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April 03, 2009

[]ユージーン ユージーンを含むブックマーク

TAP (奇想コレクション)

TAP (奇想コレクション)

グレッグ・イーガン「ユージーン」。『TAP』所収。生まれてくる子どもの身体的特徴から知能レベルまで自在に設定することができて、パラメータを最大にすれば世界を変える天才児だって可能なほど生殖技術の進んだ未来、大金を手にした平凡な夫婦がまさに天才児を作る選択を迫られて…という作品。イーガンにしてはあっさりした展開ではあるけれど、『TAP』の中では表題作よりも「銀炎」よりも面白かった。出生前にすべてが予言されその通りの人生を歩むオイディプスは、さんざんなことに「この世に生を享けないのが、すべてにましていちばんよいこと」とまで歌われてしまうけれども(『コロノスのオイディプス』)、そんな古くて新しい運命の悲劇を遺伝子操作による主体形成は解決してくれるのか、それともより複雑にしてしまうのか。あるいは、個人は生政治的な管理によって主体化を促されるとするなら、そうした管理が出生前の時点にまでさかのぼるとき、主体化=服従化のメカニズムはどのように変化するのだろう。そういった問いがフーコーの問題機制から展開できるとすれば、イーガンはもっとラディカルに、未生の主体自身による生の決定にまで議論を推し進める。リプロダクティブ・ライツさえあざ笑うかのような仕掛け。智略によって存在者の裏をかく非在者。出生前にシミュレートされた人生とその後の実人生とがオイディプスのように同一なら、「シミュレートされた私」の意志は、「リアルの私=生まれてくるはずの私」のそれと等しく扱うべきではないか。正確にはシミュレーションではなく可能世界論的なトリックが用いられるのだけど、いずれにしても、反オイディプス的な生政治への抵抗があざやかに描かれて、ぐっとくる短編。奇しくもフーコーからドゥルーズへ引かれた線をなぞったかのごときプロットになっていて、イーガンの着想にはちょっとうなってしまいます。

もし、権力が実際にますます私たちの日常生活、内面性、個人性を包囲しており、権力が個人化するものとなり、知それ自身が実際にますます、欲望する主体の解釈学とコード化を形成しながら、個人化されているとすれば、一体私たちの主体性には何が残されているだろうか。主体には、何も「残って」はいない。主体はそのつど、知を主体化し、権力を折り曲げる襞の方向づけにしたがって、抵抗の焦点として作られるべきものだからである。

力はいつも外から、どんな外部性の形態よりも遠くにある一つの外からやってくる。だから、力関係のなかにとらえられた特異性だけが存在するのではない。力関係を変え、転倒し、不安定なダイアグラムを変更するような傾向をもつ、抵抗の特異性もまた存在する。そして、外の線そのものの上で、まだ拘束されないで、まさに亀裂の上で激しく沸騰している野性の特異性さえ存在するのである。

ドゥルーズの『フーコー』から「ユージーン」の仕掛けにも通じるくだり。『知への意志』の著者は権力関係の袋小路に陥ってしまったのだという見方にドゥルーズは反対して、自由の介在する余地のないかに見える権力論においてなお、フーコーは抵抗点を探求していたのだという。生政治時代におけるバートルビーとでもいうべきユージーンの抵抗は、まさに主体化のテクノロジーによって主体化の構造を転倒させるやり方で、「人間」を否定する。「人間」がすでに生政治の管轄にあるとき、そこには何も残ってはいないのだから、ユージーンは生政治の産物そのものによって権力関係の外にある生を奪還する。生殖技術によって包囲された網の目の直中において「人間」ではないものへと生成する方法。あるいはペニスのサイズまで設定されるという圧倒的な受動性によって立ち上がる主体に、自由を取り戻すためのなけなしの否定性。や、オチはドゥルーズというより星新一的なんだけれども。

フーコー (河出文庫)

フーコー (河出文庫)

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