対話の時代 宗教・人権・部落問題・鳥飼の部屋

2014-11-01

「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺4

   武内勝氏宛文書
   工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿

              第三篇


          
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     武内先生に――。

     春と花の心を語る
          ――血と光の真理を求めて
          ――只、一つの道、生命線
          ――人生の未完成交響楽

 春と花の心――これは、若い私達にのみ与へられた特権です。

 女学生フアンの水ノ江ターちゃんが、大阪松竹座の絢爛とした舞台一杯になって、シルクハットを横チョに被って、輝かしい眸を観客席一杯に投げつけ、春だ・・踊だ、桜だ・・春だと曲線を描いたステップを踏んでゐることであらう。躍る人生の民衆は、一升徳利を腰にぶら下げ、花と酒と美人を枕にして、諏訪山工区は一杯です。――汝等、笛吹けど,踊らずとは、旧約時代の話で、今日の民衆は方向を失ってゐる難破船のやうに地獄への踊る合奏(コーラス)の春の魁です。

 喫茶店はタンゴ、ロザーで充満し、カフェーは菊地寛の貞操問答が実演され、ダンス・ホールはブラジロレイの事務所の窓から覗くと、人魚のやうに、泳ぎ、シャンペンの泡は青春の若き血潮を誇ってゐます。

――一切合財、メカニズムと黄金の支配する所、唯物史観万能です。日本の官憲が共産党を弾圧しても、病的な唯物主義の芽が文化形態となって、――金さへあれば、・・その他の言葉の通用しない今日の社会情勢です。

 元町通りの三光堂蓄音機店が、真っ黒山です。私は図書館の帰途、覗いて見ると、

 ハア、娘ナーエ、娘十八、ナアコラショ、
 番茶も出花ヨーイ、
 膝の子猫が、サア、アリア気にかかる気にかかる
      (ㇵ、コレコタホントニ、モットモダット)

 レコードは拡声器で拡大し、?者と通行人、娘さん達、マネキン嬢の指導(コーチャー)って云ふ理で、南国の春は陽気なものです。北海道の農村は、これからが、開拓の第一歩で、雪解けの赤土から、福寿草が黄色い蕾を結んで、春先の光りを、かすかに望んでゐることであらう。

 けれど、歓楽の春に哀愁あり、…一体、民衆よ、汝何処へ行くと云ふのだらう。

 春と花と心は、あまりに侘しい、酔っ払いが、動けなくなって、舗道の上に、ゴロット寝転んだ。寒さの冷気を感ずるやうに、民衆は常に飢えと太陽を求めてゐるのです。パン問題は民衆の現実、太陽は芸術と宗教への躍動です。そして、何処かへ、行かなければならないことを考へながらも、暗中模索です。

 私はキリストを人間の子として、考へられても、偉い人だと思ふ。

――我に従へ! こう云ふ権威のある言葉は、おそらく、それ自身に自信のない限り言ひ得ないことでせう。

 そして、人生程、複雑多岐な、妙なる調べはありませんでせう。私のやうに、苦悶期があり、ある愛人同士の愛の囁きがあり、動的なメカニズムから、静かなる美へ、そして、醜悪との限りない闘争が人間の子としての未完成な交響楽ではないだろうかと思ふ。

 私は、Tae Room Rumble 白い百合の花、ケイちゃんの所で、シューベルトの二部作に触れ、未完成であること、そうです、未完成なる故に、妙なる調べが、限りない魅力ともなるものでせう。――無名な時代、人に棄てられて顧みられない時代、そう云ふ未完成な時代に自己を養ふこと、それが大切であると、今年の正月、賀川先生と話合ってゐたときの断片語を覚えてゐるが、私の芸術も現在は未完成です。けれど、我が恋の終わらざる如くに、我が曲も終わらざるべしとシューベルトが訴へてゐる心境、私は未完成としての誇りを持ちたいのです。

 私は、現実主義者(リアリスト)です。先日、幼稚園にピアノを修理に来てゐた戸川君と話合って見たが、私達の歩んだ傾向が労働者と農民である場合、それが、戦ひに破れ、愛情に飢え、敗北者の立場にあるとは謂ひ、二つの魂の角度が触れ合ふとき、それは花火です。

