Intertextuality continuum Type 2 RSSフィード

2005-07-11 昔書いたものサルベージ#2

[]『終わりなき平和 Forever Peace ,1997

ジョー・ホールドマン/中原尚哉 訳/創元SF文庫

ISBN:4488712010/920円


神経接続による遠隔歩兵戦闘体(RICU)、通称ソルジャーボーイでの戦闘が日常化した西暦ニ〇四三年。ナノ鍛造機の出現によって完全な福祉国家を実現した先進国とそうでない国の格差はより開く形となり、合衆国を主とした連合国軍中米の反乱勢力同盟体との戦争が続いていた。そんな時代に生きるジュリアンは兵士としてこの戦争に従事する機械士だった。機械士――神経接続によって十人の精神と繋がると同時に、遠隔地の基地からソルジャーボーイを操作する特殊な兵士。一般兵士とは異なるこの特殊な兵役に就く者である。そして、ジュリアンには軍務から離れた別の顔があった。大学に勤務する物理学者としての顔である。彼はそこで木星衛星の軌道上に設置された巨大粒子加速器を使用し、宇宙の始まりを再現するジュピター計画に従事していたが――というのが粗筋。だが、あまりアクション色はない。

総じて言うと、なんとも奇妙で、美しい黄昏のような結末に雪崩れ込む小説である。舞台近未来。ナノ鍛造機の発明によって物質的には世界全部が満たされる可能性、ひいては経済格差を原因とする戦争の忌避はあって然るべきなのにそれを実現していない世界。そんな中で旧来の南北問題とは微妙ベクトルの異なる持つ者と持たざる者の戦争が続けられている。戦場に出るのはリモートコントロールロボットで、しかもパートタイマーのような兵士がそれを操作している。おまけに主人公は合衆国に住む黒人で大学教授。この基本設定だけからもホールドマンの意図の片鱗がかすかに見える。

だが物語はそれだけで終わらない。退屈なまでに淡々としたジュリアンの日常と軍務、ニ〇四三年のどこか暗い雰囲気を引きずった世界情勢が彼の主観/客観視点から描かれる一方で、彼の恋人アメリア葛藤も綴られる。電脳手術を受けていないが故にジュリアンの過去恋人彼女ジュリアンと一体化していた)の影に悩み、より深い一体感=電脳化の末に相互接続で得られる共有化を求めるアメリアの姿は、現在の社会でよく見る「他者との一次的接触により相互理解を深めようとする者の姿」の強調のようにも見える。そういう意味ではジュリアンの自殺傾向とその結果もまた然り。個人的には、完全な共有化なんて真っ平ご免であるが。

さて、このように「完全な平和は有り得るのか? また、人間同士は本当に100%分かり合えるのか?」というテーマが底流に密かに流れる中で悶々としているような生活が綴られたのち、唐突としてそれを成すための方法と結果が作者から突き付けられる。それは、宇宙の破滅を回避するために人為的な進化(※電脳化による他人との相互接続とその末にある攻撃性衝動の排除。作中では「人間化」と呼ばれる)を全人類に促すというある種異様な回答だ。人類進化とそれがもたらす結果はSFで繰り返し描かれてきたテーマだが、それがこのような姿で書かれるのは珍しいケースであろう。作中では強引な設定と描写もなくはないが、それは許容範囲内か。

こうして人類絶滅の危機を前に、ともすれば強制されたような形で全人類の共有化=攻撃性の排除=完全な永遠平和は実現されるが、その結末はどこか苦い余韻を残す。主人公とアメリアを含めて共有化できない一部の人類が残る最終的な結末と、ラストの一行からもそれは明らかだ。科学的側面から考えてみれば、人間化措置が不完全だった人間との交配による旧人類はこのあとも出てくるだろうし、電脳化=人間化が行われた人類から生まれてくる新生児たちも旧人類である筈だ。そんな社会体制のもとで完全な平和が続くものなのか? そして人類は本当に他者と完全に分かり合えるままの姿でいられるのか? 書かれていない先の姿も含めて、考えさせられる箇所が多い作品である。(99.12.24)

