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延原時行著作集ブログ公開分

2012-07-03

延原時行著作ブログ公開7冊目:『「無→者」のためのプロセス神学ーボブ・メッスリーの「道案内」に因んで』(第4回)

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                    延原時行著作ブログ公開7冊目(第3回)

              無→者」のためのプロセス神学

                 ボブ・メッスリーの「道案内」に因んで


       第二省察 論評――ロバート・メッスリー著
              『プロセス神学への道案内――共経験主義の見地から』に因んで



           プロセス思想:概観に因んで――概念上のロードマップの有効性
 

 さて、本日(2008年6月7日)は、メッスリーが「プロセス思想:概観」と題して、本論に入る前の予備考察として、プロセス思想に関する概念上のロードマップを予め提示していることを考察しておきましょう。今から、プロセス神学の基礎学習の旅に出るわけでありますが、概念地図を手に道を辿るならば、迷う率が少ないのではないか、という老婆心から出たメッスリーのこのアイデア、私は甚だ秀逸だと思いますね。こういう工夫こそ、欧米的学術世界の劇場的空間に必要不可欠なものなのです。劇場的空間は、概念地図を要求します。

 早い話、今何かの学会を開催しているとして、その初っ端に発表者が「私の今日の発表のなかに出て来る鍵言葉はこれとこれとこれです」と説明すれば、「なるほど、彼また彼女の言わんとするのは、そのような概念的情景か」と納得できるわけでして、この冒頭の納得が聴衆の興味を決定付けるのですね。興味を感じさせなければ、どのような学術的発表もその最初で失敗です。

 まあ、私から言わせれば、概念地図プラス概念地図の読み方が必要ですね。私の場合だったら、概念地図は「実在を原風景と回想し、この回想に基づいて世界のすべての諸問題を説明、解明する」ために必要なのですから、概念地図には必ず「実在」「原風景」「回想」「説明」に該当するものの見極め、つまり読みが補筆されなくてはなりません、――と言うことになるでしょう。だから、メッスリーの概念地図を挙げた後に、この「読み」――私なりの「概念上のロードマップ」解読の手引――を解説してみましょう。ご期待下さい。

 メッスリーの概念地図は二様になっておりまして、第一の概念地図は「プロセスのヴィジョン」、第二のそれは「プロセス有神論」と名付けられます。


       (1)プロセスのヴィジョン

  [実在論]万物は流転する。実在は、どこどこまでも、関係的である。実在は、社会的プロセスである。

 ◆[自由論]自由は、世界の中に内具されている。個物であることは――人間精神であれ、素粒子であれ――自己創造的であることである。しかし、各々の個物は、それ以前に過ぎ去ったすべてのものの中からそれ自身を創造しなければならない。過去の決定は,現在の諸可能性を供給するとともに、制限する。こうした限界の内部において、未来が開ける。

  [経験論]経験は、豊かで、複雑である。感覚経験の明瞭性は、世界プロセスへの我々の関係性の、より深い、しかしより漠然たる、諸経験に基礎づけられている。経験のこの豊かさへの適切性は、我々の諸観念の究極的考査である。

 ぁ[世界論]世界は、生命とともに豊かである。宇宙は、人間を中心にしているのではない、そして、我々は、当然ながら、痛みや快楽を経験する唯一の被造物ではない。「支配」は、この世界への我々の倫理的関係性を理解するための、悲劇的な神学的モデルであることが判明した。実際、我々は、各々の被造物がその中で何ほどかの価値をもつところの、諸関係性の複雑かつ脆弱なウェッブ(網目)への、参加者として我々自身を見るようになるのでなくてはならない。
 
 そこで、私の読みを補筆してみましょう。
 
 プロセス実在論に解釈学的切り込みを入れるのは、先ず自由論です。プロセス思想は、実在は社会的プロセスである、とだけ言うところの哲学思想ではありません。必ず、この実在論を分節するのです。では、何と何に分節するのかと言えば、「それ以前に過ぎ去ったすべてのもの」と「その中からそれ自身を創造する各々の個物」へと分節するのです。こう申上げますと、賢明な読者のこと、ははーん、「実在プロセス」を「原風景」と「回想する(何らかの)自由な主体」に分節するんだ、とお解かりいただけるかと思います。

