真実を求めて

平田圭吾と申します。ご要望、ご質問、その他、何かありましたら、お気軽にコメント、メールなどお願いします^^ keigossa☆yahoo.co.jp カテゴリー「未来」を読んで共感された方、考えを共有しましょう。是非ご一報お願いします。リンクフリー、相互リンクはご一報ください。
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  • 平田圭吾のページ、兵法書とか三国志とか
  • 2017-05-09

    文盲であることの例え

    私の世代くらいまでは、文盲な人のことを「あいつは自分の名前も書けない」とか、「住所が漢字で書けない」と言うような慣習があると思う。
    もっとも、冗談交じりの皮肉ではあるが。

    それで、ここからが本題なのだけど、ここまでではない文盲な人のことを、「あいつは新聞も読めない」と言うことがあると思う。
    しかし、最近は新聞の発行部数も減り、「新聞を読めない」どころか、「新聞を読もうとしたことすらない」人もいるだろう。

    なぜ、こんなことを言い出すかというと、『軍の中国史』という講談社現代新書の編集者か著者が、この「新聞を読もうとしたことすらない」人で大変に驚いたからだ。

    というのも、本当に驚いたのだけど、送り仮名の付く漢字が全て「ひらがなてんかい」(平仮名展開)されていたのだ。
    ひらがなてんかいとは、まあ、今私が名付けた文章の表現方法のことで、漢字を使うと分かりにくい場合に、敢えて漢字を使わず、ひらがなで書くことである。
    確かに使い方によっては、女性らしさを醸し出したり、文脈上で強調の伏線を作ることもできる。

    『軍の中国史』の著者は女性のようであるから、そういった配慮でそのようなひらがなの使い方をしたのかもしれない。けれど、あまりにもひどすぎて、分かりにくいし、気になってとても最後まで読もうという気にすらなれず、内容は興味があるのだけど、50pくらいでもうそれ以上読み進めるのは無理な状況になってしまった。

    どれほどひどいかと言えば、小学一年生ですら知っている、ちいさい、おおきい、すら全て「ひらがなてんかい」されているのだ。まあ、こういった意図をもってやった本人は、「文学性」が高まったとか思っているのかもしれないけど、私は、頭が悪そう、読みにくいという印象しか持てなかった。

    また、最近は、「行う」もひらがなてんかいが主流になってきているようだけど、これも新聞では、「行う」と漢字で表記されている。確かに、「行事を行った」という場合には、「行」が重なるので、ひらがなてんかいしたほうが良いかもしれない。

    しかし、「演習をおこなった」では、頭が悪そうで意味が分からないばかりである。ここは、従来通り「演習を行った」とするのが、常識、中国古典風に言えば、礼というものであろう。

    そもそも、漢字表記の利点とは、漢字が表意文字であることにある。だから、極端ではあるけれど、「演習行う」としても意味が分かるのが漢字の良さなのだ。「演習おこ」では意味が分からないことは言うまでもない。

    文章を司っている出版社の人間がこういったわけのわからないことをやりだすと、日本人全員が文盲になってしまう。平仮名を使う場合には漢字の良さと、常識をよく考慮した上で、選択肢としなければならない。

    とはいえ、これもたまたま今知ったのだけど、国会議員のK山Sつき女史も、「仏像は日本のオリジナルの文化」という発言をしているし、作家、テレビディレクターとして有名な、H田N樹氏は、「中国を偉大と思わせる漢文の授業は廃止せよ」と、雑誌で主張したらしい。文壇国会で活躍する人でもこのようであるからには、文盲な人も受け容れられるようなリベラルな空気が日本にはあるということかもしれない。もちろん皮肉だが。

    2017-03-24

    森友学園問題について

    森友学園の問題について、内容の究明とかは、それほどしなくてもいいと思う。

    あくまで私の印象ではあるが、森友学園の籠池氏が真っ白な人間でないことは確かであると思う。また、政治家、特に与党維新の人間は、この問題にいくらかは関わっていることも確かと思う。

    しかし、真っ白な人間なんてそうはいない。
    そういった意味で、関わりがあったことは間違いないが、その中で悪意に基づく違法行為や不法行為があったかどうかは分からないということであると思う。
    この上で、恐らく、今の感じだと、もう、この問題によって安倍自民党が完全失脚ということはないだろう。

    だが、それでも私は、この問題を契機として、安倍氏地盤が緩んでいくであろうことだけは断言しておきたい。

    というのも、この問題を通して、「安倍氏は、いざとなったら仲間や支持者を切り捨てるばかりか、全ての悪評をなすりつける薄情な人物である」ことが、さらに明らかとなったからだ。利害関係や脅迫関係だけで結びついている人は離れないかもしれないが、信頼関係が「あると思っていた人」は、これを機に少しずつ安倍氏の元を離れていくことになるだろう。

