戦後日本経済史を読んで

 今日、図書館で借りてきた本なのだけど、面白い。著者は野口悠紀雄で、新潮選書の本だ。週刊新潮に連載していたものらしいということらしくて、そのような書き方がされている。

 野口氏がどんな人間であるのか、読みとる必要はあまりないのだけど、読みとってしまったので書いておく。まず、切れ者という感じがする。仕組みや構造の本質を見抜くことに長けているのだろう。そして、それを伝える表現力にも優れている。本質というのは、本来伝えにくいものだ。何故かというに、本質とは多面的な末端の事象を寄せ集めて、その例えば10の事象を統合して考えた上で推察し見抜くものである。本質自体は簡素なことであるのだけど、10から成り立ったものを1で表すということなので、難しくなるのだ。だけど、それをうまいこと簡素なままでわかりやすく説明している。その本質を見抜いた事例の、最も説得力ある末端の事象例を必ず示しているところもその分かりやすさや、納得してしまう要因のひとつだろう。ただし、それだけに気をつける必要はある。つまり、彼の伝えている本質が、彼の思い込みで事実でない場合でも、納得してしまう可能性があるからだ。これは気をつけなければならないだろう。言うまでもないけど、文章構成力に非常に長けている。全体像、結論、ストーリーを全て見据えて適宜文章を配置している。


最大注意点として、私の要約を読んだからと言って本書を読まないということは、例えるなら、人造いくらを食べて、本物のいくらのあのうまみと独特の香りを知らぬまま、それがいくらであると誤解するようなものだ。私の要約を読んだからこそ、本書を読んでいただきたい。


第一章 焦土からの復興
 ここで述べられている内容は、簡単に言うと、戦後日本の経済体制は既に1940年にできたいた。というのだ。そのことを、日本の官僚の狡猾さやしたたかさの事例と、GHQが如何に日本の内情を知らなかったかという事例を提示することで立証している。つまり、実質として、戦後の日本経済を主導していたのは戦前と何も変わらぬ官僚機関、特に大蔵省・通産省(戦前は軍需省)だと言うのだ。そして、GHQには実質的主導権はなくて、むしろ戦前・戦中体制の官僚機関に翻弄されていたに過ぎない。だから、戦前から各省が持っていたプラン(これは総力戦体制のこと)が戦後の混乱を機に、いろいろな意味で一気に遂行されたというのだ。要点だけ言ってしまうと本当にこれだけだ。

 ただ、この中にも経済事例として、また歴史事例として面白いことはいろいろある。日本には封建制度式小作農が至る所にあったとか、それをインフレと資産の強制国債化で改善したとか、財閥解体は事実的な効果はあまりなかったとか、傾斜生産方式が云々とかいう話は面白い。そして、それらの政策の基軸は、戦前・戦中の事情であるというのも面白い。銀行が資本の主たる元締めになる「間接資本」の制度もこのころに定着したと言っている。マルクス経済もケインズ経済も相当勉強し理解しているぽい。資本論は途中まで読んだので、マルクス経済学を理解しているということはよく分かった。ほほう、と思ったのは、「経済の根幹は、なんだかんだ言っても、全て土地の利用法や制度にある」と言っている点だ。これは、私が資本論で、読むのを中断した辺りに書かれていることなのだけど、私にとって、資本論を読む必要性を感じさせる言葉だった。

第二章 高度成長の基盤を作る
 この章で言いたいことは、大蔵省と通産省が完全に権力を握って、その出身者たる池田勇人が実質的権力を握った。そして、この池田グループが他の権力者の主張を抑えて重工業路線を作った。ということだろうか、話がスキャンダラス過ぎていまいち論点が曖昧だ。まあ、週刊誌連載を考えるとそんなもんか。仕組み的な話として、要は、すごい巧妙な金融政策で、すごいうまいこと官僚主導の融資の流れができていたというのだ。もちろんその融資の利ザヤの一部が政治に流れていたとも言っている。また、この経済統制(官僚が主導する銀行融資を介した国家主導的、指定産業保護的経済運営)を、日本型社会主義とも言っている。確かにそうだ、これは基幹産業を実質的には国が主導して運営する社会主義だ。

