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湯浅圭太 日記

 

2014-11-27

2014.11.27

00:07

・最近は移動中にディックの「流よわが涙、と警官は言った」を読んでいるのだが面白い。
現代文学とか哲学を読んでいると、それが入ってくる段階で抵抗みたいなものがあって、だからそれが入ってくる前段階でかなり処理をしてから入れるといった感じなのだが、ディックの小説はスッと入ってくるのだが、その入ってくるものの形が歪だ、という感じがする。

2014-11-24

2014.11.24

00:18

・実家の裏庭で、ずっとほったらかしていた猫が急に病気になりぼろぼろになって異常なほど不吉な顔をして、もうすぐ死んでしまうのが私にはわかって、それでものすごく不安になって餌をあげようとおもうのだけど、餌は他の猫にあげてしまった残りが少ししかなくて、でも仕方が無いからそれをあげるのだけどやっぱりその猫は死んでしまい、それがものすごく悲しいのだけど、その猫の反対側では他に飼っている猫四匹が幸福そうにじゃれあっていて、それがすごく可愛い、という夢を見た。
ちなみに実家で猫を飼っていたことはない。

2014-11-13

2014.11.13

01:43

保坂和志の『朝露通信』に出てくる「あなた」は、人が何かを書いたり、思ったりするときに、その人の心が向かっている「あなた」だ。
以前どこかで保坂和志は、人が何かを書いたりするときには、その人の心が向かっている特定の誰かに向けて書いているのではないか、と書いていた。そういう意味で、この「あなた」は「あなた」のことだ。
保坂和志の「あなた」は「あなた」のことでるが、私の「あなた」は別の「あなた」だし、他の無数の「私」の「あなた」は無数の、別の「あなた」のはずだ。
ラカンシニフィアンはシニフィカシオンを束ねるものだと言う時の意味はこういうことで、ここに一人ひとりの「私」の病が収束していく。
だから、人が誰かと対話をするときに、その相手のしゃべることは原理的に理解不能なので、人はそのとき自らと対話をする。あるいは、そこでそのパロールの意味を決定するの第三者、絶対的な他者となる。この他者信仰することによって人々は「現実」を信じることができる。信仰は証明不能だから、この現実が真実であるという証明も不可能だが、それが真実ではないと誰も言えないのは信仰ゆえである。人々は現実が真であると言えないにも関わらず、現実に生きる。

2014-09-06

2014.09.06

23:12

・眼鏡を買った。
今まで目が悪くなったとは思っていたけど、改めて視力検査で0.2という数字が出ると、よく今まで生存できたな、と思う。というか、もっと目が悪い人とか、原始時代だったら一瞬で死んでるだろ、とか思ったけど、やはり原始時代の人たちは、そう簡単に近視になったりなどしないのだろう。知らないけど。
ともかく、矯正視力0.8はめちゃくちゃ見える。像がシャープになって、それにともなってコントラストが上がり、彩度も一気に上がる感じ。4〜5m先の人の顔がいちいちはっきり見えるのがすごい。今までは顔xnという感じだったが、今は固有の顔がはっきり立ち上がっている感じ。見えすぎて、見ることが面白くて、とにかく凝視してしまう。
ただ、視界は一気に狭くなる。

友達に誕生日プレゼントにaikoのCDをもらった。aikoJ-POPで唯一別格の位置にいる、というか単純にめちゃくちゃ良い。
聴いてると、感動しすぎて本当に泣けてくる。

2014-09-01

2014.09.01

01:08

SNS(ツイッターフェイスブック)を辞めた。
ここ最近、季節の変わり目だからか、体調が悪く、全身がなんとなく怠く、頭痛もし、腰も痛い、というパッとしない感じが続いていて、いつも通りSNSを見ていたら「何でこんなことしなくちゃいけねーんだ!辞めたる!」と発作的に思い、辞めた。
以前から辞めようとは思っていて、自分で書き込むことはかなり抑制できていたのだが、それを見るということは抑制できなかった。いちいち他人が今何を書き込んでいるのか、それを見ることで不快になるにも関わらず、見てしまう。SNS特有の、時系列に情報がズラッと並べられた画面を上下に移動して行くのは、確かにある種の快楽を与えると思う。その快楽は、過剰な情報に利用者を縛り付けるし、それを享受しなければ、情報を取り損なったと思わせるが、しかし実際に与えられているのは時間の消費と無内容な情報である。
SNSは利用者を情報中毒にさせると思う。本当にその情報が必要なのだろうか。誰が何を思っているか、そんなに知りたいのだろうか、と考えてみればいい。誰だってそう思うはずだ。だが、その中にいるときには、そういう風なことを考えさせてもらえない。なぜならみんなもやっているのだから。
この、みんなもやっている、というのが曲者で、そこに入らないと情報を取り損ねるような気がする。しかし、その取り損ねた情報が何だと言うのだろうか。別に、誰が何を食っていようが、どこに行っていようが、何を思っていようが、展覧会の告知を見逃そうが、構わないだろう。本当は。その情報を取り損ねても、展覧会を見逃しても、飲み会に参加し損ねても、それが何だと言うのだろう。
ともかく、SNSをやってみて、辞めて、思ったことは、それは私たちを縛り付けるということだ。何かあったら書き込まずにはいられないし、みんなが何をしているか気になって仕方がなくなる。そらは、誰かに向けられた情報ではないし、あなたに向けて書かれた情報もそこにはない。というか、短い文章で偉そうなことをセンスよく言ってやりましたみたいな奴らがムカつくってのが大きい理由なのだが。それも見なきゃいいのに、やっぱり見てしまう自分もムカつくし。
と、これもネット上に書かれているわけだが、まあ、これは他人のを読まなくていいし、誰が見てるかも全くわからないので、まあいっか、みたいな、感じで続けると思が、しかし、一ヶ月全く更新しなかったブログを誰か見ているのだろうか。

 
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