新橋演舞場 五月花形歌舞伎 昼夜

kenboutei2010-05-04

初日を観に行く。(久しぶりに新大橋通りを通って行ったのだが、築地の混雑がこれ程とは思わなかった。歩道に人が溢れていた。)
新橋演舞場は、絵看板に加えて櫓も立ち、歌舞伎座に代わる松竹の歌舞伎興行のホーム劇場の意気込み。(江戸時代の控櫓のようだけど。)
今月の新橋は、花形中心で、昼の『寺子屋』、夜の『熊谷陣屋』、『助六』の三狂言が、大一座であった先月の最後の歌舞伎座と重なる。終戦直後、東劇で二ヶ月連続で『助六』を出し、最初の月が七代目幸四郎、翌月がのちの十一代目團十郎海老蔵助六で、世代交代の象徴となったという伝説を思い出すが、まあ今回の場合は、そういう歴史的な意味合いよりも、同じ道具を使い回せるという経済的な理由の方が強かったのだと思う。(もっとも、東劇の時も、せっかく新調した助六の衣装をひと月だけでは勿体ない、ということが発端らしいが。)
昼の部
昼の部は、結構カメラも入っていた。先月の余韻がまだ残っているのかな。
寺子屋海老蔵の松王、染五郎の源蔵、七之助の戸浪、勘太郎の千代。
染五郎の源蔵は、全体的に重みがない。特に最初の源蔵戻りがつまらない。これは夜の「熊谷」にも言えることだが、最初の出の良し悪しは、技術云々よりも役者の存在感に強く依存するものであることが、先月の仁左衛門の源蔵吉右衛門の熊谷を観た直後では、はっきりとわかる。(比較するのは気の毒だが。)
「せまじき者は宮仕え」は、仁左衛門とは異なり、座ったまま、自分で台詞を言う。その後立ち上がり、刀をトンと床につける型。
海老蔵の松王は、出てきた時はなかなか立派。詐病の咳も、それほど誇張せず、まずまず無難。ただ、松王の隈取りが、いくぶんキツめで怖い。
いちいち隣の玄蕃を気にして眼を動かすのは良くない。玄蕃を意識する性根はわかるが、露骨に表情に出すべきではないと思う。
首実検の型が、初めて観る團十郎型。
松王は、おそらくは自分の息子の首が入っているだろう首桶の蓋を取るのをためらう。二度程ためらった後に咳をしだし、苛立った玄蕃が首桶を奪い、自ら蓋を開け、首を松王に差し出す。
その瞬間、松王は刀を抜き、下手の源蔵の方に刀身を差し出し、左手は頬の下に支える形であてながら、上手を向いて玄蕃が持つ首を確かめる。
この型は、悪型だと言われているようで、これまでも一度も観たことがなかったのだが、実際目の前で展開される動きを観ると、ダイナミックかつスリリングで、面白かった。ただ、書物によると、松王は最初玄蕃を斬ろうとして刀を抜いて、それから源蔵の方に向けるというものであったが、今日の海老蔵の動きからは、玄蕃を斬ろうとしていたことには気がつかなかった。また、刀を向けられた源蔵がのけぞるということでもあったが、海老蔵の動きばかりが気になって、源蔵がどういう形になっていたのかは見逃してしまった。(今日は舞台のかなり前の方で観ていたので、全体的な動きや形を確かめるには、もう少し後ろの席の方が良かったかもしれない。)
千代の勘太郎は、初役だが、熱演。最初の出に緊迫感があり、また、松王が来る前の、源蔵とのやりとりがスムースで面白かった。
七之助も初役で戸浪。まだ石持は身体に合わない。眉毛のない顔が、爬虫類のよう。
市蔵の玄蕃が大変良かった。台詞に力強さがある。
園生の前に松也、涎くりに猿弥。涎くりの親父の寿猿が、良い味わい。
いかにも花形歌舞伎の熱演で、そういう意味では好感が持てた。海老蔵による團十郎型を観られたし、昼の部では一番の見応え。
吉野山福助静御前勘太郎の忠信。福助は、間近で観ると、何だか萬次郎に似てきたなあ。戦物語は、眠ってしまった。逸見藤太は猿弥。花道から忠信の笠を受け取るのは、背が届かず、失敗。
『魚屋宗五郎』松緑の宗五郎。昨年初役で演じた国立劇場以来であるが、今回は、前より自己流の芝居をしており、その分、黙阿弥の緻密な構成が崩され、芝居全体が壊れた。世話物として役者本位で自由に演じる部分はあっても良いと思うが、まだしっかりした段取りも身につけていない中で、自分のしやすいように演じるのは、特にこの芝居の場合は、リスクが高いと思う。
断っていた酒を飲みだし、周囲の制止を振り切って飲み続ける段取りは、菊五郎型としてしっかり伝承されているはずなのに、どこか自分流儀にアレンジしているようで、それが周囲から一人浮いて見えて、酔いがまわる面白さが出てこなかった。
