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政経リポート 畿内見聞録 RSSフィード

当ブログ「畿内見聞録」について

2008年-03月-17日

[]角倉了以と京の都市改造

《角倉了以家》

角倉(すみのくら)了以家は代々医術をもって家業としていたが、了以の代になり代々蓄えられた資金を活用し、海外貿易と国内の下線開疏の水利事業を手掛けて巨万の富を築き、徳川時代には後藤・茶屋の二家とともに「京の三長者」と呼ばれる豪商になった。

しかし、戦国時代が終わり徳川時代が始まり乱から和の時代へ急転する時代に生まれたからこそ、了以はその才能を存分に発揮することができたのであろう。しかも、信長・秀吉・家康の三代に生き、そして、この三人の武将が陸の都市改造に専念した事に対し、了以は水の都市改造を得意とした。

《信長の入洛》

永禄一一年(一五六八)、信長は将軍足利義昭とともに念願の入洛を果した。了以一四才の年であった。それから一四年後の天正一〇年(一五八二)、本能寺の変により信長はあえない最期を遂げた。了以二八才であった。了以は多感な青年として、時代が急転して秀吉の時代に突入していくことを本能寺の焼跡に立ってその目で確めたことであろう。この焼跡から東二町離れたところに茶屋四次郎屋敷があり、偶然宿泊していた家康はあたふたと岡崎へ逃げ帰り難を逃れている。

《秀吉の都市改造》

本能寺の変の四年後の天正一四年(一五八六)、秀吉は東山に方広寺大仏殿を県立した。了以三二才の年であった。後年、この大仏殿の再建工事に了以みずからが参画するようになろうとは夢にも思っていなかったであろう。さらに四年後の天正一八年(一五九〇)、秀吉は京の町割りの改造に取り掛かり、一町四方の街区の南北背割り線(一部東西あり)に沿って新しい道路をつくることが可能なところを選び、短冊(たんざく)型の街区にして宅地割りの合理化を計った。また、市内に乱立して市街化の障害になっていた寺を寺の内と寺町の二ヵ所に集めた。了以三六才の年であった。

その翌年の天正一九年(一五九一)の正月、秀吉は大動員令を発し、鴨川・紙屋川堤防を兼ねて市街地の周囲に延長二〇キロの「お土居」という名の堤防を築かせた。その工期わずか二ヵ月というから、秀吉得意の突貫工事で、京童をアッといわせた。

秀吉によるこれらの都市改造によって、応仁の乱以降、上京と下京に二分されていた京の町が急速に進展し、さらに北・左京へと市街地が広がっていった。壮年時代の了以はお土居をまわり新町割りをのぞいて、この凄ましいばかりの秀吉の都市改造をみて、いつか我こそはと心に念じたことであろう。

お土居築造の七年後、慶長三年(一五九八)秀吉は六三才で没した。了以四四才の年であった。そして、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦により天下は家康に傾いていった。四六才になった了以はいよいよ好機到来を肌で感じ取ったことであろう。

《家康の時代》

慶長八年(一六〇三)、家康は江戸に幕府をつくり徳川三百年の戦争のない時代の基礎をつくりはじめた。了以四九才の年であった。

この年から了以の大事業家としての活躍がはじまった。すなわち慶長八年から同一八年(一六一三)までの一一年間に、了以は朱印船により安南貿易をして巨万の富を築いた。この資金は京をはじめとする国内の水利事業に活用された。

まず、了以は目を京の振興に向けた。それは大堰川(保津峡)の開削であった。慶長一一年(一六〇六)三月に大堰川開削が始められた。工事は多難を極めた。水中にある巨石は、やぐらを組んで、長さ三尺、周り三尺、柄の長さ二丈余りの先が鋭角になっている巨大な鉄槌を縄につなぎ、数十人で曳き上げ、垂直に落下させて石を割った。川幅が広くて浅いところは川幅を狭めて水を深くとり、瀑のあるところは上流の川底を削って下流と同じ面にした。このような土木工事に了以自ら陣頭で指揮した結果、その年の八月に工事が完成した。

大堰川の開削によって丹波から嵯峨まで船がはじめて通じることになり、これまで陸路で運搬していた五穀、塩鉄、材石などが船で運ばれるようになり、京都の経済に計り知れない利便をもたらした。そして了以も通航する舟から通舟料を取って莫大な利益をあげた。

