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Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-08-08

[]ハーバード白熱教室は日本で可能か?(後編)

先々週のエントリーで、NHKで放映されたマイケル・サンデルのハーバードにおける授業について、それがハーバードの一般教養の授業として実際にどのように実施されているのかについて、放映された部分だけでは分からない、大学院生らのTAによるディスカッション・セクションや、きめ細かい指導があることについて書いた。*1先週のエントリーでは、そのような一般教養の授業のやり方をそのままハーバードから日本の大学に持ち込むことが極めて困難であろうということについて書いた。*2

このエントリーで考えたいのは、次の点だ。たとえ、ハーバードでの教育システムをそのまま日本に持ち込むことができないとしても、ハーバードで達成されている成果をある程度上げるような、日本における一般教養教育の仕組みを考えることは可能ではないか。そこで、もし可能であるとすれば、そのためには一体どのようなことができるだろうかについて考えてみたい。

ハーバードの一般教養の教育の何がいいのか?

議論を進める前に、ハーバード今日一般教養教育のどこが評価できるのか、という点について整理しておく。先々週のエントリーで、サンデルの授業を例として書いたように、ハーバードの一般教養の授業の強みは、一流の研究者によるよく設計された授業と、TFによるきめ細かな指導・採点にあると考えられる。その結果、実現されている効果は次の点だ。まず第一に、その分野の世界的な権威者による質が高く、よく設計された授業内容がなされていること。それはサンデルの授業からあきらかだろう。サンデルは単に教師として優れているだけではなく、彼の授業を通して学生は応用倫理学の最先端の議論の一端に触れることができる。第二に、読書能力の向上だ。サンデルの授業の場合、アリストテレスやカントやミルやロールズといった歴史的な哲学者・思想の著作に直接ふれることで彼らの思考を読み解く機会となっている。以上の二点は、講義と読書というインプットの部分だが、ハーバードの一般教養の授業ではアウトプットの部分も重視されている。少人数のディスカッション・セクションにおいて、講義やリーディングについて討論することを通して、内容の理解を深めつつ、ディスカッションの能力を磨くことができる。最後に、二回のペーパーと期末試験において、ライティングを行い、授業で扱われた問題についての考察を深めつつ、文章能力を高める機会となっている。

ハーバードの学部学生は、これらのプロセスの間を通して、院生などの若手研究者からなるTF(TA)の少人数指導を受ける。これは同時に、若手研究者の教育能力の訓練となり、かつ、生活を支えている。

授業編成の問題

日本の大学において、一般教養の授業は基本的に講義だけである。とくに、人気のある一般教養の授業は大教室による講義だ。教科書を指定することはあってもリーディング・アサインメントというほどの分量ではない。授業科目が多いので、コマ切れ的に知識を伝えるだけの授業となりがちである。

ディスカッション・セクション的なものを可能に、リーディングアサインメントも課して、じっくり指導するためには、科目数を減らして、一つの科目あたりの時間数とアサインメントを増やすことが必要だ。だからといって授業編成を根本的に変えて、一科目に複数の講義と演習を含めて、一つの科目で多くの単位が取れるようにし、少数の科目だけを履修することができるようにすることは、日本の大学では難しいだろうと先週のエントリーで書いた。すでになされていると講義を、このような枠組みで新たに作り直すことは教員に大きな負担を強いるもので、もしそのまま導入すれば大混乱を引き起こすだけだろう。

そもそもハーバードとまったく同じようにする必要はないのだ。むしろ、授業によって負担も異なるはずなのに、すべて同じであるかのように数えることのほうがおかしいとも言える。*3

