平家物語

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平家物語

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平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。

保元の乱平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。

目次 [非表示]
1 概要
1.1 成り立ち
1.2 作者
2 諸本
2.1 語り本系
2.1.1 平曲
2.2 刊行本
2.3 読み本系
3 構成
4 関連項目
4.1 史料
4.2 古典
4.3 能
4.4 幸若舞
4.5 浄瑠璃・歌舞伎
4.6 近代の関連作品
4.7 その他
5 外部リンク

概要 [編集]
成り立ち [編集]
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。

正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、「治承物語」が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、延慶2年(1309年)以前には成立していたものと考えられている。

作者 [編集]
作者については古来多くの説がある。最古のものは吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の音楽家に教えて語らせたと記されている。

後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)

その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。

この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。尚、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、徒然草では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。

そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。

諸本 [編集]
現存している諸本としては、以下の二つがある。

盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝承してきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの
読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のもの
語り本系 [編集]
語り本系は八坂系と一方系とに分けられる。

八坂系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、一方系諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院による念仏三昧の後日談や侍女の悲恋の物語である「灌頂巻」を特立する。

平曲 [編集]
語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことであるが、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも平家物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的にはまったく別のもので、これらを平曲とは呼ばない。

平曲の流派としては当初は八坂流(伝承者は「城」の字を継承)と一方流(伝承者は「一」の字を継承)の2流が存したが、八坂流は早くに衰え、現在ではわずかに「訪月(つきみ)」の一句が伝えられているのみである。一方流は江戸時代に前田流と波多野流に分かれたが、波多野流は当初からふるわず、前田流のみ栄えた。安永5年(1776年)には名人と謳われた荻野検校(荻野知一検校)が前田流譜本を集大成して「平家正節(へいけまぶし)」を完成、以後同書が前田流の定本となった。

明治維新後は幕府の庇護を離れた当道座が解体したために伝承する者も激減し、昭和期には仙台に館山甲午(1894年生〜1989年没)、名古屋に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけだったが平成20年現在では三品検校の弟子今井某が生存しているだけである。しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。現在では国の重要無形文化財として指定されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。

平曲の発生として、東大寺大仏殿の開眼供養の盲目僧まで遡ることが「日本芸能史」等で説かれているが、平曲の音階・譜割から、天台宗大原流の声明の影響下に発生したものと考える説が妥当と判断される。また、平曲は娯楽目的ではなく、鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。 また後世の音楽、芸能に取り入れられていることも多く、ことに能(修羅物)には平家物語に取材した演目が多い。

刊行本 [編集]
現在入手しやすい版本としては、各全2巻で『日本古典文学大系岩波書店 (覚一本系・龍谷大学図書館蔵本)、『日本古典文学全集』小学館、『新日本古典文学大系岩波書店があり、のちに全4巻で岩波文庫と同ワイド版が刊行している。

また『完訳日本の古典』全4巻 小学館(覚一本系・高野本)、『新潮日本古典集成』全3巻 新潮社(仮名百二十句本国立国会図書館本)などがある。

読み本系 [編集]
読み本系には、延慶本、長門本源平盛衰記などの諸本がある。従来は、琵琶法師によって広められた語り本系を読み物として見せるために加筆されていったと解釈されてきたが、近年は読み本系(ことに延慶本)の方が語り本系よりも古態を存するという見解の方が有力となってきている。とはいえ、読み本系の方が語り本系に比べて事実を正確に伝えているかどうかは別の問題である。

広本系と略本系の関係についても、先後関係は諸説あって不明のままであるが、読み本系の中では略本系が語り本と最も近い関係にあることは、源平闘諍録の本文中に平曲の曲節に相当する「中音」「初重」が記されていることからも確実視されている。

