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Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-08-22

[]Kapil Raj, "Beyond Postcolonialism . . . and Postpositivism: Circulation and the Global History of Science," Isis 104, 2013: 337-347.

Isis読書会*1のためにブログ更新(遅れて申し訳ない)。

カピル・ラジはインド科学史を研究する、現在コイレ・センター、EHESSの研究者で、Relocating Scienceで知られる。

この論文が問題にしているのは、知識の移動を捉える視座(perspective)の問題である。知識の移動の問題は科学史においても、古くから論じられてきた問題であるが、その際に様々な視座が明示的にあるいは暗黙に過程されてきた。ある特定の視座は現象の特定の側面を見えやすくするが、他方で、別の側面を隠蔽することがある。また、特定の視座は、対象に特定の理解を押し付け、歪んだ認識を生みだす。そして、知識の移動、とくに非西洋におけるいわゆる科学知識の移動に関しては、いくつかの視座が提案または前提された。ラジはそれらの代表的なものを批判的に検討し、「循環」という視座を提案して、具体例を検討している。

ラジはまず、伝統的な非西洋科学史の出発点として、ジョゼフ・ニーダムとジョージ・バサラを取り上げる。ニーダムは中国科学史の研究において、なぜあれほどの技術革新をした中国が近代科学を生み出さなかったのかを問い、西洋の商業・工業資本主義の発展が西洋科学の基礎たる数学的思考の発生に不可欠だと考えた。他方で、数学的思考は普遍的なものなので、いずれは中国の学問も、「近代科学の大海に流れ込む」と考えた。このように、科学は西洋に特有であると同時に、普遍的なものであるとしたのである。他方、ジョージ・バサラは西洋科学の伝播についての三段階論を唱えた。第一段階には、非西洋地域はヨーロッパの科学に材料を提供し、第二段階には、植民地となり、第三段階になって、独立した科学研究を始める、というものである。このように非西洋科学の歴史研究は、第一に、非西洋地域がどのように近代科学に貢献したか、第二に、西洋科学がどのように非西洋地域に広まったか、という二つの視座に重点が置かれた。

南アジア科学史においては、バサラの視点がとくに厳しく批判された。とくに、「拡散」的な視座が、知識の受け手を過度に受動的に描いてしまっていることが示された。しかし、それらの研究は、ニーダムやバサラと同様、科学は本質的に合理性に基づいた真実だという視点が前提されていた。そうなると、非西洋科学の歴史研究は、次の二つの立場の選択を迫られることになる。近代科学を本質的にヨーロッパ起源のものと考え、それが非西洋世界に伝わったと考えるか。それとも、それぞれの社会に、それぞれの科学的推論があったと考えるか。

他方で、過去30年ぐらいの科学の社会学的、歴史的、人類学的研究において、科学についての理解の仕方が大きく変化した。科学の研究の実践においては、研究がつねに合理性や論理的思考によって支配されているわけではなく、したがって、そのような側面を科学の本質として捉えることはもはやできなくなった。なかでも、科学の移動と伝播が科学についての研究の重要な焦点となった。なぜなら、科学の移動を、「真なる知識なので、広まるのが当然」であるかのように論じることができないからである。しかしながら、これらの研究は、あくまで西洋科学を対象とし、科学は西洋のものという観点を保持していた。同時に「中心/周縁」という視座を暗黙に仮定していた。

