延原時行歌集「命輝く」(第2333回)(本日は午後1時よりあすてっぷ神戸で第5回地域人権シンポジウム)

            
  延原時行歌集「命輝く」(第2333回)

「復活の家出発進行――感謝無限の旅一歩一歩」(232−11)燦二つの歌,一巡りフォトの歌、実録推敲の歌、人生はの歌、今朝も又の歌年、歓喜切れ目なしの歌、まさかとやの歌、基教二つの道の歌、信子凄しの歌、夢見たるの歌、またまたやの歌、対話嬉しきの歌、有難きかなの歌、この時代の歌、昨晩やの歌、妹背本作りの歌(2015年10月21日〜31日)。

    10月31日
          妹背本作りの歌五首

 一 本作る父さんやって妻と我面白き”対”なすや楽しも
 二 妻や天我地に在りて絶妙の二人三脚本作り哉
 三 本作りニューモードこそ楽しきや論考短歌フォト物語
 四 主軸はや妹背実録闘看病尻上がりなる歓喜妻あり
 五 歓喜妻絶後笑み増し不思議やも御友岸辺に共飛翔いざ

       ♯              ♯

今朝も上の歌(10月31日)に加えて、先生のメルマガ「風の便り」で届いた「今日の歌」を収めます。

    11月28日
          今日の日やの歌五首

 一 今日の日や講演草稿推敲に心傾け過ごしたるこそ
   (備考:拙稿「良寛の『愛語』とボンヘッファーの『倫理』をめぐって」なり。最終稿や添付せん)
 二 此度はやOpen Theologyより単行本造るは如何誘ひありたり
 三 実はぞやAnselm's Argument and Buddhist Wisdomなる一書永年綴りきし有り
 四 また少し暖めゆくかそれともや今出すかはや決心どころ
 五 このところ物事窮めつきつめて反省深めゆくやこそ快

           御友道の歌五首

 一 どれだけの事をこの我成し得るや一日一歩御旨まにまに
 二 達し得し天に謝しつつ達し得る道をぞ今日も求め歩まむ
 三 人生は御友在りてぞ笑みやあり絶後笑み増し妻や教へし
 四 友方と道を学ぶや嬉しきや今日も学びし述べつ学ばむ
   (備考:今日はしばた良寛講座の日なり)
 五 この道や御友道なり友方と学び往く道御友と友と


(講演草稿を以下に収めます。うまく文字を整えることができず、不十分な掲載になりますが、とりあえずということでご容赦ねがいます。)

良寛の「愛語」とボンヘッファーの「倫理」をめぐって

                 延原時行
                 敬和学園大学名誉教授

*本稿は、しばた良寛講座2015年11月28日(於新発田市生涯学習センタ―)のための講演草稿である。

はじめに
 昨年のしばた良寛講座では、「良寛最晩年の大変貌をめぐって」という講演をさせていただきました。その最後に私は、「良寛最晩年の大変貌」を、「愛弟子貞心尼の悲しみ」と「禅師の最後の教導と弟子の協和」を対にして考察して、次のように綴りました:

「 おわりに
1.「裏を見せ表を見せて散る紅葉の真実」――良寛と貞心尼の師弟愛の成就(略)
2.貞心尼の悲しみ
  「(貞心尼の歌)
生き死にの 境離れて 住む身にも 避(さ)らぬ別れの あるぞ悲しき
 (以下、新井満良寛と貞心尼の恋歌 自由訳』(新潟・考古堂書店、2011年、155−156頁より引用):   
出家の身でございます
生きることにもこだわらず
死ぬことにもこだわらず
あるがままにて生きるべく
これまで修行してまいりましたが
悲しゅうございます
良寛さま
どうしてもお別れしなければいけないのでしょうか
わたくしは、ただただ
かなしゅうございます」
3.禅師の最後の教導と弟子の協和
 (良寛さまからの返歌)
  裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
 裏とは、本講演において冒頭から明らかにしてきたとおり、人間の絶対的受動性であり、「我が後」のことであります。一語でいえば、悲惨であります。良寛は今、裏を否定しません。見せます。表とは、「元の誓ひの姿」としての「仏道修行」「衆生済度」の働きに献身している我のことであります。これも裸堂々とみせます。見せたうえで(見せることは最後の証しですから)潔く散ります。散ることは今生を飛び立つことでありまして、「仏の国」への飛翔であります。この飛翔は、貞心尼のいうような「悲しみ」ではなく、次の歌で良寛が詠う嬉しくもある「大歓喜」です。
 我ながら うれしくもあるか 弥陀佛の います御国に 行くと思へば
 散る紅葉の歌で良寛は、悲しむ弟子貞心尼を諫め、叱咤激励しているのであります。それかあらぬか、弟子はすぐさま(最後の貞心尼の歌)を詠います:
 来るに似て 帰るに似たり 沖つ波
 「来る」は最大限能動的に「元の誓ひの姿なりけり」のことでしょう。では、「返るに似たり」とは何のことでしょうか。「弥陀佛のいます御国に往くこと」でしょう。いずれにしても、来るも返るも「沖つ波」(法性法身・空)の働きであります。この弟子の歌に、良寛禅師は、
    明らかりけり 君が言の葉
と最後の認証を与えられました。良寛禅師と弟子貞心尼は教導一致されたわけであります。天保2年卯の年(1831年)1月6日、良寛禅師は遷化されました。」
 このような「大変貌」を生涯の最晩年になし遂げた良寛禅師が、ここに至る道中において「愛語」を大変重要な人生の契機として残しておられることは、注目に値します。このことは、私には、キリスト教の方面においては、生涯を「キリスト教倫理学」の完成に捧げつつも、それを成し得ず未完のまま、反ナチ・ヒトラー運動の中で殉教の死を遂げた人として有名な、ドイツ人牧師・神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーを思い起こさせるのです。ボンヘッファーは、1945年4月9日フロッセンビュルクで絞首刑に処せられる前、「これが最期です。(しかし)私にとっては生命のはじまりです 」と自ら言い残しました。その大きな事績に、良寛禅師最晩年の「大変貌」が重なりまして、私の心には、なんと申しましょうか、佛基共々の「対話の感動」を与えてやまないのであります。「大変貌」は、ボンヘッファーの有名な思想で申しますと、「究極的なこと 」でありますが、倫理は「究極以前のこと 」といたしまして、両者とも人生の重要な両極であります。
 そこで、良寛が『良寛遺墨「愛語」全文釈文』でもって提起している問題を、ここであらかじめボンヘッファーが『現代キリスト教倫理』(未完本)の角度からどのように位置付けていたか、少しく観ておくことは、後程さらに考察を深めてゆく際の手掛かりとして有用かと思われます。二節引いておきます:

[A]賢い者は、現実を原則によって理解することの限界を知っている。何故ならば彼は、<現実は原則の上に立てられているのではなく、活ける創造主なる神の中に安らうものである>ということを知っているからである。そこで彼はまた、<現実は最も純粋な原則によって助けられるのではなく、最良の願望によって助けられるのでもなく、ただ生ける神によって助けられるのである>ということを知っている。原則というものは、神の御手の中にある道具に過ぎないのであって、やくにたたなくなればやがて棄てられてしまうものである。ただ神にのみ拠り所を持ち、神と現実とを、何物にも捕われない目をもって見るということが、単純さと賢さとを一つに結びつける。賢さなしには真の単純さはなく、単純さなしには賢さはないのである。

[B]神とこの世の現実が和解され、神と人間とが一つにされている一つの場所が存在するゆえに、また、そのゆえにのみ、神とこの世界を同じ目で見ることができるのである。その場所は、何か現実の世界の彼方の理念の国にあるのではなくて、神の奇跡として、この歴史のただ中に、神とこの世との和解者なるイエス・キリストにおいて存在しているのである。理想としてならば、単純さと賢さとの統一ということは、現実の前に自分の地歩を保とうとするすべてのほかの試みと同じく、失敗に終わるだろう。それは、不可能な、せいぜい矛盾に満ちた理想である。しかし、イエス・キリストにおいて神との和解を受けたこの世の現実に基づいて、イエスの戒めは、その意味と現実性とを得るのである。イエス・キリストに注目する者は、実際に神とこの世界とを一つのものにおいて見る。彼は、その時から、もはや世界なしには神を見ることはできないし、また神なしには世界を見ることができないのである。

引用[A]では、「現実は原則の上に立てられてはいない」という観点から、「生ける創造主の中に安らう」としながらも、なお新たなる「原則」ともいうべき「創造主」信仰に止まっていたのを、引用[B]では乗り越え、「神とこの世の現実が和解され、神と人間とが一つにされている場所が存在するゆえに、また、そのゆえにのみ、神とこの世界とを同じ目で見ることができるのである。その場所は、何かげ現実の世界の彼方の理念の国にあるのではなくて、神の奇跡として、この歴史のただ中に、神とこの世の和解者なるイエス・キリストにおいて存在しているのである」とボンヘッファーは言い切ります。このように直截に言い切る地点において、私は、ヨハネ福音書15章15節において弟子たちに「友よ」と語りかける御友イエスボンヘッファーは出会っている、と見ます:

 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

 私はキリスト教信仰において最も直截な真理は、「友よ」と呼ぶことでイエスが父から(すなわち、宇宙人生の超越契機、ボンヘッファーのいう「究極的なもの」から)我々人間(「非究極的なもの」)にじり寄る「形」――すなわち、御友――を自ら示したもうたこの一事である、と最近つくづく感ずるようになりました。それを私は「御友神学 」と呼びます 。  そして、重要なことは、御友神学は、誰にとっても切実な真理ですから、良寛禅師もこれを――ご自分の仏教的覚醒の只中で――了解しておられたことを理解することであります。一例をあげましょう。晩年の或る日、禅師は、倒るれば倒るるままの庭の草 と(文政13年・天保元年[12月10日改]夏のころ)詠んで以来、新たなる覚醒を得、以下の有名な哲学的短歌に認められました:
 我が後を助け給へと頼む身は 元の誓ひの姿なりけり

 お気づきのように、「我が後」とは、己が遷化の後のこと、法性法身の御許に還浄の暁を全うすることを言う言葉でございます。ところが、その窮境が、なんということか、そのまま転じて己自身の「元の誓ひの姿」に化佛なすことを良寛は自知されました。この自知の真実は、先ほどの私の言葉で申しますと、「我は御友の姿」なりけり、というにあります。超越界(仏教では法性法身)と現実界(苦海)を繋ぐ阿弥陀仏の本願(すなわち、御友)を体して生きる姿が我なりとの悟りであります。これが、良寛禅師の生涯の果てに了解した「御友神学」でございましょう。
私は、このような事情から、「愛語」に貫かれる基本テーマは、「元の誓ひの姿なりけり」という御友神学の、「慈心」から発して「愛心」に内在化し、「愛心」から「愛語」へと言語化される真実であると、見ております。この真実を、(1)良寛の『愛語』の書につぶさに伺い、(2)次に転じてボンヘッファーの『現代キリスト教の倫理』の「愛の章」によってそのことの対話論的実証を試みる、というのが、以下二節の論述の意図であります。
 
第一節 良寛の「愛語」に見る御友神学の分節化――新井満『自由訳 良寛さんの愛語』 を参照しつつ
 初めに『良寛遺墨「愛語」全文釈文』を掲げます:

   愛語
愛語ト云ハ 衆生ヲ見ルニ マヅ慈愛の心をオコシ 顧愛ノ言語ヲ ホドコスナリ ホヨソ暴悪ノ言語ナキナリ 世俗ニハ安否ヲトフ礼儀アリ 佛道(道)ニハ 珍重ノコトバアリ 不審ノ孝行アリ 慈念 衆生 猶如赤子(ゆうにょしゃくし)ノオモヒヲ タクハヘテ言語ス ルハ愛語ナリ 徳アルハ ホムベシ 徳ナキハ アハレムべシ 愛語ヲコノムヨリハ ヤウヤク愛語ヲ増長スルナリ シカアレバ ヒゴロシラレズ ミヘザル愛語モ現前スルナリ 現在ノ身命ノ存スルアヒダ コノンデ愛語スベシ 世々生々(ぜぜしょうじょう)二モ不退転ナラン 怨敵ヲ降伏(ごうぷく)シ 君子ヲ和睦ナラシムルコト 愛語ヲ本トスルナリ 向テ愛語ヲキクハ ヲモテヲ ヨロコバシメ ココロヲ楽シクス 向カハズシテ愛語ヲキクハ 肝二銘ジ 魂ニ銘ズ シルべシ 愛語ハ愛心ヨリオコル 愛心は慈心ヲ種子トセリ 愛語ヨク 廻天ノ力ラ アルコトヲ學スべキナリ タダ 能(ハサ)ヲ賞スルノミ二アラズ
                         沙門良寛謹書

 次に、新井氏自由訳『良寛さんの愛語』全文19条を筆者独自の視点から十項目の構成にまとめ、省察を加えて見ます。
(一) 主題論
「1 愛語ト云ハ、衆生ヲ見ル二 マヅ慈愛の心ヲオコシ 顧愛ノ言語ヲ ホドコスナリ
 愛語、というものがあります。相手をやさしく思いやる言葉、という意味です。ところで愛語とは、どこから生まれてくるのでしょう。それは、相手をやさしく思いやる心。言わば愛心から、生まれてきます。まずは、心があって、次にその心から、言葉が、生まれてくるというわけです。決してその逆ではありません。たとえば、相手を憎んだり、うらんだり、ねたんだりする心、言わば憎心からは、まちがっても愛語は生まれてきません。もし生まれてくるとしたら、それは、憎語でしょうね。言葉は、心の鏡。心もようを正直に映し出します。だから嘘はつけません。相手を切りきざむ、冷たいナイフのような憎心ではなく、相手を抱擁する、あたたかな春風のような愛心。さあ、相手をやさしく思いやる、愛心を持ちましょう。そして、愛心から発せられた愛語を、あの人に、そっと、かけてあげましょう。」
 
