Hatena::ブログ(Diary)

Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-08-01

[]ハーバード白熱教室は日本で可能か?(前編)

先週書いたエントリー、「『ハーバード白熱教室』の裏側』*1で、テレビで放映されたマイケル・サンデルの授業は、実際のハーバードの授業のうわべにすぎず、あの授業を含むハーバードの一般教養の授業には、多くのリーディング・アサインメントが課され、多数のTF(日本でいうところのTA、ティーチング・アシスタント)が配置されて、少人数性のディスカッション・セクションが並行して行われ、ディスカッションや、ペ―パー、筆記試験によるきめ細かい指導と、成績評価がなされていることについて書いた。これに対する反響で多かったのは、日本の大学ではあのような授業は可能かどうか、という事に関するものだった。とくに、日本ではとても無理、という悲観的な反応が多かった。*2これに対して何らかのの形で答える必要があると思うので、日曜日の午後を利用して、一つエントリーを書いてみる。

ハーバード白熱教室』は日本で可能か?結論から書くと、答えは「イエス」であり、「ノー」であり、「イエス」である。ブログのエントリーにしては、かなり長い話になるので、今回のエントリーでは、前編として、どのような要因が日本で『ハーバード白熱教室』を困難にしているのかについて書こうと思う。後編では、もし日本で同じようなことをやろうとしたら、どうすればいいのかつまり、どうしたら、最後の意味で「イエス」となるのか、について書く予定である。

テレビ番組としての『ハーバード白熱教室』を実現するのはさほど難しくない

まず最初の「イエス」について。テレビやネット上の動画で見たような、「ハーバード白熱教室」を再現することは、それほど難しいことではない。優秀な講師と、よく選ばれた聴衆がいればよい。多分、それなりに優秀な講師は日本にもいると思うである。

一般に、日本の大学、ないしその他の場所で、同じような授業を行うためには、ようするに講師がサンデルの真似をし、聴衆がハーバードの学生の真似をして、振舞えばよい。それができる講師はあまり多くはないかもしれないし、聴衆にしても同じだろう。しかし、これを実現するためのハードルは、実はそれほど高いものではないと思うのである。おそらくは練習の問題であり、すでにモデルがあるわけだから、やる気になればできるのではなかろうか。

その意味で、この夏のサンデルの来日と、東大における公開収録、『ハーバード白熱教室 in Japan』*3は興味深い。果たして、日本の聴衆との討論がなりたつか、それがハーバードにおける授業とどのように異なるか。私自身は申し込まなかったのだが、秋に放送されるらしいので、とくに日本人の聴衆の反応と討論に注意して比較してみたいと考えている。

ハーバード白熱教室』はなぜ日本でできないか?

この最初の「イエス」はしかし本気ではない。先週書いた私のエントリーをお読みになった方はすでにわかっておられると思うが、実のところ、上のような形で表面的にハーバード白熱教室と同じような授業を実現しても、それはあくまで上辺だけのことにすぎず、実際になされているハーバードの一般教養の教育とはまったく別のものである。そして、ハーバードと同じ教育を日本で実現させようとしても、それはまず絶対にできない。日本では、全体としてハーバードと同じ大学を作ることはおそらく永久にできないだろう。

予算と人員を東大とハーバードで比較してみる

まず、外的な条件から考えてみよう。単純に予算規模から。2009年度のハーバードの支出は3,576,071,000ドルである。*4これをおよそ36億ドルとして、現在の円高のレート、一米ドル = 86円として3096億円である。それに対して、平成21年度の東京大学の経常費用は、2025億円だった。*5つまり、1.5倍の差、1000億円の差がある。東大の運営費交付金は平成21年度に850億円、授業料が170億円ほど*6だったので、もしこの差を運営費交付金で埋めようとしたら、倍以上の額が国からこなければならないし、授業料で埋めようとしたら授業料を年間300万円程度にする必要がある。現在の政府の財政状況で、運営費交付金を倍以上にするなどということを言ったら、財務省におとといおいでといわれるのは間違いない。年間授業料300万も払って、東大へ子供を送るような親はいないだろう。それ位なら、ハーバードに送ったほうがいいに決まっている。