構成 [編集]
※12巻本、灌頂巻が独立している語り本系の構成を掲載する。

巻第一
祇園精舎、殿上闇討、鱸、禿髪、我身栄花、祗王、二代后、額打論、清水寺炎上、東宮立、殿下乗合、鹿谷、俊寛沙汰、願立、御輿振、内裏炎上
巻第二
座主流、一行阿闍梨之沙汰、西光被斬、小教訓、少将乞請、教訓状、烽火之沙汰、大納言流罪、阿古屋之松、大納言死去、徳大寺之沙汰、堂衆合戦、山門滅亡、善光寺炎上、康頼祝言、卒都婆流、蘇武
巻第三
赦文、足摺、御産、公卿揃、大塔建立、頼豪、少将都帰、有王、僧都死去、辻風、医師問答、無文、燈炉之沙汰、金渡、法印問答、大臣流罪、行隆之沙汰、法皇被流、城南之離宮
巻第四
厳島御幸、還御、源氏揃、鼬之沙汰、信連、競、山門牒状、南都牒状、永僉議、大衆揃、橋合戦、宮御最期、若宮出家、通乗之沙汰、ぬえ、三井寺炎上
巻第五
都遷、月見、物怪之沙汰、早馬、朝敵揃、咸陽宮、文覚荒行、勧進帳、文覚被流、福原院宣富士川、五節之沙汰、都帰、奈良炎上
巻第六
新院崩御、紅葉、葵前、小督、廻文、飛脚到来、入道死去、築島、慈心房、祗園女御、嗄声、横田河原合戦
巻第七
清水冠者、北国下向、竹生島詣、火打合戦、願書、倶梨迦羅落、篠原合戦、実盛、玄肪、木曾山門牒状、返牒、平家山門連署主上都落、惟盛都落、聖主臨幸、忠度都落、経正都落、青山之沙汰、一門都落、福原落
巻第八
山門御幸、名虎、緒環、太宰府落、征夷将軍院宣、猫間、水島合戦、瀬尾最後、室山、鼓判官法住寺合戦
巻第九
生ずきの沙汰、宇治川先陣、河原合戦、木曾最期、樋口被討罰、六ヶ度軍、三草勢揃、三草合戦、老馬、一二之懸、二度之懸、坂落、越中、前司最期、忠度最期、重衡生捕、敦盛最期、知章最期、落足、小宰相身投
巻第十
首渡、内裏女房、八島院宣、請文、戒文、海道下、千手前、横笛、高野巻、惟盛出家、熊野参詣、惟盛入水、三日平氏、藤戸、大嘗会之沙汰
巻第十一
逆櫓、勝浦、嗣信最期、那須与一、弓流、志度合戦、鶏合 壇浦合戦、遠矢、先帝身投、能登殿最期、内侍所都入、剣、一門大路渡、鏡、文之沙汰、副将被斬、腰越、大臣殿被斬、重衡被斬
巻第十二
地震、紺掻之沙汰、平大納言被流、土佐房被斬、判官都落、吉田大納言沙汰、六代、泊瀬六代、六代被斬
灌頂巻
女院出家、大原入、大原御幸、六道之沙汰、女院死去
関連項目 [編集]
史料 [編集]
吾妻鏡』 - 鎌倉幕府編纂の歴史書平家物語と同時期の出来事を描く。
玉葉』 - 同時代の大臣である九条兼実の日記。
愚管抄』 - 兼実の弟で天台宗の僧である慈円による史書
古典 [編集]
源平盛衰記』 - 平家物語の一異本。
『源平闘諍録』 - 平家物語の一異本。
保元物語』 - 平家物語以前の出来事を描いている。
平治物語』 - 同上。
義経記』 - 義経の伝説を描く。落ちのびる描写が中心。
能 [編集]
『敦盛』
『小督』
『忠度』
『巴』
船弁慶
『橋弁慶』
『景清』
俊寛
幸若舞 [編集]
『敦盛』
浄瑠璃・歌舞伎 [編集]
義経千本桜』
『一谷嫩軍記』
『平家女護島』(俊寛
近代の関連作品 [編集]
小説
耳なし芳一』 小泉八雲(「怪談」所蔵)
『新・平家物語』 吉川英治
『宮尾本 平家物語』 宮尾登美子
『双調平家物語 』 橋本治
吉村昭平家物語』 吉村昭
平家物語』 光瀬龍
戯曲
子午線の祀り』 木下順二
平家物語』  キノトール
TVドラマ
『新・平家物語』(1972年NHK大河ドラマ 原作 :吉川英治『新・平家物語』)
『人形歴史スペクタクル 平家物語』(1993年 - 1995年NHK人形劇 原作:吉川英治『新・平家物語』)
義経』(2005年NHK大河ドラマ 原作:宮尾登美子『宮尾本平家物語』ほか)
映画
『新・平家物語』(1955年大映)原作:吉川英治 監督:溝口健二 主演:市川雷蔵 久我美子 木暮実千代
『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年大映)原作:吉川英治 監督:衣笠貞之助 主演:長谷川一夫 京マチ子 山本富士子 高峰秀子 大河内傳次郎
『新・平家物語 静と義経』(1956年大映)原作:吉川英治 監督:島耕二 主演:淡島千景 菅原謙二 香川京子
漫画
平家物語』(マンガ日本の古典、横山光輝
絵本
『かえるの平家ものがたり』(文:日野十成、絵:斉藤隆夫) - 平家はカエル、源氏はネコとして表現されている)
テレビゲーム
源平討魔伝(1986年、ナムコ
源平合戦 (1994年、光栄)
遙かなる時空の中で3(2004~2006年、光栄)
DVD
原典『平家物語』(2007年~、ハゴロモ
その他 [編集]
全国平家会
外部リンク [編集]
ウィキメディア・コモンズには、平家物語に関連するカテゴリがあります。ウィキクォート平家物語に関する引用句集があります。平家物語協会
日本文学電子図書館
平家物語
平家物語全文現代語訳
朗読平家物語
原典「平家物語」を聴く会
明星大学所蔵『平家物語』絵本
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E」より作成
カテゴリ: 軍記物語 | 13世紀の書籍 | 日本の伝統音楽 | 仏教文学 | 平家 | 治承・寿永の乱を題材とした作品

更新 2010年2月10日 (水) 02:27

獄中生活  堺利彦

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獄中生活
堺利彦



   一 監獄は今が入り時

 寒川鼠骨君には「新囚人」の著がある。田岡嶺雲君には「下獄記」の著がある。文筆の人が監獄に入れば、必ずやおみやげ[#「おみやげ」に傍点]として一篇の文章を書く例である。予もまた何か書かずにいられぬ。
 監獄は今が入り時という四月の二十一日午後一時、予は諸同人に送られて東京控訴院検事局に出頭した。一人の書記は予を導いてかの大建築の最下層に至った。薄暗い細い廊下の入口で見送りの諸君に別れ、予はひとり奥の一間に入れられた。この奥の一間には鉄柵の扉がついていて、中には両便のために小桶が二つおいてあるなど、すでに多少の獄味を示している。あとで聞けばこれが仮監というのであった。ここに待たされること一二時間の後、予は泥棒氏、[#「、」は底本では脱落]詐欺氏、賭博氏、放火氏などとともに、目かくし窓の狭くるしい馬車に乗せられた。乗せられたというよりは、むしろ豚のごとくに詰込まれた。手錠をはめられなんだだけがせめてものことであった。
 ほどなく馬車は警視庁の門に入った。「お帰り!」「旦那のお帰り!」などと呼ぶ奴がある。「今に奥様が迎えに出るよ」などとサモ気楽げな奴もある。警視庁でまた二時間ばかり待たされて、夕飯の弁当を自費で食った。ここでは巡査達も打解けて「なぜ別に署名人をこしらえておかなかったのです」というのもあれば「そんなことをしないところが社会党じゃないか」というものもある。そんなことから暫くそこに社会主義の研究が開かれて盛に質問応答をやったのは愉快であった。

