賀川豊彦の畏友・村島帰之(164)−村島「本邦労働運動と基督教」(3)

  「雲の柱」昭和14年3月号(第18巻第3号)への寄稿分です。

        本邦労働運動と基督教(3)                           村島帰之

   明治末期の社會運動
 明治年間の本邦労働運動は、三十三年、鉄工組合が五千四百名の労働組合員を擁してゐたのを絶頂とし、同年の治安警察法発布に件ふ弾圧から俄然衰微の歩調を辿り、三十五年頃には殆んど組合の姿を認めないまでになった。それから後といふものは、必然的に、思想運動に向って行った。
 これより先き、明治三十一年十月安部磯雄、木下尚江、河上清、片山潜、西川光二郎、幸徳傅二郎氏等、主として基督教信者によって組織された社會主義研究會では「社會生義原理を日本に適用するの可否」を考究したり、サン・シモンやフーリエなどを主として研究したりしてゐたが、政治的方面に進出する必要を感じ、三十四年五月廿日「社會民主党」を創立した。
 安部氏の起草にかかる同党の宣言書中の理想の第一、二項には、明かに基督教的な言葉が出てゐる。
 一、人種の差別、政治の異同に拘らす、人類は同朋なりとの主義を拡張すること
 二、萬國の平和を来すためには、ます×備を全廃すること
 こうした理想を持った政党がその筋によって許容される筈はなく、即日解散を命ぜられた。そこで、これ等の人々は現実運動の至難を知り、社會主義協會(會長安部磯雄氏)を組織し、神田三崎町のキングスレー館を本拠とし雑誌「労働世界」を公刊して社會主義の宜傅に努め、さらに三十六年十一月五日からは萬朝報を出た幸徳が堺枯川氏と共に平民社を創立「平民新聞」を公刊した。平民新聞は三十八年十一月廿九日、第六十四号まで二ケ年、続刊され、前記二氏の外、石川三四郎、西川光二郎、荒畑寒村白柳秀湖諸氏も加って大に社會主義の宣傅に努めたが、その平民社は非戦論的調子が強かったため、同十月九日つひに解散した。その解散に先立つ一年前、即ち明治三十七年八月、折柄、わが國は遼東還附の怨みを晴すためロシア膺懲の軍を進めてゐたが、平民社は国論を無視し、和蘭アムステルダムに開かれた萬國社會党犬會――インターナショナル大會に決議案を提出して國際運動に乗出し、剰へ片山潜を同大會に出席せしめ交戦中のロシアの代表ブレハノフと壇上で握手した。これでは弾圧の手に下るのが当然であった。
 兎に角、当時、社會主義者によって非戦論が行れた事は、國論全く一致し、基督者も銃後の守りにいそしみつつある今日から見て、全く隔世の感がある。
 平民社は非戦論のために解散した。しかし、石川三四郎等、社會主義者にして基督教を信する一團の人々は、全國の基督教徒に社會主義を宜傅しやうとして「新紀元社」なるものを創立し、三十八年十一月十日、雑誌「新紀元」を創刊した。木下尚江氏や安部磯雄氏の如き基督教社會主義者がこれを助けた。これに對し、西川光二郎等は同じ三十八年十一月に「凡人社」を起し、雑誌「光」を発行して唯物的社會主義を鼓吹した。
 社會主義陣営に於ける唯心論と唯物論の分立である。
 明治四十一年七月には赤旗事件についで大逆事件の不祥事があり、これで社會主義運動も一頓挫せざるを得なくなった。ただ、堺枯川氏等一派が賣文社を起し、実際運動とは手を絶って「へちまの花」「新社會」に拠って比較的おとなしく主義の宣伝をしてこれは大正年間まで続いた。
 社會主義運動は衰へた。さきにこの運動が盛んとなったのは治安警察法の発布による労働運動の衰微がその契機となったのだった。此度は、大逆事件に端を発した社會主義運動の衰運が労働組合運動の誕生を促進したのも一奇である。
 世は大正の御代となった。十年蟄伏のわが労働運動は、一時風に抑へられてゐた烟のやうに、再び地上から頭をもたげて来た。そしてその魁をなしたものは、実に、今日の全日本労働總同盟の前身友愛會であった。