富士川の疎通》

この大堰川開削の成功は徳川幕府の目に止まり、同じ慶長一一年に、富士川の疎通を命じられた了以は自信満々の気力をもって、翌慶長一二年二月に着工し一〇月に完工している。家康は大いにその功を讃えた。また、舟というものを知らない山峡の人々は「魚に非ずして水を走る。恐いかな」と驚嘆したという。しかし、家康から引き続き命じられた天竜川の開削は失敗に終わった。

《鴨川水道の開削》

天龍川開削に失敗した了以は失意のうちに日々を送っていたが、慶長一四年(一六〇九)に入るや、急に京都で新しい仕事が持ち上った。それは、秀頼が東山の方広寺に大仏殿再興を計画し、そのための建設資材の運搬の問題が起こったのである。

了以は大堰川にならって鴨川を疎通してこれらの資材を運送することを提案して認められた。工事は慶長一五年(一六一〇)にはじめられ、翌一六年に完成した。その間、いくたびかの大洪水で荒れに荒れていた鴨川の川床を平にし、湾曲部を手直しし、遂に鴨川に舟が通ることができるようになった。その起点は三条で終点は伏見であった。そして慶長一六年の秋に大仏殿は無事完工した。この鴨川水道はあくまでも工事用の仮設であった。了以五七才の年であった。

《高瀬側の開削》

鴨川水道の完成によって京都が水路で大阪に通じるという新しい価値が発見された。しかし鴨川水道は鴨川の氾濫するたびの修復が大変なことであると判断した了以は鴨川の河川敷の中に氾濫から絶縁して別の恒久的な水路をつくる、つまり鴨川に平行して運河をつくることを発案し幕府の許可を得た。これが現在の高瀬川である。慶長八年(一六〇三)に江戸に徳川幕府が開府され政治的首都でなくなった当時の京都はさびれつつあった。これは明治のはじめの京都とその事情が酷似している。明治時代の京都は琵琶湖疏水の開削と発電・市電の開通で京都の起死回生に成功した(図2参照)が、慶長時代のこの高瀬側の開削もそれと同様であった。

この浩二は(一)二条〜五条(二)五条〜丹波橋(三)丹波橋〜伏見の三区間に分けられ、慶長一八年(一六一三)から順次工事が行われ翌一九年に完成している。了以六〇才の年であった。この高瀬川の特長は第一に京都と伏見を直結したことである。それも、鴨川の西側につくられた高瀬川を東九条で鴨川を横断させ(つまり、一旦鴨川に合流させ)鴨川の東側に高瀬川をつくって伏見に通じていることである。第二に各所に水門をつくって水位調整をはかり、川底の浅い高瀬川に船底の平らな高瀬舟を就航させたことである(図1参照)

了以はこの高瀬川開削が完了したとき、過労のため六〇才で没した。このように了以は信長・秀吉・家康の三代に生き、日本のウォーターフロント開発の第一人者としてその輝かしい生涯を終えた。

図1 明治の高瀬川

図2 明治の高瀬川(明治28年以降)

市電が走る 田中泰彦「京の町並み−今と昔」より

2007年-01月-09日

[]甲賀流忍者が結ぶ信州・滋賀と京都

【信州の甲賀流忍者】

甲賀(こうか)流忍術のルーツは長野県北佐久郡望月町(まち)である。平成一三年九月号の同町の広報誌『駒の里』に著者は次の文を寄稿している。

「私の母、望月ちゑは望月本實(ほんじつ)家第十二代目の次女として、明治三三年に滋賀県甲賀甲南町大字龍法師に生まれました。その当時の家は現存し江戸中期の建築と推定され、所有は法人に移っていますが、甲賀忍者屋敷として広く観光の用に供されています。

生前、母の語るところによりますと、十七才ごろというから大正のはじめになりますが、ある夜、十数人の盗族が押し入り、家人二人を殺傷した上土蔵の中の刀剣類を多数盗んでいったという。以後これに懲りて座敷の押入れを開くと、床下から隣家の空井戸へ通じる地下道が作られたほか、葉書一枚を差しこむだけで、はめ殺しの格子窓が開くなど色々な防犯装置が、取りつけられたという。

しかし、戦後、昭和三十年ごろ、地元の考古研究家の調査により、母が住いした屋敷は実は甲賀忍者の隠れ家で、そのカラクリ装置は母の言に反して、はじめからあったことが判りました。

貞観七年(八六五)、信州の良馬の朝廷への献上日が毎年八月十五日、満月(もちづき)の日に変更されました。以後、朝廷には信州の献上馬を『望月の駒』と称するようになりました。

