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研幾堂の日記

Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum,
ita desiderat anima mea ad te, "Veritas".

Noli foras ire, in te redi,
in interiore homine habitat veritas.

An invenisti, anima mea, quod quaerebas?

ΛΕΓΕ ΑΥΤΟΣ ΚΑΙ ΠΕΡΑΙΝΕ

ex magna luce in intellectu magna
consequuta est propensio in voluntate.

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財団出来ならぬ設立のこと、また・・・主としてその他
歴史的罪なるものを個人の意識レベルに位置付けてはならない
歴史と罪悪・・・、そしてそれへの謝罪なるものを・・・
自衛隊違憲、安保法案違憲、そんな違憲論よりもさ
 

2016-06-22 続き このエントリーを含むブックマーク

 また相変わらずに私には気持ちの悪いものもあって、それは自分理想とする民主主義のあり方に日本の政治が至っていない、またはそこから乖離していることにジリジリして、しかもその不完全さと乖離の原因を大衆の愚昧に見出してしまって、自分の見つけ出したと思い込んでいるこの原因にさらにイライラを募らせ、今回の都知事辞任に至るまでの動きをして、自分の不満と冷笑を口にする機会に使っていた発言である

 こういうことをしている者たちは、民主主義の理解性格付けを、その事柄についての認識を、しかも従来それに用いられて、それなりに適切に機能していた理解や認識を、おのずから疎かにし、杜撰なものにし、根幹を自ら崩し去る誤りを犯している。だがあるいは、自らの貧弱な知識と不十分な理解の当然の帰結として、既に疾うにその信念を捨て去っていて、彼にとってはもう誤りではないかもしれない。

 また言ってみれば、冷笑を冷静さと、シニカルな指摘を客観的な主張と思い違えているのであろうか。そうみなすとしても、私はそこにもまた気持ち悪い愚かしさを見るのであって、そういう人たちがそれらしく唱える政治的なあり方のほとんどが、民主主義政治でこそ肯定され、価値あるとされるものばかりなのである。

 そうなると彼らは、自ら望むものが、一体、どこに出現すると思っているのであろうか。また、誰によって生み出されていくと思っているのであろうか。愚劣な大衆とは別の、どこかの誰かによって、彼らの思う民主政治の良さがもたらされた時、この価値あるものが与えられるにお前たちはふさわしくないんだぞ、とでも言うのだろうか。しかも、彼ら自身が大衆のために成就させたわけでもないのに、まるで自分たちの手柄かのように、それをありがたがれ、そして俺たちを尊べとでも言うのであろうか。


 この気色悪い態度を政治的シニシズムとでも名付けるとして、それの日本的な特徴は、シニカルさがあまり前面に出ない形で告げられることが多いところにある。例えばそれは、問題解決が十二分に行われなかったという点を指摘する形になるのであるが、今回の都知事辞任のケースであれば、公金の公私混同使用の詳細が解明されずに終わった、お金がかかり、時期も悪い選挙が行われることになってしまった、適切な候補者を選ぶ時間が与えられなくなってしまった等々と言われる。

 こうした指摘をする者たちは、それが政治的見識であるかのように、あるいは政治的熟慮の教えるところのように告げるけれども、それが見識であり熟慮であると彼らに思える土台には、かような事態の推移をもたらさなかった見識なく熟慮なき大衆が据え置かれている。愚劣な民衆が感情的世論でもって、性急な結論を求めさえしなかったならば、望ましく有益な冷静な対応がありえたのに、と彼らは考えているのである。

 今日自称リベラルなる立場の者たちの政治的シニシズムは、言って見れば戦後民主主義進歩的知識人以来の心理産物であって、知識と信念の無い指導者がままよく見せるものである。擬えればそれは、少年野球の俄かコーチ親父であり、逃れられず担当している部活顧問教師であり、プロ野球で事情あってコーチ職で拾ってもらった元プレーヤーであり、もし信念があるといえば結果や成績を大事に思うところだけで、それを求めてやまないような者たちである。