     明治末期の同盟罷業
 勿論、労働運動は明治末期と雖も終熄してゐた訳ではない。労働組合の運動こそなかったが、各工場における箇々の争議はあった。今、明治三十年から四十四年までの同盟罷業及参加人員の数をあげて見やう。

 明治三十年から明治四十四年まで、即ち明治後半期の十五年間における罷業件数は三百件、參加人員は四萬五千を数へる。即ち平均一ヶ年の罷工件数わづかに二十件、參加人員も一件百五十人平均にすぎない。これを今日から見れば、殆んど問題にもならない小規模のものである。これといふのも、強力なる組合が存しなかったためである。右の統計において、明治三十一年のみが特に件数の多いのは、目鉄矯正曾を背景として同二月福島を中心に東北線仝部に亘り日本鉄道会社の各駅機関方が罷業を行ったためで、組合が如何に労働階級のために必要欠くべからざるものであるかが立証されるものである。
 組合運動の衰微と共に、右の統計に見る如く、罷工件数は大体において逐年減少してゐた。ところが、日露戦後、わが工業界の発達に件ひ再び増加の傾向を示した。
 然うだ。気運は醸成されてゐたのである。労働者は漸く目覚めて来たのである。一部の者は既に目を覚ました。鉄工組合の解散以来、機械工業方面の組合は再起するに至らなかったが、労働者の中でも最も知識分子の多い欧文植字工は明治四十年春、既に「欧友會」を組織してゐた。會員は三四百人に過ぎなかったけれど、当時の欧文工の殆んど全部を網羅してゐて、秀英舎や築地活版所との間に、團体契約をさへ締結してゐたことは注目に値ひする。
(この欧友會はその後四十四年十月の築地活版所のストライキでリーダーが治警十七條の適用を受けたりして殆んど廃滅に帰し、大正五年に至って信友會として再興を見た。)
 この欧友會を外にして、労働組合らしきものは存在することなく、明治末期を経過し、大正年間に入った。この時、一個の組合が創立された。その名を「友愛會」といふ。そしてその創立者は社曾主義者といふよりは、人道主義者の鈴木文治氏であった。

     なせ鈴木氏は労働運動を志したか

 鈴木氏は何故に労働組合組織に着限したのだらうか。勿言、時勢が彼の蹶起を促したのではあるが、鈴木氏自身の動機はどこにあったか。今日の青年だったら、必すマルクス理論に徹するためといふだらうが、鈴木氏にあっては然うではなかった。
 鈴木氏はその自傅「労働運動四十年」の中で、氏が労働運動に献身するに至った動機を三つあげてゐるが、その第一は「基督教の感化」だとしてゐるのだ。
 「私は幼年時代より基督教の雰囲気の中に育って来たこと、殊に感受性の最も鋭敏なる青年時代を、強い宗教的感化の下に過して来たことである。私は別に社會問題の理論的研究を極めて、その結果として運動を起したのではない。叉肉体労働の辛惨なる体験を嘗めて、その結論として運動を起したのでもない。根本の動機は基督教的人道主義の立場から出発してゐる。」
 即ち氏は「理論」の上に立つといふよりも「人道」の上から黙視することが出来ずに、言はば、弱い者の味方たらんとの人道的熱情から労働運動に志したのである。従って、氏の主張は常に稔健着実であった。氏の文章はつゞく。
 「私は近年屡々私の態度について生温いとか、妥協的だとか協調主義だとかいふやうな批評を被ってゐるが、私は如何に罵倒されたにしても、どう考へて見ても唯物論を根拠とする暴力革命主義に賛同することは出来ない。私は労資の両階級が利害相反する立場に立ち、容易に越ゆべからざる差別あることは承認するが、資本家即ち悪魔といふ風には考へられないのである。」
即ち氏は小児病者の多い中にあって自ら「唯物論」や「暴力革命論」に左袒することの出来ないことを、勇敢に宣言してゐるのである。そして最後にいってゐる。
 「労働問題の解決も結局精神的要素を無視することは出来ないと考へる。凡そ以上の見方、考へ方は基督教的人生観、社會観に負ふところが多いと思ふ。これ私の労働運動創立の動機として基督教的感化を第一に数ふる所以である。」
 鈴木氏はその基督教的感化から自らも小さき十字架を負ひカルバリの道を歩まうとして、身を労働運動の中に投じたのであった。動機の第二に、「青年時代からの窮乏の生活」、第三に「社会問題研究」の賜物をあげてはゐるが、氏にこの基督教的情熱がなかったら第二、三の事情を越えて、或は他の學友と均しく最も安易にして、最も将来多き官界への道を辿ったのかも知れない。言ひ過ぎかも知れないが、基督教の信仰が「友愛會」を作ったのである。
 友愛會創立の経緯を記す前に、もう少しく鈴木氏の人となりについて詳述する必要がある。