 私は、現実(リアル)なる故に、無抵抗愛と云ふより、抵抗愛が私達、労働者と農民の立場に課せられた任務とも考へられるのです。

 私は決して、新川の村田を相手にとって、喧嘩を売るとは思ひません。武内先生が、一月元旦の説教に、腹の底に一抹の決意云々――この度胸試しから、私の神による新生――の今後の方向も、小林への忠節も考へなければならないし、そして、少なくとも、労働者と農民言論の自由を獲得するには、「再び、時の敗者」であるかも知れない、× ×の政治権力と闘争しない限り解放されるものではないことを知ってゐるからです。

 それ故に、私は、先日、武内先生が話された――来世への信仰――これは、私にとっては奇蹟と云ふより他ないのです。

 現実に破れ、神を信ずることによって、来世への勝利を約束されてゐると云ふことは、現実の苦痛を逃避し、社会生活に於ける無能力がキリストを信ずることによって、勝利の唄でせうか――。

 成程、私は未完成です。生活ルンペン戦線です。然し、私の魂は神の生命線に触れるとき、自由の王国です。こう云ふ、現実(リアル)を揚棄(アウフヘーベン)する、その立場から、来世への信仰、このこと頷けることかも知れません。

――こうした、一つの心的な発展形態も、六甲山に登る困難を知らなければならないことを省みるのです。

 武内先生に――私も、どうにか、此の四月になって、一つのもの、血と光の小説、百枚完成しました。これは、私の生命をかけたと言っても差し支へない程に、苦労した作品です。一つの作品を書くんでも哲学がなければ書けませんし、根本的な、ものの観点の角度が、ハッキリしてゐないと書けるものではありません。それが、私の苦悶期であるのです。

 この処女地まで、どんなに苦労したか知れない、血と光です。

 この原稿を、今少し、修正して、「改造」の九月締め切りで、懸賞小説に応募して見る積りです。これは、労働者と農民に訴ヘる処女作であり、日本の文芸復興(ルネサンス)に爆弾を投ずる作品でありたいと思ふ。これは、私の生命線に触れて来た一つの具体化です。

 そして、この境地から、新しい出発として、――イエス団とその人々――を百枚書ける材料と構想を組んであります。私も、今、二三年の忍耐です。苦しんで、悶えて、死んで生きた積りで、勉強しよう。大阪朝日の一万円懸賞小説は、横山の美ちゃん、あの位の作品は、私は三年後に書いて見せる自信が十分あります。

 此の間、堀井さんから手紙が来て、行政の父ちゃんが遊びに出掛けたらしい。そして、曰くには、イエス団が幼稚園と合併し、友愛救済所の事業を継続して、やることは、イエス団の墓碑の建立に他ならないと云った意味のことを話したらしい。行政の父ちゃんが、加西郡に出掛けたのは、今年の県会議員の選挙があるそうで、阪本勝氏が金を出して、立候補しないかと云ふ相談が三四回に亘ってあるらしい。それで、堀井さんも、そのことで、地盤の下調べもあるので、行政の父ちゃんが出掛けたらしいんだが・・・。

 それは、ともかくとして、私はこのイエス団の関係した手紙を読んで、直ぐ、堀井さんに返事を書いてゐる。

――よろしい、イエス団の一粒の麦が、地に落ちて、死んだ。それは、それで、結構ではないか。然し、多くの実を結んでゐるイエス団二十五年基礎工作から、堀井さん、あなた自身もイエス団出身ではないか。そして、イエス団の親父――武内先生の第何囲(ママ)期の――の弟子である工藤が、再び、賀川先生の出世作である「死線を越えて」を二十五年後の今日、武内先生の弟子として、書こうとしてゐる。

 これに対し、堀井さん、あなたは、どう云うふ鋭い批判をしてくれるか、と反駁の手紙を書いてゐる。行政の父ちゃんは、社会大衆党から立候補すると、勝負戦はあるやうであるが、行政さんは日本農民運動の荒畑時代の指導者だ。工藤も農民畑だ、一度戦ひに敗れた、無名な現在ではあるが、堀井ブロックが喧嘩を売ってくるなら、私は武内派として、闘へる若さを持ってゐる。堀井さんは、成程、日本の農村伝道のトップを切った先駆者ではある。けれど、自給伝道に芳しい成功をさせない限り、立派な口を効けないであろうし、イエス団墓碑の建立なんて、有難くない批判は、そのまま、返上して、差支がない。

