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2007年-01月-09日

[]甲賀流忍者が結ぶ信州・滋賀と京都

【信州の甲賀流忍者】

甲賀(こうか)流忍術のルーツは長野県北佐久郡望月町(まち)である。平成一三年九月号の同町の広報誌『駒の里』に著者は次の文を寄稿している。

「私の母、望月ちゑは望月本實(ほんじつ)家第十二代目の次女として、明治三三年に滋賀県甲賀甲南町大字龍法師に生まれました。その当時の家は現存し江戸中期の建築と推定され、所有は法人に移っていますが、甲賀忍者屋敷として広く観光の用に供されています。

生前、母の語るところによりますと、十七才ごろというから大正のはじめになりますが、ある夜、十数人の盗族が押し入り、家人二人を殺傷した上土蔵の中の刀剣類を多数盗んでいったという。以後これに懲りて座敷の押入れを開くと、床下から隣家の空井戸へ通じる地下道が作られたほか、葉書一枚を差しこむだけで、はめ殺しの格子窓が開くなど色々な防犯装置が、取りつけられたという。

しかし、戦後、昭和三十年ごろ、地元の考古研究家の調査により、母が住いした屋敷は実は甲賀忍者の隠れ家で、そのカラクリ装置は母の言に反して、はじめからあったことが判りました。

貞観七年(八六五)、信州の良馬の朝廷への献上日が毎年八月十五日、満月(もちづき)の日に変更されました。以後、朝廷には信州の献上馬を『望月の駒』と称するようになりました。

逢坂の関の清水にかげ見えて

今やひくらむ望月の駒

紀貫之の和歌で有名ですが、逢坂の関は滋賀と京都の境の逢坂山にあります。この和歌の枕詞の逢坂の名のとおり、朝廷の役人がわざわざ逢坂の関まで迎えに出ている様子を歌っているのです。

この朝廷が称した『望月の駒』の名がブランド名として信州へ逆輸入され、望月の牧(御牧ヶ原)の地名となり、信州の牧場を広く経営する豪族滋野家から望月・海野(後に真田に改姓)・弥津の三家が分家し、家名としても望月が使われるようになりました。」

【滋賀の甲賀流忍者屋敷】

この信州望月家が生まれたのは今から約千年前で、その一部が約五百年後、滋賀の甲賀の里へ移った。故西山夘三京大名誉教授著『滋賀の民家』の中で甲賀忍者屋敷が次のように紹介されている。

「大正時代に大阪の下町で育った私は、『活動写真』で『目玉の松ちゃん』こと尾上松之助の扮する忍術使いが印を切ってドロンと消えると大きなガマが現れる〜というのを真似する近所の子どもたちをみて、忍術を不思議に思っていた。甲賀流・伊賀流というのはその頃からおぼえている。

JR甲南駅からニキロ程行くと竜法師という集落がある。この家は甲賀五十三家の筆頭格・望月家の屋敷で、約三百年前に建てられたという。(下図参照)望月家第十四代の秀祐さんは私の教え子である。」

昭和五九年六月、甲賀忍者に縁のある望月家の者四六名は、甲賀の里から貸し切りバスに乗って、信州へ向け出発した。私たち一行はその日の午後、望月町に着いた。望月町は昭和三四年に誕生した人口一万二千の小さい町である。軽井沢の西南部に位置し、江戸時代は中仙道の宿場として栄えた。小高い丘の上の望月城址(し)をたずねた。武田勝頼側についた望月城は、天正十年(一五八二)徳川軍に攻められ落城した。いまは昔の落城時の暗いイメージは全くないが、昔の名残りか望月町の町民に望月の姓を名乗る人が一人も居ないと聞いて、歴史は消えないものだと感じ望月町を後にした。

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