これに対して、ラジは、これら二つ、非西洋科学の歴史と最近の科学論の関心を対話させようと試みる。彼が提案するのは、「循環」という視座である。「科学」という言葉で意味するのが「自由に動く観念」ではなく、知識、実践、装置、技術とサービスの生産であることを前提にした上で、ラジは、循環ということを、「拡散(dissemination)」「伝播(transmission)」「コミュニケーション」と区別する。拡散は当然「中心/周縁」視座を前提する。「伝播」ではラジはおそらく、サブラによるこの言葉の使用、すなわち変容のない、ただ伝えるだけの伝播を想定しているのであろう。コミュニケーションは、セコードが言及されているが、当然ながら、知識の移動は、知識をもつものが持たないものへ知識を伝えるというような形の、せまい意味でのコミュニケーションの形を取るものばかりではない。異なる知識や、それを持つ人たちは、たまたま遭遇したり、衝突したり、権力関係下にあったりし、それらの様々な関与の中で、知識の起るのであって、教室や講演会や啓蒙書によるコミュニケーションだけが知識の移動の契機であるわけではない。それに対して循環という視座でラジが強調しているのは、繰り返し行き来すること、である。そこでは、再生産、再現のような一回きりのプロセスではなく、繰り返して継続的に起こる相互作用が想定されており、そのなかで知識や関与するアクターも少しずつ変容していく、ということになる。

ラジが具体例として考察しているのは、初期近代の植物学である。当時、ヨーロッパ諸国において、世界各地の植物の一覧をつくることが、経済的にも、あるいは船乗りたちの薬草の供給源としても重要な意味を持っていた。しかし、これまでの研究では通常、現地の人たちは、たんなるインフォーマントとしての扱いしかされてこなかった。これに対して、ラジは17世紀終わりのインド南東部のオリッサで、フランスの医師からの依頼でインドの画家が描いた720の植物図を含む14巻の植物書に着目し、これの作成において、インド人たちは決して受動的なインフォーマントに過ぎなかったのではなく、収集、作画、翻訳、製本等に積極的な役割を果たしていたことを示した。

循環を強調しながらも、ラジは同時に、循環という視座の限界も認める。循環が常に起るわけではないし、むしろ循環が起こらないほうが都合のよいこともあれば、特定の領域に循環が限定されることもある。しかし、循環という視座は、これまで伝統的に仮定されてきた知識についての三段階の区別、すなわち、情報の収集、実験室等における知識の確立、そして拡散・需要という区別が、成り立たないような現象を捉えることができることも指摘する。

この論文に書かれているラジの事例自体は、あまりにあっさりしすぎていて、「循環」という視座のありがたみがいまひとつ伝わらないので、それについてはRelocating Scienceに基づいて議論したほうがよいだろう。ただ、この論文だけからでも、ラジの提案する「循環」という視座が、これまで見落とされていた現象を捉えるのに有益である可能性は十分示唆されているように見える。そして、それによって、知識の生産・移動について仮定されたいくつかのかなり有力な視座の再検討を要請しているように見える。

しかし、問題の解決は、一つの視座を他の視座に置き換えることでも、あるいは事例によって、もっとも望ましい視座を選択することでもなく、おそらく視座自体を対象に内面化することであるように思われる。悪名高い、内的・外的歴史の二分法も、内在化されたものとしての科学の歴史という形で、対象の側に視座を内面化することによって生産的なものとする可能性が得られるように、たとえば、「中心/周縁」という視座もまた、それ自体が、当時のアクターによる中心化、周縁化として、また新たな視座を拓くかもしれない。その点は多分、ラジも意識していて、「循環」を成り立たしめる条件というのは、結局そういう問題になるかもしれない。

もう一つ、私自身として当然興味があるのは、この「循環」の視座が、日本の事例にどの程度適用可能であるか、ということである。ラジが議論している植物学書の事例に関しては、日本におけるシーボルトと本草学者の関係がただちに念頭に浮かぶ。

2013-06-13

[]Carla Nappi, "The Global and Beyond: Adventures in the Local Historiographies of Science," Isis 104, 2013: 102-110. http://www.jstor.org/stable/10.1086/669850

Isis Focus読書会*1のためにブログ更新。

Carla Nappiは、最近層が厚くなりつつある英語圏における中国科学史の若手のホープの一人である。現在ブリティッシュ・コロンビア大の助教授。2009年に、The Monkey and the Inkpotという中国の自然誌についての本を出版している。

この文章においてNappiは、Isisの読者層である英語圏科学史家とその研究テーマの世界的拡大を、ローカルな個別研究という歴史記述の増大としてとらえ、科学史が現在分岐点にあるものと考える。そして、その将来進むべき方向に関して、幾つかの選択肢を問う形で、問題提起をしている。問題提起の仕方は若干未整理に思えるが、おおよそ次のようなものであろう。

