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研幾堂の日記

Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum,
ita desiderat anima mea ad te, "Veritas".

Noli foras ire, in te redi,
in interiore homine habitat veritas.

An invenisti, anima mea, quod quaerebas?

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朝日新聞も改憲マニアになったようで
議会、政党、議会政治、民主主義を作らせない言説 三
議会、政党、議会政治、民主主義を作らせない言説 二
議会、政党、議会政治、民主主義を作らせない言説 一
2012-04-26
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2012-02-16 官僚抜きの立場でなく、第二官僚の立場

 ブログの記事で、「官僚抜きをめぐる二つの立場について」と題されたものを読んだ。記事は内閣府所属の「障がい者制度改革推進本部」に参加した人によるもので、その内容のおおよそは、その「本部」から提出された提言、それを巡る厚労省の姿勢等々を経ての提言の顛末、それはつまり筆者を始めとする参加した人達努力の成り行きについて、参加者の一人として論評したものである

 それを読んでの私の興味は、この「本部」のような政府所属の機関審議会委員会、諮問会議、その他第三者機関的なもの)で、法案や制度の構想検討に、広く言って政治的意志形成に協力する立場の人達の政治意識(政治理解)が、非常に明瞭に読み取れるところにあった。

 ところで、こうした政府が主宰し、運営し、事務上も統括される会議への参加者達は、学者専門家有識者市民団体といった様々な人々であるが、以下、こうした人達をひとまとめに有識者、時には知識人と言うことにする。知識人という言葉について、それはどうも適切で無いと感じるむきもあろうが、日本で言う知識人とは、彼らのような役割をする者のことを実際は意味しているのである。

 そして私の感想としては、その記事の筆者の示す諸々の考え方は、特殊なものではなく、代表的な実例とみなし得ると思うから、次のように言うのだが、かつて権力的手段と暴力的手段と共に用いて、日本政治の中から政党が押し出され、議会が押し潰されて以来、この国の有識者・知識人が、政党や政治家代議士)やを、今なおかくも明瞭に拒絶し、排斥し、否定するものであると示されて、嘆きに近い気分を覚える。

 またこれと並んで、私の抱いた感慨は次のものである、すなわち、天皇制国家での統治理解よりする、あるいは国家主義的統治理解よりする政府権能を実現するものとして諸制度が確立されて以降、日本政治には民主的傾向も、それに準じての制度運営も消え去ったままであるし、またそれの成長の条件も貧弱なままにある中で、そもその成長の芽すらも摘み取られる中で、それでも彼ら有識者・知識人は、自分達は民主政治的な意思形成の担い手であると自己理解してもいれば、また、政府直下組織され運営され、彼らにその地位と活動を与える制度を、民主主義的政治プロセスでのそれと理解しているという、この途方もない誤解から彼らは如何にして解き放たれるのだろうか・・・。そうして私は、深く深く沈み沈み考え込まされてしまった。

 政府(及び各省庁)の主宰運営する第三者的機関(審議会、委員会、その他)が、国政で果たし得る役割を教えてくれるのは、原子力政策の為に設置された諸々のものに、一番顕著に見ることが出来る。それらは、第三者的な有識者・知識人を集めた機関の欠点限界も、そして弊害も、全てを明らかにしてくれている。金融であろうが、福祉であろうが、教育であろうが、如何なる政策にあっても、有識者・知識人を集めた(一見官庁の)外部的な意思形成機関の性格は、原子力政策でのとまったく同様・同質のものであり、そしてもし、いずれかの政策で失敗が明らかとなれば、その原因に大きく関与しているのが暴かれることになろう。更に、その失敗も害悪も明らかなのに、原子力政策の諸方向が硬直的に継続されていくのが、原子力政策のための有識者・知識人の会議を有力な一手段とすることによっていて、政策の転換など我々にはどうすることも出来ない防御壁となっているように、各種の政策・制度の為の第三者機関も日本政府の守り手として機能するであろう。

 それでも、原子力のような共犯的協力を権力に対してするのは、あくまで異例なことであり、例えば心がけとか良心があれば、あんなことはしない、かように原子力政策以外の第三者機関の参加者達は、またこうした制度に無批判な人達は、思い込み続けているのであろうけれども、こうした想像は、大きくは次の二点より、まったく的外れなものである。第一に、第三者機関は、天皇制官僚の政府の意志実現の為の制度・装置として設置されるものであって、この目的に即した役割しか果たせない。第二に、この第三者機関に参加する者達は、いわゆる知識人としての自己理解からして、天皇制官僚政府に実質的にも、結果的にも協力することにならざるを得ない。

 第一のことは、今回これを書く切っ掛けに成ったブログの記事で、福祉のための提言が、厚労省からはまったく無視されたという事例でもって、説明にかえてしまおう。その事実は、第三者機関から提起されたものが、官僚の意志や意図にそぐわなければ、官僚はそれを顧みないし、そうすることが可能であるということを告げているものである。そしてこの無視が、例えばあの記事のように参加者からの批判という形を除いては、(また例えばあの記事筆者の見解に賛同する者による批判を除いては、)政治的に有意味な批判を加えられないのは、(民主党批判は、このような批判とはなっていないし、なり得ない。)現在の日本政治で唯一正当なプロセスは、官僚の裁量、判断、取捨による意思形成プロセスであって、この仕組みの中に、第三者機関も位置しているからである。