   二 東京監獄

 それからまた同じ馬車に乗せられて(今度は巡査氏の厚意によってややらくな席に乗せられた)東京監獄に着いたのはちょうど夕暮で、それから種々薄気味の悪き身体検査、所持品検査等のあった後、夜具と膳椀とを渡されてある監房に入れられた。
 監房は四畳半の一室で、チャンと畳が敷いてある。高い天井には電灯がともされている。室の一隅にはあだかも炉を切ったごとき便所がある。他の一隅には小さな三角形の板張りがあって、土瓶、小桶などが置いてある。こりゃなかなかしゃれたものだと予は思うた。その夜はそのままフロックコートの丸寝をやった。
 二十一日の朝、糒《ほしいい》のような挽割飯を二口三口食うたばかりでまた取調所に引出され、午前十時頃でもあったろうか、十五六人のものどもと一しょに二台の馬車に乗せられて、今度は巣鴨監獄へと送られた。
 ここでチョット監獄署の種類別を説明しておかねばならぬ。まず東京監獄が未決監、市ガ谷監獄が初犯再犯などを入れるところ、巣鴨監獄が三犯以上の監獄人種および重罪犯などを入れるところの由。それから予らのごとき軽禁錮囚、および何か特別の扱いをうける分は、みな巣鴨に送られるのである。ついでに書いておくが女囚は八王子におかれ、未丁年囚は川越におかれる。

   三 巣鴨監獄

 巣鴨監獄に着いて、サアいよいよ奈落の底に落ちて来たのだと思うと、あまり気味がよくない。
 まず玄関のような一室で素裸にせられて、それから次の室で、「口を開けい」「両手をあげい」「四ん這いになれい」などという命令の下に身体検査をうけて、そこで着物と帯と手拭と褌とを渡される。いずれも柿色染であるが、手拭と褌とは縦に濃淡の染分けになって、多少の美をなしているからおかしい。着物は綿入の筒袖で、衿に白布が縫いつけられて、それに番号が書いてある。この白布は後に金札に改められた。堺利彦はこれより千九百九十号というものになり了った。
 この前後に姓名、年齢、原籍、罪名等について、それはそれは繁雑きわまる取調べがあった。薩摩なまり、東北なまり、茨城弁など、数多の看守が立ちかわり入れかわり、同じようなことを幾度となく聞きただしては手帳につけて行く。その混雑の有様、面白くもあれば、おかしくもある。中には「いつつかまった」と問うから、「つかまったことはありません」と答えると、不思議そうな顔をして解しかねているのもある。すべてが泥棒扱いだから堪らない。
 褌、靴下、風呂敷、ハンケチ、銀貨入りの小袋、ボロボロの股引など、それはそれは明細なことで、人の頭の一つや二つぐらい平気で擲るくせに、事いやしくも財物に関するときは、一毫の微一塵の細といえども、決して決して疎略にはせぬのである。財産神聖の観念はずいぶん深くしみこんだものだ。瘤の一つ二つや血の二三滴より、葉書一枚、手拭一筋の方が余程彼等には重大に感ぜられると見える。
 それから柿色の鼻緒のついた庭下駄をはかせられて外に出ると、「そこにシャガンで待ってろ」という命令が下る。暫く待っていると、今度は「立て」「進め」という命令が下る。二足三足進むと、「待て待て、帯の結びようが違う」と叱られる。謹んで承たまわるに、帯は蜻蛉に結んでそしてその輪の方を左に向けるのだとのこと。ヤットそれを直してまた行きかかると、「オイオイ手を振ってはイカン」とまた叱りつけられる。諸君試みにやってごらんなさい、手を少しも振らせずに歩くのは非常に困難なものであります。
 行くこと半町ばかりにして、赤煉瓦の横長い建物の正面の入口に来た。鉄柵の扉に錠がおろしてある。サア来た、いよいよこれだなと思うていると、「新入が十五名」と呼びながら外の看守が我々同勢を内の看守に引渡した。我々は跣足になって鉄扉の中に入った。中はズウット長い石畳の廊下で、冷やりとした薄気味の悪い風がソヨリと吹く。「そこに坐る」といわれたのですぐ前を見ると、廊下の片側に薄い俎のようなものが幾つも並べてあって、その上に金椀だの木槽だのがおいてある。よく見れば杓子も茶碗もある。いうまでもなくこれが御膳部であるのだ。そして人の坐るところには、襤褸でこしらえた莚のようなものがズット敷きわたしてある。そこで十五名一列になって膳の前に坐ると、そこに突立っている看守から「礼!」という号令がかかる。それで一礼して箸をとる。予は僅に二箸三箸をつけたのみで、ほとんど何ものをも食い得なんだ。また、「礼!」という号令の下に一礼して立ちあがると、今度は右側の室の鉄の戸を開けて七八人ずつ入れられた。