ハーバードがこのような支出をまかなえるのは、何よりもハーバードのもつ2.2兆円*7という莫大な基金を運用することによる収入で、これが全体の37%をしめている。ちなみに政府からもらっている金額は全体の15%、学生からもらっているお金は18%だ。これを金額にするとそれぞれ、300億円、360億円程度になる。ハーバードは私立とは言っても、東大の850億円の3分の1以上の額を政府からもらっているわけである。逆に、学生から得ている収入は以外に少なく、国立大学である東大の倍程度でしかない。

これは、ハーバードの学生数が東大より大分少ないせいでもある。そのことが両者の教育の質の差を広げている。ハーバードの大学院生(ビジネス、ロー、医学なども含む)と学部生、エクステンション・スクールを含めた人数は21000人ほどで、そのうち学部生は6655名、三分の1以下に過ぎない。*8それにたいして、東大の学部生は14000名、大学院生は17000名程度だ。*9大学院生を含めれば東大はハーバードの1.5倍、学部生だけでは倍以上の差があり、学生一人当たりのコストは、東大では大学院生をふくめて653万円程度であるのに対し、1500万円程度となる。学部生で計算すれば、さらに差がが開くだろう。もちろん、大学の予算のすべてが学生に使われるわけではないので、この計算はかなり大雑把なものにすぎない。正確に比較するにはもっと綿密な分析が必要だろう。だが、少なくともコストの掛け方の差は歴然としている。

要するに、ハーバードを完全に真似するためには、東大ですら予算的に大幅な拡大が必要だということだ。そして、運営費交付金が毎年1%削減されてきている上に、今度は10%削減されかねないという状況で、そんな大拡大はあり得ない。

更にいえば、これは経常収支だけの比較である。毎年これだけの差があるものが長年蓄積されていることを考慮しなければならない。何しろハーバードの創立は1636年なのである。東大は幕府天文方まで遡れば1684年であまり変わりないのだが、大学としては1877年で、しかも現在に至るまでかなり大きな変革を経ていて、連続しているとは言いがたい。*10

学生あたりの教員・職員数で比較してみる

次に、学生あたりの教員・職員数で比較してみる。これについては、すでに良く知られた資料がある。文部科学省が出している「国立大学法人化後の現状と課題について(中間まとめ)概要」という資料がそれだ。*11これの3頁の下のほうに、日本のと世界のトップ5校における学生数・教員数比と、学生数・職員数比の表があげられており、日本の大学のお寒い状況があきらかにされている。そのなかでハーバードは学生数/教員数が、4.36なのに、東大では7.04、学生数/職員数では、ハーバードが1.39であるのに対し、東大は7.49だ。良く言われているように、日本の大学のサポートスタッフの少なさが顕著に表れている。

東大を含め、現在の日本の大学では、パーマネントの教員、職員の雇用はきわめて困難になっている。人件費を減らすことが強く奨励され、とくに教員の人気なしのポストを新たに獲得するのは至難の業である。職員にしても非常勤の割合が高く、そして一般に非常勤の職員は3年で辞めていくので、職務の効率性を下げている。現状からみて、教職員と学生の比の面で、日本の上位5校が世界のトップと対等になることは当分なさそうである。

日本の大学における一般教養の授業の問題

外形的な比較はこれぐらいにして、もう少し中身の話に入ってみよう。なぜ、日本の大学の一般教養において、『ハーバード白熱教室』のような授業ができないのか。実のところ、あのような授業が日本にまったく存在しない、ということはできないのだが、すくなくともそれを妨げている構造的な要因を上げることはできる。それはおそらく無数にあるのだが、とりあえずここでは次の点について論じてみたい。

