賀川豊彦の畏友・村島帰之(52)−村島「道頓堀の考現学的研究」

 前回までで「雲の柱」に10回連載された「賣淫論」のあと、村島は引き続いて、注目すべき論稿を発表し続けています。


      「雲の柱」昭和6年1月号(第10巻第1号)

          道頓堀の考現學的研究                 
                        村島帰之

 この一篇は神戸関西學院文科社會學科に席をもつ五人の學生とその科の卒業生の一人、及び筆者の七人の調査の結果得たもので、大阪における組織的な、最初の考現學的調査である。調査期日も昨年八月一日より十日までを予備調査、十一日より二十日までを本調査、二十一日より月末までを補足調査とした。まる一箇月の収獲であり、多少ジヤナリズムヘの迎合に堕した嫌ひがないでもないが、調査委員の熱心と、これを援助して呉れた警察当局の好意により予想以上の好成績をあげることが出来た。

 踏査の範囲は大阪道頼堀、心斎橋筋、南海通り全部に渉り、それに料理屋の調査に無視することが出来ないため楽天地裏及び法善寺境内遊廓方面の調査のため、芝居裏に及んだ。

 まづ最も興味ある調査としては、他に類似のもののない特異な色彩をもつ南海電車の午前零時から二時の謂ゆる新聞電車に至る乗客の調査をして見た。これらの乗客は略々六〇〇人あるが、そのうちの性別は女が圧倒的な多数を占めてゐる。しかもその女のうちには女給が一番多く、割合からゆけば一七六人のうち一五〇人まで女給であった。まことに女給全盛の時代相を端的に現はしてゐる。その他の女の職業もほとんど道頓堀を中心とする接客業――所謂水商賣のものらしく、二〇〇人の女のうち素人はたった二人しかゐなかった。夜も十二時といへば此の界わいは兎に角普通の家であれば深夜であり、素人の女の出歩く時でないからである。

 男性のうち酒気を帯びてゐるものが多いといふのも、この電車の特色で、道頓堀の歓楽地帯を控へたゞけのことはある。しかもその酒を呑んだ男達が時の進むにつれ、愈々そのパーセンテージを増してゆくといふ事実が判って来た。

 十二時より十二時半まで 男全体の九分
 十二時半より一時まで  同   一割
 一時より一時半まで   同   五割二分
 一時半より二時まで   同   八割六分

 即ち十二時半の九分より一時半から二時に到る間は男の乗客の八割六分までが酔ってゐるといふ事になる。これ等の人達の階級は大半が所謂紳士といはれる人々であり、服装は洋服よりは和服が多く、その職業も芸人風ないきな人達が多数を占めてゐる。

     夜の人々

 深夜の踏査は道ゆく人々に及んで隨分おもしろい事を発見した。千日前を中心として頗るグロテスクな風景を点出するものは無言詣及びはだし詣のそれである。近所の色町の人達であらう。美しい女がはだし或は無言で足を運んでゐる有様は、深夜の寝しづまらうとする盛り場が背景であるだけ異常なる興味を惹かれることである。
 更に心斉橋を牛が散歩する、といへば読者諸君のおしかりを受けるか知れないが、モダーン彼氏と彼女達が夜のランデブーを楽しんだ今迄の心斎橋に、舞台は一転して車を引いた牛が散歩するといふのである。併しこれは何れあなた等が喰ひ残した西瓜の皮や屑物をはこぶ牛車とわかれば興さめることであらう。

 夜をわがもの顔に咲き乱れた女給諸嬢も一時が来ると何れもお宅へ急がれる。すきな男と何處かヘドライブの快をむさぼる人等もゐることではあらうが、素直に家へ帰る彼女等は大抵自動車を利用する。南海電車のお客様となる人は別として、女給の住居は市岡方面に意外に多い。この連中は日頃愛用の車を決めておく。ひどく贅沢らしいが、実際は二三人の同じ方向に帰る連中が共同で特定の自動車に予め値を安く交渉してあるのである。かうして予約した自動車は何時何十分に何處のカフェーの表までといふ女の注文によってかっきりそこに姿を現はす。あの車には誰と誰といった具合に、それも可成り長い間、二月も三月も契約がしてある。

     戎橋モデルノロヂオ

 散歩人は例を求めて盛場へゆくか?
 若い夫婦は何を求めて歩くのか?
 年寄りは? 中年の夫婦は?
 男同志は? 女同志は?