     生れつきの基督者

 鈴木氏はその往昔、源義経を東國へ案内して来た金賣吉次の出生地、宮城県栗原郡金成村の産。
 東北地方には明治の中葉から「正教會」といって、 ニコライ派グリーキ・カソリツクのハリスト教會が浸潤してゐた。鈴木家でも一家をあげて、その信者であった。鈴木家の長男である文治氏は、七歳の折、白衣の姿で洗礼を受けたものである。即ち鈴木氏は全くく生え抜きの基督教信者なのである。これを賀川氏が扶桑教の信仰をもつ父の子として生れ、少年となって父母の目を忍んで基督教會に通ひ、聖書を學んだのに比すれば、大分その趣きを異にしてゐる。今は賀川氏の方が、却って生れつきの信者のやうに見える。聖書の所謂「後の者、先になるべし」である。
 鈴木氏の家も、賀川氏の家の如く、近在切っての奮家であった。幼時、氏の家の台所には、銘木たがやさんの板戸が八枚もはまってゐて、いつも黒光りに光ってゐたといふ。家業は酒造で、富裕な家の坊ちゃまとして氏は育った。小学を卒へると、金成村から八里を隔てた古川町――そこは氏の刎頚の友吉野作造氏が五六歳の年長児として住ってゐた――の古川中學に入學しその寄宿舎に這入ったが、毎週土曜日になると、氏の家から人力車が迎えに来るのが慣しで、氏は颯爽として車上の人となり、寄宿生の羨望の瞳を尻目にかけて八里の道を父母の膝下へ帰って行った。叉夏休みになると、家の作男が馬を曳いて来て氏は行李と一緒にその馬に乗って意気揚々と帰省したものだといふ。
 かういふ風に、坊ちゃん育ちをして青年になったが、恰度中學の四五年頃、酒造の失敗やら家運は頓に衰へ、坊ちゃんが一朝にして苦學力行の人とならねばならなかった。この点も賀川氏のそれと似た点がある。
 鈴木氏は少年の頃から、教會にも出てゐて、聖書の知識もあり、叉読書家であったため、中學時代から仲々の理屈家だった。博物の教師が或時、天地創造の講義をして、「天地の根源は霞雪星(ネピュラ)から出た」と断言したのを聞くや、旧約聖書を読んでゐる氏は立上って「ではその霞雲星の根源は一体何ですか」と質問し、先生の逆鱗に触れたこともあった。叉五年生の時には古川町の正教會の一室に寄宿してゐたが、隣りに出来た天理教の教師と大問答をやり、正教會の神学書やその頃、青年間の好読物となってゐた兆民の「一年有半」などを引用して、散々にやり込めて凱歌をあげたことなどもあった。