逢坂の関の清水にかげ見えて

今やひくらむ望月の駒

紀貫之の和歌で有名ですが、逢坂の関は滋賀と京都の境の逢坂山にあります。この和歌の枕詞の逢坂の名のとおり、朝廷の役人がわざわざ逢坂の関まで迎えに出ている様子を歌っているのです。

この朝廷が称した『望月の駒』の名がブランド名として信州へ逆輸入され、望月の牧(御牧ヶ原)の地名となり、信州の牧場を広く経営する豪族滋野家から望月・海野(後に真田に改姓)・弥津の三家が分家し、家名としても望月が使われるようになりました。」

【滋賀の甲賀流忍者屋敷】

この信州望月家が生まれたのは今から約千年前で、その一部が約五百年後、滋賀の甲賀の里へ移った。故西山夘三京大名誉教授著『滋賀の民家』の中で甲賀忍者屋敷が次のように紹介されている。

「大正時代に大阪の下町で育った私は、『活動写真』で『目玉の松ちゃん』こと尾上松之助の扮する忍術使いが印を切ってドロンと消えると大きなガマが現れる〜というのを真似する近所の子どもたちをみて、忍術を不思議に思っていた。甲賀流・伊賀流というのはその頃からおぼえている。

JR甲南駅からニキロ程行くと竜法師という集落がある。この家は甲賀五十三家の筆頭格・望月家の屋敷で、約三百年前に建てられたという。(下図参照)望月家第十四代の秀祐さんは私の教え子である。」

昭和五九年六月、甲賀忍者に縁のある望月家の者四六名は、甲賀の里から貸し切りバスに乗って、信州へ向け出発した。私たち一行はその日の午後、望月町に着いた。望月町は昭和三四年に誕生した人口一万二千の小さい町である。軽井沢の西南部に位置し、江戸時代は中仙道の宿場として栄えた。小高い丘の上の望月城址(し)をたずねた。武田勝頼側についた望月城は、天正十年(一五八二)徳川軍に攻められ落城した。いまは昔の落城時の暗いイメージは全くないが、昔の名残りか望月町の町民に望月の姓を名乗る人が一人も居ないと聞いて、歴史は消えないものだと感じ望月町を後にした。

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2007年-01月-08日 中世・庶民のまち京都

[]中世・庶民のまち京都

政経リポート平成16年4月25日号掲載分

<右京の荒廃>

「予(われ)二十余年以来、東西の二京を歴(あまね)く見るに、西京(にしきょう)は人家漸く稀にして、殆(ほとほと)に幽墟に幾(ちか)し。人は去ること有りて来ることなく、屋(いえ)は壊(やぶ)るること有りて造ること無し。其の移り住む処無く、財貧に憚(はばか)ること無き者は是れ居り。或は幽隠亡命を楽しび、当(まさ)に山に入り田舎に帰るべき者は去らず。自ら財貨を蓄え、奔営に心有るがごとき者、一日と雖(いえど)も住むことを得ず。」

これは有名な慶滋保胤の「池亭記」の一節で、平安遷都(七九四)後二世紀を経た右京の衰退ぶりを物語っている。当時の平安京は、左京にも右京にも、幅八丈(約二四メートル、現在の四車線級)幅四丈(約一二メートル、現在の歩道付二車線級)の大路、小路が縦横に走って、道路だけは立派な都市景観を保っていた。

右京の荒廃は、宿命的な自然環境によるものであった。一方、左京も決して良い自然環境でなかった。すなわち、賀茂川の氾濫は市街地に接していただけ、その被害は甚大なものがあった。白河天皇は、天下の三不如意として、賀茂の水・山法師・双六(すごろく)の賽(さい)をあげている。

明治三五年(一九〇二)発行の「京都市実地測量地図」によると、国鉄東海道線山陰本線は右京の広々とした田野のど真中を走っていて、所々に点々と小さな集落があるだけであった。これがわずか百年前の京都のまちの実像であった。

<すごろくのまち>

博奕(ばくち)はいつの世にも絶えることがない。「今昔物語集」にも、双六(すごろく)が原因で刃傷沙汰を引き起こした話が数多く載せられている。「双六、博奕、貧欲の者、必ずや盗人の基なり」と役所が禁令を出しても、きかぬ者に通じるわけがない。カケマージャンが絶えることのない今の世と全く同じである。平安時代では、道路にたむろする博戯の輩(やから)を検非違使(けびいし)が捕えても、「今日一日だけの博戯だ」と弁明すれば、すぐ釈放されたらしい。鎌倉時代に入っても、博奕の流行は続いている。

