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Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-07-17

[][]東電原発事故と科学技術社会論科学史、問題の枠組みの試案

東日本大震災とそれに続いて起こった福島における東電原発事故は、これまで当然視されていた前提をいくつも覆し、見過ごされていた様々な問題を改めて暴きだした。日本にいる大多数の人たちはそれらの問題に関心を持たざるを得ないし、それはおそらく自然であると同時に、必要でさえもあるだろう。科学技術社会論(以下、STSと書く)とよばれる分野の人たちも例外ではない。現在の状況に直面し、何かをしなければという衝動を強く感じているこの分野人たちは少なくはないはずである。だが、それは一方で、機会に乗じて研究のネタを得て、名前を売る行為になってしまうべきでないし、他方で、多大の犠牲を払って得られた経験から教訓を学ぶ機会を逸し、その結果将来同じ過ちを犯すようなことをすべきではない。STSの分野は、その特色の一つである反省性(relfexivity)を生かして、一体どのような問いを問うべきなのかを批判的に検討すべきだと思う。何を問題として設定するか、そして、それらの問題にどのように優先順位をつけるか、ということ自体が極めて政治的な問題であり、そこにこそバイアスが入っても見過ごされる危険が大きいからだ。そして、そもそも、STSがこの種類の問題を扱うに適しているか、あるいは、そのような問題に取り組むことにどの程度の優先度が与えられるべきか、という点からして議論の中に含まれるべきなのである。

このエントリーでは、そのためのとっかかりとして、とりあえず問題の枠組みらしきものを考えてみる。

 そもそもなぜ、津波ではなく、原発問題なのか、という問題

そもそもなぜ、原発の問題をあたかも中心的な問題のように扱うのかについて弁明しなければならない。大勢の死者を出した原因は津波であり、避難民の問題は現在進行中の焦眉の問題であって、復興の議論も進められていかねばならない。原発に関する問題を過剰に強調することが、津波被害をめぐる問題から関心と注意を不当にひきよせてしまう危険性は否定できない。津波の問題は今回の震災に関連した課題だが、それ以外にもSTSの課題は多数あり、それらの課題の重要性が突然消滅したわけではないのである。震災前に重要だった問題の多くは、震災後にもやはり重要であるはずだ。

現時点において、なぜ、津波の問題がほぼ忘れさられ、原発の問題が声高に取り上げられているのか。それは、もちろんそれが現在生存しているより多くの日本人にとってより大きな問題だからである。とくに、首都圏の人間にとって、津波の被害はほぼ他人事だが、放射能はそうでない可能性がある以上、関心がかたよることになる。だが、その関心の偏りが、問題の重要性を反映しているという保証はない。それは視聴者数、発行部数、経済活動の、地方と中央の格差の反映であり、そしてその格差自体が、原発がその電力を使用する首都圏ではなく、首都圏から離れた地方にあって、地方の人が深刻な放射能の危険に曝されていることの根本的な原因でもある。

ようするに原発問題を扱うこと自体の妥当性も、不確かであるということ。そのことを認識しておく必要がある。ただ、それは、その妥当性が確かになるまで、何もしないで問題を取り組むのを遅らせるべき、ということを意味しない。ただ、あとで反省し、軌道修正しなけばならない可能性を意識しておくべきであり、また、他の問題にどう接近するかも考えておくべきだということである。地震津波に関して、STSが取り組むべき課題があることは間違いないのだが、とりあえず、ここでは原発の問題に集中することにしたい。

 課題として取り上げるべき理由は何なのか。

問題は二つだ。科学史科学技術社会論の専門家が、現在の日本の状況に対して、緊急になすべき、貢献できることがあるとしたら何なのか、ということ。もう一つは、現在の日本の状況を材料にして、将来のために、今、学問的な研究をしておくべきことがあるとしたら何なのか、ということ。

つまり、ここで前提されているのは、もし何らかの課題を取り上げるべきだとしたら、それは次の理由が考えられるということだ。

第一に、その課題を解くことが、現在ないし将来の問題に対して貢献する可能性があるということ。

第二に、その課題を解くことが、学問的に重要であって、かつ、現在の問題がその課題を研究する材料や機会を提供しているということ。

上に書いたように、現在日本に起こっていることを、日本の研究者が研究して、学問成果としてのこし、将来の役に立てることは、一つの責任であると言える。たが当然ながら、それは、第一の理由を犠牲にしてなされるべきではない。

 3つの課題群

現在の状況で、重要な問題は三つ、そしておそらくは三つしかない。

1)なぜ事故が起こったのか、あるいは、なぜそれを防ぐことができなかったのか明らかにすること。

2)事故に関して、現在、どのような問題が起こっており、それについて何ができるのか、ということ。

3)今回の事故の反省のもとに将来のありかたを考えること。

このうち、2)がもっとも緊急であることは間違いないのだが、2)が解決してから1)と3)を考えればよいというわけにはいかず、おそらく並行してこれらの3つを考えていかなければならないだろうと思う。

仮に、この三つが重要な問題だとしたら、これらに関して、STS・科学史は何か貢献できることがあるか。

 なぜ事故が起こったのか、あるいは、なぜそれを防ぐことができなかったのか

第一の問題、「なぜ事故が起こったのか、あるいは、なぜそれを防ぐことができなかったのか」は相対的には緊急度は低い。しかし、この問題は、次の二つの問題と関係している。現在起こっている問題の解決にも、将来のあり方を考えるに当たっても、なぜ事故が起こり、なぜそれを防ぐことができなかったのか、という問題は無関係ではないからだ。そして、おそらく私のような科学史の人間がもっとも貢献できるのは、この問題であるように思われる。