 ・・・この喩えから、ちょっと興に乗ってまだ書き連ねたものあるが、割愛


 話をこんなところからやり直そう。私自身もまた舛添要一都知事に一刻も早くやめてもらいたいと思っていた。そう思っていた人がかなり多かったことも良かったと思っている。そしてこれを単に感情的なと言われたら、そうではないと思っている。

 舛添要一前都知事の公金私用は、全くの私用に当てられていたという点で、これまで疑問視されてきたようなものと違っている。ここで全くの私用という時、本当に全くの私用であって、購入したものや消費内容全てが舛添要一個人あるいは彼の家族のためであった。何らかの意味政治家としての地位確保にプラスになるというところも全くない、純然たる私用であり、私的満足のためのものであった。

 「せこい」という日本語外国周りで入ってきて、今回の都知事問題では何度か聞かれた。そしてこの言葉が、私も含め私たちの多くが舛添要一に対して感ずるところをよく表すことでもって、都知事辞任要求は感情的な判断であったと見なされている。しかし、その言葉がしっくりするのは、ただの感情からではない。

 公金を規定にかなった正当な使用から少し外れたところで用いるとき、私たち日本人が大なり小なり疑問を持ち出すことがあるとしても、しかしどこかまた許容できるし、許容してしまう使い方を、舛添要一前都知事がしていなかったのが、「せこい」と私たちが感じる理由なのである。

 もう一度言うが、これは単なる感情ではない。厳格な公金使用と全くの私用との間には、曖昧領域があるし、それはかなり広い幅を持っている。その幅の中で、ある流用は許されるが、しかしどこかでそこから先の支出不適切であるとする区切りを、私たちは明示的ではないが持っている。いわば書かれざるコードとして有している。

 それは社会的とも、文化的とも形容できるコードであり、定義されない倫理観であり、法律にまでならない規律であり、またそれは、それによって私たちが社会生活を構築し、私たちが互いの関係やそれぞれの地位やを維持しているものであって、それに従ってそれから外れない限り、私たちが社会の一員であるところのものである。

 上の「またそれは」以下は、話が仰々しくなるので、書かれざるコードというところに限っていくが、舛添要一はこの見えざるコードを破ったことで、私たちの多くから離職を求められたのである。このような判断が多くの人から示されたのを、私はとても良かったと思っている。そして、このことの他には今回の全経緯から、私たちの政治についてくみ取るべきものは一つもない。


 最初週刊誌報道から、当初の都知事の受け答え、次々と報じられていく公私混同、都議会でのやり取り、その間のテレビでの扱い、アンケートで辞任すべきとの回答が90パーセント以上であり続けたこと、辞職表明の一夜のゴタゴタ・・・、これらに日本政治に通底する問題性を取り出せると多くの人は思っているようであるが、私の受け止めは全く違う。

 今回の出来事は、極めて特殊な、むしろ孤立的なケースと言うべきものである。まず舛添要一の特異なキャラクターが主原因である。次に彼の政治活動履歴がもたらした、決して主流とは言えないし、オーソドックスなものでも全然ない、彼の特殊なポジションもまた大きく関与している。この二点より、通常のコンテキストにおいて、日本政治全体の文脈につなげて読み取り得るものでは全くない。

 その証明として、あんな奴を引き出して、担ぎ上げたという縁でミソをつけた以外、どこの誰も深刻な政治的ダメージを受けていないことを見れば十分である。


 似たような話題で、さらに続く

2016-06-19 財団出来ならぬ設立のこと、また・・・主としてその他 このエントリーを含むブックマーク

 一般財団法人を設立しようという話が私の身の回りで持ち上がり、私もそれに深く関わることになり、爾来足掛け二年ようやくに諸種の手続きがひと段落し、なんとか出立することになった。世慣れぬ私が実務担当となったものから、何にも彼にも要領が悪く時間ばかりとられて、最近までこの日記に何かを書きつけることが出来ないでいた。そろそろ落ち着いてきたので、また何かれと書いてみようと思う。