    • 般教養教育についての共通理解の欠如
    • 教員・学生のモチベーションの問題
    • 科目数の問題
    • リーディングをめぐる問題

般教養教育についての共通理解と欠如とその地位低下

第一の問題は、一般教養教育についての共通理解の欠如、つまり、一般教養教育というのは、何を目的として、何をどこまでやり、どのように成績評価をするのか、という点について、なんらか共通の理解が、学生、教員、大学、そして社会全体の間に存在せず、その結果それに対する意欲が、学生、教員の両方において、最低限まで下がっていることである。しいて、共通理解があるとすれば、一般教養科目はつまらなくて、どうでもいいもの、という理解ではなかろうか。

先週のエントリーに書いたように、サンデルの授業は一般教育プログラムの一環をなすもので、ハーバードの多様な専攻の学生にむけて作られた授業なのである。日本の大学のように、一般教養科目が軽視され、その担当者が冷遇されるような環境において、あのような授業が可能であるはずがない。とくに大綱化以降、多くの大学で教養部が解体され、サンデルの授業のようなものが可能であるための制度的条件が消滅してしまっていると思われる。もし可能であるとすれば、一番最初に書いたような意味での、サンデルの授業の表面的な真似事だけだろう*12

授業の質の問題

第二に、教員の側で一般教養の授業の質を高めようという動機づけがあまり強く働かない。むしろ逆に働くことだ。むしろ現在の水準を維持しているのは、教員の側の良心的な努力によるものと言えるように思う。

これは単純なことだ。日本では教員が自ら採点しなければならないので、良い授業をして、サンデルのように多数の学生が来るようになったら、教員が採点で苦労することになる。履修者が多いことによって教育上の評価が高くつくことは最近ようやくあるようになってきたが、それでも、すくなくとも直接のベネフィットはないように思われる(ただし、この点は大学によって違うかもしれない。また、教科書が売れることによるベネフィットはありうる)。つまり、努力して良い授業にすればするほど、履修者増え、良心的な採点にすればするほど、その分負担増という形で罰せられることがある仕組みになっているのだ。それでも極端に履修者が少なければ、とくに非常勤講師などの立ち場にある人には、別に形でペナルティがある。もちろん、ペネルティがないとしても、履修者を減らすために、授業の質をさげる教員はさすがにいないであろうし、あるいは良い授業をすること自体の満足など、経済的な次元とは別のところでモチベーションが働いて、教員は授業を良いものにしようとすることも多いだろう。だが、それでも、積極的に授業の質をたかめることをencourageする環境ではないのだ。

もちろん、授業の質の高さと学生の間での人気は同一のものではない。授業内容自体によって、多数の学生が関心を持つものと、少数の学生しか関心を持たないことも当然ある。さらに、学生はアサインメントが軽く、成績評価が甘い科目を好んだり、朝早い授業や、土曜日の授業よりも、より時間的に都合のよい授業をこのんで履修するかもしれない。だから、教員の側が、授業の質を維持しつつ、履修者数を多くしすぎないように、他の要因で履修をdiscourageする(例えば成績評価をきつくしたり、多くの宿題を課したりする)かもしれない。しかし、それはそれで、その質の高い授業に対する履修者数を減らすことで、学生全体の受ける教育の質をやはり下げているのである。

ハーバードでも、すでにテニュアをとった教員も、実は教育、とくに学部教育に力を入れることに対しては物質的にはあまり強い動機付けは働かない。その意味で、教員の使命感に依存するところは大きいだろう。もしあるとすれば、一つは、テニュアをとった教員でも、講義などで、名声が高くなれば、他の大学から誘いがかかることもありうる。ハーバードから他の大学へ移ることはあまりないと思われるのだが、他の大学からオファーがあれば、それをハーバードに対して待遇改善の材料に使うことができる。また、これは直接本人に対するベネフィットになるとは限らないのだが、TFの職を多く確保できれば、それだけ多くの大学院生をうけ入れることができる。それによって自分の研究グループを強化し、自分の分野の発展に貢献できる(それは必ずしも当人にとってメリットがあるとは限らないのだが)。さらに、本人に対するベネフィットではなく学科に対するベネフィットはありうる。多くの学部生が履修するような科目を持つ学科は、学内で強い立場に立つことができ、それは予算やポストの分配などの側面で、帰結を左右することがありうる。一般にアメリカの大学では、大学のポストは流動的で、ある学科の教授が引退したからといって、そのポストがその学科のものとして残るとは限らないのである。また、これも長期的で間接的なベネフィットだが、満足な教育をうけた卒業生が、将来社会で成功者となったときに、学科に対して寄付をするということがありうる。