     苦學力行
 中學を卒へて山口の高等学校に入學を許された時、一家は既に没落してゐた。山口まで行く旅費を整へるために、母は萬一の用意にと嫁入の時、里から持たせられてゐた古金銀の粒や延を持ち出し、父は酒倉に残った大釜を町へ賣りに行って漸く三十余圓の金を調達したほどだった。こんな風だから、山口ヘ着いてからも學資は不足勝ちで、制服は辛うじて作ることが出来たが、外套を買ふ金がなく、初年度は外套なしで通し、二年目になって、氏より二年の先輩の筧正太郎氏(氏は寄宿舎の寮長をしてゐた)が卒業に際し古外套を鈴木氏に譲ってくれたので漸く人並に外套を着ることが出来た。靴も兵隊の古靴を二十五銭で買って来た。
 斯うして、さなきだに乏しい學費でやってゐた矢先へ、東北の大飢饉が見舞ふた。氏の家は學資を送るどころではない。却って氏は多くの弟妹のために、多少でも仕送りをしなければならぬ身の上となった。少年時代からの楽天的なところが漸次失はれて、憂欝な青年になった。それを見た保証人の戸澤正保氏が心配してその理由を聞き、大に同情して、兎も角、その家の玄閥番にして貰ふこととなり、辛うじて学業を続けた。筆耕もやった。翻訳もした。その後、吉野作造氏の世話で仙台の養賢義會から毎月八圓づつの貸費を支給されることとなって、戸澤氏方を出、後河原にあった美以教會の日曜學校々舎の留守番となり、日曜學校を教へたり、掃除をしたり、事務をとったりして、月八圓を支給された。その八圓が氏の學資の全部であった。氏はそれで、買はねばならぬ書籍のあった時などは、朝飯を抜いて本代を拵へた。
 冗々しく鈴木氏の苦學力行の物語を叙したのは、氏が工場労働などの経験のないインテリ出身ではあるが、労働階級の人々にも劣らぬ苦労を経て来た人であることを知って貰ふためと、もう一つは、賀川氏の青年時代と、余りにも近似した点があるからである。賀川氏も高知懸徳島支廳長、元老院権少書記官等の官歴を有し、神戸における海運業の創始者として羽振りを利かせた父の子として育ったが、中學時代から家運傾き、家を出て他人の家の飯もたべた。明治學院や神戸神學校でも學僕をして学費を扶けなければたらなかった。後年、日本における労働運動の二大人物として並び称せられた両氏の過去に、同じ苦學力行談のあるのは、偶然といふよりも、もっと深く考へさせらるるものがあると思ふ。
 それは兎も角として、苦學力行して辛うじて高等学校を出た鈴木氏は、東京帝大法科に進むことが出来たが、勿論、学資はない。幸ひ同郷の友人で金持の当主である者がゐて、その友人から毎月十二円づつの學資を借りることが出来た。四十二年七月、大學を卒へるまで、その友人からの借用金がつゞけられた。そんなだから、依然として「貧乏書生」である氏は制帽征服を作る余裕もなく、制帽は吉野作造氏のお古、制服はこれも同郷の先輩内ヶ崎作三郎氏のお古、靴も誰かのお古の拝領品であった。
 そうしてゐる時――恰度明治三十九年二月、氏の大學一年の二學期だった――父危篤のハガキが氏を驚かした。電報料にも事欠いてハガキにしたのだ。氏はその頃、帝大基督教青年會に寄宿してゐたが、そのハガキを手にして三階の祈祷室に走り込んで、思ふ存分に、泣き、且つ祈った。急いで帰郷して一家の窮乏の中にやっれた父の顔を見ては胸の裂るる思ひして隣室へ避け一心不乱に祈りつゞけた。氏は当時を回想し「血の出るやうな必死決死の祈祷であった」と言ってるほどである。病気は胃潰瘍、原因は過労と粗食と寒気とだった――。
 氏の熱心な祈りは聞かれた。東京の同宿の友人たちが醵金として四十圓の浄財が電報為替を以て送られて来た。「鈴木が困ってるに違ひない」といふ同信の友の心づかひの浄財である。内ケ崎作三郎氏は仙台の生家に急報してくれたと見えて、そこから米、炭、薪、味噌、醤油など、荷馬車一台に満載して届けられて来た。氏と氏の一家は、これ等の心からの贈り物を、天から降ったマナの如く、涙をこぼして感謝して受けた。
 幸ひな事に、父の病ひは癒えた。しかし、家は依然として貧窮のドン底にある。弟妹も多い。氏は長男として当然、その父母と弟妹とを見なければならない。
 帰京して後の氏は、一心不乱になって働いた。本郷教會の雑誌「新人」の編輯員となって、海老名牧師の説教の筆記もやった。「基督教世界」の東京通信員にもなった。小林富次郎氏の店に雇はれて、店員の夜學の先生にもなった。家庭教師にもなった。そして、これで得た金で學資を作り出すと共に、毎月十五円づつを故郷に送って家計を扶けた。
 大學の学業も怠るまいとしたが、右の仕事のため怠るまいとしても兎もすれば遅れ勝ちだった。でも、桑田熊蔵博士の「工業政策」だけは、どんな事があっても休まなかった。博士の講述する社會問題が、氏の心を捕へたからである。博士の自宅へも出かけて教へを乞ふた。博士も熱心に氏を指導した。この事が、後年の氏を在らしめた一つの原因となったことは今更ら言ふまでもない。
 信仰の方も怠らなかった。青年會寄宿舎の毎朝の礼拝には夜業で夜更かしをした翌朝でも、殆んど欠かさず出た。毎日交代でやる司會は一度も抜けたことがなかった。

