読書メモ@はてな

2011-10-10

盛山和夫,2011,『社会学とは何か―意味世界への探究』

書誌情報

盛山和夫,2011,『社会学とは何か』ミネルヴァ書房.

目次

  • 第1章 意味世界としての社会的世界
  • 第2章 社会はいかにして可能か
  • 第3章 秩序問題という問い
  • 第4章 事実性と規範性
  • 第5章 ミクロ―マクロ生成論の試みと挫折
  • 第6章 階級と権力の意味秩序
  • 第7章 社会システムは存在するか
  • 第8章 経験主義と外的視点の限界
  • 第9章 規範的社会理論への展望
  • 第10章 共同性の学としての社会学

メモ

  • 大した感想も書けないのだが,興味を引かれたポイントについてだけメモる.
  • やはり第8章,第9章の,リベラリズムコミュニタリアニズムの限界をふまえた上でそれとは異なる規範的社会理論を展望するという部分にとても興味を引かれたのだが,その前段階としての,パーソンズ以降の現代社会学政治哲学を同一平面上に位置づけるという箇所を読解するのに若干時間を要したので整理しておく.
    • 本書第8章,第9章の議論によると,伝統的社会学を批判して登場した「社会学構築主義」(p.208f)と,ロールズ以降の現代リベラリズムの間には,いわば鏡像的な関係性が成立しているという.つまり,「何が望ましい社会か」という規範的問題を直接問わない/問うという違いこそあれ,ともに社会を生きる人々の視点や善の構想から独立したところに真に客観的な認識や正義の原理が可能であるとする点においてである(p.224).
      • これに対して,「個人の社会への埋め込み」という観点からリベラリズムを批判するコミュニタリアニズムは,ある社会の現状を所与とみなしてしまいがちな傾向を持つ.これは伝統的な社会学が陥った隘路そのものである(p.229).
      • したがって,伝統的社会学構築主義リベラリズムは以下のような循環した三すくみの構図を描くことになると言える(下図は私が頭の中を整理するために勝手に書いた).本書の試みはこの循環を脱するところにあると解釈できる.

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      • 本書の(特に第9章の)議論においては,図に登場する二つの特徴のどちらかに焦点を当てることによって,時には社会構築主義リベラリズムの差異を強調し,また時には親近性を示唆している.また,「外的視点」という語は,脱規範的コミットメントと中立性としての客観性の二つの特徴を総称的に指すようにして,しばしば用いられているように思われる.

2011-10-02

Bogen, David and Michael Lynch, 1993, "Do we need a general theory of social problems?"

書誌情報

Bogen, David and Michael Lynch, 1993, "Do we need a general theory of social problems?" James A. Holstein and Gale Miller ed., Reconsidering Social Constructionism: Debates in Social Problems Theory, pp.213-237.

Reconsidering Social Constructionism: Debates in Social Problems Theory

Reconsidering Social Constructionism: Debates in Social Problems Theory

目次

コメント

  • 長いので構築主義批判のとこだけ整理して取り出すと以下のような感じだろうか.
    • [0]「まず理論の場所をつくる」というのがイバラとキツセの「社会問題言語ゲーム」の模範的な一手である.彼らはこれによって行為者の日常的理解を哲学実在論とみなし,対照的に分析者の分析的視点をその優位におく.後者は前者の用いる概念によって汚染されてはならないと考える.
      • [1]しかし,この操作は第一に実践的関心に導かれた日常的態度を,おもに記述や説明や分析という問題関心における素朴な実在論的態度だと誤認している[がゆえにそれを欠陥のある定式化だと考えてしまう].しかし,メンバーが一見すると欠陥のあるような発話を為すとき,そもそもメンバーの問題関心は記述や説明や分析にないことがしばしばである.
      • [2]第二に,この区分における科学者・分析者像にも問題がある.なぜなら,そのような「日常生活から退却した科学者像」は 科学の構築主義/EMにおいてまさに批判されているものだからだ[リンチのシュッツ批判及び科学的実践のEM研究も参照].
    • [3]こうした問題のある帰結を招くのだから,[0]という前提がそもそもおかしい.様々なものを含む「日常的態度」を,首尾一貫した哲学的態度であるとみなすことをやめればよい.かわりに日常的態度とはそうしたすべてが含まれる言語ゲームだと考えるべきだ.
    • [4]日常生活の言語ゲームにおいて,社会問題としてのステータスそれ自体は普通問題化(thematize)されているわけではない.キツセとイバラの方針(クレイムの真理/道徳性を括弧に入れる)は,確かにある状態カテゴリそのものが争われているケース(=真理/道徳性が問題となっている)は扱えるがそれだけである.
    • [5]以上のような議論から見て,構築主義の一般的なフレームワークのようなものを作り上げることは望みうすであることが分かる.(すくなくとも[0]の前提に立つ一般理論化の試みは失敗する)
  • この批判はかなり正鵠を射ているのではないか.構築主義系の論文によくでてくる(orかつてはよく見られた)「人々は自明のものと思っているが,実は…」とか「人々が持っている素朴実在論を前提とせず…」という言い回しを何気なくするときに,まさにこのような「日常的理解の哲学理論化」が行われてしまっているのだが,それ本当に調べたの?という疑問を持ちたくなることは多々ありますね.
  • 途中デリダレヴィ=ストロースが出てくるあたりで議論が込み入ってくるのだが,日常的視点と哲学的視点,あるいは対象となる社会的秩序をリソースとみなす視点とそれ自体をトピックとみなす視点の区別自体はEMにもあるのだという.したがって,この区別をすること自体が問題とされているわけではない.
    • 問題なのは,SCが哲学的視点v.s日常的視点の対比を行う際に,それを「構築主義的な洗練された存在論v.s素朴実在論」という,なにかそれぞれ首尾一貫した哲学的立場上の対立であるかのようにみなしてしまう点である.(しかし,メンバーの実践をよく見るならば,そもそも彼らの関心はそうした一貫した哲学的立場を提示することにはないことがわかる.)
    • なので,リソース/トピックというレトリックに訴える時は,その扱い方を間違えないように十分注意しよう[p.222]という感じだろうか.
  • 個人的に気になったところの引用.

これと同じように,人はチェスのゲームにおいてプレイヤーが「ボードゲームをプレイしている」と述べることが出来るし,また全てのボードゲームが典型的に共通して持っているものは何かについて抽象的な思索を展開することもできるだろう.しかし,チェスにおける特定の指し手が,ボードゲームにおける指し手であると述べるのは奇妙である.[p.228]

2011-09-29

『功利と直観』をぱらぱらと

  • 功利直観』をぱらぱらとめくっていたら,一般的に「規則功利主義」のタームで理解されているものと,ロールズが「二つのルール概念」論文で擁護したルール観の間には結構ズレがあるのではないかという印象を抱いた.実際,哲学科のW氏にこの間「二つのルール概念」から理解しえた規則功利主義について話してみたら,なんかいまいち話が通じない感じであった.あと,日本社会学会での発表に対するオーディエンスの質問からもそんな印象を受けた.
  • ということで,今抱えている雑用が終わったら,また「二つのルール概念」を精読したい.

2011-09-24

あまりに天気がよかったので

あまりに天気がよかったので,渋谷で行われた反原発デモに参加してみた.デモに参加する理由なんてそれくらいでもいい気がするな(ただ二時間歩くのはけっこう疲れた).

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