日本の大学において、現段階でも、講義に演習をつけることはなされている。だから、複数の授業を連携させることはすでになされているわけだ。それなら、たとえば、二つの科目と一つの演習を同じ教員が担当し(演習はTAが実際に指導するとして)、それらを実質上一つの授業として行えば、ハーバードの一般教養と同じことができるわけである。これなら、現在の単位数の仕組みはそのままにし、2単位、1単位の細かい授業編成は並行して存続するままで、事実上4単位、5単位の授業をつくればいい。これならば、意欲ある教員がいて、大学側が複数の授業をその教員に任せることをすればいいので、それほど難しくないのではなかろうか。

リーディングと言語の問題

先週のエントリーで一つ問題にしたのは、日本の大学で授業する場合、リーディング・アサインメントの選択が限られていて、授業のデザインが困難になっていることだ。これの根源的な解決は二つしかあり得ない。一つは、必要なリーディングの素材がすべて日本語になっていること。しかし、現実にはいまのところこれはあり得ない。もう一つは、学生が英語を読めること、つまり、リーディング・アサインメントを英語で(あるいは英語と日本語の両方で)課することである。

これは一見無茶なようだが、やり方によっては実は現実的で、かつ効果的なのではなかろうか。いずれにせよ、学部生にとって英語の能力は重要だ。それなら、一般教養の授業で、実践的な英語の多読能力を身につけることはかなり良いことであるように思われる。すくなくとも、東大などの日本のトップ校で、一年次からやれば、十分可能ではないだろうか(学生が勉強時間を十分とれる、という前提で)。分量は多少減らしても良い。英語でも良いのならば、論文の選択肢もかなり広くなるので、書籍の代わりに論文をアサインすることも考えられる。そして、論文であれば、電子ジャーナルなど、学内で電子的にアクセスできるものを選べば、学生にとっても入手しやすいはずだ。

リーディングとライティングとディスカッションの基礎能力

ハーバードに限らず、アメリカの大学の多くの授業の一つの特徴は、リーディングとライティングの基礎能力にかなりの重点を置いている様に思われる。理工系の授業は別として、人文社会系の授業ではかなりの量のリーディング・アサインメントと、ターム・ペーパーや、かなりの長さの記述式の筆記試験による成績評価がなされている。その前提となっているのは、学生がそれらの授業を履修する前に、予めある程度のリーディングとライティングの能力を身につけていることである。

そのため、大学が基礎的なリーディングやライティングの能力のための授業や講習を実施している。ハーバードでは学部生は皆、Expository Writingのコースを履修しなければならない。*4そして、Writing Centerというものがあって、ライティングにかんして様々なサポートを受けることができる。*5ライティング・センターは大学院生も利用することができ、とくに私のような英語を母国語としない人間にとってはありがたい存在だった。しかも私がお世話になったこのセンターの職員は、同じくハーバードの科学史学科でPh.D.をとったひとだった。この時にはもう科学史の研究者はやっておらず、文章を指導することを専門にしているようだったが。

リーディングに関しては、Harvard Course in Reading and Study strategiesという講習がハーバードのBureau of Study Counsel(勉強に関する相談の部局)によって提供されている。*6これは単位になる授業ではなく、一般150ドル(ハーバードの学生・院生は25ドル)支払って受講する読書法についての講習会で、速読法を含む、読書を効果的に行うための様々なテクニックや習慣を教えるものである。これは非常に評判の高い講習で、私自身も受講した。英語を母国語とする学生向けなので、どれだけ効果があったのか疑問であるが。

このような仕組みは、日本でも可能であるはずであるばかりでなく、すでになされつつある。ライティング・センターをもつ大学としては、私がみつけただけでも早稲田、*7龍谷大学、*8津田塾大学、*9昭和女子大学*10などがあるようだ。これらの大学にはそれぞれそれなりにライティングについての授業もあると推測される。

また東大の文科で一年次に必修となっている基礎演習は、担当教員によって差があるとはいえ、文献の読み方、文章の書き方などの訓練を含むもので、これもリーディングやライティングの基礎能力をある程度、養うものと見ることができる。