二幕目の庭先での、「酔っていうんじゃございませんが」以降の述懐も、本当に宗五郎一家が一時期幸せで楽しかったのか、全然伝わってこなかったのも、松緑の台詞廻しが自己流になっていて、黙阿弥の台詞をうまく消化できていなかったからだと思う。
ただ、観終わってから筋書の本人談話を読むと、前回の初役時は菊五郎に教わったが、父や祖父の演じ方とはまた違っていたらしく、今回は、教わった「技」と家の「血」を融合させる、と書いてあった。
うーん。自分は、祖父松緑の宗五郎はビデオで観ただけだが、今日の当代に、その融合を感じることはできなかったなあ。(松緑がやりやすいように演じているだけではなかったことは、筋書の談で理解したけれど。)
亀寿が国立に続いて三吉。こっちはだいぶサマになってきた。
芝雀のおはま。親父役の市蔵が、ここでもうまい。
七之助のおなぎは、酔っていく宗五郎に、どうしたら良いものかと狼狽えていく様子が良かった。
左團次の十左衛門、海老蔵の磯部主計之助。
二幕目、酔った宗五郎を見守る、磯部邸の足軽の松太郎と緑三郎が、とても滋味があって良かった。
『お祭り』『魚屋宗五郎』で昼の部は終わりかと思ったら、追い出しに『お祭り』があった。染五郎の鳶頭。「若い者 幸太」で出てくる子役の松本錦成って、誰だっけ?(なかなかしっかりしていた。)
 
夜の部
『熊谷陣屋』染五郎の熊谷。花道の出が今一つ。重厚感に欠ける。(言葉は変えたが、要するに、昼の部の源蔵と全く同じ印象なのだった。)低音で凄みを出す時に、頬をブルブルと左右に振って台詞を張るのは、幸四郎もよくやることだが、何だか正しい台詞術をごまかしているようで、自分は好きではない。染五郎は、父親よりは声量はあるのだし、あまりそこまで真似る必要はないのではないか。
相模は七之助。今月は花形歌舞伎だから別にいいけれど、戸浪を演じるより無理があったような気がする。
藤の方は松也。すごくデカイ。本当は、七之助の藤の方で、勘太郎の相模の方が、バランスは良かったと思うのだが。(そういえば、勘太郎は夜の部には出ていなかったな。)
歌六の弥陀六、亀三郎の軍次。
海老蔵義経。弥陀六に向かって、「じいよ」でニッコリするのが、とても気持ち悪かった。
幕開で、村の者が制札を見ている場面で、最初に藤の方と弥陀六、梶原が陣屋に入ったことを説明する。初めて観る演出(たぶん)。
『うかれ坊主』松緑の願人坊主。悪玉の面を被っての踊りが面白かった。
助六海老蔵助六福助の揚巻、歌六の意休、染五郎の白酒売、七之助の白玉、亀三郎の福山のかつぎ、松緑のかんぺら、亀寿の仙平、秀太郎の満江、猿弥の通人、左團次の口上。
22年振りという、水入りがつく。もちろん自分は初めて。
海老蔵助六襲名以来。少し違和感があったのは、やはり隈取り。松王もそうだったのだが、凄みが効き過ぎている。松王はまだそれでも良いが、助六は剥き身の隈、荒事とはいえ、柔らか味も欲しいところ。襲名時より顔つきが一層精悍となり、頬も削げ気味なので、素でも怖い感じになっているためかもしれない。また、眼が充血していて白目の部分が赤くなっているのも、印象が良くなかった。
出端の所作は、さすがに先月の團十郎を観てしまうと、その違いが歴然としていて、海老蔵の所作は、ただの動作の域を出ていない。大きさや柔らかさ、匂いといったものは、まだまだ父親には敵わないところだ。
ただ、海老蔵の面白いのは、それにも拘らず、海老蔵本人が「自分は助六だ」と思い込んでいるところだろう。それだけ自信たっぷりに動いているのである。
花道で色々と動きながら、観客席を睥睨している助六を、自分は初めて観た。この余裕と自信は一体どこからくるのだと思うと同時に、その思い込みがなければ助六は演じられないだろうと、妙に納得させられる雰囲気を持っている。
團十郎助六は、長年の月日の中で醸成されたもので、これはその過程を見つめてきた観客と一緒になって出来上がったものでもあり、そういう意味では、自他共に認める助六となるわけであるのだが、海老蔵の場合は、誰が何と言おうが、オレは(もともと)助六なんだ、という思い込みの強さによって、観ている方が納得せざるを得ない助六である。
どちらも魅力的な助六であり、この異なる二人の助六を二ヶ月続けて観ることができたのは、本当に幸せなことだと思う。
本舞台に入ってからも、海老蔵流の助六の魅力は満載で、これは、もう彼でしかあり得ない助六になっていた。
