「新しい公共」とは何か。多少のいかがわしさを不問にすれば画期的な発想だ。

これまで「大きな政府」「小さな政府」の二項対立で語られることが多かったが、最近よく耳にする「新しい公共」とは何か。
新しい公共」は政府の役割を小さくしようという意味では「小さな政府」の類型であり、リベラルなリバタリアニストや、自由競争とセーフティネットの充実を併用する「第3の道」などと親和性が高いが、私的な弱者救済も罪悪視する極端な競争論者*1はこれに否定的である。

新しい公共」の問題点

 一つは、「新しい公共」の担い手の不偏性の問題である。ある程度宗教関係者や政治団体の影響は覚悟しなければならない。タダより高いものはないから、高い人件費を払っても中立な公務員を雇って「従来の公共」でやるべきだという考えも起こり得る。
 もう一つは「民間営利団体」の不利益だ。「従来の公共」は民業圧迫せずという原則があるが、「新しい公共」には歯止めがない。競合する民業が圧迫衰退する可能性がある。また残ったとしても、無償奉仕のNPO等と競合するために民業側の賃金水準低下が否めない。福祉産業の低賃金は無償奉仕活動と競合しているために構造的に改善できないという指摘もある。

既に宗教団体によって「公」が担われている

 既に宗教団体に依存している「公」は存在する。それは行刑における教誨活動だ。行刑はかなり以前から既に「新しい公共」によって担われている。教誨師以外にも保護観察に携わる保護司などはボランティアだ。保護司も宗教関係者が多く従事している。もはや日本の行刑システムはボランティアなしに維持できない。宗教団体は経済的な見返りは否定するものだが、受刑者を布教対象にしているという点は否定できない。これをいかがわしいと拒絶していたら「新しい公共」の議論は始まらないのだ。
 「新しい公共」は、実は自公政権時代から総務省を中心に議論はあったのだが、なかなか進まなかった。どうしてもNPOサヨクという先入観を持つ自民党議員が多かったためである。NPO法人の政治活動、宗教活動は禁じられているが、NPO法人の代表者が特定の政治団体と密接だったりするケースは多く、実際にサヨクも多い。
 年越し派遣村といった活動も、多くのボランティアに支えられたある意味「新しい公共」だが、あれは「サヨクの宣伝の場だ」との批判が自民党議員や保守論客から挙がった。あながちその事実は間違いではないのだが、宗教団体もNPOも何らかのメリットを期待して「新しい公共」を無償で担っているのだ。細かいことには目くじらを立てていると議論は始まらない。

地方自治民主化としての「新しい公共」への期待

 「新しい公共」はリバタリアニストや財政論から行政コストを下げる期待にばかり注目が集まるが、もともとはNPO団体などから、地方自治民主化という期待が大きかった。日本の地方自治は地縁血縁による地域有力者支配が蔓延り、地方公務員も縁故採用がまかり通っている。そういった枠から外れた人たちからの期待だ。
 ただこれは既にあまり意味がないと思っている。過疎化や平成の大合併自民党の下野で、その存在基盤は既に大きく揺らいでおり、崩壊は時間の問題だからである。それより崩壊しつつある地縁・血縁のネットワークすら「新しい公共」の担い手として再構築することを薦めたいくらいだ。
 古い地縁ネットワークの類型である日本青年会議所では、会員が地元の学校に赴き、「誇りある日本の歴史」を教えようという活動をしたことがある。そういうのはどんどんやればいい。日本の保守系団体はボランティアやNPOサヨクの温床だと批判する暇があったら、自らボランティアをやりNPO法人を立ち上げて、利用すればいいのだ。
新しい公共」はいろんな団体が下ごころを持ち、それが無償労働を可能にしているのだ。そのリスクを承知で割り切って認めることによって「新しい扉」が開けるのだ。

*1:日本でも税金が一銭も使われていないボランティアによる慈善活動であっても、その活動に否定的で、弱者は死ね的な言動をする人は少なくない。