 ここで「自由な主体」とは何でしょうか。それが人間精神であれ、素粒子であれ、自由な自己創造的な主体であるということは、私は、「何らかの自分自身の視点(パースペクティヴ)を持つ」ということだと思います。この広大な宇宙の中で、無数の個物の無数の視点が存在します。そもそも個物が存在するということは、その視点が存在するということであります。実在を原風景と回想するのは、特定個物(例えば、読者よ、あなたのことです!)がその置かれた視座から見てのことであります。それが視点です。

 このことは、次に、経験論について重要なことを教えます。経験において決定的なのは、あなたならあなたがあなたのいるそこに視座を持っているという事実そのことであります。そのことは、宇宙内であなたにとっては最重要な事です。この「事」は、「感覚経験」よりも重要な経験局面であります。前者は後者よりはるかに原本的です。

 右のことは、世界に関しても重要な事を教えます。「世界の中にある事」は、いわゆる「支配」(あなたがいかに他者に影響を支配的に及ぼしているかどうか、あるいは、逆に、あなたが他者によっていかに影響を支配的に受けているかどうか)の問題よりも重要なのであります。ホワイトヘッドは常に哲学において「重要性の感覚」《the sense of importance》を重要視してきました。要するに、あなたが、実在プロセスを、あなたの視座から、「原風景」(宇宙における全過去)と主体的に「回想」する時、そこに何か新しいもの(価値)が自己創造されているのであります。その時、「原風景」(過去)は消滅するとともに、あなたの回想(自己創造的現在)の中に豊かに再生しております。これがプロセス(あなたの消滅即自己創造のプロセス)なのであります。あなたは世界を、このように、プロセスとして経験し,そうすることによってあらゆる形での「支配―被支配」を超えて行きます。そう悟った時、あなたは解放を経験しませんか。この解放は、より重要性の低い世界(すなわち、「支配」秩序)から原本的な重要性の世界へのひらけとしての解放と言えましょう。

 右の事情は、メッスリーの[実在論]の箇所に私の「無→者」実在観を代入しますと、さらにダイナミックに分明となります。それと申しますのも、欧米学術界における劇場的空間において必須の概念地図に、私の意図するように、解釈学的切り込みを入れる場合、デカルトから始まる近代哲学の「有→者」の概念地図を提示するだけなら、切り込みが本当に徹底した切り込みとはならないからです。そこに、私の言う「原風景を回想する」視座=視点も、「有者」的にだけ機能して今ひとつ徹底性を欠き、存在の根底に通底することを逸します。これが、すべからく「啓蒙」と言われるものの、遅れた地域の民衆には先進的と見えましょうが、その実、決定的に浅薄な特質なのであります。


 (注)

 概念地図に存在の根底に通底するような鋭い切り込みを入れない「啓蒙」主義の浅薄さが反省されない場合、その結果はどうなるのでしょうか。その結果は、今回の世界同時金融危機のようになる、――とこう私が言えば、読者諸賢にご賛同いただけるでしょうか。考えてもみて下さい。今回のリーマン破綻で露見した、米国住宅サブプライムローン危機に隠されたあの「CDO(Collateralized Debt Obligation)と呼ばれる債務担保証券のからくりは、リスクや利回り、組み込まれたローンの区分けなどによっていくつもの種類を作り出し、プロである機関投資家ヘッジファンドにとっても、どの商品を選ぶべきかが見えにくいほど複雑な商品にしあげる、――という形での金融概念地図の提供だったのですね。私は、これは、欧米学術世界の概念地図描きと地続きの現象だと思います。それがまるごと破綻したのであります。

 では、どうすればいいのか。そこなのですよ、「無→者」実在観を下地にして「原風景を回想し、これに基づいてあらゆる地球諸問題を解明する」、私の言う「無→者」のためのプロセス神学が必要不可欠である、と私が本書で高調したいのは! 米国金融資本主義リーダー達の誤りは、概念地図を概念地図の平面的世界だけの事として運用するばかりか、その底に「債務」《Debt》隠蔽のからくりを施していたのです。今、「欧米世界(ことに米英指導体制)が危殆に瀕している。次の世界リーダーは、BRICs(ブラジルロシアインド中国)だ」というような声も喧しいのですが、どうでしょうか? 