もう一つ、日本で同じような授業をするときに、学生によっては決定的に欠けている可能性があるのは、ディスカッションの能力である。これについて、ハーバードの学部生は何か特別な授業をうけているようには思われない。これはおそらく高校生時代の教育から差があるのではないかと思われる。日本で大学教育において生産的な討論のための訓練がなされれば、非常によい効果をもたらすのではないだろうか。

一般教養の授業におけるきめ細かな指導・成績評価

リーディングやディスカッションやライティングの能力それ自体をターゲットにした授業や講習会は、理論を学んでその練習を行う、いわば「おままごと」に過ぎず、これらの能力を実践的に身につけるためには、本物の素材をつかった内容のあるリーディング、ライティング、ディスカッションを行うことが必要だ。これらはきちんと指導するには非常に時間がかかり、日本の一般教養科目でよくあるマスプロ的大教室の講義では可能ではなく、少人数制のきめ細かな指導が必要だ。

これには、二つ方法がありうる。一つは、先々週に書いたような、大人数の講義とTAによる少人数ディスカッション・セクションを組み合わせる方式、もう一つは、リベラル・アーツ・カレッジなどでなされている少人数の教養教育である。

TAによる一般教養の少人数指導

先々週のエントリーに書いたように、ハーバードではサンデルの授業のような大人数の講義と並行して、セクションとよばれる少人数のクラスがあって、それを大学院生などからなるTF(いわゆるTA)が担当している。それにより、リーディング、ディスカッション、ライティングにおけるきめ細かい指導と、厳密な成績評価が可能になる。

TAの雇用自体は、それほど難しくないはずだ。かりに学生ひとりにつき、1学期につき4つの授業に学生20名ひとりのTAが配置されるとする。TAには一学期一コマにつき60万支払うとしよう。すると学生一人あたり、年に24万円余分に必要である。これは授業料値上げとしては決して安くはないが、まったく非現実的でもない。全体の科目数が減れば、それによって節約できる金額もあるはずだ。そして、TAを行う院生(ないし修了生)としては、一学期2コマを担当し、一年で240万の収入を得ることになる。*11多くは無いが、おおよそ生活できる水準のはずである。

TAによる少人数指導には、メリットとデメリットがある。メリットとしては、教員の負担が減るので、教員が研究者として活躍できることだ。それによって教員は自分の研究に時間を使うことができ、かつそれを授業に反映させることが可能になる。教員としては、比較的望ましい仕組みなので、一流の研究者がそのようなポストを得ようとするし、よりすすんで授業を担当するようになる。同時に、大学院生の教育能力の訓練になり、かつ大学院生の生活を支える。大学院生にとっては他のパートタイムの仕事よりも、TAのほうが安定していて、しかも学内で行うことができて都合が良いはずだ。また、学部学生からすると、大学院生のような若手のほうがコミュニケーションしやすいかもしれない。また、全体としては、専任の教員を多数雇用するよりは、むしろ安上がりになるはずである。

他方、デメリットとしては、大学院生のTFによっては教育能力が低いこともありうることだ。これは大学の評判に係ることなので、大学としては気にせざるをえない。単にTAを配置するだけではだめだ。TAによる教育の水準を保障するためには、大学側にそれなりの対応が必要なのである。

TAに対するFDの必要性

ハーバードの場合、TFに採用された者向けに、教育のための講習やカウンセリングを行うことによって、TFによる教育の質の保証をしようとしている。それを行うのがDerek Bok Center for Teaching and Leanringという部署だ。*12これはTFだけではなく、教員も対象に、いわゆるFD、Faculty Developmentを行うセンターである。ここには、おそらく教育学か関係分野を修めたと思われる職員が配属されている。例えば私の場合、TFを始めた時期に、このセンターの職員一人を紹介されて、定期的に面会して、教授法についての指導を受けたり、実際に私の担当するディスカッション・セクションに出席してもらって、アドバイスをもらったりしていた。また、このセンターには、ビデオカメラのついた部屋があって、そこでディスカッション・セクションを実際に行い、そのビデオをこのセンターの職員と一緒に見て、教授法について批評してもらったりしたこともあった。自分の授業のビデオを撮って自分で(しかも他人と一緒に)見るというのは、非常に苦痛だが、教育法に関してはかなり効果的な訓練である。また別の授業では、毎週行うTFのミーティングにこのセンターの職員が毎回立ち会って参加するということもあった。それ以外には、様々な講習会・ワークショップがあり、たとえば一番成績評価の難しい、ペーパーについての指導や成績評価についての二日間にわたるワークショップに参加したこともある。

