許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

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二人にしか出せない世界観

フィギュアスケート競技大会の放送で、アナウンサーが「二人にしか出せない世界観」と実況していました。これはどうも、そのペア選手でなければ醸し出せない雰囲気のことのようです。「この二人にしか創り出せない世界」なら、やや文学的ながら、誤りではありません。しかし「世界観」となると話は別です。
「【世界観】世界並びに世界における人間の立場に関するまとまった見解。世界及び人生の解釈・評価・意義づけの総体。〈中略〉楽天主義・厭世主義・宿命論・宗教的世界観・道徳的世界観などの立場がある」(広辞苑第二版補訂版)
フィギュアスケーターは「わたしは楽天主義です」「厭世主義です」と示すために演技をするわけではないのですから、その形容に「世界観」を用いるのは誤用でしょう。
ただし、こうした「世界観」の誤用は昨今増えているように思います。従来なら「世界」と表現するところが「世界観」になるのです。
これは若者ことばの「〜感」からの連想でしょうか。「まったり感」「できた感」など、漢語名詞に接尾語のようにつけて「〜の感じ」を表す用法(「解放感」「優越感」など)を和語や用言にまで拡大した使い方です。TVでもよく聞くのですでに一般化した観があります。
そこで気になるのが、この「〜した観」を「〜した感」と平板アクセントで読み一語と捉える人がいるのではないかということです。
「観」(見解)と「感」(感じ)の使い分けが理解されないとなると、漢字・かな・カナを適宜使用することで生まれる日本語文章表現の豊かさが減じてしまうのが残念です。



今週の秘孔:マン・ツーマン(『週刊ベースボール』2.15&22合併号)
……黄子満(ワン・ツーマン。キッコーマンと読んではいけない)? それは『南京路に花吹雪』。長野が木村拓也にバントの個人指導を受けたという記事にあるのでマンツーマン(ちなみに、英語‘man to man’は「率直に」の意。人間同士腹を割って、のようなニュアンス。日本語の意味に近いのはバスケットボールなどの‘man-to-man defence’)のことだろうが、なぜ「・」が入るのか、しかも「マン・ツー・マン」ではなく「マン・ツーマン」なのか。電車の中で吹き出しそうになるほど秘孔を衝かれたため記しておく。