 この財団のことや、どんな事業を行うかや、目的理念は如何といったことはいずれ記すことになろうから今日は別のことを。


 さて、あの都知事が辞任した。ことの経緯は周知であろうし、あの知事について批評を下しても何の面白いこともない。しかし、辞任に至らしめたマスコミネットの動きについて反自民アンチ安倍立場から与えられる分析批判は、私には随分と注意に値するものに感じられる。

 それらにあっては、辞表が提出された日が近づくにつれて、いわば「やりすぎている」という観点からの立論がちらほらと増えていって、辞任の直前直後ではどうも半数以上が、そして最近では大半と言って良いか、そうした論調のものになっている。

 大づかみに「やりすぎ」と記したのを詳しく言い直すなら、あるものは公私混同で流用された額の小ささに比して非難が「やりすぎている」と言い、あるものは政治にまつわる金の問題としてより深刻なものを差し置いて「やりすぎている」とし、あるものはテレビ視聴者やネットの書き込みなどからして一般大衆感情が「やりすぎている」・・・言葉を変えよう、感情に走りすぎていると指摘していて、しかもその多くがつけたりに、日本の民主主義の欠点ポピュリズム懸念を言わんとするものとなっている。

 これらのどこが注意に値するかと言えば、一つはポイントがズレているのを気づかないでいるところがであり、一つは政治一般に平素抱いている不満を表明しているだけのところがであり、一つはそれを言うならもっと前に言うべきであるのにあのケースで初めて口にし始めたところがである。

 なぜにこれらに注目するかと言えば、出来している現象の分析になっておらず、それ故に、何らの指針も与えるものでもないのに、当人分別に富んだことを言えていると満足げな顔付きをしていて、この様子がまさしくこの数年の日本の政治批評全般の主要な特徴となっているからである。

 この注目理由について話を広げる前に、注目点について少し丁寧に述べることにしよう。


 さて、これら注目点とするところが私の関心となるのは、こうした論評の題材は都知事の公私混同問題であったり、メディアやネットでのバッシング(の苛烈さ)なのだが、それを分析したり批評したりするときに、反自民アンチ安倍の問題関心が随所に漏れ出ていて、そして畢竟は、反自民アンチ安倍の視点を読者にも持たせようと意図しているものとなっているからである。

 政治問題、あるいは一般に関心の高い政治的トピックを、自己の政治的立場からの主張を訴えるのに利用するのは、当然と言えば当然、自然と言えば自然のことであるし、そうした機会や題材なくして、何時何を以って発言すれば良いのかと言うこともできる。

 ではありながら、今取り上げている事例でもそうであるが、およそこの数年間の場合も、問題やトピックそれ自体の分析や批評に仮託して、自己の視線、自己の価値観、そこからする解決、それに準じた施策に対して、他の人々の理解同意を得ることこそを目指した論評をものすることが、あまりにも度が「すぎている」と私は思うのである。

 過ぎているばかりではない。抱懐する意図の方が主眼となっていて、対象そのものの分析や批評がまるで体を成さぬ・・・、いや見かけはよくしていて・・・。

 書直そう。政治的現象や事件の分析や性格付け、人々のそれへの態度の批評や評価付けにあって、私の感ずるところを率直に言えば、彼らは対象となる現象や傾向を深く追求することがなく、もしオリジナル見解であろうとすれば、ここでこそ必要であるところの関心の貫徹を行わない。

 その代わりに、事象の一般に受容された受け止め方をそのままに用いていて、それ故に、一面的で、表層的で、通念的で、イメージ通りの、ステレオタイプ的の、レッテル的の・・・、つまりは誰もが言うところを、そのままに繰り返すばかりとなっている。関心の在りどころからして、対象の認識へと力が注がれないのである。

 そうして熱が入るのは、主題についての認識や理解の形成以前に常々抱いている見解が、どれだけ説得力あるものかを示そうとするところにある。また彼らのトピック選択基準もそこにあるとも言えて、このケースは常々俺の問題とするところが、まさしく問題として理解されるのに丁度良いと思えば、それを取り上げて論うのである。