 ちょっと思ったことは、松下氏は、この辺の事情にかなり疎かったと思われる点だ。憂論に話を噛み合わせていくと、敢えて隠しているか、全く知らなかったかのような話ぶりをしている。というか、そういった金融が、国の経済体制などに全く関係ないと思っていたのかもしれない。松下電工が国の基幹産業企業として、大きくなったことを考えると、何らかの汚職などへのコミッションはあったことは間違いないと思う。そういえば、切実に政治にあれだけ金がかかるのはおかしいとか言っていたか。ただ、そう言って松下氏を批判するわけではない。まあ、世の中はそんなもんだと思うからだ。もっと重要なひらめきがあったのだけど忘れてしまった。

 ここを読んで思ったのは、金融と経済は全く別個の学問体系のものということだ。

 そして、まあ、前から分かっていることなのだけど、社会を形作っている要因はまことに多様で、複雑怪奇、偶然と、あらゆる善悪からなる思惑の産物であると言ったところであろうか。とにかく、一筋縄では理解できない。

 金融と経済と政治は密接な関わりがある。政治と官僚と企業にも密接な関わりがある。ただ、前者は学問体系、研究の仕方として全く別個のものであり、後者は、組織としての独立性、実際に行っている仕事、そこにある目的において全く別個のものである。これらの別個のものが複雑に絡み合っているのが社会であり、それを時として別個のものとして考えながら、さらに時として同一のものと考えて多面的見地から解明しないとならない。そうしないと、その中のどれ一つとて理解することは難しかろうて。それにもし仮に、この野口氏の理論が全て正しかったとしても、それは例えるなら、やっとの思いでルービックキューブの一面を同色にできたに過ぎない。つまり、全部また混ぜて、再構築せねばならぬのだ。


第三章 高度成長
 まあ、論点はまた曖昧と言えば曖昧で、日本の高度経済成長についていろいろな事例が示されている。前章からの流れで言うと、大蔵省や通産省の作った仕組みで日本が動き、そして、1970年の高度経済成長の終結に沿って、逆にそれが時代遅れとなっていく過程を示している。そして、その中で育った、日本企業独特の「企業戦士」や、大きくなればあとはどうでもいいという企業目標について触れている。その例や裏付け、遠因として、通産省の没落や、田中角栄大蔵大臣の登場とそれに伴う大蔵省の変容と没落、山一証券の信用崩壊、日本人の生活様式の変容などを金融・経済・税制的仕組みの面から説明している。この辺の仕組みの話は、はっきり言って難しすぎて理解できない。電力会社が統合されたりしたのもこの仕組み(1940年戦時体制)を作るための一貫だったとか。

 話として面白いのは、田中角栄伝説だ。野口氏も直接会ったことがあるようだけど、人心掌握術にものすごく長けていたみたいだ。それだけでなく、日本が高度成長で湧く中、道路などのインフラ整備が必要になってくると先見していたことを明があると褒めている。つまり、クルマ時代の到来をいち早く見抜き、これに伴った道路建設が政治利権の土台となることに目を付けていたと言うのだ。そうだとすると、角栄氏は、大蔵大臣となって、時代の流れに沿う形で大蔵省の権威を貶め、その権威を国交省に移した人間と言えるかもしれない。歴史に名を残す人間と言うのは、人間として力のある人間というよりも、時代の流れに乗った人間なのである。例えば、本田忠勝が今の世に居ても絶対歴史に名は残らない。彼の特技は、戦国時代だったからこそ大いに役に立ったのだ。角栄氏の場合だと、時代の流れを読んで、それに自分を合わせたことになる。大事を為すときは、時代の流れにどれだけ自分の意向を組み込むことができるか。というのが重要なのであって、自分の意向で歴史をひっくり返そうなどと考えるのは一流の考え方ではないと思う。そういった意味で、角栄氏は相当に賢かったと思う。ただし、角栄氏が何のために時代を読んだのかということは分からないし、あまり興味もない。


第四章 国際的地位の上昇
 この章題と中身は、まあ、主旨として違うと言えば違うけど、そういうことだったんだろう。内容を読んで記憶にとどめておくべきだと思った点は、日本は超効率的社会主義国家と言うべきであったということだ。まあ、野口氏も、読者の根本的イメージを崩すために敢えてこの資本主義と正反対の言葉を用いているのだろう。この例えを出すと余計意味がわからなくなるかもしれないが、般若心経で、空を説くために全ての存在を否定するやり方に似ている。