このセンターの職員は研究者ではなく、実際に授業を担当しているわけでもないので、研究者の卵である大学院生のTFとは色々と考え方が異なることも多く、私自身、彼ら彼女らのアドバイスに必ずしも納得したわけではなかったのだが、少なくとも第三者の意見を聞く機会は非常に有用だったといえる。

このような部署は、学部教育の水準を維持するばかりでなく、大学院生のキャリア教育の一環としてきわめて重要である。大学院生の全員が大学教員となるわけではないとしても、人文社会系の研究者を目指せば、大学教員以外のキャリアはあまりない。そのための準備を大学院生の頃からしていることは、就職においても重要な意味を持ちうるのである。

日本の大学においも、いわゆるFDのための部署は近年かなり増えていると思われる。例えば名古屋大学高等教育センターは、教授法についての様々なサポートをしている。*13なかでも、ティップス先生シリーズは、ネーミングはともかく内容は良くできていると思う。またここでは教員だけではなく、院生・PDを対象としたプログラムがあるのが素晴らしい。*14他には、大阪大学の大学教育実践センターのうち、「教育実践研究部」がFDを行っているようである。*15そして、やはりTAを対象とした研修を実施している。*16

これらの活動の現時点における実体については私はしらない。しかし、大学によっては、TAの教育の質を高めるためのインフラがまったくないわけではないことは確かであり、これらを強化することはそれほど非現実的ではないと思われる。

日本の大学の場合、こういう部署や先に述べたWriting Centerで教育のサポートを行うのは、教員身分の人であるようだ。ハーバードでは図書館職員と同様の専門職員という扱いであるようだ。このような単なる事務職員と異なる高度な能力をもったサポートスタッフの充実が職員の比率を高くしているのだろう。

リベラル・アーツ・カレッジ方式による一般教養教育

リベラル・アーツ・カレッジとは、アメリカにおける4年制学部教育の全寮制小規模エリート校であり、少人数制で教養科目を重視した教育を行う。これらの学校ではクラスが少人数であり、大学院生がいなかったり、ごく少数だったりするのが普通であるため、TAが一般に存在せず、プロフェッサー自らが講義だけではなく、少人数指導と採点を行う。ここでいうリベラル・アーツ・カレッジ方式による一般教養教育とは、このようなプロフェッサー自らがハーバードにおけるTFの役割を担う形態を想定している。実のところ、ハーバードでも、専門の授業では、プロフェッサーが講義とディスカッションセクションの両方を担当することは珍しくないので、両方の形態が排他的なわけではない。

このような教育のメリットは、しばしば長い経験をつんだ教員が教育のすべての面を担当することによって、高い教育の質が保証されることだ。そのため、ハーバードのような総合大学よりも、リベラル・アーツ・カレッジに子供を送りたがる親も少なくない。とくにリベラル・アーツ・カレッジは、語学教育に定評がある。ハーバードの場合、語学の授業などは、プロフェッサーによる講義がないため、すべての授業を大学院性がやっていたりする(教科書の選定や、授業のデザインは、プロフェッサーがやっていると思われるが)。人文系の大学院生はかなり長い間大学院生を(つまりTFも)やっていたりするので、教育能力が半端ではないことも珍しくなく、決して教育の質は悪くないと思う。ただ、それでも、ハーバードの学生、大学院生で、本気で語学を勉強する人は、バーモントにあるリベラル・アーツ・カレッジの名門ミドルベリーの夏期講習に参加する人が多いように思われた。*17