   四 巣鴨監獄の構造

 ここでチョット巣鴨監獄の大体の構造を説明しておかねばならぬ。
 まず正面の突当りが事務所で、その左右に南監と北監とがある。両監とも手の指を拡げたような形になって五個ずつの監に分れている。すなわち合計十監あって、その一監が、二十幾房かに分れている。それから遙か後ろの方に、七個の工場が並んで立っている。そのほかには、病監、炊所(附、浴場)、洗濯工場などがアチコチに立っている。そしてそれらの建物の間には、綺麗な芝原だの、運動場だのいろいろの畑だのがつくられている。 さて、この監獄が日本第一たるはいうまでもなく、世界中でも何番目という完美を極めたものだそうな。さすが日本はエライもので、監獄までが欧米に劣らぬほど繁昌するのだ。それはともあれ、今の正上典獄というのは、いわゆる文明流のやり方で、この日本第一の監獄に着々として改良を試みているとのこと。

   五 初日、二日目、教誨師

 予の入れられたのは北監の第六監で、最初の日は懲役七八年の恐ろしい男どもと一しょに六七人である房にいた。甚だおちつかぬ一夜を明して二日目になれば、まず呼出されて教誨師の説諭をうけた。教誨師というのは本願寺の僧侶で「平民新聞というのはタシカ非戦論でしたかな、もちろん宗教家などの立場から見ても、主戦論などということはドダイあるべきはずはないのです。しかしまた、その時節というものがありますからな、そこにはまたいろいろな議論もありましょうが、ドウです時節ということも少しお考えなさっては」というのが予に対する教誨であった。なかなか如才のないことをおっしゃる。午後には無雑作にグルグルと頭を刈られた。これでまず一人前の囚人になった。

   六 監房、夜具、食物

 監房は八畳ばかりの板張りで、一方の隅に井戸側のようなものがあって、その中が低く便所になっている。一方の隅には水の出るパイプがあって、その下にチョイとした手洗鉢がとりつけてある。天井は非常に高く、窓は外に向って一つ、廊下に向って一つ、いずれも手のとどかぬところにある。朝早くなど、その窓から僅かの光線の斜めに射し入るのが、何ともいわれぬほどうれしく感ぜられる。
 夜具はかなりに広いのが一枚、それを柏餅にして木枕で寝るのだ。着物は夜も晝も同じものでただ寝るときには襦袢ばかり着て着物を上に掛けろと教えられた。役に就く人には別に短着と股引とがある。
 食物はずいぶんひどい。飯は東京監獄と違って色が白い。東京監獄は挽割麥だが、こちらは南京米だ。このごろ麦の値が高くなって、南京米の方が安く上るのだそうな。何にせよ味の悪いことは無類で、最初はほとんど呑み下すことが出来なんだ。菜は朝が味噌汁といえば別に不足はないはずだが、その味噌汁たるや、あだかもそこらの溝のドブ泥をすくうて来たようなもので、そのまた木槽たるや、あだかも柄のぬけた古柄杓のようなもので、その縁には汁の実の昆布や菜の葉が引かかっているところなど、初めはずいぶん汚なく感じた。次の夕飯の菜は沢庵に胡麻塩、これはなかなかサッパリしてよい。時々は味噌菜もある。唐辛子など摺りこんで、これも案外うまくこしらえてある。昼が一番御馳走で毎日変っている。まず日曜が豆腐汁、それから油揚と菜、大根の切干、そら豆、うずら豆、馬肉、豚肉など大がい献立がきまっている。豚肉などといえば結構に聞ゆれど、実のところは菜か切干かの上に小さな肉の切が三つばかり乗っているまでのことだ。それでも豚だ豚だとみなが大喜びをする。昼の菜の中で予輩の一番閉口したのは、輪切大根と菜葉とのときで「ヤァ今日は輪大か」と嘆息するのが常であった。飲むものはヌルイ湯ばかり。
 聞くところによれば、この三度の菜の代が、今年の初めまでは平均一銭七厘であったが、戦争の開始以後は五厘を減じて一銭二厘となったとのこと。戦争はヒドイところにまで影響するものだ。

   七 特別待遇

 六監にいること十日ばかりの後、予は十一監に移された。この十一監は十個の本監のほかにある別監で、古風な木造の、チョット京都の三十三間堂を思い出させるような建物である。監房は片側に十個あるだけで、前は廊下を隔てて無双窓になっている。房内は十二畳ばかりで、前後は荒い格子になって、芝居の牢屋の面影がある。後の方の格子には障子が立てられて、その障子の内にタタキの流し元と便所とが並んでいる。便所のところには板でこしらえた小さい屏風のようなものが立ててある。すべてここは広々として、気が晴れて、窓や障子を開けたときには空も見える。木も見える、雀の飛ぶのも見える、猫の来るのも見える。煉瓦と石と鉄とでかこうた本監にくらべると、居心地のよいことは何倍か知れぬ。
 うけたまわるに、この十一監は特別待遇の場所で、軽禁錮の者、重禁錮中の教育ある者(社会にて身分ありし者)、老衰の者などを集めてある。ほかに、モウ本刑を務めあげて、附加刑の罰金を軽禁錮に換えられた、いわぬる換刑の者もここに来ている。チョット申しておくが、世間ではヨク監獄内の通用語としてこの世の中のことを娑婆娑婆という。けれども、実際、今ではソンナ言葉は用いられておらぬ。みな「社会」といっている。
 予はこの監に来てから、最初一両日は換刑の者と一しょにおかれ、次に一週間ばかり独房におかれ、最後には他の軽禁錮の者とともに三人でおかれた。その同房の二人は衛戌監獄から来た軍人であった。その他、この監にいる者の中には、恐喝取財未遂の弁護士、詐欺取財の陸軍大佐、官吏侮辱の二六新報の署名人、犬姦事件の万朝報署名人、恐喝取財の日出新聞記者、自殺幇助(情死未遂)の少年、官文書偽造の中学校書記、教科書事件の師範学校長、同上高等女学校長、元警部某、馬蹄銀事件の某々らであった。軽禁錮二個月の我輩なんどは幅のきかぬこと夥だしい。