 私は、早まってはならない、概念地図を考案したのが欧米ならば、その欠陥を訂正するには、欧米学術世界の反省として真っ当な形が先ずなければならない、と思います。それでは、それは何か? それが、欧米の中世の智慧なのであります。私が只今作業中の英文七部作の中心に置いている、Anselm’s Argument and Buddhist Wisdom(アンセルムスの神証明と仏教的智慧)の時代論的狙いもそこにあります。そして、本書冒頭に引用したルターの宗教改革以前の言葉「ああ、あなたがわれわれのなかに満ちたもうためには、われわれはどんなにか歓んで空しくありたいことぞ。」「あなたが私によって義とせられたもうためには歓んで罪人でありたい。」が大切――宝物のように大切――なのは、このゆえなのです。

 今、地球上には二大重要事があります。第一に、欧米世界の反省=懺悔でありまして、それには、ルターやアンセルムスまで還らねばなりません。経済活動=金融手法の中に「誤っていたら反省、懺悔せよ」という懺悔原理を入れるべきです。通常の言葉で言えば、「情報の開示」です。第二に、欧米の反省=懺悔とともに、「非欧米世界との宗教間文明間対話を貫徹せよ」という対話原理が緊要であります。米国中世欠如の近代化を大々的にやって成功した国だ、と最近言われていますが、それが米国型近代化のいびつ性でしょう。ルターの宗教改革の結果、「召命」《Beruf》概念が古典的資本主義社会の形成原理となったことは、マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で日本の産業人、知識人、政治リーダー達の誰でも知るところですが、今必要なのは、宗教改革直前のルター思想にある「懺悔」原理だと、私は確信します。

 「懺悔」原理を回想して霊性的活力を回復した欧米が、日本をはじめとする非欧米世界と「宗教間文明間対話」をすることにより、地球上の諸問題の解決に当たるのが、21世紀の「ハイパー・グローバル資本主義」以後の世界秩序の路線でなくてはなりません。このため我が日本もその霊性文化を新たに回想したうえで、産業、科学技術、政治経済、教育を含む文明の全体性をよく練磨して、「地球的対話の時代」に臨むべきであります。東西いずれの視点から見ても、「無→者」のためのプロセス神学は、時代の要請なのであります。 


       (2)プロセス有神論

  [神愛論]神は愛である。すなわち、神は、その愛が一切の実在の基礎であるところの、独一の主体である。すべての事物が生き、動き、その存在を有するのは、神の愛を通じてなのである。一切の被造物の経験を分かち合いつつ、かつ、一切の被造物によって経験されている。

 ◆[神力論]世界の中での神の力は、必然的に説得的であって、強制的ではない。神は、自己啓示によって行動する。神は、我々の自由の根源であって、世界を強制することができない。

  [イエス論]イエスもまた、自由を有した。彼は、神の呼びかけと愛に対して十全に感応的であることを選択した。彼の生と死は、そのことによって、我々一人ひとりに対する神の愛と神の呼びかけの性格を啓示した。

 ぁ[啓示論]神は完全に愛する方であるゆえに、毎瞬毎瞬、神的自己啓示を通じて我々に呼びかけ、善と美のヴィジョンを分かち与えながら、世界とともに苦しむ。神は、我々の自由を無効にすることができないのであって、絶えせずかつ無限の忍耐を以って、我々がなす一々の選択から得られうる最善のものを創造することを求めながら、我々の自由な応答を待つ。

 ァ[全知論]神は、知るべくしてある一切を知りつつ、「全知」《omniscient》である。しかし、このことは、未来を、固定されたもの、ないしは確定されたものとしてではなく、ひと続きの可能性と蓋然性として、開かれたものとして、知ることを意味する。

 Α[神と世界の等=永遠論]神は、世界とともに「等=永遠的」《co-eternal》であって、我々とともに時間の冒険を分かち合う。その中で神が創造的に活動的であってきたところの、何らかの種類の世界が常に存在してきた。

 А[遍在論]神は「遍在的」《omnipresent》である。すべての人(実に、すべての被造物)が、毎瞬毎瞬、神を秩序と自由の根源として経験している。神は、同時に、自由を可能にするとともに、善を選ぶようにと、世界のための神のヴィジョンを選ぶようにと、我々に呼びかける。かくして、神は、継続的かつ普遍的な自己啓示によって世界の中で働く。

 ─[神―世界経験論]しかし、我々の神経験は、本来的に、我々の世界経験と織り合わされているので、これら二様の経験は相互に形成し合う。我々において神と世界は、従って、「共経験的」なのである。神は、我々のヴィジョン(見ること)を曇らせる暗黒の硝子を通じて我々に至ろうともがく。かくして、啓示は、遍在的であり、継続的であるが、しかし、常に曖昧性を脱しない。

