イギリス(ブリテン)史を勉強して

 イギリスの歴史はひとつは王家の血筋の歴史である。また、イングランドスコットランドウェールズの歴史である。そして、カトリック(正教徒)とプロテスタント(国教徒)の歴史である。(貴族)議会の歴史とも言える。栄誉のための戦争の歴史でもある。

 イギリス史は、いろいろな基軸があって、いろいろな視点から読み解かないとわからないという感じがする。

 だが、概して言えることに、古くから議会があったことに大英帝国を築くほどの強さの秘訣があったように思う。国王と言えども議会の承諾なしに、法や税制度を独断で施行することはできなかったようである。

 これに反して、戦争は、ほとんど王家や貴族の独断で行われている。その戦争も困窮によるものや、征服防衛といったような切羽詰まったものでなく、また、利権を欲で獲りにいくような生臭いものでなく、むしろ栄誉やブリテンナショナリズム発揚のためという感じがする。裏にはもちろん生臭い利権が絡んでいるのだろうが、歴史上、それはあくまで裏のことになっている。

 こういった余裕があったのは、イギリスが農地として富んでいたからと思う。そういった生活の余裕が、考える余裕につながり、また、それが社会全体の富でもあったのだろう。アダムスミスがある程度の富を誰にとっても必要とした理論を道徳感情論で述べているのは、こうした歴史的背景があったからと思われる。だが、これに反して、皆が高等な教育を享受していたわけでなくて、教育と言う教育を受けていたのは、裕福な貴族層だけだったようだ。しかも、その教育は、道徳(ジェントルマン意識)を高めるための教育だったようだ。こういった教育制度が見直されたのも1900年ごろみたいだ。だから、イギリスは教育がしっかりしていたから、強かったのでなくて、あくまで、議会があったことや、食糧があることによる生活保障があったことがその強さの秘訣であったと思う。

 細かい歴史事件として

 エリザベス女王救貧法は、かなり先進的だと思う。
 1700年に初めて国債という制度が取られ、これに伴ってイギリス銀行が設立された。
 イギリスが自由貿易路線を取ったことは、間違いなくアダムスミス国富論に政治家が影響を受けた結果と思われる。
 第二次大戦後も、スエズ戦争やアルゼンチンとのフォークランド戦争をしている。

 私は、イギリス史を勉強していて、釈尊の説法を思い出した。それは、原始仏典の方の大パリニッバーナ経(岩波文庫 釈尊最後の旅)の最初に書かれているものだ。どういったものかというと、マガダ国のアジャータシャトル王が、バッジ族という部族を征服しようと思いたつことにこの話は始まる。王は二人の堅臣を遣って、釈尊にこの征服の是非を問う。ここで、釈尊は以下の七つの「国家の強さの秘訣」を挙げて、これを守っているバッジ族は強いから戦争はしない方がいいと助言する。

1、しばしば会議を開き、その会議には多くの人が集まる。
2、協同して集合し、協同して行動し、協同して「Nation」(民族・国家・国民を同時にあらわす英語)として為すべきことを為す。
3、未だ定められていないことを定めず、既に定められたことを破らず、過去に定められた旧来の法に従って行動する。
4、古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そして彼らの意見を聞くべきものと思う。
5、良家の婦女・及び童女を暴力で連れ出し拘え留めることを為さない。
6、都市内外の部族の霊場を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物を廃することがない。
7、真人(尊敬されるべき修行者)たちに、正統の保護と防御と支持とを与えてよく備え、いまだ来ない真人たちが、この領土に来るであろうことを、また、既に来た真人たちが領土のうちに安らかに住まうであろうことを願う。

 議会を尊重し、マグナカルタを後世まで(ある面だけを捉えた政策の一環としてだが)尊重し、ジェントルマンという紳士であること、また王家の血筋(祖先)を大事にすることを基調としたイギリス風土があったことは、イギリス史から読みとるべき重要なことと思う。そして、それが結果としてこの項目のうちでも半分以上に当てはまり、それが大英帝国の真の基礎であったことは言うまでもないように思う。逆に、大英帝国に陰りが見え始めたのも、これらの項目に当てはまらない部分が増えていったからだと思う。

 これを読んだ人は、仏教と釈尊の言葉の重要性に気付き、是非とも仏教を勉強してほしい。釈尊の言葉に偽りは無いのだ。孔子は「十世知るべきか」という質問に対して、「百世知るべきなり」(百代後の未来も予測することができる)と言ったけど、釈尊の言葉を信じれば、百世知ることも、千世知ることも可能であると思う。


以下は少し違う観点から、及び、上の理論考証の詳細

 ヨーロッパ処各国が、近代に至るまで、そして現在も世界で優位を保っている理由は、ローマ帝国にあるような気がする。そして、ローマ帝国が優れていた理由のひとつに土木技術があると思われる。ロシア史と比較して、違いが大きいのは、このローマによる支配があったのかどうか、という点に思う。ロシアの場合だと、1300年ころにやっと、モンゴル勢力から駅伝制や人頭課税制を学んでいる。これに反して、ローマは既に400年ころ、既にこのような制度を確立していた。そういった意味で、ローマは特に土木事業と政治体制において、相当に優れていた印象を受ける。ローマ帝国が何故優れていたのかということはまだ勉強しなければならない。

 ロシア史の時に、教育の行き届いていない民主制は他より少し優秀なだけな人の独裁政治に遥かに劣る、と私は言った。これはこれで間違っていない。だが、これに、ある程度の富の概念を付け加えなければならない。なぜなら、イギリスがロシアよりはるかに豊かな土地と気候を有していることは、グーグルアースで土地を見るだけでもわかるからだ。それゆえに「土地の豊かさによる食糧確保、またそれに伴った生きる余裕(そしてそれは考える余裕につながる)」というものも、民主制の強さに影響していると思われるのだ。イギリス(正確にはイングランド)では、1300年に既に議会が行われている。そして、そのような歴史や風習が、大英帝国の形成に一助していることは間違いないと思われるからだ。歴史の推移も明らかに違う。農民が領主に隷属しているような記述がない。もちろん農民の反乱も無い。何か生命に差し迫ったような戦争や反乱が少ないのだ。(追記:このあたりの、富と人間の関係については、イギリス人であるアダムスミスの方が私より詳しく正しい洞察を、イギリス史からしているであろうから、アダムスミスの著書を読むことでそれを解明したいと思う。)

 だが、これに反して、王位継承とか、王族の領地奪還への野心とか、そういう見栄や体面や栄誉のための戦争が多い。その争いは、生きるためでなくて、あくまで栄誉のためなのだ。ロシア史を勉強している時は、ある程度ではあるが、生きるため、生活するため、他民族の支配から自分の文化を守るため、と言ったような戦争動機としての必然性が感じられるが、イギリス史ではそれが本当に希薄だ。歴史を勉強していると、何ゆえに人類はこうも戦争したのだろう。と考えさせられる。人類の歴史は戦争の歴史と言っても過言ではないように思うときがある。そして、何ゆえ覇者たちは自分の版図を広げたのだろうと思う。