(840年)によれば、大山祇神三島明神)の后でもあり、近畿の吉野川や四国の紀ノ川など、中央構造線上と、そのラインを伊豆までのばしたところに祀られているということを書いた。
 大山祇神というのは、天孫降臨のニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメの父である。
 そして、古事記においては、大山祇神​​と結ばれて神々を産んだのは、野椎命(ノヅチノカミ)であり、野椎というのは、野つ霊(ち)であり、これは、草や野の精とも言われるが、伝説的な蛇であるツチノコの別名でもある。
 この野椎命を祀る藤越神社が、亀岡の千代川町の、石棚付き石室を持つ拝田古墳や千代川遺跡の近くに鎮座している。

藤腰神社。南九州の海人、吾田の女神であり蛇神の野椎神を祀る。

 大宜津比売や野椎神といった竜蛇神は、イザナギイザナミの陰陽両神が並び立っていた時の神であり、これは縄文時代から続くもので、この時代、蛇は、聖なる存在だった。
 それに対して、大宜津比売を殺したスサノオや、保食神を殺害した月読神は、カグツチの火によってイザナミが死んだ後に生まれた神であるから、陰陽の調和が崩れるような社会変化があった新しい時代の神だと言える。この時代、蛇は邪悪とされた。
 近江の三上山から西に伸びる鉄関連の場所や「御影」の名が残るライン上にある亀岡の千代川町には、石器時代からの遺跡があり、保津川を挟むようにして月読神の聖域があり、さらに、瀬戸内海の海人と関わりが深いと思われる石棚付き石室を備えた古墳があり、この古墳のすぐ近くに、蛇神の野椎命を祀る藤越神社が鎮座している。
 陰陽調和の時代と、陰陽調和が崩れた時代の聖域や史跡が、重なり合うようにして存在している。
 野椎命は、別名が、カヤノヒメで、南九州の吾田の海人勢力の女神である。
 千代川遺跡から真南3.5kmのところに、稗田野神社が鎮座しており、ここは、古事記編纂に関わった稗田阿礼生誕の場所とされるが、この神社も祭神は、野椎命と、大山祇神と、さらに保食神である。
 奇妙なことに、紀ノ川河口と瀬戸内海沿岸に分布し、例外的に内陸部の亀岡に7基存在する石棚付石室を持つ古墳は、この稗田野神社と、千代川遺跡のあいだの南北3.5kmに集中しているのだ。
 石棚付石室を持つ古墳は、6世紀以降に築かれており、月読神が京都の桂川沿いに祀られるようになった後だから、月読神と石棚付石室を持つ古墳の勢力は関係していると思われる。
 そして、この月読神に殺された保食神は、スサノオ に殺された大宜津比売と同じ性質で、大宜津比売は、蛇神の天津羽羽神と同じ。同じ蛇神である野椎命とともに、これらの女神神は大山祇神の妻であり、吾田の海人勢力の女神でもある。
 大山祇神の娘であるコノハナサクヤヒメもまた、別名が神吾田津比売だから、野椎命や大宜津比売の娘という位置付けになる。 

 天孫降臨のニニギは、大山祇神の妻である吾田の海人勢力の女神の子であるコノハナサクヤヒメと結ばれる一方、コノハナサクヤヒメの姉妹であるイワナガヒメのことは拒んだ。
 同じ吾田の海人勢力の女神であるイワナガヒメは、古代ギリシャにおいてペルセウスに殺された蛇神のメドィーサと同じで、新しい秩序体制からは嫌われたのだ。
 同時に、新しい秩序体制は、コノハナサクヤヒメを通して、古くから伝えられてきた価値観も融合した。
 これが、日本の古代に秘められた構造であるのだが、さらに複雑なことに、表から排除されたように見えるものは、祟り神となりながらも、丁寧に祀られることで門客神(アラハバキ)となって、門を守る鬼神になった。
 京都においては、上賀茂神社から鴨川をはさんで真西1kmのところに西賀茂大将軍神社が鎮座するが、祭神は、イワナガヒメである。この場所は、平安京を守る四神相応の神、北を守る玄武とされる船岡山の真北2kmで、大極殿からは真北4.5kmだ。
 このイワナガヒメの聖地は、平安京の北の門を守っている。
 さらに、平安京大極殿の真西19kmところが、保食神を祀る亀岡の稗田野神社なのである。この場所は、古代、山陰道沿いの佐伯郷で、南九州の海人族の隼人が居住する場所でもあった。
 隼人は、宮中における門の番人でもあった。さらに、四神相応の西を守る白虎は、「道」とされるので、山陰道に沿った稗田野神社の場所こそが、平安京の白虎(専門家のあいだでもどこなのか定まっていない)だった可能性が高い。 
 四神相応で平安京の南を守る朱雀もまた、専門家のあいだでも場所が定まっていない。一般的には巨椋池ではないかとされているが、この場所は、平安京から西にずれている。平安京の真ん中を貫く朱雀通りの真南の場所は、京田辺の月読神社であり、ここもまた隼人の居住地で、隼人舞の発祥の地で知られている。
 古代中国において、朱雀は「鳥隼」のことである。それゆえ、その朱雀の地の守り人として居住させられた南九州の海人が、隼人と呼ばれるようになったのだろう。
 南九州の海人は、呪力を持つと信じられており、それゆえ門の番人になったわけだが、祟り神もまた、丁寧に祀ることで守神となるという思想があって、それが門客神になった。
 いずれにしろ、この国の古層には、南九州の海人たちの文化があり、新しくやってきた人たちによって、一部は忌避されながらも、一部は融合された。さらに忌避されたものも、祟り神から守り神へと転換された。
 そうした複雑な構造が、今でも紐解くことが可能な状態で残されているのが、亀岡だということになる。
 第25代武烈天皇の後継者がいない時、新しい天皇の候補となりながらも逃げてしまった亀岡の倭彦王という奇妙な物語。そして、月読神が、食事の作り方が不潔だからという理由で殺してしまった保食神の物語。この月読神の聖域と保食神の聖域が、亀岡においては、同じところに残っているという事実。
 非常にわかりにくい日本の古層であるが、1500年も前のことを、現代に引き寄せられる可能性のある事物や痕跡が、残り続けていることもまた、歴然たる事実だ。
 ただし、大きな課題は、それらの事物や痕跡と、どう向き合うかだ。
 そして、その事物や痕跡の背後を、どのように洞察するのか?
 教科書に書かれている歴史は、事物を並べているだけであり、その背後への洞察は、まったくといっていいほど含まれていない。
 実証主義というのは、明確に書かれた記録でも出てこなければ、事実とはしない。だから想像力を駆使して読み解かなければいけない神話も、単なる作り話として、隅に置かれてしまう。

 

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