第一は、中心化を保つか、それとも脱中心化するか、ということである。すなわち、現在のように科学史とそうでないものの境界を明確に保ち、英語を支配的な言語として維持し、現在、正統とみなされている叙述の仕方や、証拠の提示のしかたを維持するという途を選ぶか、それとも、脱中心化の道、すなわち、そのような明確な基準からはなれ、また、History of Science Societyを科学史の中心的な機関とすることからも離れ、多様な声の間の対話を行う、という途を選ぶか、ということである。

第二のものは、「グローバル」に関わる。西洋中心的な科学史から離脱し、「グローバル」な科学史を志向するにあたって、当然、単一のグローバルな科学史というものはあり得ないので、ローカルな科学史の個別事例から出発し、そこから全世界的な科学史の織物を作ることになる。しかし、その過程で様々な困難に直面する。一方で、その地域の特定の研究対象をその地域についての包括的な言明に一般化する本質主義の危険があり、他方で、個別事例をどうやってより大きなストーリーにまとめて行くのか、という問題がある。あるいは、知識をグローバルに捉えるときに、知識の循環のモデルを維持するのか、それとも、それによって生じる物象化の問題等をさけて、他のモデルを採用するのか、という問題がある。

第三の問題は、「翻訳」と評価に関わる。Nappiは、科学史には世界各地にいろいろなやり方があることを、中国科学史の研究者としての彼女自身の経験から述べ、「グローバル化」を志向したときに、それら多様な科学史のやり方の間の関係はどのようなものであるべきなのかを問う。それらは互いに、貢献しあうべきなのか。それらの間での言語的・知的な「翻訳」がなされ、共通に了解されるような科学史が目指されるべきなのか。そもそもそれは可能なのか。これに関わる一つの問題が言語の問題である。現在History of Science Societyの支配的な言語は英語であるが、もし「グローバル化」を志向するならば、英語圏にはないメンバーには困難が生じることになる。言語だけでなく、世界各地の科学史のやり方においては、当然、評価基準が違う。これらの様々な評価の仕方があるときに、どうやって「グローバル」な標準を決めることができるのか?

Nappiはこれらの問題はどのようなやりかたが支配的になるべきか、という問題ではなく、科学史家個人それぞれの選択の問題であるとする。そして、より包括的で、開放的な途を選び、最近の科学史の新しいやりかたをいろいろ試してみることを選ぶならば、この分野についての基本的な考え方を変えるかもしれないと示唆する。そして、こう言って結ぶ:「それは危険な場所だ。しかし私はそこにいるだろう。」

2012-04-19

[]「素人」はどの「専門家」を信用すべきか判断できるか(Novice/2-Expert problem).

Alvin I. Goldman, "Experts: Which Ones Should You Trust?" pp. 14-38, in Evan Selinger and Robert P. Crease, eds., The Philosophy of ExpertiseNew York: Columbia University Press, 2006.

The Philosophy of Expertise

The Philosophy of Expertise

先日紹介した論文の著者の一人、Evan SelingerがRobert P. Creaseと編集した論文集にThe Philosophy of Expertiseというものがある。これは専門知の問題についての理論的な論文を集めたものである。その最初に収録されているのが上記のGoldmanの論文で、もともと2001年に出版されたもの。この論文は「探索型」論文で、問題の答えを与えるものではないが、概念を整理する上で役立ちそうなので、現在の日本の状況、とくに原発事故の問題にすこし絡めて紹介してみる。

この論文で扱うのは、「果たして素人が、ある問題に関して、二人の専門家が異なる見解を持つ時、一方が他方より信頼できると、合理的に判断することができるか、そしてそれができるとしたら、そのような判断にはどのような認知的根拠があるか」というもの。これはここでは"Novice/2-Expert"問題と呼ばれている(この論文ではNoviceという表現とlay personという言葉が同義的に用いられている)。