<質屋のまち>

高利貸、質屋、ローンといわれる金融も人の世につれ、切り離すことのできないのは今も昔も同じである。室町時代のはじめ、伏見に宝泉という土倉(どそう)が住んでいた。土倉とは、金融業を営む質屋のことで、その名の由来は、彼らが質的保管を保障する土の蔵にあった。彼は比叡山延暦寺支配下の下級僧侶で、半僧半俗であった。彼ら下級僧侶は堂衆と呼ばれ比叡山三塔の東塔・西塔・横川(よかわ)の仏のお守りをする僧侶であった。しかし、正式の僧侶でないので、彼らには一切の給付がなかった。彼らは比叡山の権威を生かして金融に乗り出したのは、生活のための止むを得ない手段であった。

宝泉は土倉の業を営む者としては深く仏教に帰依し、盛大な法事を催したり、寺院修理に多額の寄付をしたりしている。それだけ収入が多かったともいえる。正和四年(一三一四)洛中の土倉に税が課せられたが、その課税総額の八割以上が比叡山配下の土倉であった。しかし、応仁の乱を境にして、これらの土倉は一般人によって行われるようになった。

サラ金の返済ができなくて会社をやめる人が多い今の世と同じく、室町時代の終わりごろになると返済金に困る人々が増え、室町幕府の内政の乱もあって土一揆がたびたび起き、その都度土倉が狙われていた。土一揆隊と幕府軍が清水坂で戦端を開き、土一揆隊が東福寺を占拠したこともある。この土一揆に対する幕府の無能ぶりが、土倉の自衛化、武装化につながった。この武力を有した土倉が、やがて町衆の自衛体制の中核となっていったのは自然のなりゆきであった。

これらの町衆は金力を誇示するだけでなく信仰心が厚かった。そして、商売の繁昌により、庶民の間にも富への欲望が増大し、布袋、大黒、夷(えびす)など福神信仰へとつながっていった。

秀吉、家康の時代、後藤・茶屋の二家とともに「京の三長者」と呼ばれた角倉(すみのくら)了以の祖父の時代には、嵯峨で土倉を営んでいたことは余り知られていない。

2007年-01月-07日 四百年後の京都

[]四百年後の京都

政経リポート平成16年4月15日号掲載分

(衝撃の出会い)

昭和末期の昭和六〇年代のある日、旧制高校の先輩で特に交際が深かった河野卓男(故)ムーンバット株式会社社長(当時)から突然次のような質問を受けた。

「望月君、君は京都市を退職した後、京都市大阪市・神戸市の三都市の学者・研究者・市職員・同OBで日本都市問題関西会議なる組織をつくってまちづくりの研究をしていると聞いたが、最近刊行された『文明の研究』という本を読んでるか。読んでないなら必ず読まなければ後悔するぞ。村山節(みさお)という筆者で、副題として『歴史の法則と未来予測』と書かれている。要は日本をはじめとして、世界の文明の歴史は一つの例外もなく、その文明波動は高調期八〇〇年、低調期八〇〇年に分かれ、一六〇〇年周期の整然としたサインカーブを画いている。そのうえ、東洋と西洋で、そのカーブが八〇〇年ずれている。そのカーブの転換期には戦争・天変地異が続発している。その転換期が西暦二〇〇〇年の今なのだ。早くその本を読まないと大変なことになるぞ」

早速、発行所(京都)へ走り、その本を必死の思いで読み通した。しかし実感が湧かない。聖書の予言にも似ている。早速、日本都市問題会議の世話人に連絡すると、一度河野卓男氏にその話をしていただこうということになった。京都でその講演会を開いたが、皆半信半疑の気持ちが消えず、会員一人として反論できないままに終った。

(著者の研究結果)

人類の大文明は偶然の所産でなく、宇宙と地球物理と人類との関係におけるエネルギー周期をもっている。そのエネルギー周期は約一六〇〇年変換型(誤差プラスマイナス五〇年)であって、低調波と高調波のくり返しのパターンをなしている。人類のあらゆる偉大な文明とはひとつの例外もなく高調波時代の所産である。

高調波の前半期には偉大なる芸術的文化が創造され易く、後半期には偉大なる最高文化(思想・哲学・宗教・科学など)が創造される傾向がある。約八〇〇年ごとに世界史転換期が必ず到来している・この世界史転換期は、低調波から高調波へ移る際(例えば東洋)は一時期の大変化期であるが、高調波の終末期(例えば西洋)につづく場合は大文明の終末の大断層となっている。

