2012-04-25
文学フリマ告知
告知 | |
http://kitchenstudio.jp/test/megane/
詳細は上のページにありますが、5人の執筆者がそれぞれ短編を書いています。
また、「メガネ」&「ボーイミーツガール」という縛りがあり、僕もその縛りの中で書いています。
しかし、一応縛りには準拠しているものの、戦前の文士ものを書いてしまいまして、明らかに浮いていると思われます。
また、何故かトリに配置されており、「最後にこんなもん読ませやがって」的な読者の怒りが僕に向かってくるのはどうしても避け難いのではないか。
プロットを通したのも、最後に配置したのも、全て編集人の武者小路穴圧(むしゃのこうじ・あなあつ)氏です。僕は悪くありません。
なお、彼はケツ圧が高いので病院の世話になっているらしい。
2012-01-23
ボットロ落とし
エッセイ | |
これ、僕は実に好きな作品集で、何度となく読み返したのだが、その中の「夜光虫」という一篇にボットロ落としに関する記述が出てくる。
ボットロ落としというのは要約すると「六角形円柱状の木製の缶詰のようなものをピラミッド上に積み上げ、ボールを投げてそれを崩す。崩した数によって景品が貰える。また、ボットロの崩れるガラガラという音が心地よい」という。射的と同じような避暑地などの遊びの一種であるようだ。
この「夜光虫」でのボットロ落としに関わるくだりが僕は殊の外好きで、見たことのないボットロ落としというものにずっと憧れを抱いていた。
*
昨年、妻と中国に旅行に行った。
ちょうどクリスマスの時期で、夜の町は大層な人出であった。
歩道から溢れ出した人が四車線の道路を塞ぎ、町の中心部は歩行者天国と化していた。
そして、その人波の仲に強引に場所を取って、ケバブや林檎*1やトウモロコシや雑貨を売る個人商人が商いをはじめる。
僕も妻もこの人ごみには閉口したが、その中で、なんと長年の憧れであったボットロ落としを見いだすことができた。
木製ではなく空き缶を用いてはいるが、紛れもなくそれはボットロ落としであった。
僕は興奮して、人ごみの中で「夜光虫」のボットロ落としのくだりがいかに素晴らしいか、そして自分がいかにそれに憧れていたかをまくしたてた。
妻は黙って聞いていたが、残念ながら、それは僕の積年の思いに感じ入っていたわけではなかった。
彼女の謂いて曰く。
「今でも熱海に行けば普通にあるよ」
*
熱海のボットロ落としはどうも、宗吉少年が遊んだのと同じ木製らしい。
是非、今年の夏は熱海に行ってボットロ落としに挑戦してみようと思う次第である。
それにしても、中国と日本で同じような遊びが行われていたわけだが、これはどちらが起源に近いのだろうか。
また、ボットロ落としの習慣はどのように分布しているのであるか。
もしも詳しい方がいらしたら、ご教授願いたし。
- 作者: 北杜夫
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2012-01-19
古書とロマン
エッセイ | |
このエッセイは、2011年の冬コミで頒布された『こしょぶ!?』の付録ペーパーに書いたものです。
今回、主催者の許可を得てここに掲載致します。
古書とロマン
寒河狷介
編集子より右のようなお題を与えられて、「二三〇〇字でコラムを書くように」というご下命があったので、煙草をふかし鼻毛を弄びながら三日ほど考えたのだが、あまり良い思いつきもなく時だけが徒に過ぎた。
時間の経過に従い、尻が痛くなってきたため小生は立ち上がり、動物園の熊の如く部屋を徘徊した。しかし、思いつかぬものは思いつかぬので、何となく昔を思い出しながら書き出してみようと思う。
*
はじめて古書を買ったのはいつのことであったか。
判然としないが、まだ新古書店というものがそこら中に出来る前のことであった。
恐らく最初期であろうと思うのが、小学校低学年の頃、叔父の住んでいた大阪は矢田の商店街にあった小さな街の古書店で『銀河鉄道999』の何巻だかを買ったという記憶である。八〇年代の終わり頃のことであろう。
矢田にはそれなりの頻度で行ったので、恐らくその後も何度かそこで買い物をした筈である。『大長編ドラえもん のび太の宇宙小戦争』を買ったのもそこだった気がするが、確信は持てない。
同じ頃に『白い戦士ヤマト』も古書で少しずつ集めていたが、この矢田の古書店で購入したかどうかも全く記憶にない。
店構えや店主の顔も思い出せない。しかし、漫画しか買いはしなかったが、この矢田の古書店を含めた体験が、後の私に強く影響を与えている。
シリーズ物の漫画の、まだ持っていない巻を見つけた時の歓び。あの感覚は今も古書店を覗く時に必ず意識する。
要するに、「掘り出し物は必ずある」という感覚である。
*
掘り出し物について説明しておくと、ここでいうそれは、所謂「古書市場での市場価値より格段に安く値付けされている本」というのとは違う。
むしろ「古書市場でさほどの価値はないとされているが、自分にとって輝きを放っている本」ということになる。
故に、しばしば古書店の店先にある「一冊五〇円」と書かれたようなワゴンからそれは見つかる。或いは、古本祭りのようなイベントで、地面に無造作に積まれた中になに食わぬ顔で潜んでいる。
思えば私はそういうものばかり探している気がする。
たとえば、大学の時分に下鴨神社の古本市で買った『芋』という本。大戦末期に出された本で、著者の芋への愛と当時の国策が悪魔合体した面白い本であった。すこぶる紙が悪く、購入した時には分解寸前で、帰宅したらもう分解していた。確か四〇〇円。
どこで購入したか忘れたが、河合雅雄氏の『少年動物誌』も印象深い。これも確か、五〇〇円よりは安かった。この本は内容や挿絵も素晴らしいのだが、前の持ち主が蔵書印を押して署名を施した上、購入日・読始日・読了日を書き込んでいた。
