許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

謙譲語=尊敬語=叮嚀語=敬語?

2019年4月30日は「平成の大晦日」だそうで、TV局もほぼ一日中(一部の局を除き)改元関連番組を放送していますね。政教分離をはじめ考えなくてはいけない問題は多々ありながら、三十年前に自粛の日々を経験した身としては、平成最後&令和最初をキーワードに景気が浮揚するならそれもまたよろしいかと。

さて、公共放送でも民間放送でも皇族方には敬語を用いますが、その「敬語レベル」は特段高いものではないのがふつうです。
もちろん、皇族でない人についてなら「出席しました」と報じるところを「出席されました」とするなど特別な敬意は表すものの、「御臨席を賜りました」ではありません。「出席なさいました」ですらないのです。
たとえば被災地へのおみまいの話では、天皇陛下と被災者の方々のどちらの動作についても「れる/られる」が使われます。
三十年前には昭和天皇の死去を「ご逝去」と報じたメディアに「崩御」とすべきだとかみついた向きもありましたけれども、21世紀の今では、崩御/薨御/薨去/逝去の使い分けどころか、天皇陛下にも「れる/られる」。
しかしこれは目角を立てるようなことではなく、国民に対する感情を「親愛」でなく「敬愛」と表現なさった平成天皇の国民に寄り添うお姿に起因する、現在の皇室と国民の距離を示すものでしょう。
ただ、天皇にも市井の人にも同じ敬語を用いる現状は、日本語における敬語の変容にも因るのかもしれません。

敬語は人間関係の上下を前提とします。目上を敬う−目下が謙るという関係が基礎にあります……ありました、が、人間関係がフラットになってきた現代では、目上−目下を峻別する場面はさほど多くなく、一方で、潤滑な人間関係のためには謙虚さを表明する必要があります。
その帰結か、「いただく」の濫用といった謙譲語の頻用がめだちます。さらには、謙譲語を目上の動作に用いる、つまり、謙譲語を尊敬語として使う人が増えたように思います。
謙譲語は自分(目下)の動作、尊敬語は相手(目上)の動作に用いるという敬語の基礎が変容してゆく、あるいはすでに変容したのでしょうか。謙譲語が尊敬語としても使われ、機能も叮嚀語と同様になり、敬語といえば謙譲語を意味するように。

それでも、顧客を主語に「拝見していただいて」に始まり「お/御○○していただいて」を連発しては、相手によっては悪い印象を与えますので、謙譲語と尊敬語と叮嚀語の使い分けを理解しておいて損はありません。


ところで、新元号発表翌日の日刊スポーツで「皇族」を「後続」と誤変換してたけど、時代が時代なら不敬罪なんだろーか。

年/歳(とし)

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 

さて、「としあけ」は漢字でどう書くでしょうか。

年(とし)が改まったことを表すから「年明け」、が一般的です。

そして、「とし」の漢字表記については、下記の使い分けが一般的になりつつあると感じます。

1月1日から12月31日まで(グレゴリオ暦の場合)の1年、つまり暦年を表すときは「年」。

年齢を示すため、誕生日から翌年の誕生日の前日まで(満年齢の場合。なお、法律上は「誕生日まで」ではありません)の1年を表すときは「歳」。

とはいえ、漢和辞典で「年」と「歳」を調べてみると、そうした使い分けは昔からのものではないようです。

「【年】一 トシ イ 一年 ロ 年齢。よわい〈後略〉」(三省堂漢和辞典第二版)

「【歳】一 トシ イ 一年 ロ 年齢〈後略〉」(同)

たとえば、「歳末」は暦年の末のことですし、「数え年」は元日に一つ年齢を加える数え方です。

 

「とし」の漢字表記を、暦年のときは「年」/年齢のときは「歳」と使い分けること自体は問題ありません。ただし、どちらも「年」と書くのが誤りではないことは理解しておきましょう。

また、「漢字表記は常用漢字表に基づく」とのルールがある状況で文章を書くときには、「歳」の訓は「サイ」「セイ」しか認められていないので、「とし」の漢字表記は「年」とします。

 

