こないだ、似ている、と書いた人。それからも、いくつか似ている点を発見した。息の吸い込み方とか、おそらくお金の使い方も似ている。似ていることは向こうは知らなくて、私だけが知っている。こういうことってあるんだなあ…。
似ている。
こういう気持ちって実のところはじめてなんだけれど、この人、私に似ている…って思った出会いがあった。その人にとってはとくに名誉なことではないけども。それは私を苦しめても来た(そしてその都度私は私をなんとか許してきた)、一つの特性や、あるいは障害として説明できるものかもしれないけれど、とても変な気持ちだけれど、この人、こんなところまで私に似ているのか…と思う。まるで双子みたいだね。
私のバケットリスト
たんなる老いっていうこと以外に、「これはやばいのでは」という体調の変化があったことで、逆に、「いや本当にもうあかんかもしれんからやりたいことをやろう」と思って、「いつか」に設定していたことをいくつかやった。たとえば行きたかった海外の都市に行くとかね。バケットリストはまだ残っているけど…実現できることとできないことがあるからね。あきらめる必要のないことはやりたい。緊急の課題ではなくなったにせよ、いずれにせよ、どこかのタイミングでは、健康寿命は失われるのだから。
もともと疲労しやすいから、自分という資源はかなり限られていて、いまはそれを仕事にけっこう持っていかれている状態だから、その割合も減らしていかないといけないな。本当におかしいと思うんだけど、若いころから、家に帰るとぐったりして座ることもできなくて、そういうことがもうずっと続いている。仕事はいきいきしているように見えるだろうから、私がこんなに疲れているなんて、誰も思わないだろう。
ちょっと怖い思い出。
たまに思い出すおそろしい光景があって、小2のときに、雨の日、夜に、川の近くに住んでいたから、川の土手から、虫取り網を使って魚をとろうとしていた日があった。なかなか取れなくて、身を乗り出して。あのとき、なにかがずれていたら、川にさらわれていたかもしれないと思う。もし私がそこで流されてしまっていたら、親は自分を大変責めただろう。かぎっ子だったから。今では私は川遊びなんかにもほぼ近づかないし、川辺でキャンプとかもしないのだけど、あのときどうして魚に執着したのかってわからない。すごく危なかったと思う。あまり危険なことをしない私でもそんなことをしてしまった。まだ生きることに慣れていない子供たちは好奇心があって、一寸先を予想することも知らないから難しくて、そのなかで事故に巻き込まれることもあるのだろうと納得できる。
よし。
もう2024年だね。
2023年は、今までの自分とは決定的に違ったことがあった。その前に戻れるならなんでもしたいと思うほど。
だけど戻れないみたいだし、だからこのまま前に進むしかない。
そんなふうに思えるときと、ああ、もう、しんどいかもって思うときもある。
もうすぐ春がくるよね。
まあ、とにかく。
多分いろいろと大丈夫だろうから、前にすすもうと思う。
どこかに行くこと。
遠出することって、「そんなんできてるなら元気だ」って思われるかもしれないけど、どこかに遠出するっていうことがなければ、私はこの毎日を続けられない。