もしすべての授業においてこのような形態をとった場合、明らかなデメリットは、費用がかかりすぎることと、教員の負担が大きいことだ。ハーバードの学費は高いが、本当にアメリカの大学で高価なのはリベラル・アーツ・カレッジである。アメリカでもっと学費が高い大学はたしかヒラリー・クリントンが卒業したウェルズリー・カレッジだったと思う(今は違っているかもしれないが)。学費は寮の費用を含めて、年間で500万円ほどだそうだ。これはボストンの郊外にある女子大学で、私の友人の奥さんがここの教員だったので、彼らが住んでいたこの大学の教員用住居の一部屋に泊めてもらったことがある。中に湖をもつ広大で美しいキャンパスが印象的だった。キャンパスの面積は500エーカー、つまり202ヘクタールほど。日本で一番大きい単一キャンパスは筑波大キャンパスだそうで、257ヘクタールだそうだ。筑波大学の学生数は1万人近いが、ウェルズリーは学生が2300名しかおらず、クラスのサイズが17から20名という贅沢さである。*18

もうひとつのリベラル・アーツ・カレッジ方式のデメリットは、教員の教育負担が大きいことだ。今はハーバードの科学史の教授になっているキャサリン・パークは、前はラドクリフ・カレッジという、今はハーバードと併合された女子リベラル・アーツ・カレッジの教員だった。学生のペーパーの採点についてのワークショップで彼女から話を聞いたとき、ラドクリフ・カレッジで採点しなければならないペーパーの分量を聞いて、その量の多さに驚いたことがある(量は忘れたが)。そのため、パークは採点を効率化するために色々工夫をして、その話をしてもらったのだった。教員の教育負担が重いと、研究にさく時間が少なくなり、研究の最前線には立てなくなる。そのため、リベラル・アーツ・カレッジでは、語学などの基本的な能力や、各分野の基礎の教育には強みを発揮するのだが、先端的な研究、とくに実験装置の必要な自然科学の分野については、教員がフォローしていないことがありえ、勉強するためには大学院までまたなければならない。人文社会系では、それでもパークのように一流の研究者として生き延びる人もいるわけだが、あまり数は多くないだろう。リベラル・アーツ・カレッジの教員は、研究業績よりも、教育能力で評価されるので、それほど研究をする必要もないはずである。そして、ウェルズリーに代表されるような、郊外の素晴らしい環境とこじんまりとしたコミュニティは居心地がいいらしく、教えるのが好きな人はそれなりにこの種の職に満足しているようでもある。

サンデルの授業とはまったく別の形態だが、日本で、大規模大学において一般教養教育を実現することが難しいとしたら、リベラル・アーツ・カレッジのような形態が一つの方法だろうと思う。実際に、リベラル・アーツ・カレッジをモデルにした大学ないし学部は最近、日本にも現れはじめている。たとえば秋田県立の国際教養大学は、就職状況などから見る限り、かなりの成功を収めているように思われる。*19

高度教養教育

もうひとつ、日本の一般教養教育の少人数化で可能性があると思われるのは、いわゆる高度教養教育のうち、大学院における教養教育だ。高度教養教育は、「すでに専門性を身に付けた学生に専門以外に必要とされる知識や能力を与える教育」とされ、学部後期から大学院初期の学生を対象とした共通科目が想定されるらしい。*20

ここで考えるのはとくに大学院レベルの教養教育である。これは現在日本の大学院で広まりつつあるらしい。大綱化以後、教養部の解体によって学部教育が過度に専門化し、きわめて狭い知識や視野しかもたない学生が大学院を経て、研究者・大学教員になっていくという現状がある。これがかなり問題が大きいという認識が共有されてつつあるのだろう。