実証によれば、東の文明(メソポタミア、インド、中国、日本など)と西の文明(エジプト・エーゲ海、ヨーロッパ)は高低正反のクロスサイクルとなっている。

世界史転換期は、何らかの不明な原因による地球のエネルギーと気候の激変期で、ユーラシア内陸その他では大干ばつとなり、飢えた人々の凄惨な民族移動発生となり、史上の多くの大文明は移動侵入する北方蛮族の殺戮流血のなかに亡んだのである。(右図表参照)

(日本の文明転換期)

日本の文明転換期は右図表に示すとおり、西暦二〇〇〇年の現在から数えて前八〇〇年間が低調期で、西暦一二〇〇年が前の文明転換期で、その時点から前八〇〇年間は高調期となっている。具体的に検証することとする。

京都市は平成六年(一九九四)に平安建都一二〇〇年を迎えている。つまり西暦七九四年は右図表の高調期の頂点にある。飛鳥奈良とともに平安文化が大いに栄えた時代に当る。

次に西暦一二〇〇年の文明転換期はどうであったか。西暦一一五〇年以降、諸国で大飢饉が続き、京都では疫病流行、大火、鴨川氾濫などの天変地異が続発した。また、戦争が頻発し、遂に文治元年(一一八五年)三月、源氏軍が長門壇ノ浦で平家を全滅させ、安徳天皇入水という史上稀にみる大事変が勃発した。さらに、同年七月には京都市東山五条付近で巨大地震マグニチュード七・四、兵庫県南部地震の二倍)が発生し、市中の家屋の大半が倒壊した。その後鎌倉幕府が開かれ、ここに輝かしい王朝文明が亡ぶに至った。その後の五〇年の間にも、諸国大飢饉、鎌倉洪水と地震、京都洪水と大火、承久の乱など天変地異・戦乱が続いている。

西暦一二〇〇年の文明転換期を経た後、八〇〇年の低調期に入り戦乱の絶えない暗黒時代(中世期)に突入する。この低調期の最低点の西暦一六〇〇年(慶長五年)に天下分け目の関ヶ原の合戦が行われたことはこの書の真実を証明するものであろう。

いま、日本をはじめ世界中が文明転換期の真只中にある。日本は明治・大正・昭和の三代にわたり富国強兵策を取った結果、昭和一六年(一九四一)対米英へ宣戦布告、昭和二〇年(一九四五)広島・長崎へ原爆投下、敗戦、平成二年(一九九〇)経済バブル崩壊、続いて経済大不況と苦難のみちをたどっている。また、大地震も多発し、昭和一八年(一九四三)の鳥取地震をはじめとして現在まで日本全国でマグニチュード七クラスの地震が二〇回以上発生している。

今後も転変地異の発生は避けられないが、日本を含む東洋は徐々に文明高調期に入りつつあることが唯一の救いといえよう。反対に、西洋の文明は没落の危機にあることが注目される。

(著者の開眼)

村山節著「文明の研究−歴史の法則と未来予測」は昭和五九年(一九八四)に刊行されて今年で二〇年になる。この書の「あとがき」の一部を次ぎに紹介する。

「まだ私は二六才だったが、文明周期を発見したのはその頃であった。大型の画仙紙をつないで幅約一メートル、長さ一〇メートルぐらいの丈夫なロールペーパーを作製し、その上に正確な年代目盛りを付け、それに対応させて諸民族の盛衰、文化の様態、あらゆる主要事件を記入したのである。六千年の人類文明がひと眼で見渡せるのだ。

この図表から文明は興亡盛衰する、つかの間の光明で、文明と文明の間には暗黒時代が必ずあったし、所々に人類文明の大きな断層があった。その断層期に赤エンピツで区分線を入れた。ある日、それを見渡してギョッとした。赤エンピツの線と線の間隔がほぼ同じに見えたのだ。」

(四百年後の京都)

この書の東と西の文明境界線は紅海−レバノン−シリア−アルメニアを通る南北線とされている。このことからイスラエルパレスチナ・イラン・イラクはすべて東の文明圏に入る。

四百年後の世界文明はどうなるか。その答えは図表を見れば明らかである。東洋文明は再び開花を続け四〇〇年後にその頂点に建つ。一六〇〇年前の平安京創建の時期と合致する。逆に西洋文明は再び暗黒の時代に突入し、天変地異・戦争の頻発に悩まされ続け、四百年後に最低点に立つ。