私の御友神学の視点からするならば、良寛の「愛語」を「愛心」から発するものと取る新井氏の視点を正しいとしつつも、「愛心」は「慈心」から出ずることに注目します。それというのも、良寛の場合、あの哲学歌「我が後を助け給へと頼む身は 元の誓ひの姿なりけり」を根本視座とする点から考えますと、「元の誓ひ」とその「姿」とが彼自身の心の二重性を成しているからでして、それを「慈心」というのでしょう。「慈心」の「慈」は「弥陀の慈悲」の「慈」でしょう。それを我が心と成すところに、良寛の心の姿がありました。
ちなみに、中村元によりますと、慈悲は、「慈」(パーリ語でmetta、サンスクリット語でのmaitriないしはmaitra、その意味は友情)と「悲」(パーリ語でも、サンスクリット語でも、karunaで同情共苦を意味する)の二語から成っています。南方アジアの上座部仏教においては、「慈」≪metta)とは「(同胞に)利益と安泰をもたらそうと望むこと」(hitasukh-upanayana-kamata)を意味するものと解され、「悲」(karuna)とは「(同胞から)不利益と苦とを除去しようと欲すること」(ahitadukka-panaya-kamata)を意味するものと解釈されました 。大乗仏教ではナーガールジュナは言います、「大慈とは一切の衆生に楽を与え、大悲とは一切の衆生のために苦を抜く 」。
いずれにしても、これらの事を考究するとき、「愛語」の第一条は、愛心と愛語の源は御友仏教神学の根底を成す「慈悲心」であります。この慈悲心が良寛においては「人としての修行の姿」(「元の誓ひの姿なりけり」の詠唱)を取っていたのでした。

「2 ホヨソ暴悪の言語ナキナリ
 乱暴な言葉があります。乱語とでも申しましょうか。乱語とはどこから、生まれてくるのでしょう。それは、なげやりで平静さを欠いた、感情にまかせた荒々しい心。言わば乱心から、生まれてきます。相手のことを思いやる、そんな余裕はないのでしょうね。乱語をつかったりしては、いけませんよ。それは、あなた自身の心が、とてもすさんでいることを、おしえてくれます。」

 「愛語」の思想は、日本の奥床しい仏教文化の香りの至純なものです。これを思い出し、しっかと把握することのいかに大切なことでしょう。このたび高名な芥川作家新井満氏の薫り高い名著『自由訳 良寛さんの愛語』に依拠して、私のフィールドである哲学的神学の角度からすこしく考究の道を進めてみたいと思い、論評の筆を執りました。学ぶことは多いのです。その一つは、欧米近代の世俗文化の持つ毒ですね。つまり、そこには「愛語」の文化が欠損しています。その毒を我々は長く忘れていました、今度のパリ同時多発テロ(2015年11月13日)が「イスラム国」への空爆に抗議して炸裂するまで。このテロは、酷いもの、あってはならぬものですが、根底的には、預言者ムハンマドを風刺する欧米における世俗的風潮への怒りがもとにあったことは確かでしょう。良寛禅師の言う「暴悪の言語」です。

 (二)礼儀論
 「3 世俗二ハ安否ヲトフ礼儀アリ
 『お変わりございませんか…』。世の中には、こんな言葉をかけてくれる人もいます。身体の具合はどうなのだろう。何か困っていることはないのだろうか。何が悩んでいることはないのだろうか。相手のことを気づかう、これも立派な愛語です。では、相手の何について、気づかっているのでしょう。それは、いのちが、すべての基本です。相手のいのち、即ち相手の、健康と平安を気づかう愛心から、この愛語は生まれました。さあ
今日も、あの人に、さりげなく、愛語をかけてあげましょう。『お変わりございませんか…』

 4 佛道(道)二ハ珍重ノコトバアリ
 別れぎわに『ごきげんよう』、あるいは『どうかお大事に…』、そんな言葉をかけて呉れる人もいます。これらもまた、愛心から生まれた、愛語でしょうね。『お気をつけて』、あるいは『どうかお達者で…』

 5 不審の孝行アリ
 『いかがですか…』、老いた人には、そんな愛語を、かけてあげましょう。老いた人というものは、孤独なものです。一言もしゃべらぬうちに、一日が終わることもあります。『いかがですか…』、自分にかけられた言葉に老いた人は、言葉をかえすことでしょう。すると、言葉の交流が始まります。そこに、心の交流が生まれます。離れていた心と心の間に、一本の橋が、かかります。老いた人には、そっと、『いかがですか…』

 礼儀とは、言葉の交流を心の交流への期待の中になす奥床しい冒険だといえましょうか。私の理解がもしも正鵠を射るものであるならば、日ノ本の歌、和歌の精神は、「愛語」であります。人を、自然を、神を、ほめること、であります。