[]『われらのゲーム Our Game ,1995

ジョン・ル・カレ/村上博基 訳/ハヤカワ文庫NV

ISBN:4150409161/900円


タントとそれに続く冷戦の完全崩壊以後、行き場所を失ったと言われるスパイたち。だが東西国家間のイデオロギー対決が表面上なくなった代わりに、過去八十年以上棚上げにされていた民族紛争が新たな火種として国際舞台上に踊り出てくる。そのためスパイたちの役割は表面上異なったかに見えるが、本質は変わらない。原則的には冷戦時代と同様だ。ただし、かつての時代をブレイクスルーできた者だけが今でも現役として生き残ることを許される。そんなドラスティックな変革の時代をくぐり抜けられず、リストラされたエージェントが罠に陥れられるところから物語は始まる。

罠にかけたのはかつての旧友。しかもそれは主人公が育てたダブルエージェント――忠誠を示すべき対象を複数抱え、さりとて自己矛盾を完全に肯定もできない男だ。東西の鉄のカーテンで心を引き裂かれた男が、魂の流浪の末に自らの拠るべき居場所として求めた場所は、かつての敵だった男チェチェーエフと彼の対ロシア民族運動だった。しかもその運動の根拠を成す主張は大ロシア主義の少数民族抑圧に対する真っ当な非難と同義であり、いささかも正当性を欠くものではない。

こうして空中分解したラリーの足取りを、彼の元上司情報部そのもので、世界の流血に対する無関心、国家間の欺瞞等々、の具現である男が追っていく。その過程で国家に頑なな忠誠を誓っていたはずのクランマーは、ラリーの思想と痛みを次第に共有化していくのである。最初は嫉妬と復讐心に衝き動かされていた男が、やがて自らのアイデンティティのもとに銃を取り、国家ではなく個として動き出すラストの文章

【もうわたしには、帰っていく世界はなく、自分のほかには動かす人間もいない(P528)】

は寒々しい冷たさを備えるが、同時に類まれなる美しさを見せてくれる。(00.02.09)

[]『ポップ1280』 Pop. 1280 ,1964

ジム・トンプスン/三川基好 訳/扶桑社

ISBN:4594028632/\1429

冒頭から丁重な文体と冷徹なリアリズム指向によってやんわりと従来の道徳観念を否定し、その中で捻れた悪意を主人公に炸裂させる物語。主人公ニックは、人口1280人の田舎町を舞台に悪徳と殺戮の限りを尽くすが、それが彼の悲劇的人生観を基点として培養されてきた悪意の結果であることは、ニックの幼年時代に関する独白からも明らかである。彼の内には彼自身も気づかない深い絶望しかない。乾いたブラックユーモアと、ニックの天然ぶりな犯罪の実行経緯の描写で「笑い」(ある登場人物を射殺する場面などは、殺される側から見た場合、あまりにも不条理すぎて笑うしかない)をタイミングよく提供して隠蔽しているものの、それを掻き分けた底に見えるのは何もない虚無。空っぽの真っ暗な穴だ。

巻末の解説によると時代設定は第一次大戦末期(一九一七年前後?)だが、この舞台には同時期のアメリカにまだ残っていたと思われる牧歌的雰囲気は到底見当たらない。この時代はアメリカが国際政治上で巨人となる前夜で、やがて来る第ニ次大戦を挟んで急激な機械化−物質主義化を迎える変革の時代でもあった。この急進的変化に取り残されて衰退しつつある南部の田舎町を舞台とし、ひどく捩れた主人公を配置して重苦しい雰囲気を醸し出している点では、本書はある意味アメリカ南部を題材とした一時期流行ったゴシック小説に近いノリがあるかもしれない。

一方、一九六四年に発表された本書が描き出す諷刺の刃によって貫かれたのは、決してWW1末期頃のアメリカの一般的田舎町に象徴される社会体制だけではなく、第二次大戦以降にニヒリズムが蔓延して厭世的になった六〇年代アメリカ社会と、そこに生きる人間たちだったのではないかという気もしてくる。