この高度教養教育は、ある意味、私自身が総研大で関わっている教育とも言えるので、具体的な例で説明することができる。ただし、総研大の例はかなり特殊であるかもしれない。

まず総研大では教養教育という表現を用いていない。これは日本の大学における劣化した教養教育と区別するためではないかと思われるし、現在の実施形態が教養教育の在り方と異なるからかもしれない。私の所属する先導科学研究科生命共生体進化学専攻では、二つの種類の大学院生を受け入れている。第一に、進化学を中心とした生命科学を研究する大学院生、第二に、「科学と社会」分野を研究する大学院生である。「科学と社会」分野というのは、科学技術史、科学技術社会論、科学社会学、科学人類学、科学コミュニケーション等、科学と社会の関わりを研究する諸分野を含む。そしてこの専攻では、どちらを専門とする院生も、他方の分野をある程度勉強しなければならない。とくに学位論文に加えて、「副論文」というものがあり、生命科学を専門とする院生は「科学と社会」分野について、「科学と社会」分野の院生は生命科学の分野で、10%のエフォートを用いて勉強・研究をして、文章にまとめて提出しなければ学位を取得できない。これは、生命科学を専門とする院生も、社会と科学の関係のことを知るのが望ましく、また「科学と社会」を専門とする学生は、実際の科学研究のことを知るべきだという考えに基づくものである。

そこで、生命科学を専門とする院生にとって、「科学と社会」分野での授業の履修と副論文のための研究・執筆が、事実上、高度教養教育となりうるわけだ。今のところ、この「科学と社会」の副論文が実施されているのは、生命共生体進化学専攻だけだが、総研大の他の専攻の5年一貫制博士課程の学生にも、この「科学と社会」を履修、とくにその副論文を履修することを可能にする制度的枠組みが検討されつつあり、もし実現されれば、これが総研大全学における高度教養教育のようなものになると思われる。

生命系、とくに実験系の研究者の場合、機会がなければ専門外のことをまるで知らないまま博士号取得に至る可能性がある。そこで大学院の始めに、科学史や科学技術社会論のような分野について学ぶことは、自らの研究の社会的位置づけを的確に把握し、社会にたいする説明責任を将来果たせるような研究者になるために、有効な教育たりうると思う。

しかし、これは高度教養教育一般の問題だと思われるが、大学院レベルで教養教育を行うことには様々な困難が伴う。総研大生命共生体進化学専攻の場合、上記のように生命科学系の院生が「科学と社会」に対して用いる時間は、10%としているが、大学院生の段階で10%でできることはかなり限定されており、リーディングやライティングを基礎から鍛えるような本格的な教養教育は必ずしも実現できない。総研大ではそもそも教養教育を名乗っていないので、それは当然だが、大学院レベルでは専門以外のことに院生が費やせる時間が限定されている以上、これは高度教養教育に関して一般的な問題であるはずだ。それでも、あまりに学部教育が専門化されてしまっている現状を多少とも改善するのに、それなりに大きな意義を持ちうると考えられる。

残された問題など

先週のエントリーとこのエントリーでの議論は、サンデルの授業のようなハーバードの一般教養の授業を日本で実現することが可能か、もし可能でないとしたら、同じような効果を日本の大学の中で実現するとしたらどうすればいいか、ということに関するものだった。ここでは、そもそもハーバードでなされているような一般教養の教育が、本当に望ましいのか、それが誰にとっての望ましいのか、いったいそのような教育は日本のどのような学生に適していて、どの程度の規模でなされるべきなのか、などの点については、問うことをしていなかった。これはこのような教養教育のコストをだれが負担するべきなのか、という問題とも関連している。

これらの問題に対しては簡単な答えはない。これはおそらく日本の社会が高等教育に何を求め、何を期待するか、という問題になるのだろう。

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