(三) 忖度論
 「6 慈念衆生 猶如赤子(ゆうにょしゃくし)ノオモヒヲ タクハエテ言語スルは愛語ナリ〈はてさて愛語というものを、いったいどんな気持で、かけてあがたらよいのだろう…〉、あなたは悩むかもしれない。よろしい、では、おしえてあげましょう。そこには、コツがあるのです。生まれたばかりの赤ちゃんに、接するような気持になって、言葉をかけてあげたらよいのです。生まれたばかりの赤ちゃんは、ひ弱で、頼れるものが
一つもありません。だから、不安と恐怖で、いつも泣いてばかりいます。『だれか、助けて!』、『わたしを、守って!』、いのちをいつくしみ、大切に想う心から、愛語は生まれます。赤ちゃんを抱きよせて、子守歌を歌うお母さんのような気持ちになって、愛語をそっと、かけてあげてください。

  7 徳アルハ ホムべシ
  善いことをした人がいたら、すすんで誉めてあげましょう。『よくやったねえ!』『すばらしいねえ!』これも愛語です。善いことに恵まれた人がいたら、すすんで祝福してあげましょう。『おめでとう!』『よかったねえ!』、これも愛語です。

  8 徳ナキハ アハレムべシ
  世の中には不運な人もいます。善いことに恵まれなかったり、努力したのに報われなかったり、ひどい災難に遭ってしまったり、もし、そんな人がいたら、なぐさめてあげましょう。いたわってあげましょう。手をとりあって、共に涙を流しながら、『たいへんでしたねえ…』。『つらいことでしたねえ…』、これも愛語です。

  9 愛語ヲコノムヨリハ ヤウヤク愛護ヲ増長スルナリ
  相手をやさしく思いやる心から、相手をやさしく思いやる言葉が、次々に生まれてきます。愛語をつかえばつかうほど、さらに新しい愛語が生まれてきます。泉から湧き出てくる、清らかな水のように、あとからあとから次々に、よどみもなく生まれてきます。やがてそれsは、小川を集めて河川となり、ついには大河となって、世の中という大地を、うるおすのです。」

 「相手をやさしく思いやる心から、相手をやさしく思いやる言葉が、次々に生まれてきます」とは、素晴らしい言葉ですね。忖度なしに愛語なし。赤ちゃん、善いことをした人、不運な人、――どのような人でも忖度なしに近づけません。忖度すれば自然と愛語が出てきます。そう、泉のように清らかな水、愛語が湧き出てきます。最大の忖度人は御友です。
神から聴いたことを皆「友よ」と私たち一人ひとりに――その状況に合わせて、その心持を思いやりながら――告げてくださる。それこそ御友の愛語です。
 良寛禅師の最高の愛語は、愛弟子貞心尼に今わの際に、「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」と歌い諭したことほどはない、と私は感じます。冒頭に、昨年の講演草稿の末尾を引用させていただきましたとおりであります。

(四) 縁起論
「10 シカアレバ ヒゴロ知ラレズ ミザル愛語も現前スルナリ
  類が友を呼ぶように、愛語は、もう一つ別の愛語を、呼び寄せます。愛語を発していると、それまで気づかなかった意外なことに、気づくようになります。それは、他人が発している愛語、その背後に隠れている愛心です。そのことに気がつくと、感謝の心が広がります。ありがたいなあ、かたじけないなあ。もったいないなあ。愛語は、新たな愛語を呼び、愛心は、新たな愛心を増やします。よろこびの輪が、大きく広がります。」
 二首添えることをお許しください:

 我打つや 我妻絶後 笑み増しに 御友やおはす 事の不思議よ
 我妻や 絶後笑み増し 不思議やも 深き低みの 底ぞ飛翔す

(五) 現在身命論
「11 現在ノ身命ノ存スルアヒダ コノンデ愛語スべシ
愛語を用いるのに、年齢は無縁です。若いときはもちろんのこと、老いてからもすすんで、用いたらよいでしょう。遠慮する必要はありませんよ。恥ずかしがってもいけませんよ。かといって、威張る必要もありませんがね。愛語を言うべきときがきたら、ためらうことなく用いなさい。水が流れるように、風が空を吹きわたるように、さりげなく自然に、あなたらしい愛語を用いなさい。どんなときも、いのちのあるかぎり。」