こうして用意されたひどくグロテスクな構図のもと、ニック・コーリーの殺戮劇が幕を開ける。犯行後、内面では殺人の露呈に怯えながらも、ニックは食事と睡眠をきっちりとり、保安官選出のための根回しに余念が無い。そして自らが犯した犯罪に対する罪悪感は欠片ほどもない。手にかけた犠牲者の死を少しだけ悼む一方で、転がる石を蹴飛ばした程度にしか思っていない彼の多面的な独白は、この殺人者が深い孤独を抱えた存在であり、人間が善悪を混在した存在であるという現実のメタファーでもある。

ところがこの殺人者の意図は、やがて三人の女との関係によって次第に思わぬ方向にずれていく事になる。当時の時代背景に照らし合わせて考えるとこの三人の女たちそれぞれの設定も実に鮮やかで、驚かされる。特にエイミー・メイスンの人物造型とその配置は、ニックを混乱させ、やがて結末に導く意味でも秀逸だ。

かくして読み手どころか主人公ニック自身もどうなるかわからない展開の末に、荒涼とした果て無き絶望とも救済とも取れる皮肉な結末が用意される。終盤、ある人物に

「自分を別の野郎と混同しているんじゃないのか? 同じCのイニシャルのやつとさ」

と問われ、ニックが返答するシーンでは、思わず笑いと哀切を同時に感じてしまう。

自らを裏切る男であり、裏切られる男でもあると嘯く自称キリストの物語がアメリカ本国でかつて評価が低く、混迷の現代になって再評価されてきたという事実は、作品内部の皮肉な構造と併せて真に興味深いものであり、それを含めた二重の意味でも本書はアメリカ文学史を読み解く必読の一冊だと思えてくる。(00.07.24)

2005-03-10 大学病院

 ほぼ一年ほど前から時折指が曲がらなくなる現象が続いていたのだが、最近通っていた整形外科で「早期関節リウマチの疑いがある」と言われ、紹介状を書いて頂いて本日某大学病院へと向かった。着いて受付にかかったのが10時半。10分ほどで膠原病内科受付へと回されるが、そこの受付事務員の説明不足により30分待たされる羽目に陥った。つーか、こっちは初診で右も左も判らんのに、ちゃんと説明しろっつーの。巨大な病院だから分業化は必須だろうが、それにしても融通と気配りがなさすぎ。挙句、5分程の問診で終了。その後、血液サンプル5本分の採決と検尿で、計5900円て!! 幾ら私学の大学病院とは言え、これって殆どボッタクリの域ではないだろうか。少なくとも俺には適正価格とは思えないんですけど。更に、会計処理してから支払い額が算出されるまで30分かかるって、どういうことよ?

 つくづく日本医療の硬直化(それでも第三世界の国々の医療よりはマシだろうが)を思い知らされた日だった。血液検査の結果を聞くためだけに、来週もまた行かなくてはならないかと思うと正直憂鬱である。

2005-03-09

[]『ローレライ

 公開初日に観に行った『ローレライ』。福井晴敏の『終戦のローレライ』をベースに、『ガメラ3』の樋口真嗣が映像化した映画だ。まず観終って抱いたのは「頑張ってるなぁ……でも所々消化不良」という感想だった。やはりあの原作(400字詰め原稿用紙で約3000枚)を約2時間の尺に収めるのは相当厳しかったと見え、細かいエピソードが所々削られているのが残念だった。中でも最大のマイナス印象を覚えたのがあの結末で、事前に原作を読んでいる立場からすると消化不良感満載であった。

 とは言え、昨今の日本映画の中では良く出来た佳作であるのは間違いない。CGはいまひとつの出来でしたが(焦点が合いすぎて全てがクッキリと映りすぎているのと、全体的に質感がマットすぎるなぁというところかと)。

2004-12-24 キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!

