「Blue moonと黄金の月」

ブルームーンというものはモヤによって青白く見えた月のことを指すそうだ。ブルームーンはジャズにもあり、それはシンデレラストーリーを歌っているように解釈できる。その歌に出る黄金の月は理想、あるいは王子様幻想として、その歌では歌われる。そもそもブルームーンというめったに見ることのできない夢のようなものと黄金の月の間には何があるのだろうか。気になるところだが、これはonce in a blue moonという慣用句がかたずけてくれる。「決してありえないこと」であると。

『月と六ペンス』というサマセット・モームの小説があるようにたった六ペンスという現実と月という理想、あるいは幻想という意味のタイトルらしい。チャールズ・ストリックランドは、家族を捨て、挙句タヒチへ。

月は、イスラム教のマークとしても使われている。これは発展を意味するらしい。さらに朔の後のヒラールはラマダーン月の断食の合図となる。そう、サインである。

また、日本でも月を象徴とした話がある。『かぐや姫』である。彼女は月からやって来て月に帰る。彼女は、言いよってきた男共に嘘をつくように仕向ける。この世のものとは思えない美には人間は嘘で補うしかない。つまり、幻想には対幻想という構図である。

月とは、未だ到達し得ない'ある地点'であり、何か畏敬を持つ対象と言えるだろう。


ブルームーンで歌われる彼女はひどく人間的な偽りを歌う。スガシカオの『黄金の月』。これもまさにこういった内容だが、彼はあまりに人間的であろうとしすぎる。

ウディ・アレンの映画『ブルージャスミン』もこういった映画なのだと思う。ジャスミンは、王子(幻想)を見つける彼の車もまさに黄金のBMW。望遠鏡を買い「アンティークだから見えるかどうかわからないけれど」と言う。彼が本当の黄金の月であれば、必ず見えるのだが、そうもいかない。第一、劇中では月はおろか星すら出ないのだ。



理想(虚構)と現実の間でひとりたたずんでいる私は、これ以上にないぐらいの写し鏡として私の前にある。この私が見たいんでしょう?

メディア(媒体)による、建築への価値・評価。

「マス・メディアによって動かされる世論。」などと大仰に書き記すこと自体が何らかの義憤をもっていて、憚られる。しかしながら、そのような言葉を目にした私たちは何を考えるだろうか。

例えば、「何らかのムーブメントが起こされることで、今まで少数派であった者たちが多数派へと移動してしまう。」または「もとより0であったものに人々の関心が向いて100になる。」などだろう。これを言葉にして人々の“意識の移行”ということにする。


「ぼくは行くよ、お別れだ、とフェレールは言った。」
−ぼくは行くよ(ジャン・エシュノーズ)


サイバースペースという高台〉
建物が生産する価値・評価に関する見方については、前回、記した通り“欠落したテクストを補う作業”とした書物の読解(コンテクストをテクストと符合させることで建物のテクスト足らしめること)の中で、作家性の責任(肩書きに対する正統性)を負担しながら決定づけられるものとすることができる。また、このように決定づけられる認識は、根底に基本的な歴史性を持っていることが、コンテクストを生産する(される)と証明できるだろう。そこで、今日の建築はどのような現代性を帯びているのか。その歴史認識から価値・評価に関する見方が選択できるはずだ。


所謂、プラトン二元論から始まる現実と虚構の二項対立から、サイバースペースという第三の選択が与えられていると言える現代。現実世界において、人々は現実から立ち去って行き、その隙間に虚構が現実になろうとしてくる。そして、そのサイバースペースが虚構にとって代わる存在として、またはデジタルデバイスとして、不安からの避難場所として身体感覚の中に入り込んでくる。つまり、人々は現実が恒常的に与え続ける不安から逃げ出し、フィクションとは割り切ることのできない状況によって、サイバースペースが提供してくれる甘いお菓子に中毒になってしまう。さらに、人々が現実から逃げ続けるために今度は現実が虚構に擦り寄りはじめ、過去のスペクタクルとして虚構の物真似をはじめる。