 この踏査か一番実があり叉取調べの困難を感じたものである。日本橋畔に電車或はバス、圓タクをすてた人達は先づ散歩の所要時間に大体一時間半を費す。何處でどう費すかは時季によっての相違もあらうが、我々の調査をやった八月、真夏の暑さをさける夜の散策は、道頓堀を十五分、心斉橋で十五分、喫茶度やキヤンデーストアで三十分、戎橋筋に十五分、千日前に十五分、都合一時半をこの界わいで費すことである。

 そこでこれらの散歩をする人はどういふ工合に歩くかといふと、歩行は一定の速度を変へない同じリズムで歩いてゆく。もし立ちとまる場合も誠につまらない所を選ぶ。活動の看板の前、或は野球のスコアーボールドの前、大阪の喰ひしんぼうを如実に現はしたものか喰物屋の前で立止る人達が隨分多い。この頃よくある喰物の見本を窓に陳列してあるのを見受けるが、人々の立止るのは概ねかういふ場所である。半ゑり屋や洋傘屋など流行の尖端に立つショウヰンドの店先で立つより、先づ喰べもの屋の前に立つといふ事実が判然した。さうしてこれ等の散歩人はそのあたりでは殆ど買物をしない。たゞ飲物をとるのか軽い食物をとるのか喫茶店へはよく這入るやうである。若し商賣でもしたいといふので私に用談をもちかける人があったら、私は二言といはず喰物屋をしなさいといふつもりである。

     水 の 情 緒

 大阪の名物は川であり、橋である、この盛場に東京の浅草にない特色の一つをあげるなら先づ橋をあげるべきであらう。橋に立ち川を渉る涼風をたもとに入れる特権は大阪人のみのもつもので、浅草では到底味はへないものである。

 橋に立つ人々の如何に多いかは次の事実でわかる。
 夜の八時、戎橋の上に立つ人の總数は百八十八人、長さ百二十三尺の戎橋にこれだけの人が立つとなると、細かく勘定すれば一間に五人といふ割合になる。これをモデルノロジオ式に見れば、子供が四割、女が二割、あとは全部男、しかも成年者が圧倒的な数を占め、四十八人の男のうち三十五人までが壮年、あと十二人が青年といふことになる。この人達の服装をみてみると、殆どすべてが和服であって洋服は極く少数である。帽子をかぶってゐるものも四十八人のうち二十一人しかなかったといふ事実は、會社がへりのサラリーマンが少く和服にでも着かへてからステッキ一つをもって帽子もかぶらず一寸した散歩に手軽に出て来た人達であることが判る。書き遅れたが、全体の二割にあたる女はどういふ種類かといふと、これは全く男の同伴者ばかりで、その服装も奥様風と御内儀風の人が半々を占めてゐる。一九三〇年の女が如何に勇敢であっても、男が一間に五人もの割で立ってゐる夜の戎橋に、さすがに一人で立ってゐられないとみえる。

 道頓堀の情緒は川に終始する、道頓堀にしてあの川がなかったら実に興さめたものとなるであらう。その川筋の朝は先づ小便船にあける午前十時巡航船。真昼、石炭船。あんまり情趣のあるものではないが、さて夜になると世界はかつ然と開けて川はボートによりてその生彩を放つ。メタンガス立ちのぼる川面は何時か赤い灯青い灯に映じ、道頓堀川は正に一大悦楽の別天地となる。

 ボートののせるお客様の五割は男女の合乗りである。あとの半数は大部分が男、極めて少数ではあるが女だけののり手もある、ボート以外無風流な傅馬船でこぎまはるものもあるが、さすがにこれには女の相乗客がなく殆どすべて男の同乗であるのも面白い。スピード時代にふさはしいモーターボートがたった一隻しか姿を見せないことも物足りない事ではあったが、何れ大川の廣い川筋でフルスピードを出してゐたであらう。

 嗅覚を對象にした踏査の結果はなかなかおもしろいことがある。まづ心斎橋筋においてもっとも感ずることは、茶、コーヒ等の嗅であり、戎橋筋の真ん中では一種異様な嗅が鼻に感じる。これをよく調べた結果、まがふかたなき女の嗅であることがわかった。而もそれは、てうどま向にあたる松竹座の婦人席から来るものであるといふ結論に達した。松竹座を出た人々、或はまだ館内にあってジョンギルバートの息つまるやうなラブシーンを見ての溜息が、ちやう度この通りの真ん中どころへ来て、初めてぶっつかるわけである。

 戎橋筋は食料品の嗅ひ、道頓堀で一番鼻につくものはうなぎをやく嗅である。

 街の騒音は日本人らしく下駄の音を中心とした一つのシンフォニーが奏でられている。道頓堀に出るジャズの音が圧倒する。軒をならべるカフェーから吐き出されるそれらの騒音は実際壮観である。道頓堀十一軒のカフェー中七軒までがステージを拵らヘジヤズとダンスを交互にやってをる。

   光を求めて

 赤玉食堂の、ムーランルージュを真似たにしては少し悲しい風車を中心にして、夜の道頓堀の光は、今や電燈の時代が去らうとしてゐる。尖端をゆきたがるカフェー業者、盛場を利用する宣傅業者は惜げもなくネオンサインの効果をらん用してゆくのである。

 次に街の商業的色彩を観察すると、先づ心斎橋筋は古典的な衣類を中心とした装身具の街といふことが出来る。その中心はデパートメントストア大丸である。二千人の従業員、そのうち八百人の女店員を使用するこの近代的なデパートは心斎橋の王位を占むる存在である。心斎橋を通る人々のうち九十八パーセントまでが一度は大丸の玄関をくぐる。心斎橋の商人は大丸のおこぼれを頂いてゐるといっていいので、こんな事をいふのは小賣商人を侮辱することになるであらうが、月曜の大丸の休日には心斎橋の散歩人が平常よりぐっと少くなる事実を見のがすわけにもゆくまい。