36万で取得していたオリコン株が、本日ストップ高直前まで高騰。

¥395000で売却してキャピタルゲイン獲得。いいクリスマスプレゼントでした。

2004-12-20 何てことのない日常

既に持っているのに、イームズのDSR欲しい病が再発。

発作的にロッカーベースヤフオク落札してしまう。9000円也。しかしシェル(座る部分)はない。ヴィトラのレプリカを買うべきか。と考えつつヤフオクで掘り出し物を探すが、落札直前に出品者が別IDで値段を吊り上げている(と思われる)ケースが多くてゲンナリ(;´Д`)。

株取引もイマイチ。200株突っ込んだベネッセ株がどうも今ひとつ上がらない。

塩漬けになっている株も2銘柄あって、キャピタルゲイン取得率は低調である。

2004-12-16 SNSの幻想

mixi2日目。

あちこち見て回っていたら、あることに気付く。

マイミクシィの登録者が若い女性しかいない男性ユーザーが 数名見受けられたのだ。SNSは紹介メールを介して新規会員を獲得するシステムが一般化している為、保安上の観点から見た場合、不埒なユーザーが介入しにくいと言うが、果たしてその幻想は既に崩れ去っているのではないか。

前述した男性ユーザーが必ずしもそうであると断言は出来ないが、出会い系サイト的な使い方(要はコミュニティで親密さを増した後に手を出す)をしているユーザーが少なからずいるだろうことは確実であり、あと1、2年もすれば運営側は対応を迫られる局面になるだろうと漠然とした感想を抱いた。

2004-08-13 昔書いたものサルベージ

[] 『スーパー・カンヌ』 Super-Cannes(J・G・バラード小山太一訳/新潮社/410541402X)

インナースペース運動以来、一貫して現代社会の持つ病理を隠喩化して描いてきたバラード。その為か彼の作風は必然的に重苦しくなり、どの作品も大抵結末に至って主人公(またはそれに近い人々か舞台となる場所)の破滅が訪れる。この最新作もそのパターンに漏れず、高度に秩序化された都市とそこから派生した狂気を描き、ラストでは重苦しい(しかし一縷の望みが匂わせられた)決着がつけられる。このパターン化は既に八十年代から顕著となっていたが、本作においてはそれが徹底され、既にセルフパロディの領域へ到達しているようにも見える。事実、この作品は前作『コカインナイト』(1996)とほとんど同じと構造の物語であり、1988年に発表された『殺す』と比べても合わせ鏡のようだ。

なるほど確かに、高度に様式化され、一分の隙もないよう「調整」された都市がそこに暮らす者に対して暴力的衝動の発露を与えるというストーリーラインは、二十世紀以降に発達した病理学と都市の社会学から得られたデータを組み合わせた産物であると類推され、その権威とデータが物語に説得力を付与しているように見える。しかし待て、それは本当に正しく導き出された結果なのか? データとは、その読み方と解釈の方法によっては、いくらでもその「結果」を改竄できるものだ。その事実を反芻せず、安易に、高度に人工化された都市が人間の本来持つ狂気をより培養するかのような理論構築を行っているこの物語は、ある意味では危険な存在のようにも思える。

だが、その欠点を抱えていたとしてもこの物語は激しく魅力的で、これを読む者の好奇心を満足させ、同時に現実に対する観察眼を強化してくれる。悪しき、ハッピーエンド症候群的な物語至上主義を望む読者には、このラストは受け入れ難いだろうが、少なくとも良い物語がそれを読む者の現実により良きフィードバックを与えうる点においては、このストーリーはよくできた装置である。

[] 『A.I. −Artificial intelligence−』

監督:スティーヴン・スピルバーグ

脚本スタンリー・キューブリック、スティーヴン・スピルバーグ、ブライアン・オールディス

出演:ハーレイ・ジョエル・オスメントジュード・ロウ、フランシス・オーコナー、ブレンダン・グリーゾン、ウィリアム・ハートほか

2001年アメリカ/146分)


高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない――――A.C.クラークのこの言葉に示唆されるように、人間と高度に人間的なロボットとの違いは何なのか? と言われてもそう簡単には答えは出そうにない。ただし私見ではあるが、極論すれば生物学的な違いを除いて両者の間には何の差もないように思う。

という訳で、遅まきながら『A.I. -Artificial intelligence-』(監督脚本:スティーヴン・スピルバーグ脚本スタンリー・キューブリック、ブライアン・オールディス/原作:ブライアン・オールディス『スーパートイズ』収録)を観た。周囲では意見が賛否両論に分かれていたが、僕にはキューブリックの意向をスピルバーグがうまくアレンジしたと感じられる素晴らしい映画だった。たとえ完成度の点でいささか難があるとしても。


