互いの安全に協力し合う親しい友人のためであっても使えない、という姿勢をとることは、「名誉ある地位」にふさわしくない姿勢なのは明白だ!

憲法が成立した当初、憲法の平和主義といえば、日本が軍事力を持たないことを意味していた。
・平和主義のいまは軍事力を持たないことではなく、持っている軍事力の使用にきわめて抑制的な態度をとっていること。
・自衛のためであっても、その使用を必要最小限度に抑制する。
・個別的自衛権の行使はできるが集団的自衛権の行使はだめ、という抑制のあり方は、安全保障の現実から見ても、また憲法の理想からいっても、かなり問題がある。
・持ってはいるが行使できない、といい続ける態度のままでは、同盟の強化どころか、逆に不安定化を招き、平和主義がどうなるかという前に、わが国の平和そのものが危うくなる。
・現実的な平和のためには、日米同盟の抑止力が増すことを考えよ!
・自分を守るために自分が持つ軍事力を使うことはできるが、他人の場合は、たとえ互いの安全に協力し合う親しい友人のためであっても使えない、という姿勢をとることは、「名誉ある地位」にふさわしくない姿勢なのは明白だ!





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大阪大教授・坂元一哉   2013.11.25 03:22
■「平和主義」見直すべき時
 いまの憲法の平和主義は、そのあり方を見直すべきではないか。集団的自衛権の行使容認は憲法の平和主義に反するといった主張を聞くたびにそう思う。
 憲法が成立した当初、憲法の平和主義といえば、日本が軍事力を持たないことを意味していた。 だがいまの日本は、毎年5兆円弱の予算を使用する世界有数の軍事組織を持つ国家である。 憲法の平和主義が現在も守られているとしたら、それは軍事力を持たないことではなく、持っている軍事力の使用にきわめて抑制的な態度をとっていることをいうのだろう。
 国際紛争を解決するために軍事力を使用しないのはもとより、正当な目的、たとえば自衛のためであっても、その使用を必要最小限度に抑制する。そういう態度である。
 そういう態度が悪いとは思わない。軍事力使用に抑制的なのは国際的にも立派な態度だし、国民のコンセンサスもある。
 ただ、いまのように、個別的自衛権の行使はできるが集団的自衛権の行使はだめ、という抑制のあり方はどうだろうか。
 安全保障の現実から見ても、また憲法の理想からいっても、かなり問題があると思う。
 近年、わが国を取り巻く国際環境は厳しさを増し、安全保障の基盤である日米同盟の抑止力向上が最重要課題になっている。その現実を前にしても、同盟の法的基盤であるこの権利を、持ってはいるが行使できない、といい続ける態度はいかがなものか。
 そういう態度のままでは、同盟の強化どころか、逆に不安定化を招きかねない。 そうなれば、平和主義がどうなるかという前に、わが国の平和そのものが危うくなるだろう。
 ちなみに、集団的自衛権の行使容認で日米同盟の抑止力が増せば、わが国が実際に軍事力を使用しなければならなくなる可能性はいまより小さくなる。その意味では、集団的自衛権を行使できないという抑制を解いた方が、憲法の平和主義には望ましいともいえるだろう。
 この抑制は、憲法の理想にも合わない。 憲法の前文は、全世界の国民が平和のうちに生存する権利を持つことをうたい、わが国が自国のことだけを考えていてはならぬと戒め、さらに平和の維持に努力する国際社会で名誉ある地位を占めたい、との理想を掲げている。
 それなのにこの抑制は、個別的自衛の軍事力使用はいいが、集団的自衛のそれはだめ、すなわち、自分を守るために自分が持つ軍事力を使うことはできるが、他人の場合は、たとえ互いの安全に協力し合う親しい友人のためであっても使えない、という姿勢をとるわけである。「名誉ある地位」にふさわしくない姿勢なのは明白だろう。
 安倍政権は、日本の平和と安全を確実に守ることはもちろん、国際社会の平和と安全にも能動的に貢献する「積極的平和主義」を掲げ始めている。
 憲法の平和主義と軍事力使用の抑制のあり方を、国民的議論のなかで見直すことがまさにその前提になると思う。(さかもと かずや)