この問いは、原発事故以来、日本で盛んに論じられ続けているものである。原発事故のような、専門的な知識がかかわる問題に関して、専門知識のない市民は、いったいどの専門家を信用して良いのか、という問題は、現在においても切実な問題であると言える。

これに対して、著者は、判断する事ができるかどうか、ということはさておいて、どのような根拠がありうるかについて考察し、一応四つにわけている。

 討論に基づいた証拠 (Argument based evidence)

第一の場合は、二人の専門家が討論する、その討論の仕方に基づいて判断する、というもの。ただし、これにも二通りあって、「討論に直接基づいた正当化(direct argumentative justification)」と「討論に間接的に基づいた正当化(indirect argumentative justification)」。前者の場合は、判断する側が、専門家の前提と、それから結論への導出の仕方を信じた上で、専門家の結論を信じるという形での正当化であり、つまりは、専門家の議論の中身を理解した上で、判断するという場合である。それに対して、「討論に間接的に基づいた正当化」とは、討論における一方の専門家の弁論上の優位を元に、一方の専門家のほうがよりすぐれていると判断するような正当化である。議論の中身の専門的な内容は分からないけれど、討論の様子を見て、たとえば、一方が、返答に窮したりするのを見ることによって、どちらかが討論で優位に立っているか判断する、というわけだ。

他の専門家の同意(Agreement from Other Experts)

第二のものは、他の専門家の判断に基づいて、二人の専門家を比べるというやり方である。二つの形があり得る。一つは、二人の専門家のどちらに対して、他の専門家がどれだけ賛成しているか、というもの。その場合、どのぐらいの数の専門家が、どの程度賛成しているのかを考えることになる。これは、ようするにどちらの専門家が学会の主流に属しているのかを判断することになると思われる。ただし、単純に賛成している人たちの数を数えるだけでは、正当化できるしかたで判断しているとは言えない。例えば、ある教祖的な人が、大勢の信者たちを従えているとしたら、その教祖の考えを多くの人たちが同意しているだろう。あるいは、噂で広まったことが多くの人たちによって支持されているかもしれない。他方で、もし、複数の専門家がそれぞれ独立に調査したり、考察したりした結果、同じ見解に達したのだとしたら、彼らの見解の採用することはより正当化できるように見える(Goldmanはこの議論をベイズ統計を用いてしているのだが、ここでは省略)。

もう一つは、専門性についての専門家、すなわちメタ専門家にどちらの専門家が優れているかを判断してもらい、その判断に基づくというもの。この場合は、研究者評価の専門家を想定してると思われる。たとえば、出身大学や、研究歴や、所属機関や、出版物の評価等から、どちらかの専門家のほうがより信頼できるのかについての判断を下すようなやりかたである。

 利害関係と偏見からの証拠(Evidence from Interests and Biases)

第三のものは、専門家の主張の背後にありうる、利害関心や、偏見に基づくものである。これは、現在の日本人にはおなじみだろう。原子工学の関係者が原発についての何を言っても、「御用学者」として、原発政策に関して何らかの利害関心があると考え、専門家としてあまり信用しないだろう。そのような利害関心は、専門家としての権威や、権力だったりすることもあるし、純粋に金銭的なものであることがありうる。

偏見に関しては、Goldmanは二つの場合をあげている。一つはフェミニストが指摘するような、専門家集団における社会集団の代表性による偏見である。たとえば、科学者コミュニティにおいて白人男性が支配的あれば、それはそれなりの偏見が発生するだろう。もう一つは、ある専門家集団におけるコミュニティの政治や経済によって発生する偏見だ。たとえば、原子力工学者のコミュニティは、全体としては、原子力工学を縮小するよりも、発展させる方向に偏見が発生するだろう。

 過去の実績の使用(Using Past Track Records)