 だが、然し、一歩退却して考へて見ることにしよう。理論は理論とし、批判は批判として、受け入れることは、それは、一つの進歩を意味してゐる。そう云ふ意味で、私は考へて見たい。

 だが、不幸にして、堀井加西郡の殿様は、反(アンチ)賀川派として、感情的なものがあることは、どうしたことだらう――。

 Sさんもそうです、反(アンチ)賀川派である。然し、私は反賀川派であっても、相対的な立場になることによって、競争意識の進歩的な役割を演じることを知ってゐる。× ×の女の子みたいな、感情的なものが、あることそれ自身敗北を意味してゐる。嫉妬心の発生は、ここから、生まれてゐるのではないかと思ふ。

 それにしても、私は、こう云うふ角度のハッキリした観点から、批判し、相対的な真理を見出して行くことは、嬉しい限りだと思ってゐる。そう云うふ意味で、私は堀井さんとも交際出来るし、Sさんから飯を招ばれることが出来る。私は公用と私用を別にしてゐる。Sさんと反賀川派の意味で対立して居っても、私用では、あの人にお恩返しをしなければならない、義務を私は受けてゐる。前田兄もそうです。批判はある、けれど、私が北海道から来たとき、親切にしてくれた前田兄に対して、有難く思ってゐる所がある。

 武内先生、しっかりやって下さい。イエス団二十五年の基礎工作から、全国のイエスの友会――あとの鴉(からす)が先になるやうに――工藤は武内先生から指導されて来てゐるんだから、再び、「死線を越えて」を世に問ふであろう。これは、私の一つの決意になってゐる。

 それで、私はイエス団の内部陣営に就いて考へて見る――。

 当面、イエス団青年部として、第一線に立って活躍してゐるのは、A君です。然し、私は此の男を少しも信用してゐないのは、どうしたと云ふことだろう。実際派として、私は正直に言ふと、彼は、性格の破産者である。彼の小学校時代を偲ぶことが出来るやうに、逗留の低度を疑ひたい位、悧巧な所があるとは思はれません。それに、少しの美しい、個性美の見受けられない、ところのあるのは、どうしたことでせう。そして、おそらく、此の批判は私一人の意見でなくして、イエス団先輩の口に出して、お喋りこそしないが、私と同じ意見であることは、私もイエス団の飯を一ヶ年四ヶ月喰ふことによって、察しることが出来るのです。

 去年の話だが、中村君と前田兄は、A君を凡児と微笑んでゐた。大阪朝日の只野凡ちゃんは、麻生豊先生の漫画で、人気役者であったのであるが、クリスチャン青年は感情に煙幕を張って、凡ちゃんを反効果的な風刺がA君であるのです。

 そして、彼は嘘の多い人間である。嘘の多い二重人格を持ってゐる。彼は神様にすら、嘘を申し上げてゐる。嘘の多い男だ。彼のために、私は、なんどとなく、注意しても、嘘が多い男である。

 人様に愛せられる、美しい対話でなくして、苦痛な、あまりにも苦痛な、偽善の多い、イエス団の同人と争ふ、嘘の鎖に、しばられてゐる男である。彼は自分の郷里の同志に嘘を言ってゐる。彼はイエス団の書記になったんで、賀川氏の古戦場の書記と云ふと、地方の同志は、相当に尊敬してゐる。その彼が、イエス団の同人から信用されるんでなく、嘘によって、地方の郷里の同志に、明らかな嘘を言ってゐる。

 私は、こう云うふ嘘の多い人間を憎む。人間として、嘘の多い人間程、侮辱されることはないからです。

 それに、彼は奉仕と云ふが、奉仕者らしい、働きをしない限り、奉仕の美名に酔わされてゐる阿片に過ぎないであらう。私と同じ、屋根の下に住んでゐることであるから、行為的に、見たいと思ふが、少しの同情に値する所の見受けられないのは、どうしたことだらう。