このように、ハーバードでも、テニュアをとった教員は必ずしも良い授業をしなければならないというわけではない。実際、授業はきわめて下手で、学部生にはまったく人気がないにもかかわわらず、研究が抜群であるためにテニュアをとっただけでなく、厚遇されている教員もハーバードには少なくない。そういう人達は主として大学院教育を担当しているか、あるいはまったく研究だけをしているのだと思われる。たとえば、哲学では、…いや、実名を挙げるのは、やっぱりやめておこう。

そうは言っても、少なくともTFを学生数に応じて雇用できるため、履修者が増えることによって却って苦労するということがない。この点が日本と違うところだろう。そして、これが可能であるためには履修者の数に応じてTAを雇用でき、かつTAが採点までできるような体制が必要なのだが、日本では実現はきわめて困難だろうと思われる。

科目数の問題

日本の学部教育では、履修する科目が多い。日本の大学を卒業する最低取得単位数は124であり、通常90分の授業を一学期履修することによって2単位得られる。そこで、授業一コマにつき2単位だとして、最低取得単位の124単位で、62科目、4年間均等に履修するとすると、毎学期8コマ程度の授業を履修することになる。先週のエントリーに書いたようにハーバードでは履修する科目(コース)は一学期に標準4つである。つまり日本の大学では、ハーバードに比べて、細かい授業を多数履修することになる。*13

科目数が多いことはそれ自体としては、多様な学問に触れることができ、それ自体としては悪いことばかりではない。だが、科目数が多く、一科目あたりにかけることのできる時間が減れば、それによって可能な教育にも制約がかかることになる。

その結果、どのようなことが起こるか。次の文章は最近ウェブ上で見かけた大学の一般教養に対するある学生の反応である。

大学で好きなコンピュータのことだけを思う存分勉強したい。その一心で、まったく興味のわかない文系科目の勉強を自らに課した。ところが、いざ大学に入ってみると、待ち構えていたのはドイツ語に英語、社会学心理学……。得意だった物理や数学にしても、高校で学んでいた内容とは比べものにならないほど難易度が高い。しかもその内容たるや極めて抽象的で、実社会とのつながりが見いだせなかった。

(中略)

もともと中学・高校時代から、何事につけ「これは実社会で役に立つか?」ということを価値判断の基準にしてきた青野氏だけに、大学で学ぶ「高尚な学問」は、ますます実社会から遠ざかった、机上の世界に映ったのだろう。その結果、大学からはだんだんと足が遠のいていったという。*14

これは日本の大学の一般教養科目に対する一つの典型的な反応であると思われる。一般教養の授業が社会と乖離した「高尚な学問」になってしまうのは、いくつかの要因があって、一つには明らかに教える側の意識と訓練の問題なのだが、それと同時に、科目数の問題でもあると思われる。何しろ、科目数が多すぎるのだ。そのため、個々の科目でできることに大きな制限がかかる。サンデルの授業はアリストテレスのような古典を論じつつ、現代のアメリカ社会が直面する倫理的な問いにも取り組むというものだが、そのような授業が可能になるための条件は、科目数がある程度絞られて、それぞれの科目にたっぷり時間があり、そこで、その分野の学問の基礎からはじめて、現代的な問題にまで到達することが可能であることである。日本の大学のように、細かい科目にコマ切れになった場合、その分野の基礎だけで終わるか、ある程度まとまったことをやろうとするあまり一方的な講義で大量の知識を伝えることしかできなかったり、あるいは時事的な問題を中心にして、その結果、あまり学問的でなくなったりすることになる。

