COMME L’EAU QUI COULE このページをアンテナに追加

2016-09-25-Sun

「きみはいい子」を見ました(たぶんねたばれあり)

誰かに優しくされたら、その分だけ誰かに優しくできる(しなければならない)、とは誰が言ったか忘れたが、僕の中では強く刻まれていることである(近頃忘れていたのではないか、とも思うが)。

尾野真千子の演じる一児の母は、愛娘に暴力をふるってしまうことをやめられずにいる。己の体験として、忌むべき行為であることを理解しつつも、やめられない。暴力の連鎖は後半において暴き出されるが、これは逆説的に愛するためには愛されることが必要であるということであろうか。

人間は困難な毎日を生きている。その困難さは、人それぞれ大小異なるが、誰にでも存在するものだ。うまくいかないことも、認められないことも、間違っていることもある。そんな中で何かを選び取って、行動をしていく。誰もが、許されたがっている。認められたがっている。心の底では、そう考えている。高良健吾が甥に抱きしめられるシーンは、心安らぎ、勇気づけられる。戸惑い、涙ぐみながら受け入れていく様子は胸を打つ。

小学校のパートでは子ども社会の制御のきかない残虐さがうまく切り出されており、母親同士のパートにおいてはその関係性の居心地の悪さと猜疑心の表出が絶妙である。そして、独居老人の無縁な立場が対象的である。三者の立場は、非常にリアリティを持って迫ってくるため、他の要素を補強する。

ラストについては僕はこれでいいと思う。極私的な領域である「家庭」に対して、教師という立場で介入することは非常に困難であろうことは、容易に想像できる。しかしなお、その困難さに立ち向かおうとする勇気を肯定的に浮かび上がらせるいいシーンだった。全体として、見るものに不安な気持ちを呼び起こさせるシーンが多かっただけに、転機となる抱擁からの救いの連続、そしてラストシーンは肯定されるべきだろう。

いい映画だったと思います。

2016-08-06-Sat

ものすごく久々に

ここを開いたので下書きに残っていた文章をオープンにしておく。本当は、シンゴジの感想でも書こうと思っただけなのですが。

映画版「娚の一生」について

 原作から久しく離れていた自分にとって、見終えた直後の感想は「まあまあかな」というものであったということを、まず正直に書いておかねばならない。そして、余韻に浸りつつ原作を読みなおした今、それが誤りであったこともまた、正直に書くべきだろう。この映画は「娚の一生」という漫画の出がらしである。

 榮倉奈々はたしかに可愛いし、頑張って演技している。少々若すぎるきらいはあるが。本来であれば、つぐみは彼女よりももう一回り年上の女優がやるべきではあっただろう。榮倉奈々の年頃だと、どうにも結婚という形で愛を求めることへの飢餓感のようなものと過去の影響による躊躇いというものは背負いづらい。だがまあ、許容範囲だ。豊川悦司だって悪くはない(というか、彼は歳相応だし、解釈パターンの中に存在する海江田の範疇)。

 映画では原作からの重大な改変として、つぐみは「仕事を辞めた」ことになっている。祖母の死後、その家を受け継いで、染め物をやってみようとしている、という設定だ。原作では、在宅勤務に切り替えた、一流企業で働く三十半ばの女だった。辞めた理由は明確ではなかった気がするが、原作でつぐみが持っていた一つのキモがすっぽりと抜け落ちてしまうことを指摘せざるを得ない。つまり、つぐみは仕事をしていれば(ある面での)充足感を得られる、という要素が消え去ってしまった。これでは原作でもメッセージ性のあった、堂園つぐみという人間の幸せとは何なのか?という自問自答から遠く離れてしまうし、そもそも映画ではそのシーンは削られている。

 堂園つぐみは嫌味な女である。仕事ができて、家事もできる。ただ、恋愛で失敗をすることで釣り合いをとっている、とは親友の秋本の弁だが、重ねてきた失敗のせいで彼女は恋愛からは幸せを得られないのではないか、という思い込みに至った。そして自分自身の中に深く引きこもってしまう。自分から汲み出せるものについては執着し、他人から与えられるものについては臆病になる。だからこそ、海江田から与えられた愛の言葉や態度にも怖気づいてしまったのだし、飛び込んでいくことも中々出来なかったのだ。