 こうしたことも自然と言えば自然のこと、当たり前と言えば当たり前のこと、我々の心の動きはそうしたものだと言われれば、確かにおっしゃる通り。


 だがその時多くの場合、話題となっているのを受けて、その話題振りのままに、それが問題だと一般に指摘されているままに取り上げる。その題材が何故に問題なのかを改めて述べることは少ないのである。

 しかも、問題意識の表出の機会とすることによって、しかもその表明にこそ重点を置くことによって、当の主題の事柄の問題自体が、その事柄の理解や性格付けが、その事柄についての認識が、しかも従来それに用いられて、それなりに適切に機能していた理解や認識が、いつの間にか疎かになり、杜撰になり、根幹が忘れられ、そうして時には否定されてしまうことになっている。

 このことを、都知事辞任への動きを批評して、反自民アンチ安倍の立場の者たちから発せられる論評が良く示してくれている。反自民アンチ安倍の彼らは都知事問題を論評しつつ、読者の視線を都知事の問題から反自民アンチ安倍的な方向へと向かわせ、安倍自民党政権をこそ問題物であると意識させようとするのだが、そのことで都知事辞任が何が問題であったが故にかを曖昧にするばかりか、彼らの従来の政治批判の視点と論点とを自ら否定してしまっているのである。

 この視点とは、政治とカネという文句で従来言われていたものである。反自民アンチ安倍をこそ訴えたい者たちは、都知事による金銭支出の公私混同を問題としてとりあえず踏まえつつも、政治とカネで問題視された他の政治家のことを言及する。その時に、今回の都知事のことよりも、付加的に言及した者のことをより重視すべきものと述べる。だがそういう軽重を比較する述べ方が、彼らの立場の故に、一方はさして問題でなく、他方こそ問題であると言わんばかりのものになる。

 加えて他の政治家たちへと目を向けない一般大衆の関心のあり方を批判する。それを反自民アンチ安倍の問題意識を植え付けるか、強固にせんがためと受け止めても良いが、しかし、その熱意は行き過ぎたものであって、今回の都知事の政治とカネのことはさしたる問題ではないのだとまで口にし始める。あるいは大衆政治意識への批判心が抑えられないのか、今回の都知事の公私混同的な公金の使い方に大衆の関心が向かうのは、あの程度の端た金こそ奴ら大衆はリアルに感じるのであって、数億数十億と桁を違えていくレベルになるとピンとこないのだとまで言い出す。

 どちらにせよ、こんな言い方をしてしまえば、今回の都知事の政治とカネの問題がぼやけたものとなり、問題性の薄れたものになるし、まさにそれが故にまた、従来の政治とカネの問題自体もぼやけていって、そのどこが問題なのか理解されないものにしてしまうであろう。今回の都知事のこの程度の公金の使い方ですら問題なのであるから、ましてやより大きなお金の使い方が問題となるのだと、素直に展開するものの言い方をしないならば、政治とカネの問題がそれとして理解されることなどないであろう。


 政治とカネというポイントからの論評の中には、私からしてみれば不愉快さを感じるものがあって、それは政治とカネという視点で政治家を追い詰めていくやり方自体を否定するものがあったことである。こんな風に辞めさせていったら、と何か政治的賢さのように口にしているものが幾人かあった。不愉快なのは、政治とカネという決まり文句でこの十数年騒ぎ続けてきたくせに、今になって、そしてあの都知事のためには、それを疑問視するのか、と私は思うからである。

 メディアはその文句で煽り立てて何人もの政治家を追いやり、また日本の政治はどうしようもないものだと言いつのり、いわゆる政治不信を人々に醸成し、政治への嫌悪感を育て上げ、政治家への軽蔑を強めていった。それであるのに今更になって、しかもあんな都知事のためにか、政治とカネというポイントではどうかとそれを引っ込めるのは、どんなまともな理由あってのことなのであろうか。