つまり、サンデルの授業のようなものを実現しようとしたら、日本の大学の授業編成自体を根源的に考え直す必要があるだろう。毎学期一科目2単位の授業ではなく、週に講義が2つ、演習が一つあるような、一科目で、現在の複数科目分の授業を提供するような授業編成にしなければならないのである。これは日本では大学にとっても、教員にとっても大きな変化で、実施するのは困難ではなかろうか。

リーディングの問題

第4に、リーディングの問題である。先週のエントリーに書いたように、サンデルの授業では、それなりの量のリーディング・アサインメントが課せられる。一学期に4つのコースしか履修しないことを考えれば、分量的にはそれほどの量ではない。哲学系の授業はある程度の精読が必要なためだと思われるが、せいぜい週に一冊程度のようである。歴史系の授業であればもっと多いと思うし、文学系も場合によってはそれなりに多いのではなかろうか。しかし、仮に週に4冊として、日本の大学生でも、週に4冊ぐらい日本語の学術書を読むことは、高校時代から適切に訓練すれば十分可能なはずだ。だから、それ自体は日本でも難しいことではない。

サンデルの授業は、アリストテレス、ロック、カント、ミル、ロールズといった、古典的な著作や、重要な学術書をリーディング・アサインメントとし、それによって、履修者にこれらの賞味期限の長い古典を直接読んで討論する機会を提供している。アメリカのリベラル・アーツ教育の一つの形態として、グレート・ブック・アプローチというものがある。これはリベラル・アーツ・カレッジなどでとられている教育で、古典的な名著を読むことを通して、学問を学ぶ教育スタイルであえる。ハーバードの同期に、セント・ジョンズという代表的なリベラル・アーツ・カレッジの名門の出身がいて、彼からセント・ジョンズでは、幾何学を教えるのにユークリッドの『原論』を読ませると聞いて驚いたのだった(彼の場合、科学史に進んだのでちょうど良かったわけだが)。これは行きすぎで、自然科学や工学でグレート・ブック・アプローチを用いるのはおそらく効率が悪いだろう。だが、古典が生命を保ち続ける人文社会の教養教育においては、重要な古典を読むことが実は、遠回りに見えて、もっとも有効ということがありうるのである。サンデルの授業はグレート・ブック・アプローチではないが、それに準じた形態だ。

しかし、日本ではこういう本をアサインする授業はほぼ不可能だ。ひとつの問題は上の問題と関連していて、細かい科目が週に8つでは、それぞれの授業で毎回アサインメントを一冊、というわけにはいかない、ということである。というわけで、日本の授業では、古典的な学術書をリーディング・アサインメントとして指定することが事実上、不可能なのである。もちろん、一つの本を分けてアサインすることはできるが、しかしそういうことをしたら、授業がかなり限定した内容になってしまい、少なくとも一般教養科目としては、不適切に専門化したものになってしまうだろう。

さらに書物をリーディング・アサインメントとすることを難しくしているのは、入手可能性の問題だ。英語あるいはそれ以外の外国語の文献を大量に読むことは日本の学部生には当然不可能なので、当然リーディング・アサインメントに使えるのは、日本語の書籍に限られる。英語圏にくらべて、日本語の書籍では、入手可能で、リーディング・アサインメントとして学生に是非よませたいと思われるような書籍がかなり限定されるのである。外国語のものに関しては、翻訳があるものに限定されるわけだ。サンデルのような倫理学の場合は古典が多く、古典的な書籍は翻訳されている可能性が高いので、まだましと言えるだろう。それでもロールズの『正義論』は翻訳されていても、非常に評判の悪い訳で、現在品切れ中である。*15このように日本の学術的な書籍は、すぐに品切れになって入手不可になってしまうので、リーディング・アサインメントに使いづらい。入手可能だとおもって授業をデザインしても、翌年入手不可能になったので、授業を考え直さなければならい、なんてことがしょっちゅう起こることになる。授業をデザインし、シラバスを作成するのは、非常な労力が必要なので、これは教員にとってはかなりのダメージとなる。そのような理由によって、毎年コースをデザインしなおさないといけないとしたら、質の高い授業などはありえない。