このような歴史認識から“意識の移行”について考えてみると、その行動は現実と虚構のスペクタクルの中で育まれ、成長した姿はどちらとも似つかないものになってしまい現実逃避とも言える。これは建築を歴史から引き離し、お手軽な媒体を通してコンテクスト自体の欠落を目論んでいるとみえる。いや、むしろ、フィクションとしての現実をひとつのコンテクストとすることと言えるだろう。偽のコンテクストを、強迫観念のように私たちの意識に刷り込もうとしている。



〈他者による価値創造〉
歴史から引き離された建築は、何を持ってして価値を得ることができるのだろうか。線分上にある作品をおいて評価することができない以上、「おしゃれ」、「すてき」、「きれい」などという相互理解を強要するテクストに依存するほかない。不特定多数の他者による価値・評価の一定ラインを受け入れるのだ。他者は自分の属するサイバースペースの多数派であり、そこでは皆が同じ方向を向く。幾重のレイヤーにも重ねられたパラレルに存在するクラスターを横断する時にも、同様なのである。


結局、マス・メディアが世論を動かしているわけではなく動物の群れの中のトップに君臨しているものが次の餌場を探すために舵をとっているに過ぎない。国家や大陸、もしくは法律、これらで示される物理的制約や精神的拘束による背景には、不可分であった脈々と続く歴史と建築を社会システムの中で欺きながら切り離し、お互いのズレを許容しながら仮想の歴史の軸を生み出しているのだ。そしてこのズレは、これからも肩書きの責任のない者達が拡大させていくだろう。

建築に必要な物として:〈書き手の意図の模索〉

前の記事を更新してから随分と時間が経ってしまったが、特に気にしない。


「書くことはそれだけで、情報を多かれ少なかれ時間や場所、受容の条件や読者の数から独立なものとしてしまう。」
−「書くこと」という形式(N.ルーマン

前記した通り歴史書や論文と雑誌などの大衆に向けられ刊行された書物は、明らかな違いがある。もちろん、学術書の位置づけがなされている歴史書のように検証と証明が必要なものとは、非常に異なる性格をもった書物であるということだからである。



これらの違いは、ある種の書物であることへの正統性を獲得するための振る舞いであると言えるだろう。著者の肩書きによるところの責任である。肩書きを自己認識した後に、それらに既に与えられた役割に対する責任である。自然発生的に植え付けられるこのステレオ・タイプの幻想を享受し、書き手は模索することになる。では、以上のような違いを前提として建築の世界をみてみる。また、前記したものと建築の世界に於ける語彙と置換をすると、書き手=設計者、読み手=利用者となることは疑う余地はないだろう。



〈テクストなき建築物〉
書物には、必ずテクストがついてくるが、建築物の話になるとテクストよりもコンテクストが重要になり、読むこと自体に一定の努力を要求されることになる。もちろんこれは、建築の世界に限った話ではなく、テクストの存在する世界ですら要求されるものである。しかしながら、テクストの理解というものは個人の歴史観や状況を把握するための時事情報などを最低限のラインとして線引をしない。つまり、文字を文字として正統に理解することのみが要求されているのみであり、コンテクストに比べると比較的安易な知覚の方法とみられる。


もちろん、テクスト抜きでコンテクストを理解することができないため建築物への理解は、所謂、空間体験に頼った情報のみで全てを把握したという事にはならない。そして、ここで重要になってくるものは、書き手の肩書きを理解することである。その人は、どのようにして形成されたのかを、どのようにして作家性を獲得したのかを、フィクションとして与えられた役割をどう演じているかを、知る必要がある。これを、学術書として位置づけられた正統な読み物とパブリック・イメージを均等に把握する必要がある。