    人というものは、一人では何もできないし、できることには限りがある。だから、人や組織の強さというものは、どれだけの信頼関係を結べたかで決まる。いざとなったら切り捨ての利害関係というのは、強いようで弱い。その証拠に、会社と利害関係を結ぶサラリーマンリストラされるし、金を渡さなくなった女からヒモはすぐに離れる。強いようで弱い、すぐに切れる関係が、利害関係なのだ。

    また、安倍氏が入れ込んでいると言われている日本会議とやらのメンバーも少しずつ減るだろう。そして、寄ってくるのは、利益を手繰り寄せようという「思想への同調を装ったビジネスマン」ばかりになるだろう。思想集団がこうなったらおしまいである。結びつきが利害関係だけの思想集団、それは単なる「カルト企業」に他ならないのだから。

    2017-03-04

    好悪と是非について

    あまり気付いている人はいないのだけど、人の判断基準は、主に「好悪の感情」と「是非の理知」の二つの要素により成り立っている。

    好悪というのは、好きか嫌いか、好ましいか厭わしいのか、快いのか不快なのかなどと言ったもので、喜怒哀楽の四情に並ぶものである。これも、あんまりみんな気付いていないのだけど、実は感情の中で行動に大きく関与するのは、喜怒哀楽の四情よりも、好悪の感情のほうである。なぜか日本では、感情と言ったとき、好悪を含める人はほとんどおらず、喜怒哀楽の四情のことばかり言う。私も気がついていなかったのだけど、『荀子』には喜怒哀楽好悪、人にはこの六情がある、と書かれているのを読んで以来、そうに違いないことに気がついた。

    次に是非というのは、正しいのか間違っているのか、そうなりそうなのかそうなりそうでないのか、良いのか悪いのか、と言ったものである。これは、『孟子』の四端にもあるように、人ならば誰でも持っている理性的判断を求める気持ちのことだ。これは、感情とは少し違う。というのも、1+1=2は、是で間違いないだろうけど、この正しさを求める気持ちは、感情とは明らかに違う。また、1+1=?と答えがわからない時、正しい答えを知りたいと思う気持ちがあるが、これは好奇心などとも少し違う。だから、正しさを求める気持ちは、理性であって、感情とはかなり様相の違うものなのだ。

    これで言葉の定義はだいたい終わった。

    次には、好悪と是非がどのように人の判断に影響を及ぼしているかを、カレーライスへの意見で考えてみよう。

    例えば、カレーについて、

    Aさん「ぼくはカレーライスの味が大好きです」
    Bさん「みんなもカレーライス好きだし、私も好きです」
    Cさん「カレーライスは、スパイス豊富で健康にも良いし、好きです」
    Dさん「安倍首相が高級カレーライスを食べたという話を聞いて以来、カレーが嫌いです」

    という4つの意見があったとき、ここに、「好悪」と「是非」の判断要素がカオス的に入り混じっていることに気がついていただけるだろうか。

    Aさんは、恐らく純粋に「好悪」によってカレーを判断しているだろう。
    Bさんは、一見すると「好悪」によってカレーを判断しているようだけど、「みんなの意見」を参考にしていることから察するに、「みんな好き⇒みんな好きなものは良いものに違いない⇒私も好き」という具合に、是非の判断が少なからず含まれていると思われる。
    Cさんは、「健康に良い」という是非の判断が、少なからず好悪の感情にかなりの影響を与えていると思われる。
    最後Dさんに至っては、「安倍首相」が嫌いなのだろうと思われるけど、なぜ安倍首相が嫌いなのかそもそも分からない。だから、好悪や是非がどのように入り混じっているのか、推測することができない。

    ちなみに、私はカレーライスが好きである。

    さて、またさらに難しいことには、例えばここで、誰かが「カレーライスは是か非か」と、司馬遷の「天道是か非か」ばりに(笑)問い詰めた時、これら四人はどう答えるだろう。

    Aさん「カレーライスは非だ。炭水化物量の関係でカロリーが高すぎるのに食べすぎてしまう、というか好きだけど、毎日食べたら必ず太る」
    Bさん「カレーライスは是です。みんな好きだから、是でしょう」
    Cさん「カレーライスは是です。ただ、食べ過ぎれば非です」
    Dさん「そもそも安倍首相は、公金の給料をもらっているくせに、高いカツカレーを食べて庶民を舐めている、それに、年金もアレだし、戦争法強行採決なんて…(以下略」
    といった具合に、好悪の感情と、是非の理知を別に考える人もいれば、そうではなくて、好悪の感情をそのまま是非に適用する人もいるわけであるし、好悪の感情と是非の理知を混沌の中でゴチャゴチャにしてしまう人もいるわけである。