 日本が社会主義である理由として、投資のための資金調達が、株式増発でなくて銀行からの融資であったこと。またこのことにより、日本には資本家というのが存在していないこと。を挙げている。(財政投融資のこと)

 あと、もうひとつは、零細地主が多いことも挙げている。何故零細地主が多いかと言うに、地価が異常に値上がりし続けたことと、税制として相続税が少ないが故に、土地の所有それ自体が資産として認識されていることを挙げている。土地の本来の経済的役割は、それを生かすことにより利潤を増やすことであって、利益の上がらない小規模農業をすることではない。しかし、先に述べた理由から、本来とは逆の土地への経済認識が日本人に根付いてしまったのだ。このため、日本は、ただでさえ狭いのに非常に効率の悪い土地の使い方をしていると言っている。駅前の商店街がその最たる例だと言うところは、いかにも経済学者らしい。人文学者なら、日本人の封建的性向と、農耕民族としての土地への愛着心を挙げ連ね、駅前商店街で頑張る人の美徳を褒め称えるだろう。

 そして最後に、また出てきました田中角栄田中角栄の超減税ばらまき政策と、戦時体制の人心を束ねるはずだった恩給や年金制度(これを国家的ねずみ講と言っている・確かにこれはねずみ講にほかならぬ)をかなりの勢いで批判している。しかし、この一時的な税収の増加や高度経済成長に頼ったばらまき政策を危惧する声も高く、それをなんとかしようという機運もあるにはあったらしい。だが、次の章に書かれている、石油ショックが起こってしまったのだ。


第五章 石油ショック
 石油ショックを通じて、先進諸国の中で生き残り、優位性を増して行く日本と、それとは相対的に没落する先進諸国を対比的に示している。そして、日本がそのように優位性を増した理由を、経済的仕組み(つまりこれは1940年体制のこと)で説明している。具体的には、他の先進諸国で起こった現象「スタグフレーション」(物価上昇(インフレ)による賃金増加が、為替レート上昇がもたらす差益を先回りして打ち消す現象)が日本で起きなかったことを示している。その理由としては、「日本特有の企業一体型労働組合体制」(実質的には自発的統制賃金の仕組み)と「国内産業保護政策」(重工業を国際競争から手厚く保護する政策)にあると言っている。さらに、追い打ちをかけるように、石油が貴重品となる中、石油消費の少ない日本の小型車に世界の需要が集まったのだ。こう考えると、「このときの日本には目に見えない、偶然としか思えないような神の加護があった」としか言えない。ただ、逆に、これが今となっては時代遅れの経済体制を助長し、日本経済システム最高優位の幻想を持たせてしまったとも言えるのだ。野口氏の歴史観も書かれていた。歴史にIFはあるのかとかの話だ。私には私なりの哲理があるし、正直それの方が真実に近いと思うので、野口氏の意見は特に記さない。それに、それを述べると言うことは、私の歴史観を説明することにつながり、それを記すと言うことは途方もない量の文章を呼び起こしてしまうからだ。

 このとき思ったのが、原発のことだ。この状況で、原発建設以外の選択肢が日本にあっただろうか。よほど覚めた人か、よほど情緒不安定な人でもない限り、これに異を唱えるものはいなかっただろう。文字通り、どちらもキチガイ扱いされたことだろう。原発反対とは、今だからこそ言えるのだ。福島の事故はあったが、私は原発を否定しない。まだ日本は原発を否定できる段階ではない。原発を否定する運動はあってもいいと思うが、現段階でそれは事実として世の中を変えないだろうし、変えることはできないだろう。

 理解できなかったのは、石油ショック直前に流行ったという「くたばれGNP」という言葉の意味だ。石油ショック時は「物価狂乱」という言葉も流行ったらしいけど、全然雰囲気が伝わってこない。まあ、その時代を生きた人でないと分からない雰囲気が、その言葉たちに凝縮されているのだろう。


