129.荀子 現代語訳 強国第十六 五・六章

五章

 力術が止んで義術が行われるとはどういうったことであろうか。

 それは、秦のことである。湯王や武王より威勢があって強く、舜帝や禹王よりもよりも土地が広大である。そうであるけれども、いつも心配した様子で天下が一合してこちらを圧することを恐れている。これがいわゆる力術が止む(力だけではうまくいかない)ということである。

 どうして湯王と武王よりも威勢があって強いと言うのか。

 湯王や武王は、自分のことについて喜んでくれる者だけを使役していただけなのである。

 これに対して秦は、楚の国を攻めて、現在、楚の国では国父の懐王は殺されて国土も奪われ、今の楚の王位についてる王は父祖三王の霊廟とともに陳・蔡の地に難を避けている。そして、隙を見て、時を伺って、その足を挙げて秦の腹を踏もうと思っている。そうであるけれども、秦はその威勢があって強いことを頼りに、思い通りに右左と皆を動かしている。これは、いわゆる仇敵を使役しているのである。こういったわけであるから、湯王や武王よりも威勢があって強いのだ。

 では、どうして舜帝や禹王よりも広大であると言うのか。

 古えの百王は、その天下を一つにして、諸侯を臣下とすること、封領が千里四方を超える者はいまだなかった。

 これに対して秦は、北はコカクに隣り合わせ、西は巴戎を有して、東は楚に在りながら斉に境し、韓に在るところでは常山を越えて臨慮を有して、魏に在るところでは囲津を拠として魏の都大梁から百二十里ほどしか離れておらず、趙に在るところではとがった様子でレイの地を有して松柏の砦を拠とし、西海を負って常山を固くしている。このように領地は天下を遍くしている。これはいわゆる舜帝や禹王よりも広大であるのだ。

 このように、威勢は海の内を動かして、その強さは中国をほとんど制しているのである。そうであるのに、憂患は敢えて数えることができないほど多く、いつも心配した様子で、常に天下が一合してこちらを圧することを恐れている。

 そうであるならばどうしたらよいのか。

 それは、威勢をちょうど良いものにして、飾り程度のものに戻すべきなのある。(威を節して文に反るべし)すなわち、かの端誠信全の君子を用いて天下を治め、そうすることによってその人とともに国政に参加して、是非を正して曲直を治めて咸陽で多くを聴き、こちらの善に同ずる者はそのままにして、こちらの善に動じない者でそうして初めて誅殺する。このようにするならば、兵が砦から出ることなく命令は天下に行われることになるだろう。このようになったならば、このために明堂を建設して諸侯を来朝させることもほとんどできることだろう。かりそめの今、世に益そうとすることは、信を益そうとすることに遠く及ばないのである。

六章

 秦の宰相である応候が、孫卿子に尋ねて言うには、

 「秦に入って何を見ましたか」

 孫卿子「城塞は険しくて、地勢は便利で、山林川谷は美しく、天材の利が多いことは、形において勝ちがあると言えます。

 国境を越えて国内に入ってから、その風俗を観察すると、百姓は素朴で従順、歌われている歌も汚らわしいものでなく、その服装も派手でなく、役人を甚だ畏れること、古えの善き民です。

 町や村の役所まで入ってみると、役人たちは粛々と仕事をして、恭倹敦敬忠信で、下品な者がいないこと、古えの善き役人です。

 国の中枢まで入って、士大夫を観察すると、家の門を出れば公門に入り、公門を出れば家に帰って私ごとがなく、偏った付き合いをせず徒党を組むようなこともなくて、人より優れて明通して公の心があることは、古えの善き士大夫です。

 その朝廷を観察すれば、閑散としていて、百事を聴聞して滞ることがなく、あたかも治めていないかのようであることは、古えの善き朝廷です。

 この故に四世に渡って、優勢な勝ちの状況があるのは、まぐれによるものではなく、数(計算できる当然のこと)なのであります。これが私の見たところです。

 つまり、安逸であるのに治まり、簡約であるのに詳しく、煩瑣でないのに功績があるのは、治の至りである、と言われるのは、この今の秦なら十分にその部類に入っているということができるでしょう。

 そうではありますが、心の患いと心配もあります。というのも、これらのいくつもの備えるべきことを備えていながら、これを王者の功名と比べてみれば、まだまだはるかかなた遠いところにあるからです。それがどうしてかと言いますと、ほとんど儒がないことによるのです。だから、儒道に純粋に在るならば王者となり、混ざれば覇者となり、一も無ければ亡びるのだ、と言うのです。これがまた、秦の短所であります。」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■恐らく荀子によるこの遊説が行われた30年後に、他の諸侯に王者も覇者も居なかったため、秦が中国を統一することとなった。しかし、荀子の言う儒道がなかったため、僅か15年で秦は亡びることとなる。