    それで、何が言いたいかと言えば、このように、「好悪」と「是非」を明らかに説明すると、「好悪と是非をごっちゃにするやつはアホだなぁ」と思われるかもしれないが、実は、ほとんどの人が、「好悪」と「是非」をごっちゃにしているということである。

    このことについては、上までの議論を思い出しながら、自分の明らかな心によって、自分を点検すれば、すぐに分かるはずなのだ。

    それで、心に明らかさがある人ならば、どこかで、自分は是非と好悪をごっちゃにしていたことに気がついていただけるものと思うが、別に「これは自分の好悪だ」と割り切って、好悪に付き合っているうちはいいのだ。しかし、ここが重要なところなのだけど、人というものは、「是非の判断をできない場合に、好悪の感情を是非の判断とする」から問題が起こる。逆もまた然りで、「好悪の判断で満足している人に、是非の判断を押し付ける」から問題が起こる。

    例えば、トランプ大統領が非だ、と言う人は多いだろう。しかし、なぜ非なのか、と問い詰めた時、「排外的なことをするから」と答えると、これは実はかなりの議論が必要なことだ。そもそも、なぜ「排外的なことをする」と非なのか?

    または、最近だと、不倫した芸能人とかはクソ叩かれる、だから、その芸能人は人格を非とされた上に、皆から嫌われて、もう大変なことになってしまうが、なぜ不倫は非なのか?

    俗に言う腐女子は、いわゆるホモゲイが好きなのであろうが、ごくまれにこういった人に「同性愛は人類の敵だ」とか突っかかる人がいる。カレーを好きな人は気にならないのに、どうして腐女子の好みは気になるのか?

    イスラム国テロは、確かに非であるように思われる。しかし、イスラム国内部では、自爆テロをした人は英雄であり、皆から好かれるだろう。ならば、その自爆犯も、少なくともイスラム国の人からすると、好であり是であるのだ。なのになぜ、イスラム国テロ犯を悪(にく)み非とする人がこれほど多いのか?

    こんな細かいことまで考えている人は、そうそう滅多にいない。しかし、ここまで考えないと、本当の「是非の理知」、つまり理性を用い尽くすことはできない。好悪の感情で物事を決めることは悪いことではないし、そのことを責めるわけではないが、好悪の感情だけで判断していれば、必ずどこかで失敗する。好悪はどこまで行っても好き嫌いであり、是非のように100%の回答を導けないからだ。

    私は理性の判断が好きなので、基本的に「是非推し」なのだけど、好悪の判断を尊重する人も、好悪と是非の判断の違いについて、よく心しておいていただければと思う。

    2017-02-25

    請われなければ助けない

    請われなければ助けない、とはどういったことか。

    簡単に言ってしまえば、頼まれてもいないのに、誰かを助けてやるようなことはしない。ということだ。

    問われなければ答えない、と同じとも言える。


    私も以前は、問われなければ答えない、あるいは、請われなければ助けない、ような人物はケチくさいだけの人物で、能力を出し惜しみしているだけだろうと思っていた。

    しかし、これもそうではない。
    私は、微力ながら、失敗しそうな人にいろいろ助言をしてきたが、そのうちの何人かからは、嫌われるどころか、逆に逆恨みを受けたり、陰湿な嫌がらせをされることとなった。

    まともなことを言う人間は、残念ながら世の中に受け容れられることはない。

    例えば、「その船に乗っているといつか沈むから、すぐに乗り換えよ」と言ったとしよう。
    凡人は「いやいや、あんたの言っていることは、信じられない。というかそもそも、あんたは私のことが気に入らないのか?私と同じ程度の人間であるのに、私よりも正しい認識を持っていて、この船に私の見抜けない穴を正しく認識することができるのか」と言うであろう。言わなくても心の中は、こういった感情「私は間違っていない、なぜ文句を言うのか」「私と同程度の人間が偉そうなことを言うな」という心で一杯になる。

    だから、聖書にもあるではないか。「野犬に神聖な肉をやってはならない、豚に真珠をやってはならない」と。

    人というものは、自分が正しいと思いたい。だから、自分のやっていること、あるいは、自分が「正しいと思い込んでいること」を、是が非でも正しいものとしようとする。
    だから、自分の間違いをいつまでたっても探そうともしないどころか、あったらあったで隠蔽してしまう。
    論語にもある。「過ちて改めざる、これを過ちと言う」と。

    ただ、凡人といえども、実際に自分が困難に差し掛かったときだけは、賢人の言うことを信じるものだ。先の例えで言えば、船の底に水が漏れていることが目視できた時である。こういった、実際に取り返しのつかない失敗を被ってしまった「後」で、やはり賢人に頼るしか無いことにやっと気づく。