 而も、彼の生命線である、日曜学校の腕白諸君から、「コロッケ」の仇名で、新川の少年グループから、嫌われてゐる。その証拠に、若し、私が悪意的であると思うふなら、他の先生方に訊いて見ることが正しいでせう。それは、毎日、どぢやうが、お天日様に叱られて、田圃の畦道に、体をぎゅっと、くねらせてゐるやうに、少しのお愛想がないからである。幼稚園のインキナ、トウサン、小使さんからでも、Aさんは、難しい人だなア、工藤さんと先日も話してゐたっけ。

 それで、私は思ひ出した、お釈迦様の言葉である。

 ――こう云ふ変質者は、常識的に考へるんでなく、孤独にさせて置くことが、その人のためであると――。

 時々、彼の前非を悔いるやうに、私の所に、ヒステリックになって、話し込んでくるが、私はキッパリ拒絶した。――当分、僕に言葉をかけないでくれ――と、そのことが、彼を孤独にさせることによって、彼を救ふものであることを、私は知るからである。

 で、私はA君への関心は別の方向である。私は決して、人と感情的に対立しない男があるから、それで、いけなければ、別な方法から眺めることを知ってゐる。それは、彼の性格的な、ジキル博士とハイドを、芸術的に取扱ふことである。昨年の世界映画の最高峰は「にんじん」であった。リナン少年の性格、変質者が、客観的に取扱はれることによって、芸術的に評価されてゐる。

 ドストエフスキーの「罪と罰」の大学生が、実在のイエス団グループであるなら、苦痛を感じるであらうが、芸術作品として、描かれるとき、「罪と罰」は最善の文学価値であらう。それは、特殊性の問題であるからである。

 私はA君を、孤独者として、関心を持つことによって、彼の特殊的な性能が、私の芸術的価値の深さを、評価せしめるであらう。私は、そう考へたいと思ふ。

              ○            ○

 今日は西ノ宮の電線人夫で働いて、相当に疲れてゐます。

 西ノ宮の畑地は、菜の花が一面に咲き誇って、美しいと思ふ。

 それに、大丸の人形より美しく着飾った神戸女学院のお嬢さん達が美しいと思ふ。自然と女性美の交錯である。日本のブルジョア女学校ではないでせうか――然し、こうした美しさも、単なる美しさであるなら、イプセンの「人形の家」のノラに過ぎないであらう。

 それは、男性への玩弄物に過ぎないからです。美に個性がなければ特色がありません。そう云うふ点で、私は大阪の情死の増田富美子さんのやうな、個性美を愛する。高島愛子さんのやうに、性格的な、メカニズムと悲哀(エレーヂ)を愛する。

 私は、電線人夫であっても、私の思索は、いろいろなことを考へる。

 中村兄は、愛らしい、美しい男だと思ふ。彼の童心な微笑みは、上官に愛される魅力を十分備へてゐる。彼は私の神戸に於ける親友になることが出来るでらう。

 然し、それにしても、西ノ宮の女学院のお嬢さん達は美しい。人間的な美しさである。阿南先生のお嬢さんが、お友達と向ふから、やってくる。ルンペン戦線の工藤君も、実は、少しばかり照れちゃって、恥しいやうな思ひがする。

 このお嬢さんと私はイエス団の同人の光栄にあるからである。

 そんな、ことばかり考へてゐると、工夫が怒鳴ってくる。女の子の面ばかり眺めてゐないで、穴を掘って、墓を建てらうって――。

 私は、私の親父を思ふ。沁々、親父の愛情を偲ぶやうになって来てゐる。けれど、現在はルンペンだ。死んでも生きた身だ。立派に錦を飾って、親父の前に、頭を下げることが、今、一息でせう。

 そうです、男の子は、こうでなければいけない。

 この不動の精神――動的なうちにも、静かなる吐息、私の魂の故郷、私の生命、それは、武内先生の魂を通して、その態度から、学ばなければいけない。(四月六日、分室にて)。

 斯くあたいと思ふ。

 春と、花の心、

――お前よ、

――悲しまないでくれ、

――春と花の心は、今一息です。

                  工藤 生
    四月十二日 晩。

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