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Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-01-17

[]文化的合理性

次の本を院生と読みつつ、示唆的だったので、簡単にメモ。

Citizens, Experts, and the Environment: The Politics of Local Knowledge

Citizens, Experts, and the Environment: The Politics of Local Knowledge

この本は環境問題に関するSTSの理論的ないし教科書的な本で、環境問題についての考えるための様々な重要な考え方が極めて明晰に述べられている。他方で、empiricalな本ではなく、主張の実証的根拠に関しての出典の記述には不満がある。全体として、この人の主張にはかなり賛成なのだけれど。

このエントリーではここで述べられている技術的合理性と文化的合理性についてだけ紹介する。これはこの本の第二部のキーワードで、いろいろ最近起こっている事柄を考える上でも有用かもしれないと思いついたので。この本の133ページ以降を参照。まあ、言われてみれば、ごく当たり前のことかもしれない。

技術的合理性(technical rationality)とは、科学者や技術者等の専門家が言うところの合理性である。科学的な調査によって得られた実証的なデータに基づいて、妥当な推論によって導出された結論は、通常、この意味で合理的であると言えるだろう。いくつかの行動のオプションがあるとき、考えうる最善の知識を用いて、それぞれのオプションのコストやリスクとベネフィットを導出し、それに基づいて最善の行動を決定するのも、技術的合理性をみたすと考えられるだろう。技術的合理性に基づいて政策決定をする場合、当然そこで主役になるのは、科学者や技術者等の専門家になる。また、科学的・技術的な方法論を適用しやすい量的なデータを重視することになる。

技術的合理性に基づいた政策決定は一見もっともであるように見えるが、そこには問題がないわけではない。一般市民が政策決定に関わることが難しいので、専門家に決定をゆだねることになり、その分、市民が自ら決定できる範囲が狭まる。また専門家であることに起因するさまざまなバイアスによって誤ったり、自らの利益のために、社会にとっては最善でない選択をする可能性がないわけではない。さらに、量的なデータを重視することによって、質的にしかとらえられない側面を軽視する等、現時点での科学的方法論で扱うことが可能な面のみを強調してしまう危険があると言えるだろう。これらの事柄については、ここでは、あまり深入りしない。

それに対して、文化的合理性(cultural rationality)とは、一般市民が物事を判断するときに示す種類の合理性で、個人的経験、社会的関係性、共同体内の立場、リスクの発生する状況、意思決定がなされるプロセスなどに重点を置いた合理性である。これだけだと何のことだか不明だろう。例えば、リスクを考えるときに、技術的合理性の立場からは、リスクを数値化して評価し、その大小でリスク要因を避けたり、許容したりすることになるだろう。それに対して、文化的合理性の観点からすれば、そのリスクの大小よりも、リスク要因が自発的なものか、強制されたものか、危険の発生がすぐおこるのか、リスク要因が人工的なものか、自然のものか、関係する人達が知り合いか、見知らぬ他人か、誰がリスクをコントロールするのか、ベネフィットは見えやすいか、等々のことから判断を行う。

もう一つの例を。これはStuart Hillによるカリフォルニアの原子力発電所の立地問題についての研究から引かれているものだ*1。専門技術者や、原発側の人達は、電力供給や、税金上の恩恵を強調したのに対し、住民側は、安全性を焦点においた。そして、たまたまその原発の場所が断層の上だったこと、そして原発側の技術者たちが、それによる地震対策を十分にしていなかったことから、そこに関わった技術者たちについての社会的・政治的な問題が議論されることになった。つまり、そこで住民たちは、地震によるリスクがいくらぐらい、という問題を議論することはしないで、そのようなことを見落とす技術者についてのこと、例えば、彼らは本当に信用できるのか、等々という議論をしたのだろう。このようにして、住民たちは、自分たちが技術的な知識に欠けていて、技術的な合理性に基づいて判断できないことを、別の種類の合理性を用いることによって補い、それによって彼ら自身で、ある種合理的な判断を下す、というわけである。

こういう種類の判断は、我々が自分の専門外の事柄について日常的に行うことだ。そして、それは、それなりに合理的な、つまり理にかなった意思決定のしかたなのである。逆に言えば、技術的な合理性のみが唯一絶対の合理性なのではないということだ。

*1:Stuart Hill, Democratic Values and Technological Choices, Stanford: Stanford University Press, 1992. この本自体は、まだ入手していないので、以下の記述は孫引きである

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