言い方を変えるならば、生きる限り、御友の姿として生きるということであります。
禅師が「元の誓ひの姿なりけり」と詠い給うたとおりに、ですね。

(六) 不退転論
「12 世々生々二モ不退転ナラン
時代が移り変わっても、愛語の大切さに、変わりはありません。昨日もそうであったし、今日もそうであるし、明日もきっとそうなるに違いありません。相手をやさしく思いやる、その相手とは、自分以外の全ての人々を指します。愛語とは、どんな時代にも変わらない、もっとも大切なことの一つなのです。
13 怨敵ヲ降伏シ 君子ヲ和睦ナラシムルコト 愛語ヲ本トスルナリ
それにしても愛語とは、不思議なものですねえ、それは、まるで魔法のような、力を持っています。さっきまで激しく争っていた、敵同士の二人、その荒ぶる心の波を、おだやかにしずませ、友達同志にしてしますのは、愛語なのです。いや、個人ばかりではありませんよ。互いに譲り合うことなく、武力と武力で張り合っていた、二つの国家。その敵対する緊張関係を和らげ、国家と国家との間に、心の橋を架けてくれるのは、愛語なのです。愛語と、愛語を生んだ愛心こそが、乱れた世界に、平和をもたらすのです。」
 愛語と、愛語を生んだ愛心と、その源の御友こそが、いえ、良寛の言う「元の誓ひの姿」こそが、乱れた世界に、平和をもたらすのです。良寛の「愛語」を評する新井氏の言葉は、国際政治、国際協働の核心をとらえて、見事であります。

(七) 直接間接論
「14 向テ愛語ヲキクハ ヲモテヲヨロコバシメ ココロヲ楽シクス
ある日、ある人から、直接、愛語を用いられたとしましょうか。それはとても嬉しいことですね。なぜかといえば、愛語の向こうに、その人の、愛心が感じられるからです。こちらのことを、やさしく思いやって呉れている、あの人の心のあたたかさが、直接、伝わってくるからです。すると、思わず笑顔が、浮かんできます。〈生きていてよかったなあ…〉、という気分になってきます。愛心は愛語を生み、さらに笑顔と幸せを、つくってくれます。

 15 向カハズシテ愛語ヲキクハ 肝二銘ジ 魂二銘ズ
一方、愛語を、直接ではなく、人づてに、それとなく耳にすることもあります。それはそれで、うれしいことですね。ありがたいことですね。相手の心のあたたかさが、早くはありませんが、温泉につかったときのように、ゆっくりと、じんわりと、伝わってきて、私の全身にしみわたり、私の心を幸せにしてくれます。」

 愛語の喜びのこれ以上ない歌!直接に、間接に、いずれもや、嬉し!

(八) 愛語の二重根源論
「16 シルべシ 愛語ハ愛心ヨリオコル
 さあ、大切なことを、もう一度申し上げましょう。忘れないでくださいね。愛語とは、どこから生まれてくるのでしょう。それは、愛心から生まれてくるのです。即ち、愛心とは、愛語の母というわけです。

 17 愛心ハ慈心ヲ種子トセリ
では、愛心とは、どこから生まれてくるのでしょう。それは、慈心から生まれてくるのです。慈心とは、何でしょう。それはいのちをいつくしむ心です。この世の中に充満している、無数のかけがえのないいのち、そのいのちの全てをわけへだてなく、いつくしみ、大切に想う心のことです。即ち、慈心とは、愛心の母というわけです。」

ここに至って良寛の「愛語」は、弥陀の慈悲の中において全く受動的であるゆえに全く能動的に「元の誓ひの姿」に徹するところ、慈心と愛心の二重根源性より生まれるわけであります。弥陀の「元の誓ひ」より生まれる以上、超越の契機に発しつつ、人としてのその「姿」に徹する以上、内在に繋がる良寛の実存は、私の把握によれば、「御友の姿」であるわけであります。

(九) 廻天力論
「18 愛語ヨク 廻天ノ力ラアルコトヲ學スベキナリ
愛語には、大きな力がります。世の中を変えてしまうような、時代を変えてしまうような、とてつもない力を、秘めています。どうかそのことを、忘れないでくださいね。 」
 
 その力の源泉は、深く超越契機「弥陀の慈悲即元の誓ひ」に根差しつつ、その人としての「姿」に徹するところに、慈心即愛心という二重根源性を身に受けているところにあるのであります。
この二重根源性は、私が御友神学と呼ぶところの「直截な関係性」にあるのです。宇宙の最も不思議なところは、まず原則が発見されます、哲学的発見です、次に創造者信仰に至ります、そして第三に、超越者と具体者の直截なつながりの発見、御友神学に至るダイナミックな変容があることです。これを私は「御友神学」の驚異と呼びたいと思います。
 良寛は、この驚異を、我が後を助け給へと頼む身は 元の誓ひの姿なりけり と歌いました。詠唱しました。この詠唱は、私は、日本文化における最高の詠唱の一つだと存じます。もう一つは、「弥陀の五劫思惟の願はをよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(『歎異抄』後序)であります。三つ目の詠唱は、西行の、年長けてまた来るべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 でございましょう。併せて日ノ本三大詠唱にございます。

