Hatena::ブログ(Diary)

Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-04-13

[]Evan Selinger, Paul Thompson, and Harry Collins, "Catastrophe Ethics and Activist Speech: Reflections on Moral Norms Advocacy, and Technical Judgment," Metaphilosophy 42, 2011: 118-144.

この論文はアフリカにおけるGMOを事例に、それに反対する活動家に関する倫理的な議論に関して、哲学的・倫理学的な見地と、第三の波論に基づいた社会学的な見地にもとづく二つの理論的な考え方を提示し、それらの活動家に対する単純な倫理的断罪とは別の観点があることを指摘している。

著者らのいうカタストロフィー倫理とは、大惨事が起る可能性があるのなら、それが起らないように対策を取る責任があるというものである。例として、2008年のニューヨークタイムズのOp Edコラムで、ポール・クルーグマンが地球温暖化問題に関して述べていることを挙げている。地球温暖化が起るかどうかについては科学者の間での議論が決着していない。しかし、大惨事が起る可能性があるならば、それに対して対策を取るべきだ、とクルーグマンは主張しているという。*1

クルーグマンが地球温暖化を扱うのに対して、この論文で問題になっているのはアフリカにおける遺伝子組み換え食品のことである。著者たちのいう「専門家の中核集団」が遺伝子組み換え食物の安全性を言ったり、それがないことによる食料不足を指摘しているのに対して、グリーンピース等の環境運動や、その他の政治運動を行う国際NGO、あるいはヴァンダナ・シヴァのような運動家・知識人には、遺伝子組み換え作物の非安全性や、国際資本との関係から、遺伝子組み換え食物に反対する。それは当然にアフリカへの遺伝子組み換え食物の導入に反対することになる。しかし、それは食糧不足による大惨事を引き起こす可能性がある。したがって、カタストロフィー倫理の立場からすると、これらの活動家たちは、「専門家の中核集団」の見解に反して、カタストロフィーを起こしかねない自体を招いている(あるいはそのように政治家や公衆の意見を誘導している)点で、責任を問われる、としている。

この観点は、ロバート・ポールバーグの著書、Starved for Scienceに序文を寄稿している、ノーベル平和賞受賞である農学者ノーマン・ボーローグの主張から、著者らはボーローグ仮説と名付け、次のように定式化している:「もし農業バイオテクノロジーと遺伝子組み換え作物の開発に長期的には飢餓と欠乏を和らげる可能性があるとしたら、すくなくともそれらの技術がその目的に使われる限りは、人々はそれらの技術の使用を支持する道徳的義務がある。さらに、もし遺伝子組み換え作物に関して他の倫理的な懸念が存在しても、それがより切迫したものでないとしたら、この道徳的責任はそれらの懸念よりも優先する。」

これに対して、著者たちは二つの倫理的な観点を提示する。第一に、著者の一人、ポール・トンプソンは、遺伝子組み換え食物の問題に関して、それを支持する専門家が、ステークホルダーの反対を根拠ないものとして誤って提示し、あらゆる手段で排除すべき障碍としてのみ見なし、専門家としての権威に依存して、問題を証拠と議論から公に議論する機会を拒否するなど、専門家としての責任を果たしていないことを指摘する。そして、そのように専門家の側が、討議倫理を守らないのであれば、遺伝子組み換え作物に反対する活動家や団体、そしてそれによって説得された人々を非難するのは早計であるとする。

もう一つの立場は、著者の一人ハリー・コリンズの第三の波論の観点である。第三の波論では、SEE(Studies of Expertise and Experience)が提唱され、そこでは「政策決定者がすべきなのは、技術的助言を聞くときに、自分でも分からないこを喋る人間よりも、分かって喋る人間から聞くべきである」と主張されている。この観点からすると、適切な専門家に意見を聞くことは、政策決定者や、政策決定に関与するジャーナリスト等の責任である、とする。他方、専門家は、わざと間違えるような場合は別として、主流派も、反主流派も自由に発言してかまわない、とする。そこで、この観点からは、例えば、環境団体の専門家が、アフリカの政治的指導者を説得して、遺伝子組み換え作物を禁止させたとしても、その専門家のほうは倫理的な責任を問われるべきではない、ということになる。

著者たちは、この二つの見解のどちらかが正しいというわけではなく、今後の議論のためにこの二つの観点を提示するだけである。ただし、この二つのどちらの立場にしても、最初のカタストロフィー倫理の観点におけるように簡単に活動家を倫理的に問題視することはできないことになる、とする。

私がこの論文を読んだのは、現代の日本の状況を整理するのに何らかの助けになるかもしれないと思ったからだ。専門知とカタストロフィー倫理ということは、まさに今の状況で問題になりうることのように思われるのである。しかし、実のところ、これがどのように役に立つのかは、あまりさだかではない。現在の日本の状況は「専門家の中核集団」の信頼性自体がかなり正当な根拠をもって問題視されている。その意味で、コリンズの枠組みも当てはまりにくい。他方で、トンプソンの言うような専門家が討議倫理の要請を満たしていない状況は実際に存在する。だが、それが活動家への断罪を早計とするだけの議論であるならば、日本の状況を論じる上での意義が見にくい。

おそらく著者らの議論が私にとってものたりないのは、次の問題に、あまりにも簡単に次の問題に答えを出しているからだと思う:「遺伝子組み換え作物の導入によって、飢餓を和らげることができる可能性があると主流の専門家が言うのであれば、たとえ遺伝子組み換え作物に他の懸念、たとえば、安全性や、国際資本支配の問題があるとしても、遺伝子組み換え作物を導入すべきであるか。」別にこの主張に反対するわけではないし、この主張が正しい状況は十分想像できる。ただ、現在の日本の状況において直面する問題は、このような問題の定式化ができるようにも思えないのである。

たとえば、原発の再稼働に関して、起ると考えられるカタストロフィーに関して、異なる議論が存在しうる。明らかに原発事故という大災害が考えられるわけだが、他方で、経済的なカタストロフィーや、長期的な温暖化によるカタストロフィーを主張する人たちもいるわけである。そして、そのなかでこの問題に関する著者らがいうような「専門家の中核的グループ」、主流となる専門家がいったい誰なのかというのは、まったく明らかでないし、当然ながら、それらの専門家が討議倫理をはじめとした、種々の専門家としての責任を果たすこと自体に対して、根強い懐疑が存在している。「専門家の中核的グループ」という考え自体が、あまりにも楽観的に思えてしまうのだ。

はてなユーザーのみコメントできます。はてなへログインもしくは新規登録をおこなってください。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20120413/p1