第四のものもおなじみである。問題となっている専門家の過去の実績を調べ、そこでどれだけ成功しているかに基づいて判断する、というものだ。その場合、素人に専門家の過去の実績を判断できるか、という問題が生じるが、これは、かならずしもできないわけではない。素人が理解できない言明を秘教的言明(esoteric statement)、できない言明を開放的言明(exoteric statement)と区分すると、専門家の言明を理解できないのが、素人であるはずだから、専門家の言うことは秘教的言明であるはずだが、問題は、専門家の実績が秘教的であるかどうかというのは、時と場合に依存する、ということである。Goldmanは、例えば日食の予言の例を挙げている。専門家が2030年に日食が起ることを予言したとき、その言明が正しいかどうかは、2012年の段階では、素人が直接に判断できるわけではない。しかしながら、2031年には、その予言が成功したか失敗したかは、素人にも明らかである。同じことは、たとえば原発の安全性についても言うことができる。日本の原発が安全かどうか、という問題は、それが100%安全だという主張もまた、かつては専門家の領域にあったと言って良い。しかし、福島第一原発の事故以降は、たとえ専門家がどのように言い繕うとも、日本の原発が100%安全だいう主張が否定されたことを判断するのに専門知識は必要でない。したがって、問題の専門家の過去の主張や判断がどの程度成功したか、ということについては、必ずしも専門知識を必要としない場合がありうるのである。

 まとめとコメント

以上が、Goldmanの分類だが、最初に述べたように、この論文は、このようにすれば素人が信用できる専門家を見分けることができる、とういことを示すものではない。Goldmanは、それを達成するために考え得る方法を幾つか提示し、どの程度の妥当性があるかを検討しているだけである。ここで示された類型は、記述的なものであるというよりは、理論的なものであり、実際に人々がそうしているということを主張するものではない。そうであっても、実際になされていることについて、それがどのような類型に属し、どのような理論的根拠があるのかを考える上で、Goldmanの分類は有用であるように思われる。

他方で、Goldmanの分類には、大きな問題が幾つかあるようにみえる。STSの観点から明らかに指摘できる問題は、専門家と素人という単純な二分法である。もちろん、Goldmanがしているのは理論的な議論であって、専門家と素人を理論的な構築物として想定することは一応、妥当であるとしてもよい。ただ、そうだとしても、そのような理論がどの程度、現実の問題に適合するかについては、詳しく検討されなければならないだろう。

もう一つの問題、ないし、課題は、そもそも、ここで出されている問いがどのような種類の問いであるのか、という問題である。Goldmanは、これを認知的、哲学的な問いとして、想定しているのだが、果たしてそうなのだろうか。Goldman自身はこの論文の結論部分で次のように書いている:

専門家の過去の実績の記録を確立することは、決して不可能なことでも、現実性のないことではない。それができれば、今度は、より広い範囲の専門家の信用可能性をうちたてることができ、そうして専門家を選ぶときに、賛成者の人数を数えるというやり方を正統なものとして基礎づけることができる。

これが本当にそうであるかはともかく、このような推論の方向性が示唆していると思われるのは、この問題は実は社会的なプロセスのなかで解決が得られる問題であるかもしれない、ということである。つまり、素人がどの専門家を信用すべきかをどう判断すべきか、という問題は、一般には解くことができない、しかし、そのような問題を解くことができるような社会状況を考えることはできる、ということであるように思われるのである。

そして、それはまた、そのような判断が可能であるような社会的状況が、なんらかの突発的な要因で、崩壊したり、そのような状況の問題点が露呈したりすることがありうるということも意味する。それがまさしく我々が経験していることであるように思われる。

もう一つの課題は、ほかにはないのか、ということ、あるいは、もしこの四つのカテゴリーのどれか、だとしたら、その理論的根拠は何なのか、ということである。

そして、それに関連した課題は、この四つのカテゴリーに収まるもののなかにも、さらにいろいろなケースがありうるだろうということである。例えば、上の三つ目の、「利害関係と偏見からの証拠」という判断の仕方の亜種に入ると思われるものに、「当事者性」とでもいうものが考えられる。ある専門知がかかわる問題で影響をうける素人が、もしある専門家がその問題に関して自分達と同じ利害関係をもつと知れば、その専門家をかなりの確からしさで信用できるだろう。