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2007年-01月-08日 中世・庶民のまち京都

[]中世・庶民のまち京都

政経リポート平成16年4月25日号掲載分

<右京の荒廃>

「予(われ)二十余年以来、東西の二京を歴(あまね)く見るに、西京(にしきょう)は人家漸く稀にして、殆(ほとほと)に幽墟に幾(ちか)し。人は去ること有りて来ることなく、屋(いえ)は壊(やぶ)るること有りて造ること無し。其の移り住む処無く、財貧に憚(はばか)ること無き者は是れ居り。或は幽隠亡命を楽しび、当(まさ)に山に入り田舎に帰るべき者は去らず。自ら財貨を蓄え、奔営に心有るがごとき者、一日と雖(いえど)も住むことを得ず。」

これは有名な慶滋保胤の「池亭記」の一節で、平安遷都(七九四)後二世紀を経た右京の衰退ぶりを物語っている。当時の平安京は、左京にも右京にも、幅八丈(約二四メートル、現在の四車線級)幅四丈(約一二メートル、現在の歩道付二車線級)の大路、小路が縦横に走って、道路だけは立派な都市景観を保っていた。

右京の荒廃は、宿命的な自然環境によるものであった。一方、左京も決して良い自然環境でなかった。すなわち、賀茂川の氾濫は市街地に接していただけ、その被害は甚大なものがあった。白河天皇は、天下の三不如意として、賀茂の水・山法師・双六(すごろく)の賽(さい)をあげている。

明治三五年(一九〇二)発行の「京都市実地測量地図」によると、国鉄東海道線山陰本線は右京の広々とした田野のど真中を走っていて、所々に点々と小さな集落があるだけであった。これがわずか百年前の京都のまちの実像であった。

<すごろくのまち>

博奕(ばくち)はいつの世にも絶えることがない。「今昔物語集」にも、双六(すごろく)が原因で刃傷沙汰を引き起こした話が数多く載せられている。「双六、博奕、貧欲の者、必ずや盗人の基なり」と役所が禁令を出しても、きかぬ者に通じるわけがない。カケマージャンが絶えることのない今の世と全く同じである。平安時代では、道路にたむろする博戯の輩(やから)を検非違使(けびいし)が捕えても、「今日一日だけの博戯だ」と弁明すれば、すぐ釈放されたらしい。鎌倉時代に入っても、博奕の流行は続いている。

<質屋のまち>

高利貸、質屋、ローンといわれる金融も人の世につれ、切り離すことのできないのは今も昔も同じである。室町時代のはじめ、伏見に宝泉という土倉(どそう)が住んでいた。土倉とは、金融業を営む質屋のことで、その名の由来は、彼らが質的保管を保障する土の蔵にあった。彼は比叡山延暦寺支配下の下級僧侶で、半僧半俗であった。彼ら下級僧侶は堂衆と呼ばれ比叡山三塔の東塔・西塔・横川(よかわ)の仏のお守りをする僧侶であった。しかし、正式の僧侶でないので、彼らには一切の給付がなかった。彼らは比叡山の権威を生かして金融に乗り出したのは、生活のための止むを得ない手段であった。

宝泉は土倉の業を営む者としては深く仏教に帰依し、盛大な法事を催したり、寺院修理に多額の寄付をしたりしている。それだけ収入が多かったともいえる。正和四年(一三一四)洛中の土倉に税が課せられたが、その課税総額の八割以上が比叡山配下の土倉であった。しかし、応仁の乱を境にして、これらの土倉は一般人によって行われるようになった。

サラ金の返済ができなくて会社をやめる人が多い今の世と同じく、室町時代の終わりごろになると返済金に困る人々が増え、室町幕府の内政の乱もあって土一揆がたびたび起き、その都度土倉が狙われていた。土一揆隊と幕府軍が清水坂で戦端を開き、土一揆隊が東福寺を占拠したこともある。この土一揆に対する幕府の無能ぶりが、土倉の自衛化、武装化につながった。この武力を有した土倉が、やがて町衆の自衛体制の中核となっていったのは自然のなりゆきであった。

これらの町衆は金力を誇示するだけでなく信仰心が厚かった。そして、商売の繁昌により、庶民の間にも富への欲望が増大し、布袋、大黒、夷(えびす)など福神信仰へとつながっていった。

秀吉、家康の時代、後藤・茶屋の二家とともに「京の三長者」と呼ばれた角倉(すみのくら)了以の祖父の時代には、嵯峨で土倉を営んでいたことは余り知られていない。

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