五月新橋演舞場・夜の部

kenboutei2007-05-20

『妹背山・三笠山御殿の場』福助のお三輪、吉右衛門の鱶七。といっても、「鱶七上使」は省略なので、ほとんどお三輪の独壇場。最初から庭の花がしおれている舞台は、見取り狂言とはいえ、やはり不親切だと思う。
これで福助のお三輪が良かったらまだしも、相変わらずの過剰演技で、興ざめも甚だしい。台詞は時代なのだが、テンポが現代調なので、床の竹本と全く噛み合ない。葵太夫もさぞ語りにくかったのではないだろうか。福助に影響されたのか、いじめ官女も、台詞にゆとりなく、声だけ大きくて威圧的なのは、初心者にはわかりやすいかもしれないが、義太夫狂言の枠からは完全に逸脱している。いじめをリアルにやってどうする。そして、いじめられる福助は、ますますサイレント映画アメリカ女優化してしまうのであった。もはや「歌舞伎界のリリアン・ギッシュ」と言いたくなる。(もちろん、褒め言葉ではない。)
と、お三輪にがっかりした後、吉右衛門の鱶七が登場。この鱶七が、これまで観た中でも指折りの立派さで、一気に溜飲を下げる。糸に乗った台詞廻しも気持ち良く、同じ一場で、福助の非歌舞伎的演技と、吉右衛門の重厚な歌舞伎芝居と、こうも異なる演技様式になるものかと、驚かされた。
中でも吉右衛門の素晴らしかったのは、お三輪の上手二重下での述懐を、じっと聴き入っているところ。正面を見据え、微動だにせず、けれども決して気を抜いているわけでなく、鱶七としての独自の世界を表出していた。それは、あたかも文楽で故吉田玉男が遣う人形のような、佇まいなのであった。
吉右衛門と対峙する時だけは、福助の台詞廻しや動きも、幾分行儀が良くなっていた。
こんなに良い鱶七なら、やっぱり「鱶七上使」から観たかったなあ。
もう一人、この場で良かったのが、豆腐買を演じた歌六。細かい配役を確認しないで観ていたので、最初は歌六とは気づかなかったが、加役というより、幹部俳優がご馳走で付き合うような大物ぶりが感じられ、驚くと同時に、歌六の実力を思い知った次第。今後の歌六は、ますます貴重な役者として活躍するのではないだろうか。
隅田川続俤』吉右衛門の「法界坊」。昨年の新橋では『夏祭』を出したのだが、この二作は、共に勘九郎勘三郎)が串田演出で評判を取った演目である。吉右衛門がこの二作を選んだのは、家の芸ということだけではなく、ある意味、勘三郎が中心となっている、現代歌舞伎のムーブメントに対する、一つの意思表明なのだと思う。だから、自分としては、平成中村座の「法界坊」と比較しながら、実に興味深くこの舞台を観ることができた。(そもそも、串田演出以外の、元々の「法界坊」を観るのが初めてであった。)
吉右衛門の法界坊は、勘三郎に比較すると、滑稽さや軽みには欠ける。また、悪の凄みも、中途半端に感じる部分があった。ただ、鯉魚の一軸をめぐるやりとりや、おくみに対する横恋慕などのストーリー展開は、普通にわかりやすく、翻って串田バージョンの『法界坊』を思い出すと、あの串田版は、『夏祭』や『三人吉三』で感心したような、原作の再評価・再構築の面白さが、それ程あるわけではなかったのだなあ、と逆に思い至った次第。(まあ、亀蔵の番頭の奇怪さだけは、何とも比較のしようがないが。)
吉右衛門で良かったと思うのは、最後の亡霊となって、髪がぼうぼうと伸び放題になり、宙乗りで舞台上手に浮かんでいるところの凄み。染五郎の野分姫の亡霊もそうだったが、いかにもといった歌舞伎の演出の方が、串田版よりも、自分はしっくり飲み込めた。
他には富十郎の甚三が若々しくて良かった。芝雀のおくみ、新錦之助の要助のカップルが、ともにおっとりしていて、好感が持てた。
6歳の玉太郎が丁稚長太を演じ、吉右衛門富十郎と対等に芝居をする。この辺のおおらかさも、歌舞伎の面白いところで、これも、歌舞伎のニュー・ムーブメントに対する、吉右衛門の回答と考えると、ちょっと愉快。
一方で、番頭長九郎の豆づくしの台詞や、吉右衛門のギャグ(「欧米か!」と「ちょっと、ちょっと」をやっていた。)のトホホ感までは、あまり手放しで楽しめないが。
番頭役の吉三郎が健闘。
大喜利として、『双面水照月』がつく。法界坊と野分姫の合体霊は、吉右衛門ではなく、野分姫だった染五郎が演じる。従って、勘三郎の双面とは比較のしようがないのだが(もちろん、「世界一低い宙乗り」もない。)、染五郎は、思いの外、良い出来であった。特に、法界坊の霊が出てきた時の台詞廻しなどが、吉右衛門に教わったのだろうという想像ができるほど、たっぷりとした力感があって、面白く感じられた。
この場での福助の女渡し守は、仇っぽくて素敵な出来だった。お三輪とはえらい違いだ。