(十) 命の絆論
「19 タダ 能(はさ)ヲ賞スルノミ二アラズ
さて最後に、大事なことをもう一つ。愛語を用いる相手とは、目に見える人間だけとは限りませんよ。目には見えないあらゆるものに対しても、用いなければならないのです。私たちが今生きているこの世とは、二つのものから成り立っています。目に見えるものと、目に見えないもの。では、想像力の翼を、大きくはばたかせながら、考えてみてください。するとだんだんわかってくるのは、この世というものが、私たちの知らない、無数の、目には見えないものたちのおかげで、成り立っているということです。しかも、私たちはこの世を、たった一人で、生きているわけではありません。他の人間たちはもちろんのこと、私たちをとりまいている、無数の様々なものたち。たとえば、虫や花や魚や鳥や犬や猫や、馬や牛や虎や蛇や蟻や象や鯨や鰐や、樹や林や森や泉や河や海や雨や雪や、風や月や星や虹や太陽や宇宙や…即ち、無数のいのちたちと共に、生きていて、彼らと共にこの世を成しています。その中のたった一つの命が欠けても、この世は成り立ちません。だから、彼らとは、私たちの親であり、子供なのです。兄弟であり、姉妹なのです。そしてあなたと私は、どのいのちとも深い絆で結ばれていて、助けたり助けられたりしながら、生きているのです。その絆を大切にしましょう。いつくしみましょう。全てのいのちをわけへだてなく、すべての絆をわけへだてなく、いつくしむ心のことを、慈心というのです。慈心が全身に満ちたとき、そこから愛心が生まれ、さらに愛語が生まれます。愛語は、新しい愛語を呼び寄せ、さらに多くの愛語を増やしてゆきます。すると人々の顔に、思わず、笑顔が浮かんできます。それはとても嬉しいことです。ありがたいことです。かたじけないことです。もったいないことです。〈ああ、生きていてよかったなあ…〉、心底から喜びが込み上げてきて、幸せの光に包まれるのは、、そんなときでしょうね。」

このようないのちの広大なつながりの世界をいつくしむことを私の好きなアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、「世界―至誠心」World-Loyaltyと呼びました 。世界―至誠心の起点が「慈心」(弥陀の慈悲)でしょう。慈心は、まことに逆説的なことに、①神的存在(仏教では阿弥陀仏)が絶対無(法性法身・空)の場に至誠を尽くすことによってのみ、②ひるがえって世に臨み、世の諸々のいのちに、「汝らも至誠であれ!」と呼びかけ給うのであります。そして、③そのことを観て、我々に告げる方が、今日のお話の初めから私の申し上げている御友」(仏教では、良寛の言う「元の誓ひ」)なのであります(マタイ福音書5章48節参照)。④ちなみに、空は空自らを空ずる、無自性の実在です。これらを私は私の永年の提言「至誠心の神学」 の四原理といたしております。
 現在、もはや古びた「産業経済文明」を脱して新しい時代のかたちを成す「エコロジー文明」に向かう時、「至誠心の神学」四原理(ことに最初の二原理)を元にしてエコ文明の基軸を以下のように考えるべきであります:すなわち、(1)神が空の場(エコ)に対して至誠でいます故にこそ、(2)神は万物に「汝らも、至誠であれ」と、命(ゾエ―)へと招喚される、と。これを私は最近、「神のエコゾイックス(エコ生命学)」と呼んでおります。そして、神の「空の場 」への至誠心こそ「法源 」、汝らも至誠であれとの招喚こそ「宇宙法」だと信じております。「神のエコゾイックス」が「世界のエコロジー」の根源であります。

第二節 ボンヘッファーの『現代キリスト教倫理』における愛解釈
 ボンヘッファー倫理学構想の基本線については、はしがきで触れました。学問ことにキリスト教神学について、一般原則を仮に提示したとしても、まず「創造神と世界の現実」の視点がより重要なこと、さらに「イエス・キリストにおける神と世界の和解」の視点を直截に打ち出すことなしに純正な神学的思索はなしえないことを述べました。最近の私の神学的発見として、超越と内在の間のつながりをイエスが弟子たちに「友よ」と呼びかけることにより明らかにされている点がキリスト教に関して最も重要である、と気づくに至「絶対無(空)が空自らを空ずる」無自性が究極実在であるったことも述べました。御友神学の提言であります。
 この度、本講演の準備のため改めてボンヘッファーの『現代キリスト教倫理』を読み直す機会がありました。そこで再確認したことは、私の御友神学の基本線とボンヘッファーの愛理解の間に緊密性が認められるということであります。三節引用してみます:

[C]「何において愛は成り立つか」という問いに対して、われわれはさらに、聖書と共に答える。イエス・キリストにおける神と人間との和解の出来事において、と。[ここで]人間の神との分裂、ほかの人間との分裂、自分自身との分裂は、終わりを告げる。根源は、再び人間に賜物として与えられる。かくして、愛とは、このことによって人間がその中に生きている分裂を克服し給うた、人間に対するあの神の行為である。この行為は、イエス・キリストを意味し、和解を意味する。従って、愛は、人間の上に起こったこと、受動的なこと、人間が自分では自由に処理しえないこと、である。なぜなら、それは、端的に、分裂の中にある人間の実存を超えていることだからである。愛は、神によって実存の全体が変化を受けることであり、神の前においてのみ生きることのできる世界へと引き入れられることである。従って、愛は、人間の選択ではなく、神による人間の選びである。

[D]神を愛するとは、イエス・キリストにおいて、自分が選ばれ、生み出されているという事実を喜んで受け入れることである。従って、神の愛と人間の愛との関係は、〈神の愛が人間の愛に先行するが、しかしそれはただ、人間の愛が、神の愛に対して独立で、自由で、固有の人間の行為として働くようになるためである〉という風に理解されてはならない。むしろその逆に、人間の愛について語られるすべてのことを貫いて、「神は愛である」という命題が力をもっているのである。人間が神と隣り人とを愛する愛は、神の愛であって、ほかの愛ではない。なぜなら、それ以外の、神の愛から独立な・自由な愛などは存在しないからである。この点において、人間の愛は、純粋に受動的なものであり続ける。神を愛するということは、神に愛されているということのほかの面にすぎない。神によって愛されるということと並んで、神を愛するということがあるのではない。

[E]神のよって愛されることは、強力な思考と喜ばしい行為を人間がなすことを禁止することでは決してない。全体的な人間として、考え・行動する人間として、われわれは、キリストにあって、神に愛されており、神との和解を受けている。考え行動する全体的な人間として、われわれは、神と隣り人とを愛するのである。

ボンヘッファーが真剣に問い詰めた、[D]神による選択としての愛、[E] 神に愛されることの中で神を愛している愛、[F]考え行動する全体的な人間として神と隣り人を愛する、愛の三局面は、興味深いことに、良寛が『遺墨「愛語」全文釈文』の中で省察していた「慈心」「愛心」「愛語」の連携をしみじみと想起させるものです。

結語
本稿をここまで綴ってきて、「愛語」は良寛にとって、昨年の講演「良寛最晩年の大変貌をめぐって」で取り上げました究極の問題「死と復活ないし還浄」とは対極的な究極以前の問題としての倫理を多角的に掘り下げる、重要な労作であることが、しかと納得できました。
そのことを明らかにするために、反ナチ・ヒトラー抵抗運動の果てに「これが最期です。(しかし)私にとっては生命の始まりです」というメッセージを残して殉教して往ったディートリッヒ・ボンヘッファーの畢生の未完作品『現代キリスト教倫理』を探索ライトに用いて考察を進めることができたことは幸いでした。
とくに『愛語』の冒頭と末尾に出てくる「慈心」「愛心」「愛語」の相互連関をにおわせる文言に誘われて『良寛遺墨「愛語」全文釈文』の問題の探索に聊かふけりました。テキストに芥川賞作家新井満氏の文藝の香り高い『自由訳 良寛さんの愛語』(新潟・考古堂書店、2008年)を用いさせていただき、大きな刺激を受けたことでした。感謝無尽も!

七首添えます:

〇(2015日11月23日)新稿進むの歌一首

 一 我が庭に妻の育てし柚子たわわ楽しみ見つつ新稿を書く
   (備考:11月28日(土曜日)のしばた良寛講座のための講演草稿「良寛の『愛語』とボンヘッファーの『倫理』をめぐって」只今猛進中なり)

〇(11月24日)秋の朝佳しの歌六

 一 誠にや一睡もせず新稿を書き上げたるや秋の朝佳し
   (備考:昨日の朝新発田良寛会会長星野淳雄氏に新稿「良寛の『愛語』とボンヘッファーの『倫理』をめぐって」をお手渡しせり。気持ちよかりき。暖かき秋の朝なり)
 二 慈心のや愛心生みて愛語なる日ノ本の幸香しきかな
 三 良寛や元の誓ひの姿成る嬉しかりけり愛語切々
 四 これを我御友神学仏教版言はんとせるや心底より
 五 我妻や絶後笑み増す不思議やも御友いますやげにも告ぐなり
 六 それをしも何と言はんか「笑み増して語るや仄とげに愛語」ほか

 [了]




本日神戸では午後1時より「あすてっぷ神戸」において「第5回地域人権シンポジウム」が開催されます。

以下、「足立美術館」のお庭を少々UPいたします。明日は神戸丸山教会における礼拝説教があって朝のブログUPは休みます。