この問題にも、おそらくその射程に応じて、幾つかの種類を考えることができるだろう。一方で短期的に、「なぜ事故がおこり、なぜ防げなかったのか」という問題は、事故の検証の問題であり、これは公式な事故の検証が待たれるが、他方で、その検証自体を研究者の役割だろう。

長期的に、「なぜこのような事態に陥ったか」という問題は、主として科学史的な問題になると思われる。それは、背景として、どのようにして、日本で原子力産業が発展し、それが支持されてきたか、ということを含む。これについても、本格的な科学史的研究がなされた上で、現実の問題を考える上での材料が提供されなければならない。原子力の歴史は、日本の科学史のなかでは比較的よく研究されているテーマであるが、それでも、かけている部分は多く、「なぜこのような事態に陥ったのか」という問いに対する最終的な結論を出すには不十分であるように思われる。

 事故に関して、現在、どのような問題が起こっており、それについて何ができるのか

当然ながら、これがもっとも緊急の問題だ。もちろん、原発における事故自体について、つまり原子炉を冷却させることに関して、STSや科学史が貢献できることなどはありはしない。なので、これに関しては、基本的にやれることはあまり無いように思われる。

ただし、あらゆる事故にはつねに社会的な次元が存在する。例えば、放射線関係情報の伝達の問題、放射能危険区域の住民避難の問題、放射能汚染された食品の安全性・危険性の問題、原子力事故を起こした企業の責任・賠償の問題等は、現在進行中の問題であり、STSの研究課題、あるいはSTSが何らかの寄与ができる問題と捉えられるかもしれない。すくなくとも、これらの点に関して何が起こっているのかについて、STSの立場から分析することはある程度できるだろう。

ただ私自身は、上のような問題についの分析を行うことはできても、現在の日本のSTSがそれらの問題の解決に有意義に介入できる可能性については楽観的ではない。個別の問題に関して、現在のSTSの知見からどの程度の寄与ができるか、ということは個別に議論する必要があると思われるし、上記の問題のいくつかに有意義に貢献できる人も、すでに始めている人もおそらくいるだろう。ただ、現状の分析と、問題解決の提言を、実際に問題の解決に間に合うようにできるか、それが問題の解決に貢献できるような回路が開かれているかについては定かではない。現在進行中の問題を学問的に研究するのは容易ではなく、かつ問題解決の実践のためには、研究者とは別の能力をもつ人材が必要で、STSの研究者が必ずしも適しているとはかぎらない。

なので、緊急度の高い問題に関しては、あまり貢献する余地はないかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、現状で何が起こっているかについての分析や、問題解決についての提言を行うための情報収集は多分できるだろうし、状況に応じて、STSの研究者が発言すべき場面も多分出てくるだろう。いずれにせよ、現状で、緊急の問題に関して、何ができるか、ということは、常にオープン・クエスチョンであり、変化する状況に応じて常に考えていかなければならないのだろうと思う。

 今回の事故の反省のもとに将来のありかたを考えること

「今回の事故の反省のもとに将来のありかたを考えること」とはマクロには将来の社会のビジョンを考えることである。具体的には、例えば脱原発を目指すのか、そうだとすれば、それをどのような順序と段階を経てやるのか、というような問題であり、よりミクロには、もし仮に当面原発を稼働するのであれば、そのときの安全性を高める(安全性を確保する、つまり危険性をゼロにする、ということはあり得ない)ために、どのような組織をデザインすべきなのか、いずれにせよ当面は使用済み燃料や、閉鎖された原子炉から核廃棄物が発生することは間違いないので、それらの処分に関して、どのように社会的合意を達成することができるか、といった問題である。これらの問題はおそらくSTSや科学史プロパーの問題ではないと思われるが、それでも貢献できる余地は多分あるだろう。

エネルギー政策よりもより一般的な問題として、今回の事故を反省材料として、今後の市民・政府・企業・専門家の四者の関係の望ましいあり方を考えることもSTSの重要な課題と言えるだろう。今回の事故の問題はSTSの伝統的な枠組みである専門家対市民という単純な二項対立的な枠組みで問題を捉えることができない。市民とも専門家ともあきらかに立場のことなる政府と企業が主要なアクターとして入っている。その上で、専門家の果たすべき役割は何かということは、現在のSTSの主要問題の一つである専門家論とも交わる問題であると言える。また、その専門家には、STS自体の専門家も含まれる。そして、より小さいけれど、なされねばならない課題として、分野自体の、現在のあり方を反省して、今後のあり方について考える、ということがある。これらの問題は緊急度は低くても、重要な社会的意味をもつ、STSプロパーの問題であるように思われる。

 ともかく、やるべき研究も、準備しておくことも色々ありそうだ

現在の日本のSTSや科学史が、東電原発事故に関してできることを誇大宣伝するつもりはない。とくに緊急度高い問題に、直ちに問題解決に寄与することは、あまりできないかもしれないことを認めなければならない。どうじに、これだけ注目を集めている問題である以上、ほかにやっている人も大勢いるところで、わざわざSTSや科学史の研究者がそこに参加することはかならずしも有意義であるとはかぎらない。しかし、出来る範囲でやるべきこと、そしてそれなりの重要性をもつ事はおそらく、すくなからずあり、その中には、科学史やSTSの研究者こそ取り組むべきこともあるように思われる。それらの緊急度は相対的には低いかもしれないが、その相対的な緊急度の低さを自覚した上で、緊急の問題に対する注意や、資源を浪費しない範囲で、やるべきこと、できることをやっていくのであれば、それでよいのだと思う。

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