Hatena::ブログ(Diary)

Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-12-18

[][]研究における動機と効果の乖離

基礎科学についての議論で、ひとつ話をややこしくしているのがこの点である。これはある意味わかりきったことかもしれないけれど、意外なほど無視されているようにも思われる。

基礎科学研究の動機と理想的な研究環境

第一に、基礎科学に関係するような研究者にとって研究という活動を行う動機は、基本的には、その研究が興味深いからである。興味深い、というのは実に主観的な表現だが、実際、主観的だからこそ、強力な動機になるのである。このことがテーマの選定や、研究成果の評価にも関係するし、何よりも研究者を研究に駆り立てて、知的興奮状態において、時間外労働をものともせずに仕事をさせるのは研究のこの側面なのだ。

もちろん、そうでない研究者がいないとはいわない。業績を上げることが単純に目標の研究者もいるだろう。研究がゲームのようなもので、競争相手と勝つことが目的の人もいるらろうし、研究成果にともなう名声や、金銭的な利得が目的の人もいるかもしれない。ただ、とりあえず、ここではそういう人たちのことは考えないでおく。彼らとて、個人的な動機で研究を行っていることには変わりない。

ともかく、研究者の動機が好奇心であるならば、その好奇心の赴くままに、研究者の自由に研究してもらうような環境が理想的な研究環境のはずである。逆にいえば、外部から押しつけられた研究テーマでは研究者がその創造性を発揮できないことが予想される。重要な研究だからといって、むりやり研究者にそれをやらせても、研究は効率よく進まない。単なるルーチンワークならともかく、研究には、強い関心と情熱が必要だからで、それには知的な満足がともなわなければならない。押しつける、ということはあまりないかもしれないけれど、研究資金や評価方式である種の研究をするように仕向けるのも、押しつけるのと同じような効果はある。外部資金獲得件数を評価基準したりすれば、外部資金を取りやすい研究をせざるを得ないわけだし、若手がポスドクや研究員の職に就くときにはしばしば、プロジェクト付きの職について、必ずしも自分自身の研究テーマではない課題について研究せざるをえないという状況は普通にあるわけである。

基礎科学が役に立ってしまうこと

基礎科学は役に立つものを生み出すことを目指すものではないのだが、それは基礎科学的な研究の結果、役に立つ研究成果が出てくることを妨げるものではない。何しろ、基礎科学というのは未知の領域を研究するので、何が出てくるのか、分からないのであり、いつも役に立たない成果しかでないということも分からないのである。実際、過去にこれまで何度となく、基礎科学から極めて有用な知識が得られたし、逆に、大きなブレークスルーは基礎科学から出るとさえ、いわれることもある(これらの考え方についてはいろいろ問題もあるのだが、それについてはまた別に書く)。

したがって、そういった知識によって利益を得る可能性のある組織なり集団なり個人なりは、基礎科学の研究を支援して、基礎科学の発展を促すのが望ましいことになる。そうすると、ここで一つちょっとした齟齬が発生する。研究者のほうは楽しいから研究しているのだが、そのスポンサーはその成果から実利的な利益を期待している、という齟齬である。この齟齬は、単に同じ活動に対して異なる動機を持っているというだけのことで、研究を推進するという点に関しては、両者は一致しているのであり、動機は異なっていても、両者の利益の間には、矛盾はない。まあ、ある種の共生関係が実現しているわけである。だから、齟齬といっても、理想的にはうまくかみ合っているわけである。つまり、基礎科学の研究者は、楽しく好きなように研究をし、自由な環境の中で大きな成果を上げる。本人は楽しくやっているので、研究さえできれば、待遇が低くてもまるで気にしない。他方、その成果を利用する側は、基礎科学者がどういうつもりであろうとかかわりなく、その成果から実利的な利益を得る。こういう共生関係で、両者とも満足するウィン・ウィンの状態になる。

動機と効果の食い違いの表面化

ところが、研究が大規模化して、費用がかさむようになったり、研究費を出す側が困窮して、無駄を省かなければならなくなったりして、科学研究の動機とか、意義とかについての原理的な説明が必要になると、この矛盾が表面化することになる。基礎科学の研究者が個々の研究について社会に対し、その意義を説明すると、本人は楽しくて研究しているだけなのに、突然、それが何の役に立つのか説明させられ、心にも無いことを言わざるをえないわけである。ノーベル賞ぐらい取ると、役に立たないと堂々といえるわけだが、役に立たないならやめましょうといわれるような立場にいる研究者はそういうわけにはいかないのである。

だから、研究者の側が、基礎科学の意義、なんてことをいうと、世間からは、学者さんたちの趣味にそんなに金を出せない、という反応がくるわけである。確かに、研究者の側が研究を楽しくやっている以上、趣味だといわれても、反論するのは難しい。基礎科学の意義がほかにあるとしても、自分たちは別にそのような意義があるから研究しているわけではないので、後付けの正当化でしかないと見透かされてしまう。むしろ、基礎科学の従事者が、基礎科学の擁護をすればするだけ、彼らの独りよがりさ、社会に対する関心の薄さを露呈し、ますますそっぽを向かれることになりかねない。

研究の社会における意義を誰が評価できるか

この状況はちょっと面白いと思う。つまり基礎科学の価値について、研究者とそれ以外の人たちの間で異なる考え方をもっていて合意が成立していないほうがうまくいくのだが、いざその妥当性が検討にさらされたときにその合意の欠如が弱点になりかねない。

おそらく研究をしている立場の人間も、研究のことを知らないで、その意義を問いただしている立場の人間も、研究の社会的意義を評価するのに適切な立場にいないだろうと思われる。

はてなユーザーのみコメントできます。はてなへログインもしくは新規登録をおこなってください。