 愛と失敗は地続きで、愛した者は失われる。それは今までの恋愛が証明してきたことで、彼女の中に深く刻まれて容易には消えなかった。

 といった諸々は映画の中では語られず、堂園つぐみは単なる恋に失敗した女でしかない。海江田に対する躊躇いも、一時の逡巡にすぎない。純粋に、描写が不足しているのだ。彼女が持っているバックグラウンドは、原作未読者には与えられないので、海江田という51歳の男は都合のいい少女漫画的ファンタジーの側面をより強くする。

 個人的に残念だったのは、「70Lのゴミ袋に入る人生」のセリフがなかったことだ。ゴミ袋を目の前に放り出されるシーンはあったが、ただそれだけだ。三十数年の人生が、これだけちっぽけであるという、肥大化した自我を嘲笑うかのような説教めいたシーンはもう少し効果的に使ってほしかった。

Audi S1に試乗したのでメモ

注:筆者はCL7アコードユーロR→2代目TT(MC後FF)という車歴です。

セールスポイントとしては変速機がやはりMTであること……なのだが、それだけでは?というのが率直な感想。

  • エンジンは2.0 TFSI。231ps 37.8kgmのスペックは当たり前だが全く不足がない。ただしそれを回して面白いかというとそうではない。アウディ的な処理なのかもしれないが、SモデルであるS1であってもエンジン音はわりと遮音されているし、そもそも回しても突き抜けていくような高揚感は覚えない。官能面は排気音がメインかなという感じだが……。要するに乗っていて面白みは薄いということだ。ホンダのRスペックエンジンのような凄まじく回って脳髄にしびれるように響くフィールは当然ながらない。
  • ステアリングフィールは自然。曲がる止まるに関しても違和感はないし、不足感もない。2リッターエンジンを載せていてどうかなとは思ったが、鼻先が重い感じはない。思い切り曲げたわけではないので、この辺りは曖昧ではある。クワトロなのでスタビリティも高い。
  • 18インチだが足は硬くない。TTとさして変わらないという印象。
  • MTは悪くはないなという程度。シフトフィールは普通。CL7より特に悪いというわけではない。クラッチも重くはなく、普通の踏力で十分。アクセルペダルが吊り下げなのでどうかと思ったが、普通にヒールアンドトゥもできるし、アクセスコントロールもできるので、特に問題はなかった。元来左ハンドルであることによるペダルレイアウトのオフセットについては、これはどうしようもないが、クラッチの位置が踏みにくいということはない。ただし、フットレストがないので、巡航時はクラッチの下に足先を突っ込むことになる。これはどうしようもないがシート位置は高め。
  • 内装はさすがにAudi。黒を基調としたイイモノ感のある作り。ただし、ベースがA1なので、そのあたりの限界はどうしてもある。MMIは個人的には好きではない。

僕の求めるものが、ホンダ的でありすぎるということなのかもしれないが、400万の価値があるかというと首肯しかねるところ。ホットハッチだとかボーイズレーサーだとかそういった類の車ではないかな、という気がする。スピードを出して楽しい、エンジンを回して楽しいではなくて、太いトルクを使ってストレスフリーにクラッチを繋いだり切ったりしながらのんびり走るのが楽しいといったたぐいの車なのかも。そういう意味ではwebcgのS1インプレは当たってると思う。……とここまで書いて、アウディドライブセレクトを使ってダイナミックモードにするのを忘れてたことに気づいた。もしかしたら官能面はこれを使うと補強されるのかもしれない。うーん。