謂わば、これは欠落したテクストを補うための作業である。先程も述べたが、もちろんこれは建築の世界に限った話ではないのだ。

読書。

「そして、ぼくはディーン・モリアーティのことを考える、とうとう見つからなかったあの老ディーン・モリアーティ親父を考え、そしてまた、ディーン・モリアーティのことを考えるのだ。」
−路上(J.ケルアック)

〈「正しい」読書〉
本に種類があることは間違いない。一般的に、それは雑誌や小論、随想等々があり、それらによって読み方のタイプがあるのだろう。それらに対して、読み方を強いるやり方は確かにまずいだろうと思う。しかしながら、歴史書に対して「俺はこう解釈したから」なんてことを言われたら、それこそが寧ろまずい読み方だろう。



「正しい」読み方を仮定してみると、その中には真摯な態度(それらの特質に合わせた読み方)というものがあるはずだ。例えば、F.O.ゲーリーは、雑誌を読まないという。これは、恐らくアイデアにおける既視感を初めの段階から排除するためであろう。つまり、雑誌は、歴史書のように事実をそれとして受け止めることを放棄し、直感的に読むことと感性を要求されている。これが、雑誌における真摯な態度であろう。



例えば、詩のような著者による経験的事象の分析が書かれている類のモノがある。これは、精神の動きを感じ感動を生ませるものがある。これは、例えば、メソッド演技のように、そこにある状況や感情に重点を置き演じられている。ここでは、その者の魂を感じる態度を取ることが要求される。




〈無関心な読書〉
以上のようなタイポロジーを獲得している読書という所作は、一定の水準で正当な行動傾向を持っている。確かに、W.H.オーデンの言うように、見る前に跳ぶことも必要であると思うため、信仰心(正しいと思うことへ向かう心の動きとでも言うのか…)もある。だが、やはり読書というものに、本の種類が存在する以上、その分類を疎かにしてしまうことは、この情報過多の時代特有の自己分裂的な混乱を導いてしまう。


「正しい」読み方に向かい合おうとしない場合には、凡そ、取捨選択の恐怖に怯え正統なやり方から遠ざかり、角ばった「自由」に踊らされてしまう。それは、やはり通時的にしろ共時的にしろ、理解には何かしらのパラメータが必要であるからであり、以上で述べてきた「正しい」というものは、すなわち、ある共通の軸を持った評価基準であるということに尽きる。


これで、僕らが何かを勝ち取るために真摯な態度を取らざるを得ない事実が明瞭になるだろう。また、読書というものは、その真意を掴み、多くの事象を知った後、それのコンプレックスが問題になる。どれだけ美しい一編の詩を知ったことが重要なのではなく、それがどう素晴らしいのかを比較的に弁論出来るのかどうか。これが、必要であり、それまでが読書なのだと思う。

建築に必要な物として:〈物語〉

「安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだと悟った。」
−円環の廃墟(J.L.ボルヘス

人は何故、オカルト・迷信・占いなんてものを信じやすいのだろうか?
それについての物語を載せておきたいが、そのためには話を先史時代までさかのぼらなければならない。


僕らのご先祖様は、毛むくじゃらの類人猿でした。


彼らは親指の発達から、木を下り、様々な外敵と闘いながら、今のように食物連鎖の頂点に君臨することができました。
そして、その戦いでどのような事が重要であったのか。
ここが、今回の話では重要になってくるのです。



類人猿A(オス)の話をしましょう。

モノリスの出現により類人猿Aは、例えば骨のような硬いものを武器として、食事を手にすることができた。彼は、巣穴に戻るために少し危険な近道をしました。すると、森の暗がりから、何かがこちらを見つめているような感覚に襲われた彼は、二つの選択肢を思いつきます。