漢字の使い分けは、文意を正しく伝えるための手段の一つです。

確かな根拠をもち、一貫して使い分けましょう。

申し伝える/申し上げる

先週ちらっと落語家の襲名取消が話題になりました。これを報じた新聞記事で気になったのが、「申し伝える」の用い方です。
「落語界であしき前例を作るのは良くないとは申し伝えました」(3月3日付スポーツ報知)
コメントの主は林家正蔵、彼が「申し伝え」た相手は三遊亭好楽です。
正蔵は林家一門の長ではあるものの、別の一門に属し(身内ではない)年齢が上で落語家としての芸歴も長い好楽については、目上と扱って話すべきだろうと思ったのです。


上記のコメントのどこが、好楽を目上と扱っていないのでしょうか。
たしかに、「申し」と敬語*が使われています。謙譲語の「申す」は、自分や身内を低めることによって敬意を表すものです。
ただしここでは、自分の行為を謙(へりくだ)って表現したとはいえ、好楽に敬意を示したわけではありません。好楽を敬う表現は「申し上げました」(または「お伝えしました」)です。
「申し伝える」(敬語の場合)と「申し上げる」はどちらも告げる行為の謙譲語ですが、告げる相手に対する敬意が異なります。
「申し上げる」なら、告げる相手を敬っています。「おかあさんに申し上げました」は母親への敬意を示します。
これに対して「申し伝える」は、母親=告げる相手でなく、話す相手=「母親に告げること」を話している相手を敬う表現です。「母に申し伝えました」で示されるのは話相手への敬意であり、母親は身内として低められています。
つまり、「申し上げる」と「申し伝える」のどちらを用いるかによって、「告げる」という行為のみならず、話し手の敬意がどこに向いているかも示すことになるのです。
たとえば、顧客から、自分の上司の鈴木課長への伝言を預かったとします。
「その旨を鈴木課長に申し上げます」といってしまっては、身内である鈴木課長への敬意を示しておいて、肝腎の顧客への敬意は示されません。これでは顧客の不興を買ってしまいます。
ここは「その旨を鈴木に申し伝えます」**というべきです。
上記のコメントについても、正蔵が、落語界全体を身内と捉え、記事の読者≒社会全般への敬意を示したのであれば、問題はありません。


敬語を適切に使用するには、まず、だれを敬うのかを明確にすることです。
上下関係へのこだわりは減っているものの、尊敬語や謙譲語を使いこなす必要はしばらくなくなりません。「この場で敬うべきはだれか」を意識して敬語を用いましょう。



*念のため。尊敬語⊂敬語であって、敬語=尊敬語ではありません。
**人名+肩書は敬称にあたるので、「鈴木課長」は社外の人に対して用いるべき呼称ではないとされます。とくに顧客に対しては、「鈴木」もしくは「課長の鈴木」が原則です。

無安打無得点/無安打無失点(ノーヒットノーラン)

野球用語のクイズで、四死球や失策で出塁を許してしまってもノーヒットノーランは記録されるか、との設問があったりします。
答はイエス
「ラン」は走者でなく得点のことであり、ヒットを打たれずかつ点を与えなければ、フォアボール等で何人ランナーを出そうがノーヒットノーランです。

では、「ノーヒットノーラン」を漢語にすると?*1
無安打無得点」がふつうです(日本野球機構の公式サイトでも「無安打無得点試合」)が、「無安打無失点」ともいいます。
ただ、論理的には、「無安打無失点」にはいささかひっかかる点があります。
MLBの投手成績表では、失点は「R」で示されます。「runs」の略です。英語にも「失点」を表すことば(「run allowed」)はあるものの、日本語ほど「得点」と「失点」を厳密に使い分けないようです。投手の自責点も「earned run」といいます。「earn」は「1〔金銭など〕を働いて得る〈後略〉」(旺文社シニア英和辞典新訂版)ですから、ニュアンスとしては「打者が稼いだ得点」ですね(失策が絡むなどして自責点にならない失点=打者が稼いだわけではない棚ぼたの得点は「unearned run」)。日本語の「投手が自ら責任を負う失点」とは印象が異なります。
日本語の感覚では、同じ点でも、打者の視点では「得点」、投手の視点では「失点」。だったら、投手が達成したノーヒットノーランは「無安打無失点」?
いえ、もうひとつ注意すべきことがあります。「安打」は投手の行為ではないのです。「安打する」のは打者です。論理的に正しく投手の視点で表現するなら、「無被安打無失点」でしょう。
「攻撃側に安打も得点もなかった試合」の意で「無安打無得点(試合)」のほうがすっきりするように思います。