 ところで、政治主導という言葉は、これに代わる政治意志形成プロセスを目してのものであるから、また民主党が多数派になったという政治的事実が、この理念に幾らかの現実的意味をプラスしたから、その幾らかの程度であるけれども、ようやく我々は官僚に由る意思形成プロセスへの批判が出来るのであり、話題としている元記事も、そこに由来して批判性を帯びている。だから、あの記事では最後の箇所で、民主党をあらゆる点で批判せよ、すなわち否定せよなどと言っているが、こんことをしてしまったら、あの記事にあるようやくの批判性の根拠を、自ら捨て去ってしまうようなものである。だが有識者・知識人は、自らの政府批判の根源は、別のところにある、かように信じているかもしれない。政治主導などというものを持ち出さなくても、自分達には、十二分な政府批判、政策批判の地盤、地平、根拠を備えていると考えているかもしれない。しかし、そんなものは存在しないのである。これが上の第二の点で述べようと思うことである。

 さて、有識者・知識人と書いて、政治制度を議論するにその必要も無いし、どこか場違いな観もある「知識人」という言葉を添えて来たのは、天皇制官僚政府が、自らの意思形成の特殊な手段として、(また自己の政策に一種の正当性を備えさせたり、国民にそれの意義を浸透させたり、あるいはそれに賛同させたりする手段として、)今日の第三者機関の如きものを持つようになった経緯に、知識人が深く関わっているからである。これの歴史的事例は、大政翼賛会の形成に関わった昭和研究会の知識人によく見られる(その中でも、一番の好例は、三木清である)。

 知識人、あるいはその昔の言い方で知識階級なるものは、マンハイムが「ナチス台頭当時における自由主義の最後的主張」(蝋山政道)として、つまりある特殊な情勢下で自由主義の(僅かな)可能性を見出さんとして言い出したものである。これが戦前の日本に受け入れられたとき、全体社会奉仕者という解釈が与えられた。ところがその日本では、全体社会と言えば、天皇制国家のことが表象されていたから、知識人の任務とされるものを意識した人々は、結局は、天皇制国家の奉仕者という役回りを、大なり小なり演じてしまったのである。そしてこのことは過去のことでは無い。それ以来、日本の知識人とは、こういう役回りを意識してか無意識にか果たし続けている。

 その役回りとはどんなものか、手軽に書いてしまえば、まず知識人の任務とは、次のよう言われる、すなわち国政に於いて、党派的、私利的、主観感情的、非合理的なものを少なくするか、あるいは取り除くかし、それに替えて、中立、公平、客観合理性といった性格を、政府そのものに、あるいは政府の政策に備えさせる、というものである。さてそれで、このような知識人の任務が、天皇制官僚政府のもとでは、政府に協力するという役回りになってしまうのは何故か。これも簡単に書けば、天皇制国家にあっては、国家の善意志は、天皇を基軸にして、政府に結実されていると考えられ、それ故に、知識人がその任務として目指しているところの、中立、公平、客観、合理性といったものどもは、既に先んじて、何らかの形で、天皇制官僚政府に備わっているとも考えられていて、これの通じ合いを批判的に捉えていないと、知識人が自らの任務に努めれば努めるほどに、その努力は、天皇制官僚政府と同じ方向で、同じものを目指してのものとなり、とどのつまりは、天皇制官僚政府に協力するということになってしまうからである。

 さてしかし、知識人がそれを目指すし、あるいはそれに立脚している(それに基づいていてこそ知識人である)ところの、中立、公平、客観、合理性は、天皇制官僚政府に通じ合うことなく、知識人それぞれで持たれているものがある、このように想定することも可能であろう。ところで、このような想定で話が済むのは、知識人の議論が現実の政治的意志形成に参加していない場合であり、もしこのプロセスに参加して現実政治の一要素となるならば、次のことを加味して考えねばならない。すなわち、政治的権力を実現的に構成している諸々の政治勢力に必須のもの、すなわち大小・強弱ある権力構成的力、あるいは地位を持たなければ、政治的意志形成のプロセスの一ファクターとは全然ならない、というものである。

 が、知識階級がこれを有するとなれば、理論上、概念上、知識人というものではあり得ない。政治的諸勢力の一つであることと、中立、公平、客観といったこととは、決して両立するものではないからである。つまり彼らは、彼らの目指す者であろうとする限り、彼らが目指す者には、決して成れない。政治から党派性イデオロギー性の偏向を取り除こうとしても、政治の現実的構成要素であるかぎり、彼らはその偏向を新たに付加するものとなっていく。日本でもこのようなことになる筈であったが、知識人達はそういう風にならないですんでしまった。と言うのも、先の役回りのことと重なるが、知識人が、中立公平客観的な性格を、自己意識の上でも、どこまでも帯び続けていると思えるのを可能にしたのが、天皇制国家の理念であったからである。もし天皇制国家の理念で納得しなければ、戦後に言われた文化国家の理念、あるいは平和主義国家の理念でもよい。まだ抵抗あるならば、国家主義とか絶対概念としての国家といった国家観でもよい。

