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備忘録の集積

2012-04-23

[][]近代リアリズムの発生について

 中村光夫の『風俗小説論』の二周目を終えたので、私的メモ――まさに備忘録的な――としてエントリをあげます。

※注意点

・全4回のエントリ

・私(ブログ主)は日本文学に疎い。*1

・『風俗小説論』の最後で語られる作家 丹羽文雄 についての一連の批評は氏の著作を読んだことがないため理解できなかったのでざっくりと割愛*2

・基本的に私的メモ*3。他者に語りかけるような文章は仕様です。

・引用部分の前に引用元の頁数を記載します。また、《》は本書からの引用を意味します。

 

風俗小説論 (講談社文芸文庫)
中村 光夫
講談社
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 本書は中村 光夫(1911〜1988年)による私小説批判を中心とした評論。「私小説が日本の小説を駄目にした」という説を聞いたことがあったが、本書がネタ本の模様。


近代リアリズムを導いた三名の作家

 中村光夫は日本の自然主義文学定形がまだ与えられいなかった過渡期に着目し、三名の作家がどのような思慮に基づいて創作に当たったかを説いています。

風葉 『青春』

 ツルゲーネフの『ドミトリ・ルージン』の模倣ないしは翻案と見なされる作品であるが、風葉はおそらく『ドミトリ・ルージン』に用いられた技法を理解できておらず、そのため『青春』の登場人物は生気を欠いている。

藤村 『破戒

 ドストエフスキーの『罪と罰』の翻案*4。とはいえ『罪と罰』を離れた独創性を持っている。主人公・丑松はラスコーリニコフをモデルとしつつも、その本質は藤村の血肉を盛った人物であった。

 しかし「ヴィヴィッド」に描かれているのは丑松だけであり、他の脇役は丑松から見た外形ばかりで中身がない。

花袋 『蒲団

 ゲルハルト・ハウプマンの『寂しき人々』の模倣*5

 注目すべきは、花袋はハウプマンを模倣したのではなく、『寂しき人々』の主人公ヨハンネス*6模倣したのだという点。

 

私小説の典型

 時代に選ばれたのは花袋の『蒲団』であり、これが私小説なるものの嚆矢となりました。しかし、現代から当時を振り返って見れば、藤村の『破戒』の方が「西欧の近代小説家の創造の秘密」に近づいていたといえるというのです。

 中村光夫は次のように花袋の『蒲団』の欠点を指摘しています。

P52-51

 普通、告白は自己に対する反省を動機とします。自己批評のない告白とはそれ自体矛盾である筈なのに、我国の最初の告白小説が、まさしく作者の自己批評の喪失によって成立したのは、特異の現象として注目に値します。(中略)

 「蒲団」の作者の主人公に対する態度は「青春」における風葉にくらべても、また「破戒」の藤村にくらべてもずっと甘いのです。風葉の場合は、作者と主人公とはいわば他人同士なのですから、「作者が残酷なまでに、最後のページまで、主人公の弱点を抉るの刀を措かなかった」のは、もとより当然かも知れませんが、「破戒」ですら、藤村が「主観的感慨を以て塗りつぶした」のはただ丑松の心理だけであり、彼の周囲にはそれとは別な作者の眼で眺められた自然と社会が拡がっています。

 ところが「蒲団」では作者の自己陶酔の傀儡である主人公が作品一杯に拡がって、そのほかには誰もいないのです。

 

花袋が『蒲団』で犯した二つの錯誤

 上記引用を掘り下げているのがこちらの引用部分。

P54-55

(前略)しかしたとえ当時の時潮から見れば必然の産物であったにしろ、「蒲団」が近代小説の性格についてのある大きな錯誤にもとづいて制作されたという事実に変わりはありません。(中略)

 その錯誤とは何かをここに要約して云えば、それはほぼ次の二点に帰着します。

 第一には花袋がせっかく「寂しき人々」に「頭と体とを」深く動かされながら、作家と作中人物との距離をまったく無視して、自分をフォケラァトに擬すれば、そのままハウプトマンになれると速断したこと。近代文学のもっとも大切な次元のひとつを見落として、作者即主人公という奇妙な定式を、近代小説の要求する真実の名の下につくりあげたこと、そのために作家はその作品の主人公を彼を超えた立場から批判する自由を奪われ、たえず主人公の内部に縛られていなければならないことです。

 第二にはこのような構成の当然の結果として、主人公は作品と同じ幅に広がってしまい、しかも作者と主人公は絶えず同一視されるため、作品全体が結局作者の「主観的感慨」の吐露に終わってしまうことです。「蒲団」とそこから流れでた我国の私小説は本質的に他人の登場を許さない小説なので、その基調は作者(または主人公)のモノローグです。

 たとえば『ボヴァリー夫人』の著者フローベールが、エマ(ボヴァリー夫人)は私だ、と発言したことは有名ですが、これは「作家 = 主人公」を即座に意味しません。少なくともエマは、フローベールのような文学的才能とは無縁の人物として造型されています。フローベールはあくまで自身の内にある一つの性質を取りだし、それを一般化したまでです。この一般化・類型化の段階をふまえることでリアリティを得ようとするのが西欧のやり方でした。

 ところが、これを真似たつもりの花袋は、一般化の段階をすっ飛ばし、「作家 = 主人公」の定式を何のひねりもなく使い、これこそが真の小説の書き方だと信じるようになりました。主人公像を具体的に書けば書くほどこの定式は確かなものとなりますね。

 西欧の技法は一般化、日本の私小説技法は具体化。正反対の方向性を示してしまいました。これでよいものが書ければよかったのですが、小説技法としては、メリットよりもデメリットの方が勝っていたようです。

●デメリット1

 フローベール(作家)にとってエマ(主人公)は一般化された存在ですから、作家は主人公を俯瞰的立場から批判することができます。しかし作家と主人公が同一であれば、批判的視座に欠けるというわけです。

●デメリット2

 批判的視座に欠けるということは、作家の感想文のようなものにしかなり得ません。もちろん、それが「読み物」として退屈であるとは限りません。作家のA氏が何を思っているか/思ったかは興味深いことかも知れません。が、「小説」としての可能性はかなり捨ててしまったと言えます。

 しかし、これらのデメリットが自覚される日は、私小説が生まれた時代よりずっと後となったのです。

*1:疎いくせに日本文学史エントリを書くという暴挙!

*2:いや、どの作家の著作も読んだことないのですが、丹羽文雄に関しては、しったかぶることができなかった。

*3:所々雑だったり、脈絡がなかったりすることに対する言い訳。

*4:人物配置が『罪と罰』そのまんまらしい。

*5:花袋当人が明言している。

*6:このヨハンネスは、フォケラァトと同一人物なのだろうか。グーグル検索してみてもフルネームが出てこないので分からない。

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