これほど細かい指摘は措くとしても、次の文はみすごしたくないものです。
「広島加藤の前に2奪三振2四球と抑え込まれた」(4月8日付日刊スポーツ)
この文の主語は東京ヤクルトスワローズ山田哲人選手です。山田選手を主語に受身形にするなら「2三振2四球と抑え込まれた」でなければなりません。「三振」を「奪」ったのは広島東洋カープの加藤拓也投手なのですから。
なお、加藤投手の視点からみれば「2奪三振2与四球と抑え込んだ」となります。*2
このように、文の主語や、述語はだれの視点からみたものか、といったことを常に意識するのは、論理的に破綻のない文章を書くうえでとても有用です。



*1 「ノーヒットノーラン和製英語」といわれるので、「日本語にすると?」とは書けません(和製英語は日本語。なお、漢語は「〈前略〉2 漢字音から成る単語。漢字の熟語〈後略〉」〈新小辞林第二版〉)。ところで、たしかに英語では通常「no-hitter」「no-no」で、そもそもMLBの記録としては失点の有無は問わない(ヒットさえ打たれなければよい)のですが、和英辞典をひくと「no-hit,no-run」。ぐぐると「no-hit no-run game」という表現がなくもないようです。MLBの記録要件とは無関係に「無安打無得点の状況」を表す英語が存在するのでしょうか。「ナイターは和製英語」にも反論がありますし、「和製英語かどうか」の判定はなかなか難しいものですね。
! とはいえ実用的には、英語で話す/書くなら「no-hit,no-run」でなく「no-hitter」を用いましょう。


*2 4打席で2与四球、しかも二つめは唯一の失点の呼び水となったとあれば「抑え込んだ」と表現してよいのか迷いますが、文法上は。




蛇足。
英語で「complete game」は完投のことです。完全試合は「perfect game」、完封は「shutout」です。以前webで、complete game=完全試合との記述を見たので、念のため。

正論

SNSが発達し、TV番組に視聴者のツイートが表示されるようになりました。
世界的にポピュリズムが擡頭するなか、「自国第一主義は正論」とのツイートをよくみかけます。公共の電波にのせるからには、稀少な意見ではなく、同様の投稿が一定数存在すると思われます。

そこで気になるのが、「正論」とは「道理の正しい議論」(広辞苑第二版補訂版)の意だということです。
「道理」とは「1 物事のそうあるべき理義。すじみち。ことわり。2 人の行うべき正しい道。道義〈後略〉」(同)です。「理義」は「道理と正義と」(同)。
つまり「正論」は、理想や正義や「人の行うべき正しい道」に適う議論であって、悲しいかな、「本音」よりも「建前」である場合が多数を占めます。
今や、自国の利益のためなら国際協調に背を向けるのもやむなし、との姿勢が「人の行うべき正しい道」なのでしょうか。
小説「蜘蛛の糸」や三尺箸の説話など、「自分さえよければ」の「本音」よりも、「建前」ととらえがちな利他主義こそが幸福をもたらすと教えられてきたのですが。近江商人の「三方よし」が世間の話題になったのも、何十年も昔のことではなかったような。








昨年の米国大統領選挙中、ヒラリー・クリントン候補が、ドナルド・トランプ候補の支持者の半数は人種差別主義者などの「嘆かわしい(deplorable)人々」だと発言して激しい反撥を買いました。落選の一因になったともいわれるこの発言は、米国市民の大半にとって人権の尊重は「常識」だと、naiveにも考えてしまったために為されたのかもしれません。
社会に弱者を支援する義務などない。自己責任でやれ。
しばらく前ならとても公言できなかった「本音」の許容度が、かなり高まっているようです。
セイフティネットのない社会は不安定化し、安全、経済、公衆衛生、社会保障制度等々さまざまな面でリスクが増大する。要支援者を納税者に変えるための資金は費用でなく投資。全員が長い箸で卓の反対側の人に食べさせればみなが幸福。道理を説いても「建前」とはねつけられるでしょうか。
人権や博愛の意義が共有されなくなりつつある現在、十年前、二十年前の「良識」を「常識」とおもいこまず、「本音第一主義者」に届くことばを探す必要がありそうです。

夫人/婦人

「総理もゴフジンも」。
TVニュースで内閣官房副長官の発言が放送されました。この「ゴフジン」は、文脈から内閣総理大臣の妻を指すととれます。その場合、「フジン」の漢字表記は?