    だから、このときだけは、「野犬でも神聖な肉を食べるし、豚でも真珠を大事にする」

    だから言うのだ。「請われなければ助けないし、問われなければ答えない」と。

    重要なことは、普段から、自分が凡人であり、野犬や豚であることをよく心に刻んでおくことだ。

    このようにしておれば、賢人の重要な助言を聞き逃すこともない。
    正しいことを判断する基準を自分に置いてはならない。
    正しいことを判断する基準を自分に置いていれば、凡人には凡人の、野犬には野犬の、豚には豚の判断しかできないのだ。

    いかに、自分を排して、正しい判断基準を自分の判断基準として持つかが重要なのだ。

    とはいえ、それでも賢人は、この凡人や豚や野犬に、神聖な肉や真珠を与え、彼らを「正しい見解」に導こうとしているものだ。
    しかし、いつの時代も、受け取る方に受け取るだけの心がないことによって、失敗と後悔だけが積み重なっていく。
    なんと悲しいことであろうか。

    2017-01-20

    「読書」記事移転のお知らせ

    今後カテゴリー読書記事のみ、「平田圭吾のページ」

    http://hiratakeigo.hatenablog.com/


    にて記事を更新することといたしました。


    よろしくお願いします。

    2017-01-11

    社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉を読んで



    良い本だった。

    書いてある内容が多岐に渡って有用である。というか、この著者の方も言うように、学問というのはすべて分野が密接不可分に結びついており、これらを切り離して考えることは本来できないはずである。

    しかし、現代では、専門性が増すあまりに、政治学者のことは政治のことしか知らないし、哲学者哲学というかカントならカントのことしか知らないし、物理学者は物理のことしか知らない、というようないかにも偏狭な学者が増えていると思う。

    この著者の方は、これらの、専門性があまりにも増した学術分野は、もはや、学問でなくて技術を取り扱う分野に成り下がっていると言っているが、実にそのとおりであろうと思う。

    内容としては、存在意義哲学社会学政治学心理学など、とにかく多岐にわたる分野を飛び越えて、すべてのことに通ずるようなことが書かれている。そのようなわけで内容はまとめられないので、この書に限っては、実に他の方にも読んでみてもらいたいと思う。

    とはいえ、ある程度内容を出さないと腰も上がらないと思うので、この著者の方の「日本人論」についてだけ、簡単に紹介しようと思う。


    この著者の方曰く、

    日本は<閉ざされていた>からこそ<開かれていた>。
    日本は<鎖国>していたからこそ<文明開化>できたし、近現代の<西洋化>は実現した。

    とのことである。


    これはこの文章を読んだだけでは意味が分からないと思う。

    そもそも、なぜ、日本人は、日本人であるという認識を保ったまま、日本のアイデンティティである四書五経を捨てて、また着物を捨てて、奥ゆかしい日本食を捨てて、西洋化できたのであろうか。

    このように言うと、ほとんどの人は「日本人は変わっていない」と言うであろう。しかし、もしも江戸時代の日本人を数人現代に連れて来れば、言葉以外で、文化に共通点のひとつも見いだせないであろうと思う。

    着物も違うし、食べ物も違うし、習っている学問も違えば、生活様式も全く違う。必ずや、「言葉とまばらに残っている木造建築以外は全て違う、その言葉も書く時は横書きがメインでこれも違うような気がするが」と答えるだろう。

    これほど変わっているのに、どうしてわれわれは、江戸時代以前から脈々と続く日本人と自分のことを思っているのだろう。また、自分が日本人ということに疑いも持たないのであろう。もはや、文化面でわれわれは西洋人なのではないか?この問に、しっかりと真正面から取り組み、私が思う限りでは不可逆的解決、つまり間違いない回答を示すのがこの本なのである。

    答えを知りたい人は、ぜひともこの本を読んでほしい。絶対損はしないので。

    2016-11-09

    アメリカ大統領

    アメリカ大統領がトランプ氏に決まったようだ。

    まあ、そもそも政治家という種類の人は、権力欲や人の前に立ちたいという欲求、自己承認欲求が人並み以上に強い人であることは誰もが納得していただけると思う。

    例えば、世の中の役に立ちたいという「かなりご奇特」な志を持っている方は、日本中にも五万といるだろうけど、その全員が全員、「政治家になりたい」と思うわけではない。というのも、ミュージシャンになると言うのもアリだし、科学者でもその志は実現できる。だから、選択肢はあまたあるわけである。