   朝日の社會部記者
斯くて明治四十二年七月、無事大學を出た。級友の多くは官界へ進んだ。藤沼庄平氏などがそれである。しかし、氏仲間には這入らなかった。基督教の大先輩である島田三郎氏の紹介で(その島田氏へは郷党の大先輩小山東助氏が紹介した)これも基督者にして労働組合運動に大なる理解を有してゐた佐久間貞一氏の主宰した秀英舎に入社し、相川重役(島田三郎氏の令兄)の秘書役(月給三十五圓)となった。桑田博士から学んだ「工業政策」を現実に活かさうとしたのである。しかし、如何に理想に燃えてゐるとはいへ、叉同信の先輩を頂く会社とはいへ、印刷工場の一秘書たることを以て満足出来ない氏は、在ること八ヶ月でそこを飛出して東京朝日新聞に入社した。明治四十三年四月の事である。そこで輿へられた椅子は社会部の外勤記者だった。当時、官立の大学から新聞記者になる例は今日の如く多くはなかったが、殊に三面記者と呼ばれる社会部記者に赤門出の法學士が就職するといふのは稀有の事であった。鈴木氏は、しかし、考ふるところあって、欣然として社会部記者となった。氏は社会部長渋川玄耳の命ずるまま、ハレー彗星の記事も書いた。奈良原式飛行機の滑走試験の結果をもニュースにした。幸徳事件や新しき女の出現をもモノにした。しかし、氏は別に考へる處があった。
 鈴木氏はその大學に在る頃、前記桑田博士や高野岩三郎博士から社會政策の講義を聞いてゐて、社会問題に興味を持ってゐたところから、この方面に筆を振るって見やうといふ考へだ。氏は本所深川の所謂江東労働街を訪れて具さに労働者の実情を究め、或る時は自ら変装して富川町や萬年町の木賃宿に泊り込み飯屋にも這入り込んで、そのドン底の実情を紙上に掲載した。下宿のおかみの弟とかで、文才ある立ん坊を手引にして書いた続きもの「東京浮浪人生活」は、わけても好評だった。これに元気づいた氏は、自ら肝入りして「浮浪人研究会」を組織し、小河滋次郎、山室軍平、原胤昭等の人々にも来て貰って研究をした。
 東京市養育院の協力を得で、立ん坊百二十三名の身許調査もした。
 しかし、これで無事に記者生活をつづけて行ってゐたら、今頃は朝日の重役として、杉村楚人冠の次に鈴木文治の名を見出すことが出来たかも知れない。しかし運命は氏を重役のソファーの中に埋れさせることを許さなかった。氏は渋川部長の御覚えめでたからずして、些々たる編輯の失敗から首になった。それは苛酷な処置であった。しかし、今日から考へると。その方が日本の社會情勢を進める上に効果があった。藪野椋十先生は、友愛會創立の功労者である。