   八 一日の生活

 さて、ここに一日の生活を叙せんに、まず午前[#底本は午後と誤植]五時(六月以後は四時半)に鐘が鳴る。それを合図に飛び起きる。蚊帳をたたむ、布団をたたむ、板の間を掃く、雑巾をかける。そうする中に看守が「礼ッ!」をかける。皆々正坐して頭を下げる。「千九百九十号」「千八百五十三号」などと番号を呼び立てる。「ハイ」と返事をしながらシャッ面を上げる。それがすむと塩で歯を磨いて顔を洗う。塩は毎朝寝ている中に看守が各房に入れて歩く。水は本監ではパイプから出ることになっているが、ここでは当番の者が近所の井戸から汲んで来て配ることになっている。
 しばらくすると飯になる。本監では廊下に出て、看守の突立った靴の前に坐って食うのだから、甚だ不愉快に感じたが、ここでは膳を房に入れるので、殊に房の床が廊下よりズット高くなっているので、その不愉快は少しもなかった。
 食事がすむと小楊枝を使いながら正坐する。小楊枝は月に一二本ずつ渡される。正坐というのはチャンと膝をくずさず坐ることで、食後一時間は畏まっておらねばならぬ。板張りの上に莚を一枚敷いてその上に畏まるのだから、ずいぶん足が痛くなる。
 食後一時間たつとみな胡坐をかく、これを安坐という。それから重禁錮の者は仕事にとりかかり、我々軽禁錮の者は本でも読む。しかし本という奴がソウソウ朝から晩まで読みづめにせられるものでもなし、退屈する、欠伸が出る。ヒソヒソ話をする、馬鹿口をたたく、悪戯をする、便所に行く、放屁をする、鼻唄を歌う、逆立ちをする、それはそれは様々なことで日を暮す。もちろん看守の目を忍んでやるので、時々は見つけられて叱られる。もっとも、これは我々軽禁錮および換刑の者のことで、役に就いている者はかえって日が暮しやすい。そこで軽禁錮の者でも、自ら願うて役に就くのが少なくない。永島永洲君からの見舞の端書に、「永き日を結跏の人の坐し足らず」という句があったが、我々凡夫、なかなかそんなわけに行かぬ。そこでいろいろな妄想空想で、僅に、自ら慰めることになる。
「チョイト、チョイト、旦那おあがんなさい。」「品川さん、[#「、」は底本では脱落]大森さん、川崎さん、おあがんなさいよ。」(これは自分達が赤い着物を着て格子の前に坐っているところから、自分達を女郎に見立ててのざれ言)
「ヘイ、今日はよろし、魚源でござい、お肴は鯛に鰈に鮪の切身。」「ああそれじゃあ鯛を貰いましょう。片身おろしてお刺身にして下さい。しかし新しいかね、肴屋さん。」(これは後の障子と流し元の工合が、サモ台所口に似ているからの洒落)
「ああいい天気だな、今日はどこぞ遊びに行こうか。」「そうさなァ、上野から浅草にでも出かけようか。」「だが遠方に行くのは大儀だな。それよりかやっぱりあの桐の木の下でも散歩しようか。」「そうさ、それもいいな。じゃマア今日は出かけるのはよそう。」(これは午後の運動の事をいったので、後にわかる)
「あなた今夜のお菜は何にしましょう。」「なんぞサッパリしたものがいいなァ。」「じゃァやっぱりいつもの沢庵と胡麻塩にしておきましょうね。」
「ああ天ぷらが食いたい。」「おれはタッタ一つでいいから餅菓子が食いたい。」「何も贅沢はいわないが、湯豆腐か何かで二三杯やりたい。」
「これで碁盤の一つもあれば別に退屈はしないがなァ。」「そしてチョイとビールの一本も出て来るとなァ。」「そして林檎かビスケットでもあるとなァ」「そしてお一つ召しあがれなとか何とかいって美しいのが一人も現われて来りゃ申し分なしだろう。」「ハハハハハ、どこまで贅沢をいうか知れたものじゃない。」
 こんな馬鹿なことをいっているうちに昼飯になる。昼の菜の当てッこをしたり、昼の菜の一覧表をつくったり、そんなことも消閑の一策になっている。昼飯は十一時で、天気がよければ十一時半から十二時まで運動がある。これは定役のない者、および監房にて役を執る者に限るので、工場に出て役を執る者には許されぬ。
 運動は監の周囲にある桐の木の下だの、小松原の芝の上だのを歩くので、やっぱり厳重なる監督の下に、一列になってグルグルまわるのだが、それでも話のできぬことはなし、おりおりは立止って蟻の戦争など見物することもある。何にせよ運動は一日中の一大愉快で、雨の三日もつづいた揚句は殊にそうだ。
 運動後はまた、馬鹿話やらいねむりやらで夕方になる。「もう何時だろう」「今の看守の交代が四時半だろう」「じゃあモウ三十分で飯だ」などという問答は、たいがい毎日同じように繰返される。それから「僕はあとがタッタ百三日だ。わけはない」「乃公は今日がちょうど絶頂だ、明日から下り坂だ。タワイない」「君はモウ一週間で出るのだな」などと、たいがい毎日刑期の勘定がある。
 夕飯後にまた点検があって、安坐鈴が鳴る。薄暗い電灯がとぼる。それから二時間ばかりまた退屈すると、八時になって就寝鈴が鳴る。そら来た!と大騒ぎで柏餅がゴロゴロと並ぶことになる。これがまあザット一日の生活だ。ある夜、夜中に目がさめて左のごとき寝言ができた。
  隣室の鼾に和して蛙鳴く
  紫の桐花の下や朱衣の人
  桐の花囚人看守曽て見ず
  行く春を牢の窓より惜しみけり
  永き日を「御看守様」の立尽す
  正坐しても安坐しても日の長き哉
  永き日をコソコソ話安坐する
  夕ざれば監房ごとの放屁かな
  正坐して自慢の放屁連発す
  寂しさに看守からかう奴もあり
  看守殿退屈まぎれに叱る也
  「本職」は昨日拝命したばかり
  「本職」という時髯をひねる也
  看守部長とかく岩永になりたがり
  是はまた重忠張りの看守長
  教誨師地獄で仏の格で行き
  教誨師袈裟高帽のおん姿
  教誨師お前さんはと仰せらる
  其方はなどと看守の常陸
  永き日を千九百九十の坐睡す