第六章 バブル
 この超有名な言葉、この超有名な日本の伝説、これについて説かれている。私も実は、このバブルとは一体どんな現象だったのかと疑問は持っていた。私などは、ちょうどバブルが全て終わったころ(2002年)に建設業界に就職したこともあって、バブルの弊害を目の当たりにしたし、また、バブル時代の伝説を良く耳にしたものだ。野口氏はバブルについて「日本はソドムやゴモラにも増して道徳的に退廃していた」「バブルが再来してほしいと言う人を見ると怒りすら覚える」と言ったようにこのバブルを経済学者としても人間としても厳しく批判している。ある意味で、経済学的にバブルという現象を理解しているからこそ、人間的に批判しているとも言える。また、そのバブルへの理解が、さらにバブルへの怒りを誘発しているとも言える。

 それで、バブルとは経済学的に何だったのかと言うと、「投機のための投機」が為され「実質価値を越えたものが簡単に融資の担保となり」、世間で「苦労して得たのでない金」が幅を利かした現象だという。

 そうなった理由として「実質価値の保存」という経済概念がある。例えば貯金して財産を保有すると、インフレによってその価値は低下する。だから、貯金では財産を保存しない方がいい。そのため、インフレに応じて価格が変動する株式や土地を保有した方が「実質価値」は保存される。日本では、戦時金融体制などにより、株が出回っていなくて一般庶民は株など持っていない。これに対して、土地は相続税が少ないことや土地保有零細化もあって、価値保存の対象になりやすかった。こういった要因で、土地が投機のための投機の材料となり、土地が実質価値以上の融資の担保となり、世間で土地を転がしたことによる不当な金が幅を利かせたのだ。これに便乗する形で、その他株や絵画なども実質より高い価値を持つことになった。

 大企業の株式が(財テクのために)大量に発行されたことにより、あと少しで戦時金融体制が崩れそうになったが、そこで(融資対象がなくなり)滅びるべきはずの銀行ががんばってしまい、戦時金融体制が保持されてしまったとも言っている。

 あと、野口氏が、バブルを「おかしなこと」と言っているところが興味深い。この時代、誰もが土地の高いことを「常識」と思っていた。しかし、それは冷静に観ずれば、「おかしなこと」砂上の楼閣であったのだ。では、私も言う。食物のような重要なものを、外国に依存するなど「おかしなこと」以外の何者でもないのではないか。それが外国から入手できなくなった時、我々はどうするのか、飢え死にするのか。もう一度言う、国債のような信用だけを担保にしたものが、税の収入と同じだけの額で、しかもあのような高利回りで発行されるようなことは「おかしなこと」ではないのか。さらにもう一度言う、本当に価値があるかどうかわからないような「金」・moneyが、実質的にこの広い世界と人間を支配するような現象は「おかしなこと」ではないのか。これが正しいとそれを提示することはできないが、今の常識は「おかしなこと」だらけではないのか。


第七章 バブル崩壊
 この章では、ほとんどスキャンダルのことしか書かれていない。まるで三面記事だ。ただ、そうすることで、バブル崩壊のショック度というか、衝撃・波紋の大きさや後に残した弊害の多さを示したかったのだろう。バブルの時から、ひとりそれがバブルだと気付いていた野口氏からすると、かなり重要な部分だとも言える。「みな、俺の言葉に耳を傾けなかったからこうなったのだ」という、彼の覚めて知恵あるが故の悲痛な叫びは、少なからず私にも共感する部分がある。

 バブルをはしごに例えているのは面白い。バブルをバブルと思っていなかった証券マンや銀行マンは、文字通り降りることができなくなってしまった雲より高いはしごを登っていたのだと言う。これを軍隊に例えていることも面白い。「兵は拙速を聞くも、未だ巧久を賭ざるなり」これは私が思いついた孫子の一節なのだけど、これとは逆の現象、つまり、勝ち目のないバブルと言う戦で、損益を最小限で見切って撤退することができず、そのまま突撃してしまったと言うのだ。こういったことや、企業の重役が懲役を食らっても、その重役はその企業から、金銭的には保護されたということを挙げて、日本企業の「軍隊的」な特質を指摘している。日本企業は、まさに旧日本軍の再来・コピーと言ってもいいかもしれない。そのような体制下で育てられたからこそ、そうなのであろう。「とにかく拡大・突撃で、天祐を信じてお国のために突き進む」「自分のお国(自分の企業)を守るためには自分の死も辞さず、そしてお国は期待を裏切らず家族の面倒を見てくれる」そういった本質に基づいた行動をして日本のサラリーマンが「企業戦士」とか言われたのかもしれない。最近は、明らかにそうでもなくなってきている。そういったことからも、社会の実質的変化が読みとれるのかもしれない。