    このような選択肢が多い中から政治家になりたいとするのだから、つまり、政治家になりたいという人は、二世や三世で、家督の流れでそうなった人を除いては、全て例外なく「(世の中の役に立ちたいうかなりご奇特な志を持っている方のうちで)権力欲や自己承認欲求が強い人」ということで間違いないのである。

    この上で、トランプ氏とクリントン女史の違いであるが、要は「表向きには権力のために大統領になりたいとはしないのか」あるいは「もうぶっちゃけで権力のために大統領になりたいのか」程度の違いではないかと思う。

    どっちもどっちで、結局、アメリカ国民のためにアメリカ大統領になりたいというわけでは無いであろうということだ。オバマ氏も、実は自著で自分が政治家になりたいと思ったのは、自分を捨てた実父を見返したいというようなコンプレックスが関係しているのだろうと、このことを認めている。

    こう考えてくると、どっちが大統領になっていたとしても、それほどこれからのことに違いは出てこないだろうということだ。


    また、今回の選挙で、私が面白いなと思ったのは、「アメリカ国民がメディア(の見解)を信じていない、あるいは完全には当てにしていない」ということが明らかとなったことだ。アメリカのほとんどのジャーナリストメディアが「トランプはやばい」とあれほど言っていたのに、それが覆されてしまった。これはつまり、もはや、彼らの意見が鵜呑みにされていないということの証明ではないか。もう、情報操作はあまり功を奏さないメディア形態になってきたということだろう。


    次に、世の中の流れは「今」ナショナリズムに傾いているということである。トランプ氏は「メキシコとの国境に万里の長城を作る」みたいなことを言っていたらしい。また、イスラム教徒は受け容れないとかも言っていた。このへんの発言がクリントン女史との大きな違いであったと思うが、このようなナショナリズムの流れ、あるいは、反グローバリズムの流れが、勝敗を分けたひとつの要因だろう。イギリス国民投票もそうであった。


    このへんまでは、どこにでもある意見で、私独自の見解ではない。つまり、これから私独自の見解を述べたいのだが、何が言いたいかと言えば、毎度のことであるが、「今のままでは、誰が大統領になろうと、総理大臣になろうと、人々の不満や不安が解消されることはない」ということである。もはや、資本主義民主主義体制は、今の実態にはそぐわないのだ。

    資本主義は、「工業や商業の発達」という点では、非常に有効なシステムで、事実として人類の生活水準は、資本主義によって相当に上がった。自動車も電気も洗濯機もない江戸時代生活水準に戻りたいと思うような人は一人もいないだろう。そして、そんな生活は想像もできないだろう。これは資本主義の功績である。

    しかし、現在、もはやこれ以上の生活水準の向上は望めない。機械や設備を増やすことで、生活水準は上がるだろうか。これ以上生活水準を上げようとすれば、手塚治虫のマンガよろしく、ロボットが家事全般をして、人はカプセルのような歩行器に乗って生活するしかないだろう。だが、そこまでは望んでいないというのが、人間の本能であると思う。自分の世話は自分でしたいし、そんな便利なロボットができてしまったら、「誰かを手伝ってあげること」もできない。もはや、誰の手助けも借りず、誰を手助けをもせず、生活することになってしまう。もちろん、こういったことが無くなれば、家族も必要なく、いたとしても言葉を交わすことも無くなるだろう。このような、生き地獄ならぬ、生き天国で生活したいと思っている人は、それが無意識的なものであるにしても、絶対にいないはずだ。

    このようなわけで、もう「発展」や「物的に豊かになることによる生活水準の向上」は誰も望んでいないわけである。ならば、「工業や商業の発達」に適していた資本主義はもう用済みなのだ。なのに、現実としての枠組みは資本主義のままというのが現在で、これは聖書に言う所の「古い革袋に新しい酒を入れている」ような状態なのである。

    さらに、資本主義の不利益はこれのみではない。資本主義は「人の仕事を奪う」のである。というのも、資本主義で重要なのは儲けることであり、儲けるためには人の賃金を減らさなければならず、人の賃金を減らすためには仕事を機械化して、効率化しなければならないからである。仕事が機械化され、効率化されれば、必ずや「人の仕事の総量」は減るであろう。つまり、資本主義というシステム自体が、人から仕事を奪うシステムなのである。

    ここで、トランプ氏の勝因のひとつであるナショナリズムの話に戻りたい。というのも、トランプ氏を支持したのが、まさしくこの「人の仕事を奪われてしまった白人労働者」であったらしいからだ。つまり、これらの人は、「メキシコから移民が来る⇒移民が安い賃金で働く⇒自分の仕事が取られる」と思っており、この考え方から、「メキシコから移民が来なければいい⇒移民を受け容れてはならない⇒ナショナリズム」となっているのである。ちなみに、TPP反対も同じような論法である。