  [根源論]同様に、神は、世界の生成の根源である。歴史においてと同様、自然においても、神は、世界の中で自己啓示によって行動する。しかし、ここでも、神の力は、本来的に、世界の力と織り合わされている。

 [一切出来事論]すべての出来事が、神の力と世界の力をふたつながら映す。世界は、多かれ少なかれ、神に対して感応的であろうが、しかし、我々の世界の中には、我々がそれを指差して、「神のみがそれをなし給うのだ」と言う、といった如き、自然の法則と歴史の外側に立っている、分離された出来事などというものは、ひとつもない。


 右が、メッスリーの描くプロセス有神論の概念地図(十項目)です。ここで、私の立場から、補筆を書き込んでおきましょう。

 ここで基軸になっているのは、勿論、第一項目の神愛論です。メッスリーの叙述は美しいですね。「神は、至高に関係付けられた一者《the supremely related One》であって、一切の被造物の経験を分かち合い、かつ、一切の被造物によって経験されている。」先ず、「至高に関係付けられた一者」という神の名前は、チャールズ・ハーツホーンの「超関係主義」《Surrelativism》を想起させます。その関係性に「超」がつく、そうした関係者が神である、という神告白であります。第二に、この超関係者は、我々各自の経験に関しては、ある分節を以って顕現します。すなわち、「一切の被造物によって経験されている」面では、我々の経験の前にあって経験を促す者でありますが、同時に、「一切の被造物の経験を分かち合う」面では、我々の経験の後にあって経験のすべてを理解し、吸収し、包摂し、記憶する者であります。こう見れば、私の語法からすれば、この神は、一切の被造物によって「回想」される「原風景」でありつつ、一切の被造物の経験を「回想」する当体である、と言うことができます。ここに、メッスリーのプロセス神学の「共経験主義」の見地が成り立っているわけです。

 ここで、私はふと驚きました。我々の「原風景」も、我々の「回想」も、実は、神の愛の姿(ないしはそれらへの我々各自の参入)であるのではないか、と。私自身は、ご承知のように、超関係者を「無→者」全体と捉えております。そう捉えている以上、そう捉える事が可能にされている以上、私にとっては「無→者」は、また同時に、「無→者←」でもあるのであります。明敏なる読者のすでにお気付きのように、この場合、「無→者」の中の「→」(ヴェクトル)は、「促しとしての神」を表わし、「無→者←」の中の「←」(逆ヴェクトル)は「回想者、理解者としての神」を表わします。後者の「←」(逆ヴェクトル)は、無限定的超関係者による包括を表わします。(無限定的超関係者による、と今書きましたが、「←」の右には私は何も図示せずに、「それ」を示しております。これと対照的に、「無→者」の「無」は、誤解のないことと存じますが、本書の冒頭から、私の実存における「問題性としての無」として提示しております。)

 第一項の神愛論がそのように解かってみますと、第二項の神力論にいう「神の説得的力」は当然の帰結であります。超関係性は、関係性を力とすることですから、強制力を力と見做さないことであるのは、論理的必然です。

 では、第三項のイエス論は如何でしょうか。興味深いことに、「神の呼びかけに対して十全に感応的であることを選択した」人としてのイエスは、右の「無→者←」の中の右側の「←」(逆ヴェクトル)の最高の具現者であることが、ここでよく分かります。彼は、一人の「無→者」でありつつ、したがって、神の呼びかけ「→」をユニークに体現しつつ、なお同時に、「無→者」の全体に対する神の理解愛、すなわち「←」(逆ヴェクトル)を十全に生きた方である、と言えましょう。

 ところで、第四項[啓示論]に至りますと、新しい主題が出てきます。それは、我々に神的自己啓示において善と美のヴィジョンを与えながら、世界とともに苦しむ神はまた、期待する神でもある、という点に潜みます。そこで、メッスリーは述べます、「神は、我々の自由を無効にすることができないのであって、絶えせずかつ無限の忍耐を以って、我々がなす一々の選択から得られうる最善のものを創造することを求めながら、我々の自由な応答を待つ。」