さらに、書籍を多数アサインすること自体の問題もある。学生には多数の本を授業のために買う習慣がない者もいるかもしれない。実際に、経済的余裕がなく、多数の書籍を購入することのできない学生のことも考慮しなければならない。そのような場合は図書館でリーディング・アサインメントを読める体制が必要だが、日本の大学には大量のリーディング・アサインメントを課する習慣がないので、そのような対応ができるとは限らないのである。

結局、日本の一般教養の授業で良くとられているのは、教科書を一冊、指定することである。多くの科目があって、コマ切れになっていて、しかも、それでいてある程度広い話題を扱おうとしたら、教科書以外にない、というわけだ。教科書は、しばしばその授業をする教員自身が書いたものであったりして、履修者が多ければ、教員が印税で潤うことになる。教科書による授業は、とくに理工系では効果的でありうると思うし、それ自体、悪いことであるとは限らない。だが、とくに人文社会系では、教科書というのは、古典や、重要な学術書と比較して、賞味期限が限られている。そして、教科書はしばしばあたりさわりのない内容しか書かれておらず退屈だ。

つまりハーバードの学生が、偉大な古典を読んでインスパイアされて、将来、知的な会話をするときの教養の基盤を作っているときに、日本の学生は、10年たったら忘れさられるような退屈な教科書を読まざるをえない。それでは、一般教養の授業に大きな価値を見出すことは難しいであろう。

では何ができるか?

このように、悲観的なことばかり書いた。それでも、もし、日本の大学の一般教養の授業において、先週のエントリーに書いたようなハーバードの一般教養の授業をできるだけ実現しようという強い意欲があれば、できることはいくつかあると思う。それが最後の「イエス」の意味である。それについては後編で書く。

*1http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20100725/p1

*2http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kenjiito/20100725/p1

*3http://www.nhk.or.jp/harvard/form/index.html

*4http://www.provost.harvard.edu/institutional_research/Provost_-_FB2009_10_Sec03_6_IncExp.pdf

*5http://www.u-tokyo.ac.jp/fin01/pdf/H21kessannogaiyou.pdf

*6http://www.u-tokyo.ac.jp/fin01/pdf/H21kessannogaiyou.pdf

*7http://www.provost.harvard.edu/institutional_research/Provost_-_FB2009_10_Sec03_7_Endowment.pdf;これも、金融危機で1兆円ほど損失を出してこの位になっているそうで、前はもっとあったらしい

*8http://www.provost.harvard.edu/institutional_research/Provost_-_FB2009_10_Sec02_Enrollments.pdf

*9http://www.u-tokyo.ac.jp/stu04/e08_02_j.html

*10:そもそも天文方の資産を今持っているのは東大ではなく、国立天文台であるし:http://library.nao.ac.jp/kichou/open/

*11http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/22/07/__icsFiles/afieldfile/2010/07/15/1295787_1.pdf

*12:それどころか、サンデルの授業を口実として、私大などで一般教養の授業の更なるマスプロ化の懸念もあるようである:http://d.hatena.ne.jp/hayashi9192/20100731/1280524970。先週のエントリーに書いたように、テレビで見る大教室の講義だけをまねしてもハーバードの教育とはまったく違うのだ。

*13:最初、1単位と誤認していたののをはてなブックマークのコメントに指摘されて訂正。ご指摘に感謝。個人的には細かい科目がたくさんあったという印象が強いのだが、大学によっては事実上の履修単位数が124よりも多いことがありうるのだろう。

*14:@IT、http://www.atmarkit.co.jp/im/cits/serial/keymanslife/34/01.html

*15:新訳が近く出るらしいけれど。

はてなユーザーのみコメントできます。はてなへログインもしくは新規登録をおこなってください。