よいお年をお迎えください。

ちっともブログを更新できないまま、クリスマス・イブになってしまいました。

お陰さまで、仕事面では次第に充実してきていて、ホーチミン市の他、ハノイでの事業展開にも可能性が出てきています。

Facebookページは、「IEEF-一般財団法人-国際教育交流フォーラム」に逐一書くようにしていますので、ご覧いただければ助かります。

堀江個人のFacebookは、https://www.facebook.com/keishu48 です。

しばらくは、ブログ更新もままならないかと思いますので、申し訳ありません。これも、本業が充実してきて多忙になっているからとご理解いただければと思います。

では、皆さま、よいお年をお迎えください。

「グローバル化」が流行りですが…

この数年、教育分野でも何かというと「グローバル化」が取り上げられます。私たちもまるで、何か、「グローバル化」に乗り遅れたらたいへんな事態になるとも思われる新時代の枕詞(まくらことば)であるかのように「グローバル化」という言葉を使っています。

しかし、ちょっと立ち止まって、「グローバル化」の意味をもう一度、吟味することも必要かも知れません。

「国際化」との違い

グローバル化」という言葉が流行る前には「国際化」がしきりに言われました。こちらは、文字どおり国家と国家との間のことに適用されますから、わりと分かりやすい言葉です。日米間のこと、日中間のことなど「国際=くにのきわ)」に横たわる事象です。しかし、それが多国間になると、より複雑な関係になり、地球上の多くの人々が関わることとなれば、「グローバル」なことだと考えなくてはなりません。

こうした言葉は、たいていの場合、政治・経済が牽引しますから、「国際化」とは歴史的には西欧などの植民地主義によって引き起こされた政治・経済活動がその言葉を生み出したといってもいいかも知れません。しかし、「グローバル化」は、それとは違い、地球規模での政治・経済活動の活発化によって、否応なく生じてきた現象と言うほうが当たっているでしょう。

そして、国境を越えた教育交流活動についても同様なことが見て取れるのです。

教育交流分野での「グローバル化」とは?

以前から、大学が「秋入学」にすれば海外からもっと留学生が来るようになる、といった制度論的な国際教育交流論議には私は組してきませんでした。なぜならば、本当に留学したい人は半年待たなければならないことくらいで留学を思いとどまったりはしないからです。それよりも、海外からの学生か、その国の学生かなどには関わりなく、教育機関として、どのような優れた教育を提供できるか否かが留学生を増やすための最大のポイントであることくらい、ちょっと考えれば誰にだって分かるはずです。

したがって、東京大学が「秋入学」を言い出したときにも、「東大は東大で自由に進めるのがいいのではないか」くらいに思ったのですが、何と、あちこちの大学が我も我もと「秋入学」導入の検討に入りだしたときには、正直に言うと、半ば呆れてながめていました。

そして、東大が「秋入学」をやめて、「4学期制」の検討に入ると発表したとき、かなりの大学は「東大に振り回された」と嘆きました。

なぜ、それほど東大を追随したがるのか、私には理解できないのです。大学にはそれぞれの個性があっていいのであり、東大に右へ倣えでは、どのような小さな分野においてさえも、そもそも東大を追い越すことなど出来っこないのですから。

これは、決して「グローバル化」とは呼べない話ではないでしょうか。

非現実的な、どこでも「英語による授業」

「秋入学」と並んで、「英語による授業」も「グローバル化」の一つの象徴のように考えられがちです。もちろん、日本の大学が海外からより多くの留学生を受け入れて、日本語教育をスキップして専門の教育をしたり、研究を共に進めるうえで、こうした授業を設けることが無意味だというつもりはありません。

しかし、改めて考えるまでもなく、基礎教育は自国でそれぞれの留学生の多くが受けて来ていて、専門的な教育を受けようとすることが多いことを考えると、では、いったい、日本の大学が英語で教育出来るそれだけの数の教員を、どうやって揃えるのか、という疑問もわいてきます。また、留学生の90%以上がアジアから来ているわけですから、英語による教育で果たして効率的なのか、という不安もあります。

仮に英語が得意なアジアの学生だったら、英語圏に留学することを、まず考えるのではないでしょうか。そして、日本に留学するからには、仮に専門分野が理工系等の学生であっても、日本語で情報を取れなければ、教室や研究室を一歩離れたら、ほとんど何も分からなくなってしまうことは想像に難くありません。

なぜ、軽視される日本語教育

であるにもかかわらず、日本の留学生政策が語られるとき、日本語教育は得てしてらち外に置かれがちであるのは、いったいどうしたことでしょう。日本の高等教育機関の留学生の6〜7割は日本国内の日本語学校経由であるのにもかかわらず、です。そして、大学の日本語別科の充足率はきわめて低いところが多く、せっかくの海外への窓口も十分に活用されているとは到底言えない状況なのです。

それでも、必要な「グローバル化

もちろん、エネルギーのじつに96%、食料の61%を海外に依存している日本としては、それぞれの自給率を上げる工夫や努力もしつつ、しかし、諸外国・地域との協調を重視せざるを得ないわけですから、カネ、モノだけでなくヒトのグローバル化も進めなければならないというわけです。