 どんな理屈もつけようはなく、こちらから与えうる理由は、ただ一つ、今ならアンチ安倍だろうが、これまでの反自民反権力といったすぐにも様になる、しかしたんなるアンチの姿勢自分が持っていると他人に見せるのに、それを持ち出すのが一番簡単に格好がついたから、それを口にしてきたのだというものだけである。


 また相変わらずに私には気持ちの悪いものもあって・・・続く

2015-10-04 歴史的罪なるものを個人の意識レベルに位置付けてはならない このエントリーを含むブックマーク

 しばらく間が空いたが、前回の続きである・・・その前回のもの、読み返すと何かと足らぬところばかりで多々不満があり、あちこち書き直したいが・・・。ともかく、前回の轍を踏まぬよう、今回は一つのことにだけ集中しよう。

 その一つは表題に表したことであって、これを面倒な書き方に陥らぬよう注意しながら説明的に述べ表すと、何十年も前の戦争で日本軍が犯した犯罪残酷行為などなどについて、個人の良心において己が罪悪を認めるがごとくに、歴史的罪なるものとして意識するようなことはしてはならない、ということである。

 ・・・そうする必要もないと述べることも目指したいし、前回のはその準備のつもりであったが、それがどうもまだ私の頭の中では整理しきれていないようで、また不満の残ることになりそうだから、今回はそこまでを目指さない。目指すのは、そんなことをするなという一点である。


 今の我々が我々自身の行為について、また今の我々の社会の中での諸々の行為について、それを罪悪として認識したり判断したりするとき、我々はそうした認識や判断の根拠となることども、例えばそれは良心でもあろうし、倫理観でもあろうし、より素朴な感情でもあろうし、また何か明確な意識態度であろうが、これらの何かに基づいて罪悪の認識を行う。これら根拠として働くものは、さらに、もし何らかの罪悪が自らの犯したものであるならば、いわゆる謝罪反省に勉めることを自らの課題とも義務ともすべきことを教える。

 こうした認識や判断、そして贖罪的な自覚は、今の我々各人が生きてきた中で形成し構築するものであり、またそこにしか起源を持たない。この生きてきたところなるものに特記すべきものがあるとすれば、その起源的な場には今共に生きる人々が含まれていることである。

 これはすなわち、我々各人が自分がそこに属している(と意識される)社会のことである。各人の意識は、共に生きる他の人々によって、あるいはそれらを通じて、またそこに生きる社会によって、あるいはそれらを通じて形成され、構築されるものであると言うこともできる。

 この構成にあたって、個人と社会とはいわば相関して関わっていて、社会的に形成された罪悪概念や罪悪感情といったものと、個人がそれとして持つものとは、互いに互いの土台ともなり、互いに互いを変化させる原因として働くものでもある。

 相互に契機となって、今の我々各人の自己理解が深められ、今そこに生きている社会理解が持たれていくが、この相並んで営まれる理解は今そこにある現実(として捉えられているもの)に即して展開される。そしてそこから外れないし、外れてはならない。

 と言うのも、自己自身や人間、社会や文化といったことどもの現にある通りのその姿(として把握されるもの)に定位しないでいるならば、言い換えれば、実在的でない非現実の自己や人間、空想的で仮構的な社会像に自己理解および社会意識の構成を導かせるならば、我々は実際はどこにも存在しない人間になろうとし、どんなにしても成立しない社会を目指していくことになってしまうからである。


 前回からの話題に関して言えば、歴史的な罪なるものをして、自己理解の進展や社会像の展開を導かせることは、もしその歴史認識なるものが現実認識たるものとして十全なものである場合以外は、(このことが不可能であることを示してみたいと前回は目指していたつもりなのであるが・・・)その非現実性の程度に応じて、実在しない人間、出現しない社会を目指させるものになってしまう。


 悪や罪に関して、我々銘々が持つところの、すなわち自己意識的な理解も、社会的に共通(的なものとなるよう目指され、その結果)共有される理解も、今の我々の現実認識及び実在的姿として妥当とされところ、せめて常識的な通念となっているところから作り上げられていくべきである(し、そうした仕方以外の構築は不可能であると私は思っている)。