【夫人】〈中略〉六 現代は、他人の妻の敬称。
【婦人】一 おんな。女性。二 既婚の女。〈後略〉
(新潮国語辞典新装改訂版)

英語でいいかえるなら、「夫人」は「Madam(e)」、「婦人」は「woman」というところ。「お蝶フジン」は「お蝶夫人」であって「お蝶婦人」ではありません。女性の病気を診るのは「夫人科」でなく「婦人科」です。
つまり、冒頭の「フジン」は「夫人」と書くはずです。
*「おんな」を示す場合、今日では、「婦人」でなく「女性」を用いるのが一般的です。


ところで、それ自体が敬称である「夫人」に敬称の「御」をつけてもよいものでしょうか。
他人の夫の敬称として「御主人」を使うことがありますが、「夫」の意で用いる「主人」は自分の夫の謙称であって敬称ではないので、「御夫人」とは異なります。
また、たしかに、「令夫人」とはいいます(「【令】〈中略〉二(接頭)他人の家族のことをいう場合、語の上に付けて敬意を表わす語」〈同〉)。「御芳名」(御+芳名)「御尊父」(御+尊父)なども、敬語の重複であるとされてきたものの、現在では広く許容される敬称です。とはいえ「御夫人」は聞きません。
「御夫人」は、「御芳名」ほど許容された段階にはないと思われます。




「御婦人」は、英語の「lady」「ladies」にあたる古めかしい表現で、「他人の妻」でなく「女性」の敬称です。この音にひきずられて「御夫人」といってしまったのかもしれませんね。
しかし、「御」や「れる/られる」を機械的に添えれば尊敬語になると考えているのであれば、ことばで仕事をする政治家としては、ことばに関する感性に疑問符がつきます。
保守派を任ずるならそれだけ「美しいことば、日本語」もたいせつにしてほしいものです。

固定概念(固定観念/既成概念)

18日夜のNHK「経済フロントライン」の「未来人のコトバ」コーナーに近畿大学広報部長の世耕石弘氏が登場しました。少子化により大学間の競争が激化するなか、まじめでお堅い大学広報の殻を破るため、斬新なPRに挑んだそうです。「固定概念を、ぶっ壊す。」というキャッチコピーの新聞全面広告は、広告関連の賞をいくつも獲得しました。
ただ、わざわざ「既成概念」でなく「固定概念」とした点は、みすごされた可能性もあります。違和感を生じさせて目にとめてもらう、という手法は、「固定概念」に違和感をもたない場合は奏効しないからです(ページをあっさりめくらせない効力は主に、鮪の頭が地を割って屹立する画像が担ったのでしょうが)。


【概念】一 個々の具体物から共通した内容を取り出し、総合して得た〈中略〉もの〈後略〉(新小辞林第二版)
【観念】〈中略〉3〈中略〉思考の対象となる意識の内容・心的形象の総称〈中略〉4 考え。見解(広辞苑第二版補訂版)

「概念」は事物の本質をとらえたもので、客観的、普遍的です。人によって異なったり容易に変化したりしない、つまり、そもそも「固定」されているので、通常は「固定概念」のような使い方はしません。「観念」ならば主観的、個別的で、定まったものというわけではないため、「【固定観念】〈中略〉個人の心を常に占めて離れない考え。固着観念」(新潮国語辞典新装改訂版)の熟語もつくれます。
「概念」に、新味のない、硬直した、といったニュアンスを加える場合は、「【既成】既にでき上がっていること」(同)をつけて「既成概念」とするのがふつうです。


漢語は直観的に理解するのが難しいことがあります。キャッチコピーなどでなく意図を伝えるための文章では、語義を把握して正確に用いるのが得策です。あやふやな理解のまま使ってしまうと誤解を招きかねません。
たとえば、「固定観念」と「既成概念」は上記のとおり意味が異なりますので、混同しないようにしましょう。




追記。
今AXNミステリーでTVシリーズシャーロック・ホームズの冒険」字幕版を放送してて、「六つのナポレオン」に「固定概念」て訳語が出てきました。驚いて正典を繰ってみると「固定観念」(「六個のナポレオン」鈴木幸夫訳)でした。念のため、イマジカBSで放送中の吹替版も確認、やはり「固定観念」。fixされたイデーだからって「固定概念」はへんだよね、うん。