しかし、それが、なかなか難しいことは、皆さん、よくご承知のとおりなのですが、「グローバル化」とは必ずしも一局面だけで進むものではなく、経済も技術も教育も、時間的な進捗に差があるものの、やはり相互に関わり合いながら進むものです。したがって、経済や技術がグローバル化しつつある今は、ヒトの「グローバル化」のときでもあるはずです。

そして、それを着実に進めるためには、海外から留学生を迎え入れて知日派を養成し、また、海外に日本人学生を出して、どこの人とでもことさら構えずに平然とつき合っていける若者を育てていくことこそ、日本社会が「グローバル化」するための王道だと考えるのです。

大学は、もっと独自の視点での交流プログラムを

現場から聞こえる悲鳴

最近、あちこちの大学関係者から聞こえてくることで気になっていることがあります。

G30に始まり、グローバル人材育成支援事業、大学の世界展開力強化事業などの文科省による一連の大学の国際化・グローバル化支援事業は大学にとって大きな財政支援策となっていますが、じつは、その支援を受けることになった大学の一部からは悲鳴が聞こえてきているのです。

文科省から要求されていることは、かなりレベルの高いことが多く、これに呼応できる大学は限られているのではないかと感じました。

いくつかの大学では、申請書類を書く人が学内には見つからず、外部のシンクタンクやコンサルに書類作成を依頼して、採用になっています。

大学の実態とはかけ離れた、背伸びをした計画で申請して、採用が決まった場合、困るのは大学自体、大学の現場の教職員であるわけです。

具体的には、「そんな英語力がある学生は、ごくわずかしかいない」「そもそも、一定期間、海外に行こうという学生がほとんどいない」という声を複数の大学から聞きますし、シンクタンクやコンサルに実施まで投げてしまいたいという大学もあるわけです。

文科省の意図は、少しでも学生の交流のレベルを上げたい、そのためには財政支援を強化したい、ということなのですが、それに見合った学生や事業を抱える大学が必ずしも多くはない、ということなのです。

では、どうすればいいのか

これへの対応策はなかなか難しいです。

ひとつには、学生の語学も含めた国際的対応力を大学入学以前から高めることですが、それは、必ずしも大学の問題ではなく、初中等教育段階での課題であるわけです。

OECD諸国中、最低の部類に属する日本の教育予算で、それをしろというのも酷な話で、まずは、上述の諸事業のような国際化・グローバル化の強化策の事業に乗るような児童・生徒・学生をつくっていくことから始めなければならないのだと考えます。

高等教育段階で、急に強化しようとしても、慌ててメッキをしたり、ペンキを塗ったりするのに似て、すぐに表面が剥げ落ちて、地が出てしまうのがオチではないでしょうか。

もちろん、まったく無駄だと言うつもりはさらさらありませんが、より効果を上げる方法を考える必要はあります。

大学では、背伸びをせずに、実態に合った、しかも、学生の力を少しずつ強化する教育プログラムが必要ですから、あまりに高過ぎる目標を掲げるのは自制すべきでしょう。

文科省も、実態からかけ離れた計画の応募を、より現実的なレベルに抑えて、少しずつ、引き上げていく方法を考えなければならないかと思います。

ただ、予算の性質上、5年間などの時限的な財政支援期間ですと、どうしても中長期的視点を持たせるのが難しいことも確かです。

悩ましい問題ではあります。

しかし、貴重な国民の税金でまかなう事業ですので、知恵を寄せ合い、より効果的な支援事業を考える必要があることは確かです。

「秋入学」騒動

秋入学

東京大学が秋入学を検討していると言いだしたとたんに、あちこちの大学で追随する動きがあり、また、産業界でも、それを歓迎するとの意見表明があったことは皆さんもご承知のとおりです。

そして、今週、東大は秋入学導入を見送り、4学期制への移行を検討するとの発表をしました。

すると、秋入学を検討していた各大学からは、東大に振り回された、と苦情が出たようです。

いやいや、情けない限りですね。

そもそも、東大が秋入学を検討したのは、欧米等の大学との学生の交流をしやすくできるから、というのが最大の要素だったのですが、では、高校との接続をどうするのか、「ギャップ・イヤー」なる策も提案されていました。

「振り回される」必要はない

ここで問題にしたいのは、東大が秋入学を検討したと言っては、それに追随し、やめたと言っては、振り回されたと文句を言う、その他の大学の姿勢です。

東大は東大で、独自の方法を取れば宜しい。その他の大学も、それぞれの学期制などを採用すればいいでしょう。べつに、すべて東大に倣う必要など、さらさらありません。

4学期制は、学生も先生もかなり忙しいはずですが、たしかに海外との学生の交流を考えれば、よりフレキシブルで具合が良いことは事実ですから、これは卓見と言えると私も考えます。私も、秋入学論議が始まったときに、このブログで、秋入学にすれば国際化されるというものでもない、と書きました。