   九 入浴、散髪、面会、手紙

 入浴はまた獄中生活の愉快の一つで、およそ一週間に一度、或は四五日ぶりに一度ずつ許される。
 今日は入浴だというと、みな嬉しがってソワソワしている。時刻が来ると、いずれも手拭を帯にさげて、庭下駄をはいて監の前に出て、五人ずつ並んでシャがむ。「立て! 進め!」で浴場に向って進む。浴場まではザット二町ばかりある。「列を乱してはイカン」「キョロキョロとよそ見をするでナイ」「話をしてはイカン」「手を振ってはイカン」などと絶えず叱られながら、とにかく浴場の前に着く。また並んでシャがむ。それから一列になって、二十人ばかりずつ二組になって浴場に入る。浴場は煉瓦作り、浴槽はタタキでかなりに大きい。湯は蒸気で湧かすことになって、寒暖計まで備えつけてある。我々はイツも一番にはいらせられるので、清潔な点においては申し分なかった。「脱衣!」「入浴!」などの不思議な号令の下に、五六人ずつ列をつくって一番、二番、三番、四番と、二十人あまり一しょにはいる。それから今度は、一方の壁にズット並んでとりつけてあるパイプの下に行って、銘々に頭と顔とを洗う。しかしその水は甚だ払底で、儀式ばかりのようなものではあるが、何にせよ、我輩らの住んでいる角筈あたりの湯に比べると結構なものだ。
 散髪もまたチョットよい気ばらしになる。これは、たいがい二週間に一度くらいのようだ。床屋さんももとより囚人である。湯屋の三助も、医者の助手(看護夫)も、みなやはり囚人だからおかしい。
 床屋がまわって来て廊下に陣をとると、一房から十房まで順々に出かけて刈ってもらう。バリカンでただグルグルとやるのだから雑作はない。もちろん顔も剃ってくれる。特に髭を蓄えることを願う者には許しておく。フケトリと鋏も、そこにおいてある。それで爪でも摘みながら見張の看守と話でもしているときには、獄中生活も存外趣味のあるものだ。
 面会は囚人にとって非常に愉快のことであるが、あまり再々人が来ると一々には許されぬ。手紙は大概のものは見せられる。百穂君の絵葉書だけは一枚きりしか見せられなんだ。それから中村弥二郎君が予の無聊を慰めんとて、昔話を書いた葉書を寄こされたが、それは「不得要領につき不許」という附箋がついて、出獄のときに渡された。獄中ではただ無事(或は単調)に苦しむのであるから、手紙、面会、入浴、散髪、運動等、何でも少し変ったことがあれば非常に愉快に感ずる。

   一〇 食事当番

 今一つ気ばらしになったことは、四五日ぶりに一度ずつ食事当番がある。他の監では役夫というものがあって、それが食事の世話やら掃除やらするのであるが、我々の監には無定役囚が多いので、別に役夫はおかずに、その無定役囚の中から、代り代り食事の当番を出すことになっていた。
 当番は二人あるいは三人で、まず炊所から運んで来た飯や菜を盛りわけて膳立てをする。鐘が鳴るとそれを各房に配る。食事がすむとあと片づけをする。水を汲んで来て膳碗を洗う。洗物がすむと廊下を掃く。それを一日に三度繰返すのでなかなか風流なものです。まだそれから食事の世話のほかに、流し口の掃除、裏庭の草取りなど、やらせられるときもある。存外おもしろいものです。甚だしきは、みなの者を運動に出す世話をするために、草履箱から草履を出して各房の前に並べてやり、運動が終れば、またその草履を集めて箱に入れてやることもある。これらはズンと風流なものです。