今後四百年間は東洋文明が栄え、西洋文明が没落していくので、西洋民族の東洋への大移動が出現する。日本にも世界中から多くの人々が流入してくる。文明の中から文字を中心に視点を置くと文化という表現になる。

日本文化は今後も京都が中心になる。今後いかに文化や科学が進んでも、歴史的文化遺産の評価は上昇し続けるであろう。平安京が復元された町になっているかもしれない。そのためにも、天変地異に耐えるまちづくりが必要となろう。平安建都一六〇〇年の花の都、京都を夢見るばかりの思いである。

2007年-01月-06日 保津峡秘話

[]保津峡秘話

政経リポート平成16年4月5日号掲載分

秀吉・家康の時代、後藤・茶屋とともに「京の三長者」といわれた角倉(すみのくら)了以は、慶長一一年(一六〇六年)に大堰川(保津峡)の開削の難工事を成功させた。この開削により丹波から嵯峨まで船がはじめて通じることになり、これまで陸路で運搬していた五穀その他の物資が船で運ばれることになり、京都の経済に計り知れぬ利便をもたらした。

大正一一年四月三日、嵐峡鉄道(現在のJR嵯峨野線)の保津峡鉄橋(清滝)の上で、いまだに原因不明とされているが、走行中の客車が突然迫り上るという奇妙な列車事故が発生した。このとき乗っていた田中源太郎氏(嵐峡鉄道創設者)が保津峡へ転落し水死するという信じられないような悲劇が起った。

明治二八年に開催かれた平安遷都一一〇〇年記念事業のうちの一つに、「山陰線建設計画」があった。この鉄道を国に代って開通させたのが、政治家であり金融王である田中源太郎氏であった。

昭和のはじめから四十有余年、筆者が住んでいた中京区新町通り錦小路上る百足屋町の町内に田中一馬(源太郎氏の子息)の表札が掲げられた豪邸があった。この豪邸は料亭「伊勢長」に引き継がれ今も残っている。

子供のころの筆者は母から次のような世にも不思議な物語を聞かされていた。

『田中源太郎という大高利貸しが自分で開設した鉄道を利用して保津峡に差し掛かったところ、鉄橋の上で汽車の中から保津峡へ転落し藻にからまれて水死体が発見されなかったそうな』

昭和三七年、筆者が京都市役所運繕課で建築設計の仕事をしていたところ、嵐山に建設会社を構える大島組の大島社長が朝早くからやってきて、いつものように世間話をはじめだした。

「望月さん、その話は少し違う。田中源太郎さんが保津峡の鉄橋の上から転落したのは本当やけど、水死体が発見されなかったというのは間違いや。なぜならその死体を発見したのはこの私やから」

大島社長は珍しく口をとがらして喋り続けた。

「若いころの私は保津峡で水難事故があると、必ず水難救助隊に参加して舟を出したものです。その事故のあった日、私も舟で転落した附近の水面を探したが、水死体は見付からなかった。そこは長年のカンで直ぐ川に飛び込み側崖の下へ潜った。そこにはいくつもの洞穴があるんです。果して、その洞穴の一つの水面に水死体が浮かんでいた。

なぜ、こんなおかしな事故が起こったのですか。そんなの当然のことで、弁天さんの祟りですわ。田中源太郎さんが弁天さんのおられる真上に鉄橋を架け汽車を走らせたので弁天さんの怒りに触れたんや」

田中源太郎氏は嘉永六年(一八五三年)、旧桑田郡龜山北町に、田中蔵一氏の次男として生まれた。父は元龜山藩の会計方を務め、廃藩後は貸金業をはじめ、明治一七年(一八八四)年、龜山銀行(現京都銀行亀岡支店)を設立している。

明治一七年、田中源太郎氏は若冠三二歳で京都府会議長、京都株式取引所頭取となり、同一九年に京都商工銀行を創立し、衆議院・貴族院議員となり国政にも関与した。特に金融関係については、北海道拓殖銀行、日本興業銀行、朝鮮銀行などの創立委員として活躍した。さらに日本銀行など中央財界にも大きな影響力をもち金融王の名をほしいままにした。

JR亀岡駅の近くにある料亭「楽々荘」は田中源太郎氏の旧邸宅を引き継いだもので、明治期を偲ばせる洋館と大広間が造られ、京庭風に洗練された庭(七代目小川治兵衛の作)があり、風雅に富んだ建物である。