 そうした土台からでなく、例えば歴史といった(、あるいは社会学等でもそうしたきらいがあるが、)再構成されたものを土台とすることがおかしなことであるのは先に述べたが、前回からの話題たる歴史的罪、歴史的反省、そして歴史認識なるものを政治的要求のために重視し、政治的主張の根拠に意義付け、そして政治的理念、それどころか社会的指導理念あるいは価値観として位置付ける議論にあっては、問題がまた別の仕方で現れている。

 その議論では、悪や犯罪の内容、あるいは概念をまず以て措定し、繰り返すがしかもそれを我々の現有の自己理解や社会像とは全然に別のところから作り出して、そしてそれを絶対的に固定して出発点として、我々が自ら作り上げ、また作り上げられて有している自己理解や社会像を改変するように働かせるし、そうすることにその議論の意義があるとするところである。

 しかし、客観的な歴史認識の所産だといくら言われるものであっても、かような断定的に措定された過去なるものをして現在の現実を認識し理解することは、現在の経験からは与えられないものによって、現在の経験を意味付けていこうとすることであって、一般に観念的とも虚構的とも言うべきものである以上に、それが悪なるものを基軸とするものであることで、一種のカルト宗教的な意識変容を生じさせる働きをするものとなってしまっている。

 すなわち、戦争時の日本人はかように残虐で悪なるものであったと言いながら、今の日本人はかように残虐なものであると言うのに移り、戦争時の日本国侵略的で野心的で軍国主義的な国であったと言いながら、今の日本国はそうした国であると言うのに移り、そして今の我々がそんな日本人にならないように、またそんな日本国ではないようにと言いながら、次のことが肝心な問題点である、そうしながら我々が有しているし、これまで積み重ねて作り上げてきた自己理解と社会像とを、全く別のものに作り変えようとするのは、これまた次のことが最も忌むべきところである、人をして罪や悪の意識を肥大化させ、彼に自己否定や現実からの逃避を生じさせて、その否定したものの代わりに、教祖・教団の教理を彼の心に植えつけ、避けるべき悪世界から逃げ込むべき幸福で善なる世界であるぞと、教祖・教団のための生き方に隷従させる、かようなカルト的性格を十二分に帯持っているのである。


 だから私は、歴史的罪だとか、歴史的反省だとかいったことを、個人の意識レベルのこととして受け止めるなんて、絶対に、してはならないと言うのである。

 

 ・・・とりあえず一つことはこれで言ったことになろうか。他にも言いたいことや、書いてみようかと思うことはあるが、整理の悪いものになりそうだからここで終わり。


 Mac の新しい OS をインストールした。日本語変換も新しい方式のものになった。入力するそばから自動漢字へと変換されていくのに、最初は戸惑ったが、まだ少し慣れただけだけれども、意外と文章を作りやすくなった気がする。辞書ソフトに、ドイツ語英語フランス語―英語のものが加わっていて、これはまあ正直言って簡略なものに思うが、それでもあればあったでありがたい。メモソフトの刷新は、確かに使い出があるものになっている。画面を分割してのウィンドウ表示とやらは、今のところはまだ、何に良いんだか分からない。最後に、私はよく再起動するのだが、以前のバージョンの時よりも、時間がかかるようになったと感じる。・・・と、感想を書き付けて終わり。

 

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久しぶりに
サヨウナラ サヨク
2015-05-03
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前回までの続きも書けず、今年は終わる
選挙だ、ということで久しぶりに少し書いてみる 三
選挙だ、ということで久しぶりに少し書いてみる 二
選挙だ、ということで久しぶりに少し書いてみる
2014-10-14
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なんと言うか、ぶっ飛びすぎてて・・
安保法制懇報告書を読みながら 三
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自衛権は政府見解によって構成されたもの
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2014-03-03
Q と A の会話
細川候補の為に共産党候補に身を引くことを求めて Q & A 五
600426