張作霖爆殺事件----③

前出加藤康男氏によれば「蒋介石・国民党軍と張作霖・北方安国軍と戦っているさなかの27年7月張作霖の子息張学良は国民党に極秘入党し、国民党内の共産党分子と通じていた。爆殺された張作霖の跡を継いだ張学良は、28年9月8日それまで使用していた五色旗から国民党政府の青天白日旗に変え、国民党に降伏する。易幟です。この時、奉天城内外に青天白日旗と共に大量の赤旗が翻っていたことが確認されている。

実は張作霖の参謀長・楊宇霆張作霖を裏切り国民党に近づいていたのである。この事実を知っていたのが広東駐在武官の佐々木到一中佐で、次の手記を残している。『張学良や楊宇霆らの国民党との接合ぶりを見聞している予として、奉天王国を一度国民革命の怒涛の下に流し込み、しかる後において我が国としてとるべき策があるべきものと判断した』これは張学良らの謀反に乗じて張作霖を排除し、国民党に奉天を支配させた上で手打ちをする計画だと読める。

常蔭槐は交通委員会副委員長で京奉線をグリップしている鉄道のプロである。彼が楊宇霆から指示され機関士あがりの工兵、工作員を使い機関区で張作霖のお召列車の天井に爆薬を仕込んだと思われる。爆破された時、張作霖の列車はかなり速度を落としていた。通常の列車はこの現場を時速約30キロで走行するのに、残された車両の状況から張作霖列車の速度は10キロ程度と判明している。

関東軍参謀長・斎藤亘の所見によれば『列車内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制動を行いし者ありしに非ずや。緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲するものに非ずや』と指摘している。この策応者つまり機関士に、現場通過時に速度を落せと指示したのも常蔭槐でしょう。1929年1月11日張学良は楊宇霆と常蔭槐を酒席名目で自宅に招き『謀反を企てていた』と称して射殺。父親殺しの真相を知っている2人の口を封じたのでしょう」と言うのである。

近現代史研究家田中秀雄氏は「佐々木到一中佐が著した『ある軍人の自伝』でも書かれているように河本大作大佐と佐々木は親しい関係である。佐々木が仲介して東宮鉄男と河本も広東で親しくなっている。京奉線を跨ぐ満鉄の陸橋に爆薬を仕掛けたのは東宮中尉(当時)である。東宮が克明につけていた日記には張作霖爆殺事件の前後二週間ほどの記述は破棄されている。

日本の陸軍士官学校砲兵科を卒業した楊宇霆と河本との間に連絡があったのは日本政府も知っていた。これは外交文書に報告書がある。(中略)つまり日本とソ連の願望が偶然一致した可能性はある。従って爆殺事件へのソ連関与説は成立ち得るが、私は限りなく小さいと考える。

張学良は楊宇霆と常蔭槐を呼出し射殺した。その8日後の満州日日新聞に張学良が『張作霖爆殺の真犯人は楊宇霆だ』と発表したと出ている。その2日後には殺害関係者にロシア人5名がいると記事が続く。しかしこのロシア人は金に困った亡命ロシア人のようだ。ただ亡命ロシア人を装った特務機関員だった可能性はある。張作霖がやろうとしたのは日本の満州利権の無慈悲なる回収だった。張学良もその遺志を受継いでさらなる排日手段を行使するようになった」と記している。


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