映画版「娚の一生」について

 原作から久しく離れていた自分にとって、見終えた直後の感想は「まあまあかな」というものであったということを、まず正直に書いておかねばならない。そして、余韻に浸りつつ原作を読みなおした今、それが誤りであったこともまた、正直に書くべきだろう。この映画は「娚の一生」という漫画の出がらしである。
 榮倉奈々はたしかに可愛いし、頑張って演技している。少々若すぎるきらいはあるが。本来であれば、つぐみは彼女よりももう一回り年上の女優がやるべきではあっただろう。榮倉奈々の年頃だと、どうにも結婚という形で愛を求めることへの飢餓感のようなものと過去の影響による躊躇いというものは背負いづらい。だがまあ、許容範囲だ。豊川悦司だって悪くはない(というか、彼は歳相応だし、解釈パターンの中に存在する海江田の範疇)。
 映画では原作からの重大な改変として、つぐみは「仕事を辞めた」ことになっている。祖母の死後、その家を受け継いで、染め物をやってみようとしている、という設定だ。原作では、在宅勤務に切り替えた、一流企業で働く三十半ばの女だった。辞めた理由は明確ではなかった気がするが、原作でつぐみが持っていた一つのキモがすっぽりと抜け落ちてしまうことを指摘せざるを得ない。つまり、つぐみは仕事をしていれば(ある面での)充足感を得られる、という要素が消え去ってしまった。これでは原作でもメッセージ性のあった、堂園つぐみという人間の幸せとは何なのか?という自問自答から遠く離れてしまうし、そもそも映画ではそのシーンは削られている。
 堂園つぐみは嫌味な女である。仕事ができて、家事もできる。ただ、恋愛で失敗をすることで釣り合いをとっている、とは親友の秋本の弁だが、重ねてきた失敗のせいで彼女は恋愛からは幸せを得られないのではないか、という思い込みに至った。そして自分自身の中に深く引きこもってしまう。自分から汲み出せるものについては執着し、他人から与えられるものについては臆病になる。だからこそ、海江田から与えられた愛の言葉や態度にも怖気づいてしまったのだし、飛び込んでいくことも中々出来なかったのだ。
 愛と失敗は地続きで、愛した者は失われる。それは今までの恋愛が証明してきたことで、彼女の中に深く刻まれて容易には消えなかった。
 といった諸々は映画の中では語られず、堂園つぐみは単なる恋に失敗した女でしかない。海江田に対する躊躇いも、一時の逡巡にすぎない。純粋に、描写が不足しているのだ。彼女が持っているバックグラウンドは、原作未読者には与えられないので、海江田という51歳の男は都合のいい少女漫画的ファンタジーの側面をより強くする。
 個人的に残念だったのは、「70Lのゴミ袋に入る人生」のセリフがなかったことだ。ゴミ袋を目の前に放り出されるシーンはあったが、ただそれだけだ。三十数年の人生が、これだけちっぽけであるという、肥大化した自我を嘲笑うかのような説教めいたシーンはもう少し効果的に使ってほしかった。