第1003回 過去と未来の橋渡しになる映像を



 一般社団法人カメラ映像機器工業会(CIPA)が発表している数字を見ると、デジカメ販売の長期衰退は、著しい。 
 コンパクトカメラは、2010年が1億900万台で9,774億円だったが、2016年は、1,200万台で1,630億円。
 レンズ交換式カメラは、2010年が1,300万台で3,950億円、2016年は、1,100万台で3,643億円。
 この6年で、レンズ交換式カメラは15%減、コンパクトカメラは、なんと10分の1近くに減っている。両方を合わせた台数では、この6年のあいだに、年間で1億台も減っているのだ。
 その原因は、誰もが知っているとおり、わざわざカメラを買わなくても、スマホのカメラで十分な撮影ができるからだ。
 フィルム時代においては、友人と一緒に旅行に行くと、写真が下手な人と上手な人とのあいだには、明らかな差があった。しかし今は、誰でも同じように綺麗に写真が撮れる。ピントも露出も全自動で、画像処理アプリも簡単に使えるから、素人とプロとのあいだの差も、見分けがつかなくなっている。
 展覧会などにおいても、評論家が褒めていたり名の通った写真家が撮った写真ということで、これは良い写真なのだろうなという顔で見ているが、そういうラベルを外して素人の写真と混ぜて展示しても、気づかないタイプの写真は多い。
 報道写真も、2011年3月11日の東北大震災の時に明らかになったが、プロの写真よりも現場に近いところにいた素人の写真が、震災のリアリティを伝えていた。
 そして今、映像の発展の方向は、さらに鮮明さを追求する4Kとか8Kという超高精細な画像の実現と、3次元画像とかバーチャルリアリティとなっている。
 20世紀は、映像時代だった。コマーシャルやメディアなどの媒体を通じ、映像が、時代の価値観をリードしてきた。しかし、現在、映像が目指している発展の方向(鮮明な映像の力によってすべてをあからさまにしていくことや、仮想空間と現実空間を錯覚させること)が、時代の価値観をリードするものとなるだろうか。
 こうした映像技術の発展において、私が一番気になっているのは、人間の想像力や、心との関係だ。
 映像は、それを使ったり見ている人が意識している以上に、人間の想像力や心の状態に影響を与えている。
 コマーシャル映像が、消費社会のなかで必要のない物を買わせることに貢献したことは間違いない。そして、最近のSNSに関する調査で、Instagramやsnapchatといった画像中心のSNSが、青少年の心を一番蝕んでいるという結果もあった。その原因は、映像による演出で自分を見栄え良く見せようとする人々が大勢いて、それらの映像を見てコンプレックスを抱いたり、自分の暮らしのつまらなさに落ち込んだりする人が増えているのだという。映像は、自己顕示欲と自己承認欲求を満たすための手段としては、もっとも手軽であり、そうした映像の使われ方が、表現分野から一般まで広くいきわたった結果だ。
 いずれにしろ、映像を作る人間の価値観や意思や思惑によって、映像のあり方は異なり、人間にとって、害になることもあれば、逆も有り得る。
 そのため、映像技術の開発に携わる者や、映像の作り手の責任は大きい。映像を通して、いったい何を目指しているのか、自らに問い続けることは必要だ。
 これまで私は、風の旅人という雑誌を作り続けてきた。雑誌を作る際に、人が撮った写真を使わせていただいて編集を行っていたが、映像の責任についてはかなり自覚的だった。そして、その考え方をブログなどを通して明らかにしてきた。
 最近、その考えに基づき、自分でも写真を撮り始めたのだが、デジタルカメラだと自分の感覚と合わず、ピンホールカメラを用いるという方法になった。
 そして、それらの写真を、ホームページを作って、フォトギャラリーやフォトエッセイという形でまとめていくことにした。
  https://kazesaeki.wixsite.com/nature

 ピンホールカメラは、ファインダーも絞りもシャッターも何もなくて、ただ暗箱と、フィルムがあるだけ。光を通す穴は、わずか0.2mm。露出時間は、光の状態を見て勘に頼るしかない。写る範囲も、だいたいこのあたりと見当をつけるだけ。
 そして対象の前で立ちすくんだまま、何分か、ひたすら待ち続けるのだが、その場では、フィルムに写っているかどうかわからない。だから現像後に、像が写っていると、それだけでホッとする。同時に、こんなシンプルな仕組みで写ることが不思議でならない。
 最新のデジタルカメラで撮影すると、自分の眼で見ている時より細部まで鮮明に写りすぎている。他の人の目にはどう写っているのか私にはわからないが、自分の場合、どうも感覚が違う。
 ピンホールカメラは、レンズを使っていないので、そういう細密さはない。でも、自分が風景の前に立っている時の見え方は、むしろピンホールカメラで映し出されたものの方が近い。風が吹いていれば枝や葉は揺れ動いており、揺れ動いているという感覚で樹木を見ている。
 その動きを、高機能のデジタルカメラは高速シャッターで静止させる。そして薄暗い森の中も、高感度センサーで明るく鮮やかに処理をする。それが、消費者のニーズだからだ。
 しかし、消費者のニーズというのは、人々がある程度意識して要求していることであり、世界は、自分では意識できていないこととの出会いに満ち溢れていて、その事実が、人間を触発し続ける。
 意識によって限定された世界ではなく、無意識が感応する世界が、偶然と必然の組み合わせの中で写し出されることの驚き。何枚も撮って、その中の一枚だけかもしれないけれど、自分で恣意的に切り取った写真ではなく、偶然と必然の組みあわさった恩寵のような写真が受け取れるかもしれないと祈りのような心境で、暗箱に0.2mmの窓を開けて待っている。
 数日前、詩人のさとう三千魚さんから最新詩集「浜辺にて」を送っていただいたが、その中に、「死者から委託されたコトバを語ろう」という一文があった。
 その一文に触れた時、ピンホールカメラで撮っている写真も、死者から委託されたものを写しているようなものだと感得した。
 最近、近畿圏で古くから人間が大切にしてきた場所を訪れている。その地勢、山の形などからも、古代、人々がそこを聖地にした理由を、しみじみと感じる。
 それらの場所を訪れるたびに、現代人よりもはるかに死者から委託されたものを大切にしていた古代人の感覚と、少しでもつながることが、今、とても大切という気がしている。
 死者から託されたものを意識できないことは、未来に託すべきものを意識できないことと同一だと思うからだ。
 そして、そして、その委託の作法は、ピンホールカメラの受容的な方法が適しているという直観がある。あまりにも恣意的で鮮明すぎる映像は、現在のこの一瞬だけを大切にして切り取って満足してしまっていると感じるからだ。
 今、目に見えているものを鮮明に映し出すことよりも、今見えていないものの中に潜む前後の時間に対する想像力を喚起する映像の方が、過去と現在と未来の橋渡しになるような気がする。