『クローズアップ現代』再放送


10月7日放送の『クローズアップ現代』「“助けて”と言えない〜いま30代に何が〜」にコメンテイターとして出演したのですが、放送後の反響が大きく、急遽、明日10月12日(月)の午前9時30分から再放送されることになりました。
同番組では、今年度一番の視聴率(17.9%)だったそうです。
見逃した方は、是非ご覧ください。
内容は以下の通りです。

今年4月、福岡県北九州市の住宅で39歳男性の遺体が発見された。男性は死の数日前から何も食べず、孤独死していたとみられる。しかし、男性は、困窮する自分の生活について、誰にも相談していなかった。いま、こうした命に危険を及ぼしかねない状況に陥っても、助けを求めない30代が増えている。彼らは「家族に迷惑をかけられない」「自分で仕事を見つけ、何とかする」と誰にも相談できずにいる。家族、友人、地域との繋がりを断ち切り、社会から孤立する30代。番組では、厳しい雇用情勢で先行きが見えないなか、静かに広がる「助けて」と言えない30代の実像に迫る。


若い世代の失業問題はこれまでも取り上げられてきましたが、「“助けて”と言えない」という複雑な心理に焦点を当てたところに、制作スタッフの取材の丁寧さを感じました。


非常に深刻な内容のVTRに対して、スタジオでコメント出来る時間は、3分×2回程度と限られていましたので、切りつめた形でしかお話できませんでしたが、対策に関して、システム面とメンタル面との2点について補足しておきます。社会の構造的な問題の対策はまた別ですが。


まず、システムの面ですが、新政権の失業対策では、とにかく、窓口の一本化、単純化ということを実現してもらいたいです。
犯罪に巻き込まれれば、誰でもすぐに110番しますし、人が倒れれば救急車を呼びます。そういうことは、どんなに混乱していても、一秒以内に思いつきますし、抵抗なく決断できます。
失業に関してもそうであるべきです。
自分が失業しても、人から失業の相談を受けても、とにかくあそこに行け、という場所を一つだけ作って、それを徹底して周知させるべきです。で、そこで、経済的な支援、再就職の支援、精神的な支援など、必要なサーヴィスの一切を自動的に受けられるようにします。相談者一人一人について、カルテのようなものを作って、各担当者がそれを共有すれば、再就職に向けての総合的な対策を、個々のケースに応じて検討することが出来ます。
ただでさえ、精神的に追いつめられている時に、相談者が、自分でどこに行くべきかを判断して、あちこちに足を運ばなければならないというのは負担が大きいですし、それぞれのセクションの担当者が相互に情報を共有していないというのも問題です。


僕は今、読売新聞の夕刊に連載している小説で、リハビリテーションをテーマの一つにしています。
たまたまですが、僕とジャズ本の共著がある小川隆夫さんのご専門です。
リハビリテーション医学が社会的に必要となったのは、第二次大戦後、傷痍軍人の社会復帰が、アメリカで深刻な問題となったからです。
従来の治療という発想では、たとえば、怪我が治癒すればその時点で終わりです。ところが実際は、たとえば足に障害が残ったりする大怪我であれば、その状態から、社会に労働力として復帰するまでには、非常に大きな距離があります。その、従来、当人任せにされていた復帰へのプロセスに、医学的に対処しようというのが、リハビリテーションの発想です。


僕は、失業についても同様に考えるべきだと思います。失業を一つの大きな「怪我」だとすると、そこから自力で社会復帰しろなどというのは無茶な話です。出来る人もいるでしょうが、有効求人倍率0.42倍という現状で、そういう人を「標準」にすべきではないです。
再就職に至るまでの社会的なリハビリのプロセスは、公的なサーヴィスが担うべきで、その仕組みを早急に整備すべきです。


メンタル面では、『ドーン』に描いた「分人主義(ディヴィジュアリズム)」という発想について言及しました。用語の目新しさに抵抗があるかもしれませんが、これまでなんとなく人が知っていたことを、整理して考えるために、「個人主義(インディヴィジュアリズム)」に対置して、あえて造った言葉です。


「個人」の中には、対人関係や、場所ごとに自然と生じる様々な自分がいる。それを僕は、「本当の自分が、色々な仮面を使い分ける、『キャラ』を演じる」といった考え方と区別するために、「分人(ディヴ)」と言っています。


好きな友達や家族の前での自分は、必ずしも「演じている」、「キャラをあえて作っている」のではないし、逆にあわない人間の前では、イヤでもある自分になってしまうわけで、人間が多様である以上、コミュニケーションの過程では、当然、人格は相手ごとに分化せざるを得ません。その分人の集合が個人だという考え方です。詳しくは、『ドーン』を読んでいただきたいのですが。


会社や学校でうまくいっていないとしても、それを自分という人間の本質的な、全人格的な問題と考えるべきではないです。そうした場所や対人関係の中で生じた分人だと、分けて考えるべきです。極端な例を言えば、僕でもアフリカの紛争地帯に行けば、そういう環境での分人を生きざるを得ないと思いますが、その状況でも、ネットで日本の友人とやりとりする時には、その人との分人を生きることが出来ます。


その上で、自分の中の分人の比率、バランスを考えることです。対人関係や場所の分だけ、分人を抱え込むことになりますが、好きな、居心地がいいというか、「生き心地がいい」分人をベースにして生きていくべきだと思います。


生きていくためには、やっぱり、自分が好きだという感情がどうしても必要ですが、漠然と自分を好きになれと言われても難しいことです。しかし、誰といる時の自分は、結構、言いたいことも言えて、笑みもこぼれて、嫌いじゃないというのはあると思います。その自分、そして、その関係を最低限の足場にして生きていけば、他の場所で生じた分人が難しいところに陥っていても、自分を全否定する必要はなくなりますし、その分人をどうすべきか、客観的に考えてみることが出来ます。
人に“助けて”と言うことを、自分の全存在を“助けて”という意味だと考えると、受動的な感じで、心理的な抵抗があると思いますが、自分の中で、難しい状況に陥っている部分を“助ける”のに手を貸して欲しいということだと考えれば、それは、積極的な態度ですし、抵抗が和らぐのではないでしょうか。少なくとも、僕はそう考えるようにしています。



あとはやっぱり、過去と現在との因果関係の牢獄にはまりこんでしまわないことです。
未来の方から現在を考えて、何をすべきかを考えるべきではないでしょうか。
何歳であっても、残りの人生をよくすることを一番に考えるべきです。