 ちなみに、野口氏は「軍隊的」とか言う言葉を用いていない。そういったことはやすやすと公言できないこともあろうが、敢えてそれを読者に読みとらせる「明かさないタネ」にしているかもしれない。それを読者に考えさせることで読みとらせて、直感的閃きを暗に促し、自分の1940年体制説を納得させようとしているのかもしれない。「日本企業=軍隊=旧日本軍=戦時体制……アッ」と気付いた方とすると鮮烈で忘れられないし、戦時体制を納得せざるを得ない。それに、今読んでいても全体と後を見据えたうえでの示唆的話が多い(サブリミナル効果みたいなもの)。これは野口氏の狡猾とも言えるほどの文章構成力の高さを物語っている。ほんとに切れ者という感じだ。あの写真の顔からは正直想像できない。


第八章 金融危機
 山一証券長銀の破たんについて書かれている。この両金融機関に関する共通項は、どちらも「不良債権に対する隠ぺい」が為されていたことだ。その隠蔽工作の仕組みを経済学者らしく分析している。些煩な仕組みについては、はっきり言うと専門用語が多すぎて意味がわからない。私が読み取るべきことは、この「隠蔽の愚かしさ」に尽きるであろう。とにかく、隠蔽というのが一番ダメなんだな。と思った。これは、哲学的にも正しい。「失敗は成功の元」と言うけれど、現実の失敗を失敗として認めることによって初めて成功が導かれるのだ。だから、失敗を隠すという行為は、この世でもっとも愚かしい行為と言っても過言ではない。失敗を失敗と認めること、そして、それがどんな失敗だったか知ること、その失敗に対する手当をすること、そして最後に、同じ失敗をしないように普段の行動を改めること。これが失敗を成功に導く手法である。これは、私が経験を積み重ねて言う言葉ではない。空前絶後の知恵者、釈尊の教えである。失敗を「苦しみ」と置き換えてもらえれば、仏教の四聖諦であることが分かっていただけるであろう。当たり前のことが一番難しく、そして最も尊いのだ。その始まりは常に、自分の愚かしさや失敗、至らなさ、苦しみを知ることなのである。それを知り、それを認めることが重要なのである。と、途中から説教くさくなってしまった。だが、何事においても四聖諦ほど重要な考え方はないと思う。

 あと、もうひとつ興味深いなと思ったのは、バブルの損失額を計算している部分だ。結局バブルは、日本国内で「過剰担保融資」が行われたことにより、基本的にはあくまで日本国内で、誰かが儲かって、誰かが損をした現象だと言う。それは理解できる。では誰が?という計算で、なんとバブル収拾のための公的資金注入は実に40兆円、日本人一人当たり38万円と言う。そして、時間的には前後して、それが誰かの懐に入ったのだ。こうすることによって野口氏はバブルの愚かしさを強調している。また、そのバブルに伴った金融不正の当事者が、時効などで断罪されていないことを強調し、このままではいつまたバブルが起こってもおかしくないと言う。


第九章 未来に向けて
 まさに、今まで書かれていた内容をまとめている。未来に向けてと言っているが、こうするといいという提言が為されているわけではない。野口氏も、私と同じように、未来に対しての因縁による拘束を肯定しているのだ。つまり、歴史はそんな簡単に変わらない。ナポレオンはいなくても、ポレオレン(全く架空の名前)がナポレオンと同じことをしていただろうと。

 野口氏のものの見方で特異的なのは、制度や体制、思想と言ったものを相性で見ているところだ。学者の間では一般的なのかもしれないが、そういった別次元の仕組み同志の相性を、合致性からうまく捉えている。例えば、共産社会主義は独裁体制や中央集権と、資本主義は自由民主主義や分権と、それぞれ構造的に相性が良いというようなことだ。その相性を、その真眼をもて的確に見抜いている感じがする。

 総評としては、わかりやすく、面白い、が、週刊誌連載の体面もあってスキャンダラスに過ぎる部分がある。字数の制限が感じれられる、と言ったところだろうか。読みやすいし、さほど難しくはないという感じだった。読んだ価値は十分にあった。