揚巻は福助初役だった前回以上に良かった。落ち着きがあり、毅然とした揚巻。悪態の初音も、福助にありがちな、誇張的表現にはならず、きっちりとしていた。ただ、先月の玉三郎とは異なり、助六や母親への情愛には欠ける部分がある。
染五郎の白酒売は、今月三役の中では一番染五郎に合っていた。やはりニンとしては、和事、二枚目系なんだろうなあ。母親の満江とのやりとりでは、一瞬台詞を言い忘れていた場面があった。
白玉の七之助も、今月三つの初役の中では、この花魁役が一番綺麗で似合っている。
意休は歌六。無難であったが、豪華な花魁連中の中では、埋没する印象。
猿弥の通人。なかなか面白かった。助六にぶつかって、まず、「肉食系男子!」とやる。その後、個人的な親しさもあるのか、扇子をマイクに見立ての、結婚にまつわるインタビューを開始。自分も奥さんの作ったアップルパイが食べたいと言う。股くぐりでは、自分の体型からくぐれるかな、とつぶやきながらくぐり始め、途中で戻ってしまった。(途中で引き返した通人は初めて観た。)海老蔵に向かい、「今(足をわざと)閉じたでしょう」で、大爆笑となった。(海老蔵だったら、本当にやりかねない。)
やっとのことでくぐり抜け、次の染五郎には、「草食系男子」。コーラとジュースはどっちが好きかと聞いて、「高麗屋」につなげる親父ギャグも。
色々ふざけてはいたが、以外と手短かに進めていたのが、先月の勘三郎と違うところ。猿弥、なかなか達者なものである。
さて、今月の『助六』で、自分が一番嬉しかったのは、亀三郎の福山のかつぎである。亀三郎でいつも感心する口跡の良さを一番生かせる役が、この福山のかつぎであり、亀三郎は、立派に啖呵をきって、満場の拍手をさらった。江戸前の粋の良さにはまだ少し足りないが、先月の三津五郎にも負けないくらいの、堂々たるものであった。海老蔵とは同世代。まだまだ先のことだろうが、いつか、海老蔵助六に、意休で対峙してくれることを夢想する。(その時には、羽左衛門を襲名していたらと、さらに夢想。)
弟の亀寿が朝顔仙平で、これもなかなか良い出来。今月の舞台が、亀・亀兄弟のブレイクになったと言われることを期待したい。(自分の中では、もうそう言っているようなものだが。)
かんぺら門兵衛の松緑は、まずまず。
股くぐりの侍は、先月に続いて市蔵。一門なので当然なのかもしれないが、若手を相手にしても、自分の持ち役をしっかり勤めてくれたのは、さすが。(そういう意味では、遣手の右之助にも同じことが言える。)
満江に秀太郎、初役とのことだが、上方の色を極力排して、手強さを見せる。少し顔がふっくらとなり、兄の我當に似ていると思った。(今までは女形ということもあり、それほど他の兄弟と似ているとは感じなかった。)
先月は、ただ出てきて引っ込むだけの三浦屋女房で(もっとも、今月三浦屋女房を勤める友右衛門は、もっと地味だったが)、できれば満江を観たかったと思っていたので、溜飲が下がった。
意休が再登場し、友切丸を確認し、助六が花道を引っ込み、幕となる。ここまでは先月と全く同じだが、今月はこの後、水入りがつく。
幕間(といっても休憩ではないが)に所作板を取り除き、下手奥に置いてあった大きな天水桶を中央に寄せて、再び幕が開く。
白装束の助六が、花道から走ってくる。下げ髪で紫の鉢巻はそのまま。舞台に入り、三浦屋から仙平に導かれて出てきた意休と斬り合いになり、意休を殺す。(仙平も首を斬られる。)
手傷を受け、追っ手から逃れるため、助六は天水桶の中にザンブと入って隠れる。その時、手水桶の底を叩き割り、それを天水桶の水面に浮かべて、頭はその桶の中に入れて空気を確保するという工夫。要するに、天水桶には首から下だけ浸かり、首から上は、手水桶を被って、外から見ると、手水桶だけが水面に浮かんでいるという恰好。
その後、揚巻が出てきて、助六は揚巻の裲襠の中に匿ってもらう。追っ手が揚巻を追求し、揚巻は啖呵を切って追い払う。(本当はここが揚巻の見せ場だろうが、福助は単に絶叫しているだけで、スカッとする程の啖呵にはならなかった。)
手傷のせいで、助六は気を失うが、揚巻が天水桶の水に帯を浸して、助六に飲ませ、助六が息を吹き返して幕となる。
とまあ、水入りは、観終わるとこの程度かといった感じの、追い出し幕であった。(結構期待していたんだけどね。)

筋書のコラム欄に、江戸時代の「こりゃまた組」の解説があり、助六の台詞の由来がようやくわかった。(今月の筋書は、歌舞伎座仕様に変わっていた。)
帰りは築地の寿司屋で一杯。(もうそれほどの混雑ではなかったが、24時間営業の寿司屋に、客は結構いた。)