物語は大きく分けて三つのパートから成る。少年ロボットがある家庭に貰われてきて捨てられるまでの【第一幕】と、母親からの愛情を得るために人間になる方法を探して放浪する【第二幕】、そして2000年後の世界で彼の望みが一日だけ成就する【第三幕】である。素直に見ているだけなら、"ちょっと切ないけどいい話"でこの物語の感想は成立する。しかし、そう簡単に感動できるだけの物語ではない。この映画は詩情を兼ね備えていながら、皮肉な構造を併せ持つ人間批判の物語でもあるからだ。


第一幕。実子が不治の病にかかったまま冷凍処置に施されているヘンリイとモニカのスウィントン夫妻の家に、少年ロボットのデイヴィッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)がやってくる。どこから見ても人間と同じで、微笑みを浮かべて自分になつくデイヴィッドの姿にモニカは当初恐れを抱く。しかし共に暮らすうちに情が移り、彼の母親となることを受け容れた彼女は、デイヴィッドへの刷り込みを実行する。だがその後、実子マーティン奇跡的に回復し、家庭に戻ってくる。これでデイヴィッドの立場は微妙なものとなる。マーティンとしては、帰宅した家に自分と同じ扱いをされているロボットがいるのが面白くない。当然のように嫉妬が起こり、マーティンはデイヴィッドに対して陰険な行動を示す。その後、次々とデイヴィッドの立場を悪くする事態が続き、遂に夫婦はデイヴィッドの返品を決意する。


まず、この第一幕の過程と演出、そして主演のハーレイ・ジョエル・オスメントの演技が素晴らしい。息子をなくした悲しみに耐えられずに破裂寸前になっている妻を思うあまりロボットの代理子を何の考えもなく受け入れる夫と、たとえロボットであったとしても子供を求める母親、そしてデイヴィッドを"スーパートイ"としてしか認めないマーティン。そして、一度は情が移ったデイヴィッドを廃棄処理にすることに罪悪感を覚え、彼を森の中に置き去りにしていくモニカ。彼らの姿は人間のエゴイズムを自然に、かつ象徴的に表している。

同時に、ここではデイヴィッド自身のエゴと気味の悪さをうまく表現している。ピノキオの話に強い印象を受けた彼は、自分に何ら非がないのにモニカが実子同様に自分を愛してくれないことに悲しみを覚え、マーティンへの対抗心を燃やす。その姿はまさしく人間的で、本人も気付かないままエゴを剥き出しにしていると言えよう(※冒頭、ロボット開発者のホビイ教授が「無意識下での行動までも……」と話すシーンが、ここへの伏線となっている)。スパゲティのシーンがその好例だ。

プログラムであったとしても、愛情愛情だ。それには何ら変わりがない。人間の愛情も極論すれば脳内で生成されたプログラムにすぎないからだ。しかしデイヴィッドの姿は母親愛情を一直線に求めるあまり、戦慄さえ覚えるように描写される。そう、彼は人間ではなく融通のきかないロボットなのだ。一皮剥いた下にあるのは無機物の塊(それを再認識させるのが、故障したデイヴィッドを修理する場面)である。そのため他者から愛してもらえない人間が諦めを感じて引き下がるのとは異なり、彼はモニカから愛情を受けることを一心不乱に求めてしまう。そして我々観客は彼の完璧な愛情が同時に紙一重で不気味なものに変わる可能性を感じ取り、数々の事件を経てデイヴィッドが捨てられるのも無理はないと思ってしまうのである。

このとき、この物語を観ている我々には罪悪感は(おそらくほとんど)ない。せいぜい可哀相な子供ロボットの姿が目に写るだけだ。ひどい場合には捨てられて当然と思う輩もいるだろう。そのときそれらの観客はスウィントン一家と同化し、エゴを剥き出しにしている人間の姿になっている。