    しかし、少し前の私の見解を思い出して頂きたい。彼らの仕事を奪っているのは、本当はメキシコ移民ではなくて、資本主義なのである。

    あらあらびっくり仰天で、自分がなんとかして良くしたいと躍起になっている「景気」と、それを作り出す「資本主義」こそが、自分の仕事を奪う元凶というのが事の真相なのだ。

    では、なぜ、誰も資本主義を責めないのか。答えは簡単、見えない敵は攻撃できないからである。彼らは、自分の真の敵である「資本主義」を敵として認識できないため、見えやすい敵(本当は敵ではない)メキシコ移民や安い中国からの輸入品や「グローバリズム」を敵として攻撃しているのである。こうすることによって、自分の不満をまさしく「八つ当たり」で解消しているのだ。怒りの矛先がない怒りほど、人の心を乱すものはない。

    だから、資本主義という古い革袋が新しい革袋にならない限り、必ずや不満が噴出する。そして、今回のように「不満のはけ口を作ってくれるだけの、明らかな悪者」が代表者として選ばれていく。

    また、だからこそ、「今」はナショナリズムという流れということでしかないのだ。新しい革袋がないまま、完全なナショナリズムに移行したとしても、必ずやまた不満が噴出し、今度はグローバリズムが正しいという流れになろうだろう。予言と言うか、私にしてみれば、もう目に見えて分かりきったことである。

    ちなみに、世の中には、この「新しい革袋」が何か知っているようなフリをして、人々を惑わす人がいるが重要性の格が下がってしまうからほんとにやめて欲しい。私はハッキリ言う、私はこの「新しい革袋」がどんなものか全然わからないし、わかっている人も恐らく今のところはいない。だいたい、期待を寄せて調べてみると、オカルトか、詭弁家の言説ばかりである。

    2016-09-20

    蓮舫女史の二重国籍問題について

    この問題がまだ話題となっているけど、どうも意味が分からない。

    というのも、もし仮に、二重国籍であることが党の代表であることの欠損事由になるのならば、そもそも、二重国籍国会議員になることがおかしいということになろう。

    ならば、蓮舫女史は、(そういった法律があるのならば)その法律で裁かれるべきである。日本は法治国家であるし、例え二重国籍であろうと、日本に住んでいる以上は、郷に入りては郷に従えで、日本の法律を守らなければならないはずだ。

    さらに言うなれば、このような違法状態が続いていたとしたら、このことを国会で追求しなかった自民党公明党にこそ、その責があるということになる。もっと言えば、この法律違反を精査していなかった、選挙委員会などにも責任がある。責めるべきは本人よりこっちである。

    なのに、そういった批判は聞いたことがない。

    また、そもそも法律違反ならば既に処分されているはずだ。だから、事実そういった処分がくだされていないのだし、二重国籍が理由で党代表になる資格がない、という議論は、一切の空論で、ただの言いがかりやイチャモンのレベルを越えないということになる。


    しかし、いや、問題はそこではない、ということなら分かる。

    蓮舫女史は、過去の自著などで、自分の二重国籍を売りにして、これを宣伝に使っていたようだ。それなのに、この話題が炎上して、バッシングを受け始めた途端に、「いやいや、私は二重国籍ではないから」と言い出すのは、あまりにも虫が良すぎる。
    都合のよいときには、「私は二重国籍だから」と言って、都合が悪くなると、「私は二重国籍ではない」と言う。

    これは、蓮舫代表が「対決」しなければならないはずの、安倍氏のやり方と同じではないか?

    都合の悪いときには、「アベノミクスは志半ばだ」と言って、都合のいいときには、「これはアベノミクスの効果だ」と言う。

    このようなことを主眼として批判するならば、これは非常に当を得ているし、これこそ真の大問題である。

    この私の考えが間違っていなければ、今後の与野党「対決」は、どんぐりがどんぐりと背比べをして、戦場から五十歩逃げた者が、百歩逃げた者をバカにするようなものになるだろう。

    同族同列同等の争いでは、いつまでたっても足の引っ張り合いが無くなることはない。

    論点を間違えた議論しか話題にならないことも含めて、実に先が思いやられる。

    2016-08-21

    自立と孤独の心理学 不安の正体がわかれば心はラクになるを読んで

    [新版]自立と孤独の心理学 不安の正体がわかれば心はラクになる

    [新版]自立と孤独の心理学 不安の正体がわかれば心はラクになる



    なんとも評価の難しい本だった。

    その理由は以下の内容を読んでいただけると分かると思う。

    まず、この本の基軸は、ボウルビィという人の、愛着行動、分離不安理論となっている。


    この愛着行動や分離不安を説明する上で、まずはこれがどのような形となって現れるかを説明しなければなるまい。

    そこで、人には正体不明の不安がある場合があるのだけど、これは

    「怒りを無意識にも抑圧してしまう」
    「家を離れることそれ自体に後ろめたさみたいなものを感じる」
    「親しい人(主に恋人や配偶者)と一緒にいるのが苦痛だが離れることができない」
    「人に気に入られるためならなんでもする(評価基準が自分にない)」
    「何もしないというということができない(何もしていないと不安になってくる)」
    「1人で何かしていることを楽しめない」
    「自信がない」