より柔軟な学期制にして、なるべくいつでも留学生を受け入れたり、送り出したりできる制度にするのが望ましいのです。

もっとも、事務職員がきわめて多忙になる可能性もありますし、今のスタッフの数では難しくなるときいうこともあり得るでしょうけれど、これも「グローバル化」の一つの過程に必要なことなのだと考えます。

ご無沙汰しました。ブログ再開宣言です。

1年もブログを中断していて、申し訳ありませんでした。更新できない間も、アクセス数は増え続けていて、書かないと申し訳ないなぁ、と心苦しく思ってきたのですが、今後、少しずつ、書いていこうと思います。

この1年ほどは、JAFSAのメーリング・リスト[hiroba]には週1回のペースで書いてきたのですが、メーリング・リスト[hiroba]は、廃止され、告知のみの[station]に変更になり、意見等はJAFSAのウェブに書くようになりましたので、これを機に、また、主に、こちらのブログに書くようにいたします。

IEEFの近況についてのお知らせ

とりあえず、最近のIEEF(こちらのHPも更新できていませんが、間もなく、リニューアルする予定です。)の動きをお伝えします。

  1. 約1年前から準備してきたベトナム国家大学ホーチミン市人文社会科学大学との連携による日本留学・日本企業就職コースは、この9月上旬に開講します。目下、同大学と開講準備を進めています。
  2. 朝日新聞でも報道された日本留学拠点の開設は、カウンターパートのマンパワーが激減してしまったため、協議の結果、ホーチミン市内の別の場所に今年中のオープンを目指して準備をしています。日本の大学や日本語学校等の活動の拠点としても活用していただく予定です。
  3. ハノイの国営大手IT企業HANELと進めているハノイ・ソフトウェア・テクノロジー・パーク内のICTカレッジ及び大学の開設準備はゆっくりですが進んでいます。開学は早くて2016年になるかと思います。連携する日本の大学を探してきましたが、ようやく目途がつきそうな状況です。
  4. その他、従来進めてきた事業についても、諦めたものは一つもなく、少しずつではあっても進めています。
  5. 近々、IEEFの体制を改め、常勤の理事を3人増やし大幅にパワーアップします。それぞれがこの分野で長年活躍してきたエキスパートです。正式決定後、HP等でお知らせいたします。

「グランド・デサイン」の描き手がいない?

国際教育交流に関心がある人たちが出会うと、どうも似たり寄ったりの嘆き節が聞かれます。

「日本の今の閉塞状況は、どうも“グランド・デザイン”を描く人がいないからなんだと思う。」

「このままでは、日本はまずい。世界から忘れ去られ、次第に消えていくのではないか。」

私も、よくこんな話を友人・知人としがちです。

しかし、改めて振り返ってみると、こういった話は、1980年代末くらいから国際交流に関わりを持つ友人・知人間でしていた記憶があります。

だいいち、この日本社会のグランド・デザインなど、そうそう簡単に描けるものではないし、これまでにだって描かれたためしがあったのかどうかも定かではありません。

それに類するものでは、約2年前に出た「新成長戦略」*1が挙げられるかも知れません。そして、その後、3.11があり、「新成長戦略」の実施は著しく減速してしまいました。この5月10日の国家戦略会議でも、新成長戦略の成果は1割でしかないと指摘しています。*2

新成長戦略を受けて開始されたグローバル人財育成を目指す、文科省の事業の方針などを見ると、もし、仮にこれが実行され成果をあげれば、この分野での人財育成には大きな成果が上がるに違いないと考えたくなります。しかし、大学も、もし仮に、政府がやれと言うからやっているといった受け身の姿勢であるならば、たんに国家予算を右から左に遣い、その効果は大きいものとはならない気もするのです。

さて、話が逸れました。

国際教育交流分野において「グランド・デザイン」と言うときには、日本という国家全体と世界を視野に入れて考えなければならないことは自明のことですが、果たして現実はどうなのでしょう。

ここでも、中央官庁と国の予算とに関わることは、省庁縦割りのままにしか発想されない傾向がきわめて強いと言わなければなりません。

このブログでも何度も触れてきたように、「海外の日本語教育」(外務省・国際交流基金所管)、「日本国内の日本語教育」(文科省文化庁所管)、「日本の高等教育機関」(文科省高等教育局所管)、「日本企業・日系企業」(経産省厚労省等所管)の連携はほとんどできていないに等しく、その全体をオーガナイズする機能を持つところもないのです。関連分野として、少子化による労働力減をどう考えるか、移民についてどう対応するか、といったことも密接に関わってきます。

もちろん、このバラバラさ加減について行政を責めるのはお門違いでしょう。行政機関は、政府の方針に沿って仕事をするところです。

つまりは、この分野においても中・長期展望に立って「グランド・デザイン」を描く思想家や政治家が必要なのです。理念が必要なのです。

私たち関係者は、それがたとえ次の選挙の票には直接は結びつき難くても、国家百年の大計を考えて、それを考え、実行する政治家を育てていかなくてはならないのだと考えます。