   一一 眼鏡、書籍

 最初予の一番困ったのは眼鏡をとられたことである。もっとも眼鏡がなくてはなんにも見えぬというほどでもないが、十一度ばかりの近眼で、十余来年寝るときのほか、かってはずしたことのない最親最愛の眼鏡であるから、いま忽然とそれと別れた不愉快は非常である。すぐあとで下げ渡してやるといわれた言葉を楽しみにしていたが、二三日たってヤット眼鏡下付願という手続ができた。モウ占めたと楽しんでいると、また二三日してやっと医者の視力検査があった。モウいよいよだと思うていると、また二三日してようやくのことで下げ渡された。
 親子再会とでもいうべき情合で、ただ何となく嬉しく心にぎやかで、かけて見たりはずして見たり、息を吹きかけて拭いて見たりしているうち、どうも少し右の玉のゆがんでいるのが気に食わぬ。隣の人にもそれを見せて、ここを少しコウ曲げて、などといいながら、こわごわ撓めているとき、脆や、ポキリとまんなかの金が折れた。サアしまった! こんな弱ったことはない。「見しやそれとも分かぬ間に、雲かくれにし夜半の月」「たまたま会いは会いながら、つれない嵐に吹きわけられ」失望落胆、真にたとえるにものがなかった。茶碗の破れたのすらつぎあわせて見るのが人情だから、いろいろとやっては見たが、金と金とのつぎ目の折れたのは、指先ばかりではどうにも仕様がない。それでも何とか法のないものかと、様々にいじっているうち、これを糸で結びつけてはという智慧が出た。それから着物の裾のシツケ糸をぬいて、それを二重によりあわせて、ともかくも結びつけた。鼻の上にかけてみると少々工合は変だけれど、物を見るに差支えはない。ああ真にこれで助かった!
 眼鏡の待遠かったよりも、更に一層待遠かったのは書籍であった。初日、二日目、三日目、ようやく落つくと同時に退屈する。欲しいほしいはただ書籍である。書籍は教誨師先生よしよしと受込んだきりで容易に運んでくれぬ。一週間あまりすぎてからヤット二冊だけ渡された。
 書籍は同時に二冊以上は見せぬという定めだそうな。役のある人ならば、日曜のほかには一日に一二時間しか読書の暇はないのだから、二冊という制限もよいか知らぬが、朝から晩まで本ばかり読む人に、タッタ二冊とは情ない。
 しかしマア二冊にせよ本は来たし、こわれたにせよ眼鏡はある。モウ千人力だという心地がした。二冊の本は、
  Hyndman : Economics of Socialism.
  王陽明伝習録(第一巻)
 まずハイドマン氏の「社会主義の経済学」を読みながら、飽いて来ればチョイチョイと伝習録を読んで、二日三日と愉快に暮したが四日目ぐらいにははや両方とも読んでしまう。仕方がないからまた繰返して初めから読む。そうしているうちにある日教務所長の武田教誨師というが見えて、暫く予の房に入って閑談せられた。
 それで予は書籍のことを訴えたれば、丁度そのとき、予は独房におかれていたので、「独房の者には冊数の制限は入らぬ」とのことで、その翌朝早く、予の持って来た本を悉く下げ渡された。予はほとんどこおどりせんばかりに嬉しく感じた。モウ千人力どころではない。実に百万の味方を得た心地がした。予の持って来た本は前二冊のほか、左の七冊であった。
  Encyclopedia of Social Reforms(Bliss).
Nuttall's English Dictionary.
Progress and Poverty (Henry George).
Truth(Zolla).
The Twenty Century New Testament.
王陽明伝習録(第二巻、第三巻)
 予はまずゾラの「真理」を読んだ。これは予がさきに抄訳した「労働問題」「子孫繁昌の話」とともに、ゾラ最終の三大作をなすもので、主としてドレフュース事件を仕組み、仏国ローマ教の害毒を痛罵し、初等教育制度改善の必要を叫んだものである。このごろロイテル電報などが毎度報じて来る、仏国の宗教教育法のことなども、この書によって始めて十分の意味がわかるようになった。予はこの書に慰められて五六日をすごしたが、その間たいてい毎日一度ずつぐらいは、シミジミと泣かされた。
 次に予はヘンリー・ジョージの「進歩と貧困」を読んだ。これまで拾い読みばかりしていたのを今度はじめて通読した。彼の文章の妙に至っては、ほとんど評する言葉を知らぬ。一面は文学的で、一面は科学的で、しかしてまた他の一面は宗教的である。勁抜の文、奇警の句、そのマルサス人口論を、論破するごとき、痛快を極め鋭利を極めている。
 次に予は新約の四福音書使徒行伝の初めの方少しばかりとを読んだ。二十世紀訳は文章が今様になっているので我々素人には読みやすくて、まことによい。キリスト教に現われたる共産制度の面影等は殊に予の注意を惹いた。
 伝習録からはあまり得るところがあったとも思われぬ。ブリスの「社会改良百科字典」は、その題目の多きとその趣味の広きとにおいて、予の獄中生活を慰めてくれたこといくばくか知れぬ。殊に「犯罪学《クリミノロジー》」「刑罰学《ペノロジー》」などに関する多少の知識を、囚人として獄中に得たのは、深くこの書に謝せねばならぬ。
 ナッタルの字書の功労は今更いうにもおよぶまい。ある時のごときは退屈のあまり、この字書の挿画を初めから終まで一々ていねいに見てしまったことがある。

   一二 役、労働時間、工賃

 予はみずから役に就かなんだので、役の実際はよくわからぬが、何にせよ、七個の工場で種々なる労働をやっている。鍛冶屋もあれば靴屋もある。寝台をこしらえているものもあれば、ズックの靴をこしらえているのもある。足袋の底を織っているのもあれば、麻縄をよっているものもある。馬鈴薯やソラ豆をつくっているのもあれば、洗濯をやっているのもある。便所掃除のごとき汚い役まわりもあれば、炊所係のごとき摘み食いのできる役廻りもある。いずれもその才能、性情等に応じて申し渡されるので、異存を申し立てることは決して相成らぬ。時間は最も長いときで十時間半、最も短かいときで八時間半であったかと記憶する。そして各囚人にはそれぞれ定まった課程があって、それだけの仕事は是非させられることになっている。就役中は話もできず、休むこともできず、便所に行きたい時には手を挙げて許可を請うのだそうな、それから役には工賃が定まっていて、その十分の二三ぐらいは本人の所得となる。それで長期の囚人は百円も二百円も持って出るのがあるとのこと。