 この神は、回想するだけではなく、我々がなす一々の選択を見たうえで、これを元にしてさらに最善のものを創造する業に自ら従事しながら、「我々の自由な応答を待つ」宇宙的冒険神なのであります。この神の故に、回想の哲学(philosophy of recollection)は説明の哲学(philosophy of explanation)へと逆転します。我が日本の西田幾多郎も、この逆転の消息を知っていました。彼は、第二作『自覚に於ける直観と反省』(全集・第二巻)の「四十章」で書きます、「絶対自由の意志が翻つて己自身を見た時、そこに無限なる世界の創造的発展がある」(287頁)。

 さて、私が先に「宇宙的冒険神」と言いましたのは、自ら新しいものを創造するだけでなく、我々の「自由な応答」を待って全宇宙と共に冒険することを欲する、共経験的な神だからです。ここにおいて私は、先に描いた「無→者←」の図示にさらに新しい「→」(ヴェクトル)を付加したいと思います。そうしますと、全体像は次のようになります、

  「無→者← →」。

 この宇宙的冒険神こそ、実は、「宇宙にあるすべてを我々と共に説明、解明しようとする方」として、「説明の哲学」の協働者ではないでしょうか。逆に言えば、我々が、私の申しますように、「無→者」実在プロセスを原風景と回想し、そうすることを基礎にしてすべてを説明、解明する冒険に従事する時、これは宇宙的冒険神との協働なのであります。この協働にこそ、ホワイトヘッドも高調しますように、人間の尊厳と崇高さがあるのであります。「宇宙における共同創造者としての人間の運命こそ、人間の尊厳であり、崇高さなのです」(ルシアン・プライス編『ホワイトヘッドの対話:1934-1947』岡田雅勝・藤本隆志共訳、東京みすず書房、1980年、531頁)。

 第五項では、この宇宙的冒険神が「全知」と呼ばれます。「神は、知るべくしてある一切を完全に知りつつ、「全知」《omniscient》である。しかし、このことは、未来を、固定されたもの、ないしは確定されたものとしてではなく、ひと続きの可能性と蓋然性として、開かれているものとして、知るこを意味する。」全知が、もしも、既知のものを知っていることを意味するならば、決して全知ではありません。というのも、今の時点で宇宙の「全体」を私は知っている、といった途端、もう個物が続々と発生しているでしょうから、彼らは言うところの「全知」からは除外されています。したがって、全知は全知ではない。宇宙的冒険神の協働においては、これに反して、「未来」が共同冒険的に「全知」に含まれているのであります。

 右のような、共同冒険的「全知」はどこから出て来るのでしょうか。この問いに答えているのが、第六項です。「神は、世界とともに、「等=永遠的」《co-eternal》であって、我々とともに時間の冒険を分かち合う。」

 第七項では、この宇宙的冒険神は、「遍在的」《ominipresent》と呼ばれます。「すべての人(実に、すべての被造物)が、毎瞬毎瞬、神を秩序と自由の根源として経験している。」神が秩序の根源であるのは、原風景を原風景たらしめるからです。神が自由の根源であるのは、宇宙的共同冒険神だからです。

 ところで、宇宙的冒険神は、世界と共に進展する故に宇宙的冒険神であります。だから、メッスリーは第八項で、「しかし、我々の神経験は、本来的に、我々の世界経験と織り合わされているので、これら二様の経験は相互に形成し合う」と述べるのです。

 このような神――宇宙的冒険神――は、決して歴史の神にだけ限定される方ではありませ。神は、メッスリーが第九項で述べますように、「世界の生成の根源である。歴史においてと同様、自然においても、神は、世界の中で自己啓示によって行動する」わけであります。このような神の含意は、私が元々、「無→者」で指示したいと思った点であることは、恐らく私の賢明な読者にとっては自明の事柄でありましょう。

 第十項でメッスリーが総括しますように、「すべての出来事が、神の力と世界の力をふたつながら映す」のです。この事態を、私が我が恩師滝沢克己と共に,「インマヌエル(注。神我等と共に在す)の原事実」と呼んだとすれば、私はプロセス神学を滝沢哲学に連結しているわけです。この連結は、非常に「宗教間文明間対話論」的に建設的な方向性のものだと思いますが、如何でしょうか。この点に興味のある方には、小文「神はどこで根底的に「我らと共に在す」といわれうるのか――滝沢克己が読めるという事」(『地球時代の政治神学――滝沢国家学とハタミ「文明の対話」学の可能性』(福岡・創言社、2003年、132-142頁)をご参照いただければ幸いに存じます。

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