『リア王』を読み終わった。
光文社古典新訳文庫
安西徹雄訳
作者はもちろんシェークスピア。
序盤、リアはただの癇癪玉、頑固オヤジ
Wikipediaから引用しますに――
ブリテンの王であるリアは、高齢のため退位するにあたり、国を3人の娘に分割し与えることにした。長女ゴネリルと次女リーガンは言葉巧みに父王を喜ばせるが、末娘コーディリアの率直な物言いに、激怒したリアはコーディリアを勘当し、コーディリアをかばったケント伯も追放される。コーディリアは勘当された身でフランス王妃となり、ケントは風貌を変えてリアに再び仕える。
――という場面から物語ははじまります。
リアは自分へと愛情のすべてを注ぐと明言しない末っ子のコーディリアにご立腹。彼女は、夫を持つからには夫に愛情を注ぐのであって、「すべての愛情を父親に注ぐ」といってしまうことが嘘になる、といかにも若さが言わせそうな率直な言葉を貫く。
この程度の発言に勘当するなんて、ひでえ父親もあったもんだ。
臣下のケントはリアのこの短気さ頑固さを批判し、後悔するからやめておけと諭す。これがリアの怒りに触れて国外追放。
ここまでが17ページを費やして語られるわけだが……。
四大悲劇*1との前知識はもっていたが、リアがその悲劇の中央にいるのだとしたら、いやはや、悲劇などとは片腹痛し、この頑固な老人気質の自業自得ではないか、と早々に読後の感想を胸に抱かされた。
読後もその感想を持ち続けるのは少し躊躇いもするのだが、それも所詮物語が持つ騙しの作用に過ぎず、一歩引いてみればやはりこれは自業自得じゃないかと思うところは譲れない。
中盤、リアは気が狂う
エドマンド*2の野心に満ちた策略が進行する傍ら、二人の娘に追い出されてしまったリアの様子が語られる。
老人(リア)が雨風に晒されていることは現実的に考えれば情を揺さぶる風景なのだが、なにぶん劇であるし、退位したにしては口出しが多く好き勝手し放題だった実情を考えると、やはり自業自得じゃないかこの爺さん、と思ってしまう。現代なら老害という言葉でくくられている存在だ。
この辺りは同伴している道化とのやりとりが面白い。
終盤のリアは気の毒
自業自得とはいっても、最後まで来ると同情してしまう。
衰えた人間の苦痛と悲しみを前にしてまで罵倒する気にはなれない。
『リア王』という物語は、本来愛すべきであるまことの宝を人間的もろさで追放してしまうも追放された側は姿を変えて彼に寄り添いその運命を見守る物語だ。リアとケントの関係然り、グロスターとエドガー*3の関係然り。どちらも追放した側は追放された側に看取られている。不信を心に宿し苛烈に他者を追放したものは、彼を愛する人の支えがあってもなお神が与えた罰を身に感じながら息を引き取る定めなのだな、というのがとんちんかんかもしれないが私の感想だ。
そんなことより、決闘の下りがよかった。
クライマックスらしいテンポの良さで話が進む。正体を隠したエドガーが策謀でのし上がったエドマンドに手袋を投げる。エドマンドもこれに応じる。*4一連の流れが興奮を呼び、最後の最後、リアが息を引き取る場面まで興奮は持続し彼の抱く嵐の感情がこちらの胸に流れ込んできた。
劇文学
劇文学*5にはじめて接した頃は、なんとも読みにくいし大仰で退屈だと思ったものだ。今でもその印象はあまり変わっていないが、退屈というのなら普通の文学の方がよっぽど退屈だし、大仰であることはむしろ劇文学の魅力だし。なにせ劇なのだから。
『リア王』を読んで、劇文学がちょっと好きになったかもしれないと思って、これまで読んだ劇文学を振り返ってみると、リアは四冊目だった。
多分、今後、新しい劇文学に手を出すことはないだろう*6。
気に入った台詞
道化
「 父親ボロ着りゃ
子は見て見えぬふり
父親金持ちゃ
子は孝行のふり
運命の女神は名うての売女
貧乏人にゃあ目もくれぬわさ
だってさあ、あんた今は、娘の厄介になってる身だもんな。厄介者扱いされたって、文句の言えた身分じゃあるめえ。」
リア
「ええい、腸がにえくり却って、熱い塊が胸先に突き上げてくる! 下がっておれ、この、こみあげる悲憤の激情! 貴様の居場所は腹の底だ。娘はどこだ?*7」
コーディリア
「私一人のことであったなら、たとえ移り気な運命の女神がしかめ面を見せようと、立派に睨み返してやろうものを。」
エドガー
「名はない。謀叛人の牙に噛み砕かれ、食い千切られた。」
*1:『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』のこと。Wikipedia調べ。
*2:リアの臣下であるグロスター伯の次男。ただし長男と違って庶子。
*4:一方が決闘を申し込み、他方が受諾すれば決闘が行われる。申し込みの方式は、手袋を投げるか、相手の顔を手袋で叩くことによって行い、相手が手袋を拾い上げれば受諾となる。ただしこれ以外に、決闘状を送りつける方法や、代理人を向けて決闘を申し込む場合もある。Wikipedia調べ。
*5:それとも戯曲と呼べばいいのか。でも上演されるのではなく読むのだから劇文学の方がしっくりくる。個人的に。
*6:て、劇文学読み終わったらいつも思ってる。
*7:《腹の底だ。》で引用をとめようとしたのだが、続く《娘はどこだ》が訳者が気を利かせて韻を踏んでいるのだとしたら一大事と思ってつけたした。考えすぎか。