なぜ、このように第一幕では主人公である健気な少年ロボットが、観客の感情移入の対象となるよう可愛らしい"だけ"に描かれなかったのか? これは続く第二幕への伏線だ。


第二幕。わけも判らず捨てられたデイヴィッドは、自分が人間でない為にモニカから捨てられたと思い、"ピノキオ"から人間になるための方法を探して相棒のテディと共に流浪する。しかしそれもつかの間、デイヴィッドは投棄ロボットを狩って破壊ショーを見せるための業者に捕らえられ、あやうくスクラップにされそうになる。ここで彼は水先案内人となるセックスロボットのジゴロ・ジョーと出会い、人間になるためブルー・フェアリーの手がかりを求めてルージュシティへと赴く。

第二幕前半部で素晴らしいのは、投棄されたロボットたちの姿と、それを破壊して愉しむ人間たちの対比描写だ。

ショー業者に捕らえられた投棄ロボットたちの姿が、実物よりもよりある種人間的な趣をたたえているのに対し、破壊ショーを見ている人間たちの姿は意図的に醜く、無機質に描かれている。無言でロボットを処刑位置に引きずり出して、"執行"の準備をする職員たち、破壊されるロボットを見て歓声を上げる観客たち。そして、最新の子供ロボットであろうとも情け容赦なく破壊しろと観客にアピールするジャンクフェアの主催者の姿。しかし、ロボットたちはあくまでも笑みを絶やさない。最期の刻が来ても、彼らは微笑を浮かべて死に赴く。その姿は同情と哀れみと心理的同化を誘う。

そして第一幕と同じく、ここでもエゴイズムが重要ファクターとして物語の誘導性を支配する。不必要なまでに残虐な仕掛けで破壊されるロボットたちの姿と、それに酔う観客の姿はこれでもかというほどに何度も映し出され、映画を見ている我々は剥き出しにされた人間のエゴイズムと醜さを垣間見る。ところが、直後にデイヴッドが処刑台に引き出されるくだりでショーの観客たちは業者を非難して投石と暴動を始め、デイヴィッドはジョーと共に逃亡する。

この場面、人間の善性を表しているように見えるがそれは表面上にすぎない。つい先刻までロボットたちが破壊されるのを見て愉しんでいた人間たちは、少年ロボットが泣き叫んで命乞いするのを見て叛意を翻すのだ。このシーンは人間のいやらしい独善性をよく表している。そして、そんないやらしい人間たちの姿を見た観客は、第一部で感情移入の対象を人間(スウィントン一家)としていながら、この第二部前半でロボット(デイヴィッド)に感情移入の対象をシフトするのである。

観客が感情移入する対象を人間からロボットへ自然に変更させるこの巧みな誘導術は、物語の作りとあいまって少々陰湿な匂いを受けるが、それでも見事であることに変わりはない。また、これは皮肉な結末への伏線ともなっている。そうして物語はルージュシティでの手がかり発見とマンハッタンへの冒険に続く。


第二幕後半の冒険でもっとも重要かつ秀逸なシーンは、マンハッタン研究所でデイヴィッド自身がアイデンティティ崩壊を起こし、そのあと自殺を図るくだりだろう。研究所で、母親愛情を受ける対象となる自分自身とうりふたつのロボット(同型)を見たデイヴィッドは激昂し、彼を破壊してしまうのである。しかしそのあと彼は自分が唯一無比の存在ではなく、取替えの効く量産品であることを知って絶望する。そして投身自殺を図るのだ。

これらの場面でのデイヴィッドの姿は、他のどの人間キャラクターにも劣らず誰よりも独善的で人間的で、それであるため哀しい。オスメントの演技との相乗効果もあって、見ている側は胸を衝かれるだろう。特に投身自殺直前にビルの外壁に腰掛けて絶望を色濃くした表情を浮かべる場面は最高の演技である。

また、こことそのあとの場面におけるジゴロ・ジョーの立場(とジュード・ロウの演技)も好ましい。"愛するだけ"しか能のないデイヴィッドと異なり、分別のある行動と判断力を兼ね備えたジョーは、デイヴィッドが同型ロボットを破壊したことに驚き、あとずさる。このさりげない演出は、スピルバーグの上手さを感じる一点である。また、自殺を図ったデイヴィッドを助けたあとで警察飛行機械に捕らえられたジョーは「I am. I was(僕は生きた)」とデイヴィッドに告げるが、これも観客とデイヴィッドの双方に生の意味を説いており、素晴らしい。