    といったような具体的な心情や行動となって現れる。

    これらの「正体不明の不安」による困った感情や行動は、「愛着分離」から生じているのであると言う。

    愛着行動とは、幼児期に母親に対して「愛着」しようとする「行動」のことで、具体的には、母親の膝の上に座りたい時に座ること、母親から無条件に受け容れられること、母親から拒否という制裁を受けないこと、である。

    しかし、愛着行動を拒否された幼児は、母親から「分離」される「不安」を感じることになる。

    このような幼児期の「不安」が「正体不明の不安」となって、その人に成人後も上に示したような悪影響を及ぼすというのが、この愛着行動、分離不安理論ということになる。

    それで、この成人後の「分離不安」は、上にも書いてきたように「正体不明」であり、ほとんどの人は気づいていないという。
    確かにそうである。幼児期のことを鮮明に覚えている人は、伝記や伝説上でしか出てこない。ほとんどの人は、幼児期のことなど覚えていないのだ。
    また、厄介なことには、「表面的には子供を可愛がっている親」も、無意識的には子供を拒否している場合があると言う。分かりやすく言うと「異常に熱心な教育ママ」のことである。これは極端な例だから、母親が子供を支配しようとしていることが分かりやすいのだけど、これも程度問題で、表面的には分からない場合もある。

    こういったわけで、「分離不安」を抱えている人は、ほぼ必ずその不安が正体不明となるわけである。

    これで、この本の基軸となる理論はだいたい理解していただけたと思うが、著者の加藤諦三氏もこの「正体不明の不安」に長年苦しめられていたということらしい。その経験者たる氏が言うには、この「正体不明の不安」の正体を知ることで、冒頭に示したような困った感情や行動を改善していくことができるらしい。

    本の章題としては、
    1.なぜ1人でいると不安になるか
    2.相手を所有しようという気持ちには依存心が潜んでいる
    3.しがみつくから相手に縛られる
    4.人に嫌われたくないのは自分に自信がないから
    5.なぜ自分の本当の心を偽るのか

    となっている。

    内容はまとまっていて、基軸となる理論の具体例や仕組みが、うまく説明されており、論理破綻などは起こっていないし、同じことが言葉を変えて何度も書かれており、丁寧でわかりやすい本であると思う。


    しかし、ここからが私の意見であるのだが、「納得はできるのであるが、スッキリしない」のである。というのも、恐らく、私はこの「分離不安」を経験していなくて、この理論が当てはまらないからである。だから、正直なところ、理論を理解はできるが分からないのである。

    だから、分離不安が当てはまる人が読めば、かなりの良著かもしれない。だが、そうでない人、あるいは、この事実を受け容れられない人は、この本を読んでも私と同じような気持ちになると思う。

    また、そもそも、精神的不安定の原因を全て「幼児期の成長過程」にもってくるのは無理がある。人は、その顔が皆違うように、生まれた時から性格も違うのであり、この点において、この理論には一般性がない。それに、ここに書かれているような困った感情や行動、またそのような心理状態は、誰にでも少しは備わっているものであり、「幼児期以外の体験」からも、「分離不安」が起こる可能性は十分にあり得る。また、「分離不安」以外の要因から、このような心理状態になる可能性も十分にあり得る。

    このように書くと、加藤氏がいかにも無能のように思われるかもしれないが、それもそうではない。あとがきを読んでみると、この特殊性をよく分かった上で、この特殊な状況に当てはまる人だけを対象に、この本は書かれているのである。

    それが証拠に、図書館から借りてきたこの本には、「異常な香水(アロマ)の臭い」が染み付いているし、ところどころ「ページを半分にまで折り曲げた跡」や「不自然な紙のゆがみ」がある。この本を読んで、大きく心を乱している人がいることは間違いないのだ。

    また、当てはまらない人にとっても、これを読むことで「変な人」を理解する手助けになるし、「あの人もそういったかわいそうな幼児期があったのだろう」と思うことで、心が広くなる可能性もある。

    このようなわけで、「評価が難しい」のであるが、また、同時に「一度は読む価値のある本」であると思う。

    2016-08-14

    ユダヤ人に学ぶ危機管理を読んで

    ユダヤ人に学ぶ危機管理 (PHP新書)