  1. 気のせいだと思い、このまま近道を進む。
  2. やばい!と思い走って逃げて安全だが遠回りして帰る。

この時、1の選択肢を取り、万が一恐ろしい外敵に襲われたAは死んでしまう。2の迷信深い選択肢を取ったAは、生き延びました。
そう、この遺伝子が我々の血液の中に流れ、臆病者のDNAが僕らに受け継がれているわけです。
さて、人生とは如何にして選択を行い生きるべきなのでしょうか。

ハウスメーカー・シニカル論

「理想都市は歴史のコラージュが作る」
―コラージュ・シティ

建築学生の中には「ハウスメーカーなんて、建築界の風上にもおけねぇ」なんて人が少なからずいるだろう。
そこで、ハウスメーカーとはもしかすると、非常に興味深い会社なのかもしれないと考えてみるのはどうだろうか。



まず、ハウスメーカーの人々は「僕らはこんな図面引いてみました。この建物に見合う土地を探してみて。」と言うだろう。ここで、立ち止まって思考していただきたいのは、何故図面を引くことができてしまうのか?である。
つまり、空っぽの頭で図面など引くことなど不可能なはずである。よって、彼らの頭の中には膨大なデータが含まれており、それを駆使して、業務を遂行しているのである。
ここに一つ、ハウスメーカーの凄味があるのだと思う。

次に、注目していただきたいのは、どのようなハウスメーカーでも、類似商品の生産力がある。
要は、らしさを生み出す能力である。
結論として、僕のように、浅学非才の若造には微塵も感じられないが、深い見識をお持ちの方々には、パロディコメディ映画のような風貌を感じられるに違いないはずだ。




彼らは、なんと博識であるのか!

実際にハウスメーカーがこのような所作を、ぼくが言うように行っているとは限らないだろう。だが、彼らが僕らに見せる建築の世界は辛らつであり、ここまで皮肉を上手くいってのける奴には、終ぞお目にかかったことがないのだ。
彼らこそが、現代によみがえるチャップリンであるのだ。

ハウスメーカーかく語りき。耳を澄ませ、現代人よ。

小さな個人的判断。

みんながぼくのことをなんといっているか、そんなことはよくわかっている。ぼくの味方になってくれるか、それともあの連中の肩を持つか、それはきみが勝手に決めることだ。
―T.カポーティ「ぼくにだって言いぶんがある」(冒頭)

今の時代において「良い建築」とは何か。「悪い建築」とは何か。
信教の自由から絶対的な価値基準がなくなり、示すことができなくなってしまったようだ。それは、さながら馬にすがるニーチェのような…
いや、そもそももっと単純なところにこの価値判断の材料は転がっているように思える。


まぁ、そんなことをゴチャゴチャと考えていても、答えがないのは十分に理解しているつもりだ。
しかしながら、それがあたかも絶対的な価値があるように振る舞う人たちが多い。
そんなもの内輪のネタに巻き込まれているようなもので、甚だ、迷惑だ。


それならば、近代建築のそれのようにスタイルを統一してこれと似たようなものは「良い建築」である…とか言ってくれた方が単純明快であるのだが、それすらも通用しなくなってしまった。
(つまり、歴史的背景における絶対的な評価軸の喪失であるが、実際のところ「歴史」という後天的生産における矛盾でもあるのだが…)

様々な価値判断ができてしまった昨今、ぼくたちは小さな個人的判断に身を委ねるしかない。
著名な人たちの評価に、ぼくたちは決して負けずに自らの経験則から打ち出される小さな判断を、悠然としていかなくてはならなくなったのだ。
現在はその様な構造をもっているのだ…と。



このような時代に生まれてしまったのだ。
いまさら、後悔してどうする。




何も考えずに、出してきたただそれらしいもの。かっこ良いもの。結局、評価する人間によってそれが素晴らしいのか、ただの自己満足なのかが決まる。虚無主義者として、そんな権力的な評価がどれだけ下らないものなのかを主張したい。つまり、評価する人間はいつでも竹輪野郎だってこと。
Twitterより

中身の無いものになってしまったのは、何もそれだけでは無いということでもある。