 とにかくも、これらに依拠することで、知識人達は、イデオロギー的、党派的偏向の無いポジションというものに腰を下ろしていられると思ったのであるが、ところでしかし、それらの理念を現実政治上支えているものがあって、それは天皇制官僚政府であり、それ故に結局彼らは、天皇制官僚政府の権力に依拠しながら、政治的見解に於いて、自分達は不偏不党で、中立、公平、客観、合理的であるという姿勢を保つことが出来るのである。同じことだが、天皇制官僚政府の権力に依拠することで、知識人達は、党派的、私利的、主観感情的、非合理的でなく、政治に関係している(政治を考えている)ものと自らを思うことが出来るのである。もし疑わしければ、知識人達の不偏不党で、中立、公平、客観、合理的とするものが、現在の官僚政府の諸政策と同じであるか、それと調和するところにしかないのを確認すればよい。また、官僚政府の志向から外れたものが、しばしば歪みと言われることを、それから外れること大きければ大きいほどに、党派的、私利的、主観感情的、非合理的と言われるようになるのを見ればよい。

 さてそうして、この善悪(中立か偏向か、客観か主観か等々)の基準は、そのままに官僚政府の主宰運営する第三者機関で、知識人・有識者を集めて結論として提出させるものを律している。今回のもとの話題の記事で言えば、記事筆者の主観はいかあれども、提言自体の内容が、党派的か、感情的か、とにかく非合理的なものであるから、官僚政府は無視したのである。もとより、かかる判定は専ら官僚のすることである、言い換えて、官僚政府の有するところの、あるいは官僚政府がそれと見なすところの中立、公平、その他合理性に基づいて言われるものである。

 更に、知識人達が、彼らの中できわめて危うく保つところの中立から合理性までの根拠に由って、自らの見解は採用されるべきであるのに、無視されている(実現されない)のを問題視して、是非ともにその実現を目指したとして、もう一回、知識人の抱くある固有の意見の実現を目指したとして、知識人の立場にいる限り、あるいはその意識のままに第三者機関のメンバーでいる限り、彼らは決してそれに成功しない。何故ならな、まず彼らは政治権力の構成要素たらんとしていないからであり、次に第三者機関には、如何なる権力的構成的権能も備わっていないからである。そして、第三者機関で知識人達が提案したもの、賛同したもの、その他何らかの見解が取られるか否か、官僚政府の採用するものとなるかどうかは、ひとえに官僚政府の持つ権能・権限による。念押しに、この権限・権能に越える力を、第三者機関は持っていないし、また知識人の立場も持っていない。

 そうして、言ってみれば、知識人達、有識者達、あるいは元に戻して列記して、学者、専門家、有識者、業界代表、市民団体、運動家等々の集まった会議は、如何なるものであれ、官僚政府の意思形成にとっては従属的であり、決して主導するものと成り得ない。そして、従属的であることから、むしろ協力的、加担的なものにしか成らない。この意味で、これら学者、専門家、有識者、業界代表、市民団体、運動家等々の者達は、いわば第二の官僚の如きとも言える。官僚抜きどころか、彼らは官僚を必要としている存在であり、また彼ら自身が官僚の影の如きものなのである。

 このことの証明ほどでもないが、記事中に記されていたものを並記しよう、すなわちそれは、自分達の提言への努力(議論)が、マス・メディアでもって記事になって告知されていたならば、国民多数の支持応援が得られた筈なのにと、記事にしなかったメディアの怠慢を批判する箇所であるが、ここにまた読まれるのは、もしメディアが宣伝していたら、一般国民は自分達を支持賛同して当然である、自分達への大衆の協賛は疑いないものである、疑われたり、批判されたり、ましてや否定されたりする訳が無い、かような自信、正義的意識、あるいは国民に対する指導者たる意識、かようなものを筆者が持っているということである。そしてこれは、官僚一般が持っている驕慢な自負心と根っこで同じものである。

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2012-04-26
人権と市民権を吸収する公務員
ルソーの社会契約論から 九
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ウグイスの鳴きかけ
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九条と自衛隊 一
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彼らは一体なんでああなのか?
Kovach, Rosenstiel ”The Elements of Journalism” から
Tom Bingham ”The Rule of Law” から
昭和六年の小惑星エロス接近
政権者は議会に協力的代議士を作り出す
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「政権交代とは何であったのか」岩波新書からする話のつづき
山口二郎北大教授の〈政権交代〉はいかがわしい
2012-01-25
「愚者の反帝国主義」の記事を読んで
便宜的理念と、皮相的合理化で、均衡に落着する日本政治
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