機会をつくってメガーヌRSにも乗りたいと思いました。おわり。

2014-05-11-Sun たまこラブストーリーを見た このエントリーを含むブックマーク

以下、適当なメモ。

無菌室のように、悪意が一欠片も存在しない世界、それが北白川たまこ、もというさぎ山商店街を取り囲む世界なのだというのが、「たまこまーけっと」を適当に流し見た僕の認識だったが、そこで繰り広げられるお伽話は辟易するほどにのんびりとしたものだった気がする。辛いことばかりの現実的日常に対比されるかのように、視聴者の張り詰めた心を弛緩させるような甘ったるい物語こそが制作側の狙いだったのだろう。僕はつまらないと感じたけれども、まあそこはどうでもいいことだ。

さて、その「たまこまーけっと」の映画版たる「たまこラブストーリー」であるが、これはテレビアニメには決定的にかけていた「ドラマ」が存在していた。砂糖菓子のような世界であっても、時間軸を取り入れてしまう以上は何かが変化せざるを得ない。しかしながら、人生、世界観が閉鎖的な空間にとどまっているたまこを動かして、「変化」を起こすのは困難を伴う、というわけで、今作は幼なじみのもち蔵からたまこに告白をさせる、というトリガーによって展開していく。世界は変わるのだという当たり前の話を、恋愛感情の発覚という関係性の変化をベースとして細やかに展開した製作陣には素直に拍手を送りたい。たまこまーけっとの持つ緩やかで優しい世界観を崩さずに、上手に変わるということを表現したと思う。

幼なじみという兄弟のような関係から恋愛関係への移行は、たまこにとって見れば世界を根本的に塗り替えてしまうものだった、と言っても過言ではない。それにもち蔵は、近い将来、東京に行ってしまう。そんな変化を優しく受け止め、世界と自分の間をうまくリバランスすること、それが生きるということなのだ。かんなちゃんが言っていた、バランスポイントの話は明確な比喩であるし、バトンや糸電話のキャッチに関する描写もそうだ。バトンは動いているものだ。だからこそ、それから目を離さずに上手に受け止めなければいけない。父親の歌に対する、母親の下手くそな返歌を聴いて、たまこは逃げるのではなくてきちんと応えてあげなければいけないのだと理解する。いつまでも面食らっている場合ではないのだ、と。

ついでに言えば、みどりちゃんはおそらくたまこに対して友情以上の感情(恋というほどではない。所有に近いものかもしれない)を抱いており、たまこに恋焦がれながらもアクションを起こさないもち蔵をヘタレとして蔑んでいた(言い過ぎか)が、彼が告白という一大行動を起こしたあとは、むしろその成就のためにサポートに回っている。もちろん、それは根底ではたまこももち蔵のことを憎からず思っていることを知っているからだろうが、もち蔵を認めたということもであるし、そして何よりみどり自身が世界の変化に対して折り合いをつけたということだろう。喪失に対する気持ちの決着は、たまこがやった幸福な受容よりも、観客からすれば共感しやすいものかもしれないし、実際に僕としてみればそうだった。だから、というわけではないが、「たまこラブストーリー」の裏主人公はみどりちゃんなのだ、と僕は思う。

自分の思いと他者の思いのすれ違い、ままならない自分の願望、それを無残にも却下することもある世界の酷薄さ、それらをキャッチして、うまく折り合いを付けなければ生きていけない。大人になるということは諦めを覚えることではないが、少なくとも全てが思い通りにうまくいくわけではないことを知らなければならないし、認めなければならない。嬉しいこともあれば、寂しくなることもある。そして、悲しいこともある。今日という一日は、昨日とも明日とも違う一日だ。日常という単語に凝縮してしまえば、差異はほとんど見えなくなってしまうかもしれないが、一つ一つ取り上げてみれば異なっている。そして、その中でささやかな変化が起きていく。だから、素晴らしいのだ。世界の表情は毎日変わっている。だから、がんばって、とたまこたちと観客にエールを送っているような、そんな映画だった。あなたたちがこの先人生を送っていくならば、変化は数えきれないほど起こるだろう。けれど、それをうまく受け止めてやらなければいけないよ、と優しく語りかけているかのような……。

本当に良かったよ、これ。