ところが物語はいささか捩れすぎた脚本のせいか、この辺りから皮肉を通り越してブラックユーモアじみてくる(それでも、あくまで表層は感動的な物語のままであるのだが)。特に前述したジョー逮捕のシーンはその典型であると同時に、この映画での最大の失敗箇所である。

ここでも重要な鍵となるのはエゴイズムだ。そう、同型機を殺害したデイヴィッドの人間的行動に衝撃を受けつつ、それでもなお自殺しようとした彼を助けたジョーが逮捕される場面で、捕まったらスクラップの運命が待っている彼を前にしても、デイヴィッドはジョーを助けるでもなく、ただ黙って「さよなら」と告げるだけなのである。

この場面は、既にデイヴィッドが人間に限りなく近い独善性を発揮する存在(≒人間)であることを示している。

しかし、これによって観客の反応は悪くなったと言わざるを得ない。第二幕前半で折角感情移入の対象をロボットにしていながら、またしても感情移入の対象を人間に戻してしまったからだ(実際は人間に限りなく近いロボットであるが、"激昂"と"自殺"のシーンを経たあとのこの時点で、観客の心象内ではデイヴィッドは既に人間と同じである)。こうして物語は感情移入の対象をまたしても変更したまま何のフォローもなされず、海中のブルー・フェアリーを前にしてデイヴィッドがいったん殉死する場面へ移り、2000年が経過する。


第三幕。2000年後、高度な生命体へ進化したロボットの末裔たちに発掘/再生されたデイヴィッドは、既に絶滅した人類を知る者として彼らに丁重に迎えられる。ここで自らの先祖と人間に敬意を表する彼らは、人間の作った"もっとも人間に近いロボット"の望みを叶えるために、テディが持っていた髪からモニカを一日だけ再生する。そしてデイヴィッドはそれが一日だけのささやかな夢であることを知りつつも、待ち焦がれた母親との生活に身をゆだねるのだ。もはや人類は滅び、求めた本物の母親は死亡し、自らが本物の人間になる意味を無くしているのにである。そして彼は最期に「愛している」という母親の言葉をようやく聞き、愛が得られたこと=2000年にわたる渇望からの解放に満足して涙を流し、眠りに落ちる。一日が過ぎて目が覚めれば彼の周りにはテディしかおらず、ほかに誰も知る者(人間)がいない残酷な現実が待っているにも関わらずだ。

それでも尚、彼はそれを求めずにいられなかったのである。他の誰よりも人間的/独善的な要望を満たす≒愛を得て満足するために。


この第三幕の構図は人間に対する皮肉であるばかりか非常にグロテスクで、毒々しさと冷たさに満ちており、素晴らしい。スピルバーグ(とキューブリック)がどういう意図をもってこの陰湿な脚本を書いたのかは不明だが、一見しただけではハートウォームな物語にすぎない(それだけでも十分に素晴らしい御伽噺であるが)。その陰に捩れた人間批判を盛り込んで緻密に構築したこの映画、亡きキューブリックが撮ったなら表面の印象は異なるだろうが、底流では同じ思想を盛り込んだのではないか?

そういう意味で、デイヴィッドの姿はHAL9000のアナザーバージョンに他ならない。HALは人より優れていながら狂った(=人間的になった)ことで人間との生存競争に敗れ、高次の存在(スターチャイルド)になれなかった。デイヴィッドは人類が滅びたことによって人間となり得たが、そこでは本当に彼が求めるものは得られなかった。どちらの姿も人間になった末の悲劇である。その悲劇的な姿には人と言う種の卑小さと、人に対する皮肉が込められている。


ところがこの皮肉な構図と、第二幕結末での感情移入対象の急激な変更、第三幕自体が客観的な"神の視点"で見るスクリプトである等の理由のため、結果的にこの映画は観客の受けがよろしくなかったという評判を迎えた。これは非常に残念な結果であると言わざるを得ない。(2001.7.15/2002.7.28、2004.8.13加筆・訂正)