寒河少年は誕生日プレゼントに蔵書印をねだり、持っている本に片っ端から蔵書印を押して回った。後者もまねをしたが、買った本は殆どその日のうちに読んでしまうため、購入日・読始日・読了日が大抵同じであり、習慣として定着しなかった。
また、「まだ持っていない巻を見つけた時の歓び」の系統でいうと、私の少年時代には一昔前の作家になっていたが、好きでたまらなかった書き手──たとえば北杜夫さん(この人だけは「さん付け」にしたい)の未読の文庫本などをワゴンで発見したりすると、ものすごく興奮したものである。
立派な古書肆も勿論結構だと思うが、私にとってはスーパーの駐車場で粗末なテントとのぼりを出して、うらぶれた感じでやっているような古本市が最高の宝探しの場所であった。
高校時代、阪南の方のどこかのワゴン市で、なだいなだ氏の『しおれし花飾りのごとく』の文庫を五〇円で買った。北さんの本でなだ氏の名前は知っていたが、そんな小説を書いていたことなど知らなかった。しかし、読んでみると、なだ氏の若き日をモデルにした青春小説で、北さんをモデルにした「南」という奇矯なキャラクターが大活躍、もとい大暴れする。寒河少年は大いに感動した。
こういう体験を一度してしまうと、ワゴン漁りをやめることが難しくなる。
読者諸賢は、店先のワゴンを舐めるように吟味している中年男性を嗤ったりしない方がよいと思う。あなた方が明日からそうならぬという保証はどこにもないのである。
*
そして、ロマンについて。
たとえば隣町の古書店の店先に、ハードカバー版の『輝ける碧き空の下で』が揃いで積んであり、手持ちの金では足りないが、さりとて店主に取り置きを頼む勇気もない。次の小遣い日まで、時折店先を自転車で通過しては、まだ売れていないことを確認する──。
こういうのが、私にとってはロマンである。
一人の、並以下の古書好きにとってのロマン。
しかしこれだけでは結論には足りないだろうし、もう少し小題に近づけて考えてみよう。
いったい、古書を買うという行為は、新刊書を買うことに比べて実に個人的な行為である。
つまり、「売れている」という世評に流されたり、「話題についていくために」といった日常のコミュニケーション・ツールとしての役割は、基本的にはそこでは放棄されてしまっている。
そもそも、往々にして、同じかより進化した内容が、進歩した印刷術で鮮明に印刷され、こちらも進歩した製本術で美しく装われたものが全国の新刊書店で売られており、それらはさして高くないことも少なくない。
にもかかわらず、その類いの古書を飽きもせずに眺めている人種というのは、これはもう、土台機能的効率的ではない、ロマンチックな人種であると断じざるを得ない。稀覯本を追い求める人種よりも、ある意味たちが悪いと言えるのではなかろうか。
それは傍目から見れば、「なんだ、あんな汚い本ばかり買って」ということになるかも知れない。「市場価値の多寡」を問題にする古書人から見ても同様だろう。
が、ロマンとは往々にしてそういうものである。がらくたが光り輝いて見えるという病気、それがすなわちロマンである。
この病、罹患している人間は往々にしてとても幸福な気分になってしまい、病識がない。まことに厄介なことである。
2011-12-28
長かった一年が終わる
日常 | |
今年は本当に長く、色々と堪えることの多い一年だった。
総括という柄でもないし、そんなもんしたところで誰が読むねんという話なので書かないけど、実りよりも課題の方が圧倒的に多かった印象である。
まあ、積み残したあれこれは、追ってなんとかしていこうと思います。
そういえば、今日は昔からのこのダイアリーの読者で、今は作家として活躍しているある人とあって話していました。
年齢が近いこともあり、互いの問題意識が共通している部分があってなかなか面白かった。
最近は異様に忙しいのだが、やはり人には会わないといけない。仕事以外で積極的に機会を作っていくべきだと思う。
たとえば、飲み会なんかにのこのこ出かけていくヤツはろくでもないという考え方をする人もいるけど、僕はそういうのは非常に一面的というか、浅いなぁと思う。
『論語』でも引かれているけれども、『詩』の「衛風淇奧」に「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如く」とあり、まあ我々が言うところの「切磋琢磨」でありますけれども、これは学問や人格を磨くというだけでなく、仲間同士が励ましあって向上していくというニュアンスを多分に含んで通行してきました。
東アジアで少なくとも2500年に渡ってそういう風に使われてきたわけで、まあないがしろにしていいはずはない。
今年は色々あったけれども、家族や仲間がいたからこそやってこられた。
陳腐と笑う人もあるかも知れないが、来年も仲間と共に「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如く」の精神で自分を磨いていきたいと思う所存。
もちろん、「朽木」や「糞土之牆」にならないよう、自戒を込めつつ。
明日は宣伝でも書きます。
2011-12-21
冬コミでちらっと書きました
告知 | |
出版業界を裏から牛耳るいけさんのサークル・はらへ(http://lilting.ch/harahe)の新刊『こしょぶ2』の、ペーパーになんか短い文章を書きました。
編集の板倉氏より「古書とロマン」というお題をいただいて、エッセイ的なものを書いたのですが、正直他の皆さんはもっとラノベっぽいものとかを書かれていると思うので、きっと僕だけ浮いてると思うなー。
因みに、帰省してるのでコミケにはいませんw