 戎橋には食料品が多いことが特長であり、喫茶店の多いことも数へられるであらう。

 大阪の食傷新道として、有名な法善寺の小路は、東西一丁のうちに十六軒の飲食店が軒をならべてゐる。小料理屋五、おでん屋五、しるこや二、天ぷら屋二、すし屋二と種別で、この小路一つに喰ひ倒れの大阪の模型が陳列せられ異彩を放ってゐる。

     芝居街の姿

 足一たび道頓堀に入ればそこは誠にこんとんたる近代都景縮圖である。
 五軒の劇場、三十七軒の飲食店、四十九軒の雑貨商品店、いろとりぐの尖端をきそって各自の自己を主張する有様は誠に物凄い限りである。

 劇場街としての道頓堀は隨分古い歴史をもってゐるが、謂ゆる五座の櫓の華やかなりし以前の色彩は大分変化して、今日では二軒は映画館となり、松竹座を加へて三つの活動寫真が、道頓堀の「歌舞伎」をその王者の地位から引下げてしまった。

 元禄時代から名高かったいろは茶屋の名残は、今日十五軒の芝居茶屋にそのおもかげを止めてゐるが今日ではかなり衰微して、一方では煙草店や人形店を兼営したりしてやっと残塁を守ってゐる向もある、時勢はもはやこの種の営業の存在を必要とせぬのかも知れない。それに、松竹の本家茶屋制度、切符前賣制度プレイガイドなどの進出が、古い芝居茶屋のお株をうんと蠶食した事は争へない。

   シネマの進出

 芝居茶屋を衰微せしめた時代の動きは、それと密接な関係のあった歌舞伎芝居にも及んでゐる。今の歌舞伎はその勢力の殆んどを映画に奪はれてしまってゐることは誰も見るところであるが、値段からいっても、中座で一流の歌舞伎の場合、入場料は特等八圓五拾銭、下で參圓五拾銭はとられる。これに比較して松竹座では特等貳圓で、頗るブル気分になりながら有数な優秀映画に接することが出来る。

 近代のスピーディな時代の人達が幕間の永い、そして高い入場料を払ってみるのをきらひ、安くて早いシネマに走るは当然であらう。更に千日前では金貳拾銭也で海の彼方の美男美女のエロたっぷりな表情が満喫されるとなると大がいのものなら先づシネマを選ぶであらう。

 芝居、シネマの以外の興行もののうち、一番興味を引かれるものに萬歳がある。かつては萬歳は低級なエロ百パーセントの境地に甘んじてゐたもので、聞く方もそれで満足してゐたのであるが、時代はこの拾銭の安興行にも安逸を許さない。彼等の今日やる事ははっきりと階級意識に目ざめたもので、シネマなどの及ばないある鋭さをもってゐる。だから萬歳によって人々の教へられる社會階級意識は恐るべきものであるが、この方面には警察当局の眼が今一つ届いて居ないやうである。これをよい事にしてゐるわけでもあるまいが、安價な平俗な社會主義的言動でもって非常に観客をよろこばせてゐる。殊にこのお客は拾銭這入り次第といふ安價な木戸銭の上に、入れ替り立ち替り多くの見せ物があるので、退屈しのぎ時間っぶしには誠にいいもので常に大入満員である。ここらあたりからひろめられるプロレタリア・イデオロギーは、その昔添田あぜん坊によって唱へられた民衆詩と同じ傅播力をもってゐることを高唱しておく。

 話は大分横道に外れたが、さて、道頓堀の各劇場に従業してゐる人員は何程あるかといふと、ざっと千人内外はゐる。あとの三百人内外は普通の芝居小屋に勤務してゐる。而して普通の芝居小屋一軒について従業員は大がい八十人前後、数別すると、表方十人のうち主任一人、事務員七人、電話係一人、雑用一人、裏方三十八人、そのうち大道具十九人、小道具三人、幕引一人、電気係四人、その他下足、お茶子、受付、掃除婦、合計三十二人の人々が働いてゐる。

     盛場の暗黒面

 盛場につきものである暗い犯罪の一面は何れまぬがれぬもので、面白い對照は道頓堀の不良とスリである。千日前を中心として働くスリは決して高級なものでなく、スリ科尋常第一年生位の資格しかない。隨って技術もまづくかけ出しが多い。之に反して不良少年になると一流になる。「俺はとんぼりのだちだ」といふことは彼等に大変な箔をつける。だちとは連中の謂で道頓堀の不良少年は何處へ行っても格が上で威張って歩ける特権をもつ。

 浮浪者の少いことも異色で、乞食も案外少いが、心斎橋を根城とする三人姉妹の乞食の収入は驚くべき多額で私達を驚かした。

 その他中座の前にうづくまってゐる子供の乞食はスラムから一夕五拾銭で借りて来て此處で働かし、その所得で自己の懐中を肥やしてゐる親方があるといふ事実が知れたなど、この調査のおもしろい収獲の一つである。