    ユダヤ人に学ぶ危機管理 (PHP新書)




    良い本だった。

    旧約聖書を読んでいるとかなり興味深く読めると思う。

    本の内容としては、ユダヤマニア(なぜかユダヤが好きな人)と思われる著者が、超危険な現地に乗り込んでユダヤ人と交流し、その他の歴史的な戦場を巡り、その体験をもとに、そこでの観察や分析などを本にしたものであった。

    もと自衛官ということもあり、そういった非常時の対応に興味があったのかもしれないとも思われる。

    前半の二章、ユダヤ人はなぜ生き延びることができたのか、と、聖書危機管理参考書、では、ユダヤの歴史がダイジェスト的に語られていく。

    ユダヤの歴史はまさに離散と迫害の歴史であり、バビロン捕囚、ローマによる征服など、普通なら国も民族も無くなっていて全くおかしくない歴史である。それにも関わらず、近代になってユダヤ民族による国家建設が叶ったのは、ユダヤ教というその特異なものにあったことは違いなかろう。民族とは何か、国家とは何か、ということを考える上でも、ユダヤ民族の研究はかなり有意義なものであると思う。

    また、ユダヤ教の基本とされる、トーラータルムードの成立時期は、恐らくバビロン捕囚時と、ローマによる征服時とのことである。ここで、これらの書物の編纂は、自然発生的に起こったことであるとのことであり、このことを分かっていて旧約聖書を読むと、あるいは、旧約をある程度読んでからこれを知ると、非常に興味深い。

    あくまでも、私の考えであるが、旧約聖書には、意図時に、民族の維持に関する知恵というか、方法が組み込まれているだと思う。国土を奪われた民族が「約束の地」を具体的に明記し、また、その歴史でも「放浪を余儀なくされ」、「選民でありながらも苦難を受け続ける」も、約束の地にたどり着く。確実に分かっているだけの歴史事実と、そうでない先史の部分に非常な共通点があるのだ。

    このような意見を述べると、「ならばモーセの時代などは全てフィクションなのか」という話などが出てくるのであるが、これはもっとニュートラルに考えるべき問題であると思う。だから、半分事実、半分フィクションというのが実際であると思う。

    というのも、これは、中国の周にも言えることで、紀元前1000年、つまり3000年前に、あの広大な中国を統一した周という国家があったのかということ、また、書経などに伝わっていることが事実かどうかは、かなり疑問視される部分である。しかし、その後の春秋戦国時代には、事実として、周が、盟主として担がれる歴史的事実が幾度も起こっており、この点で、周が実在し、かなりの権威を持っていたことは事実なのである。

    だから、ユダヤ民族も同じであり、歴史的に実証され、分かっているダビデの時代以前から、割礼を施したり安息日を遵守するような習慣、立法を重視するような習慣は、あったわけであり、モーセという指導者がいて、ユダヤ民族がエジプトなどから迫害を受けた。というところまでは、恐らく事実であろうということである。

    人は黒白、あるいは白黒の考え方を好むものだけど、やはり事実は、グレーである場合が多い。


    この二章の次には、イスラエル建国後、あるいは建国当時のことが、もと自衛官らしく、またこの本のタイトル通り、危機管理観点から述べられている。

    3章新たな戦争の本質を見抜く、4章テロリズムに対する危機管理、5章イスラエル社会の危機管理と銘打たれているが、この通りの内容と思う。

    ユダヤの歴史や、トーラータルムードとの関係を横断的に交えながら、近現代イスラエルについて書かれており、大変興味深い点も多かった。ひとつ特異な点として、イスラエルでは、ユダヤの教えを遵守して、「国家公認で、暗殺や復讐が肯定されている」ということは、著者の方も若干の疑問を感じているようである。

    また、世の中には、イスラエルを無条件に批判する人や、逆に、イスラエルを無条件に肯定する人がいるが、これについては、どちらも考えが足りない判断と思う。

    例えば、自分の今住んでいるところに、急に軍隊が入ってきて、「気に入らない」あるいは「邪魔」という理由だけで、家財や土地を全部奪うようなことが起きた場合に、どう思うのか?

    これをリアルに実感しないと、この問題について考えることはできない。このようなことが自分の身に起きた場合、あるいは、自分の先祖に起きていることが確実である場合のことを考えれば、非常に難しい問題であることを実感できるはずである。

    ユダヤの歴史を一言で言うならば、「憂患に生じて安楽に死するを知る」(孟子)の一言に尽きるだろう。しかし、「智者の慮は利害を雑う」(孫子)ものである。国家と民族存続に、必要以上に拘泥した考えに、当然のように弊害が潜んでいることは、本来ならば、考えるまでもないことのはずである。

    平田圭吾のページ