*第945回 低成長が当たり前という感覚の生き方が浸透している。

 

(撮影:鬼海弘雄

 株価が下がり続け、上場企業の間では、2016年3月期(前期)の業績予想の下方修正が相次いでいる。円高も進行しており、今期の業績がさらに悪化するとの懸念が強まっている。
 莫大な資金で株価を買い支えていた年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、株価の下落で5兆円もの評価損。株価がさらに下がると、年金は大変なことになる。
 政府は、日本経済は立ち直っているにもかかわらず中国経済の先行き不安や資源価格の下落の影響が云々と言い訳しているけれど、日本の株価の落ち込みが世界的に見ても際だっているのだから、日本に特有の事情があるのは間違いない。特有の事情という言い方は大げさで、安倍政権になってから引き上げられた株価が、蜃気楼だっただけのこと。アベノミクスの号令で、”強い経済”を望む人達の資金が、ここぞとばかりに株に流れ込んで、さらにGRIFの莫大なマネーまでが流れ込んで、株価は急激にあがった。あらかじめ仕込みを十分にしたうえで、そういう流れを引き起こすために株式市場に様々な揺さぶりをかけた海外の投資ファンドは、大儲けすることができた。そして、彼らは十分に儲けた後、3年経っても実態としては何も変わらず人々がすぐに経済成長が蜃気楼だと気づくだろうということを予め計算の中に入れていたので、先手を打って、ここ数ヶ月で日本株を一斉に売り出している。ある程度、株価が高い時に売り始めた彼らは利益を得たが、遅れて売らざるを得ないGRIFをはじめ、日本の株主は大損を被ることになるのだろうか。いつものパターンだ。
 経済の専門家は、経済成長が鈍化するのは消費が弱いからだと言い、消費が弱いのは、賃金があがらないからだと説明するけれど、本当にそうなんだろうか。その理屈は、高度経済成長の時には通用したかもしれない。買わなければならない物がたくさんあった時は、賃金があがったりボーナスが出たらすぐに買った。しかし、今はもう買わなければならないものはそんなにないし、どうしても欲しいものは特にない。もちろん、画期的なものが作り出されれば買うだろうけれど、だからといってアイデア次第で消費は持ち直すというのは極論だ。洗濯機の次に冷蔵庫というような単純な新商品の開発ではなく、画期的なものが出てくる頻度は、もはやそんなに多くはない。画期的な新商品で一時的に活気を取り戻しても、またすぐに戻る。ずっと低成長の時代が続いてきたから、人々は、低成長の時代の中でどう生きるかという発想が、しっかりと身についている。電気製品を定価で買うことなどありえず、家電量販店で品定めをしてから、ネットで金額やレビューをじっくりと調査してから慎重に買うことが当たり前になっているのだ。電気製品に限らず、どんな物でも、購入前にネットで価格や品質を調べる習慣も身についている。高成長の時代には、給与があがり、物価もあがることが当たり前という認識だったからローンで買った方が得で、みんながそのように行動するから金利も高く、いくら金利が高くても、そうした方がメリットは多かった。
 今は、ローンで買った物の価値が下がるのが早い。また、会社の倒産などでローンを支払えずになった時に家を手放しても、足下を見られて購入時より安く売るしかなくローンだけが残ってしまうというリスクのことも考えなければいけない。
 みんなが高成長だというイメージを共有していると実態もそうなるのだよという戦略がアベノミクスで、政治家や、株価の上昇が利益につながる人達は、そういうイメージを共有させようと躍起になっていたけれど、イメージの共有だけでは、一時的にうまくいっても、長続きしない。
 根本的な問題として、人間の欲望は所有欲だけとは限らないということを忘れてはいけないのではないか。所有欲ばかりが強い人は、そうでない欲のことがわからないから、自分を基準にしてそう思い込んでいる。
 人によっては、あまり抱え込みたくないという欲望だってあるのだ。物もそうだし、借金もそうだし、組織に対する責任だってそうだろう。物を持ち、借金(リスク)を抱え、組織に対して責任を持つことが人間として立派で、それが社会を発展させる力になるというイメージは、高成長時代にはとても強かったし、その時代の価値感の中で生きてきた人達は、その感覚が弱い人達を、ダメな人間で、社会的にも無用であるかのように言う。
 アベノミクスを支持していた人達には、そういう人達が多いだろう。
 しかし、抱え込まないことで楽になり、手放すことで解放され、提供することに喜びを感じ、組織に対する責任よりも人間としての責任って何だろうと考える人が、少しずつ増えているのではないだろうか。
 お金を使うことより、心を使うことで、日々の充実は十分に得られる。
 賃金を上昇させれば消費も増える、消費が増えれば経済は成長する、経済が成長すれば国家が強くなり、人々は幸福になるという発想は、とても時代遅れのように感じる。その理屈が通るならば、1980年代の後半、日本がバブル経済に浮かれていたあの頃が、もっとも恵まれた素晴らしい時代だったということになる。あの浮かれ騒ぎで、自分の人生も、人の人生も、壊してしまった人だって多くいただろうに。自分の人生を振り返ってみても、あの頃に戻りたいなどとは決して思わない。ちょうどその頃、私は、広告関係の業界で働いていて、海外に身分不相応なリッチな出張も経験させてもらい、今思えば呆れるくらいのくだらないお土産も買い漁ったけれど、その頃の物は、何一つ残っていない。いったいどこに行ってしまったのだろう。
 低成長が当たり前という感覚になって生きると、人間は、それをベースに、色々な智恵を生み出していくのだろうと思う。江戸時代の循環社会だってそう。
 収入が減れば、既にある物を上手に生かすという頭の使い方になる。企業に雇ってもらえないのであれば、自分で食っていく方法を編み出すしかない。マスを対象にするために標準的で画一的になりがちな企業の商品やサービスよりも、個人ベースで生み出される商品やサービスの方が、いろいろな珍商売をはじめ、バラエティに富んで面白くなる可能性だってある。(コンビニの中の商品よりも、錦市場などに並んでいる商品の方が面白いように)
 低成長が当たり前という感覚の生き方が浸透してくると、まだまだ使える物を平気で捨ててしまったり大企業に従属することが経済的にも人間的にも優れているかのような思い込みが、少しずつ薄れていく。そういう醒めた感覚になると、人間の欲求が、再び高度経済やバブルの時代ようになるとは考えにくい。そんなことは、経済の専門家でなくても、少し考えればわかる。専門家は、過去の事例をたくさん知っているかもしれないけれど、過去の事例に囚われやすく、新しい考えを創造することは希だ。現在、私たちが直面している現実は、おそらく、ここ数十年の過去の事例では乗り越えられない問題で、100年単位で歴史を遡った方がいいのかもしれない。
 

 


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