   一三 賞罰

 囚人が反則をすればすぐに懲罰に附される。懲罰の第一は減食である。減食といえば食物の量を三分の一ぐらいに減じられて、数日の間、チャント正坐させられる。それがつらさに首を縊る者が折々ある。平気な奴でも体重の一貫目くらい忽ち減る。
 それから減食でもこたえぬ奴は暗室に入れる。重罪囚で手に合わぬ奴には※[#「金+大」、第3水準1-93-3、57下−16]《だい》というものを施す。※[#「金+大」、第3水準1-93-3、57下−16]とはすなわち足枷である。それでもまだこたえぬ奴には、一二貫目もある鉄丸を背負わせるとのこと。
 賞としては一週間に一度か二度か食事に別菜がつく。そのほかには、湯に先に入れる、着物の新しいのを貸す、月一度と極った手紙を二度出させるなどの特待があるばかり。

   一四 理想郷

 さて、かく獄中生活の荒ましを語った上で、予をして更に少しく監獄なるものの全体を観察せしめよ。
 監獄はまずその建築が堅牢である。宏壮である。清潔である。棟割長屋に住むものより見れば、実に大厦高楼の住居といわねばならぬ。衣服夜具のごときも、ほぼ整頓している。冬期においてはもちろん非常の寒さにも苦しむには相違ないが、さりとて常に襤褸をまとい、或はそれすらもまとい得ざるものより見れば、実にありがたき避寒所といわねばならぬ。食物も悪いには相違ないが、塵だめをあさる人間あることを思えば、必ずしも不平はいわれぬ。何にせよ、監獄は衣食住の平等と安全とにおいて、遙か社会より優っている。
 監獄の住民はこの平等にして安全なる衣食住の間に、電灯鉄道蒸汽等種々なる文明の利器を利用して、各その才能性情に応ずる分業をなし、ほぼ共同自治の生活をなしている。況んや心身の疾病のためには、病院もあれば教会もある。ほとんど何不足なき別社会といわねばならぬ。
 かく見来るときには、監獄は実に一種の理想郷である。予が休養のため理想郷に入るといったのも、またけっして嘘ではなかった。しかしながらまた、この理想郷を他の一面より見るときは全く別種の観が眼前に現われて来る。

   一五 看守

 監獄の住民は囚人ばかりではない。ほかに看守というものがある。看守は囚人を戒護する官吏であるが、その境遇の気の毒さは決して囚人に劣るものではない。ある老看守はかつて予に語っていわく、「午前三時に起きて、三時半に家を出て、四時に監獄に着いて、四時半から勤務しはじめて、一時間半ごとに三十分ずつ休憩して、午後六時半の閉監まで勤務して、それからあと仕舞をして家に帰ると七時半ぐらいになる。靴も脱がずに縁側に腰かけていると、ホンの暫くの間だけわが家の庭の景色を薄光に見ることができる。湯などにはめったにゆく暇がない、二週間に一度の休みはたいがい寝て暮します」と。しかして彼らの俸給は僅々十二円か十五円にすぎぬのである。
 看守と囚人とを別々に見れば、共に気の毒なる境遇の人々であるが、さてこの二人種の関係を考えてみれば、滑稽といおうか、馬鹿馬鹿しいといおうか、更にこれを悲惨といおうか、予はこれを評するに言葉を知らぬ。

   一六 出獄前の一日

 出獄の前日には満期房というのに移される。ここには明日自由の身となるべき窃盗氏、詐欺氏、カッパライ氏、恐喝氏、持逃げ氏などが集まって来る。いよいよ今日きりの一昼一夜を暮しかね明しかねて、様々の妄想を逞うしながら馬鹿話に耽っている。
 まず一人ずつ呼出されて教誨師の説諭をうける。教誨師も一向気の乗らぬ調子で役目柄だけのお茶をにごす。囚人はただハイハイとお辞儀をして、房に帰って舌を出す。そして何を話すかと聞いていれば、食いたい、飲みたい、遊びに行きたい、たいがいはまずそれである。最も良心の鋭敏な奴が「モウとても真人間にはなられない」と嘆息する。「これがドウしても止められないとは何たる因果な男だろう」とひとりで笑っているのもある。最も思慮分別ありげな奴の言葉を聞けば、「いっそヤルなら大きなことをやるか、それでなくちゃスッパリ止めるのだ。」多くの奴はテンデ止めるの止めないという問題は起しておらぬ。
 予が最も趣味多く感じた一話がある。あるカッパライの大将いわく、「小僧の二人も内にかくまっておけば、その日その日に不自由をすることはないぜ、鰹節がなくなれば鰹節をさらって来るし、炭がなくなれば、炭をさらって来るし、ホントに便利なもんだ。それに彼奴ら義理が堅くてとッつかまってもめったにボロを出しゃしないや。いつやら兄さんも一しょに来い来いというからついて行って見ると、ある宮の境内にきて、兄さんお酒が好きだから今にもって来てやる、ここに待っていろという。暫くするとビールを二本さげて来た。コップがないというと、またはしりだして今度はガラス屋からコップを一つさらって来た。ホントにおかしいように便利なもんだぜ。」

   一七 獄中の音楽

囚人半月天を見ず。
囚人半月地を踏まず。
されど自然の音楽は、
自由にここに入り来る。」
朝は朝日に雀鳴く。
わが妻来れ、チウチウチウ。
子らはいずこぞ、チュンチュンチュン。
ここに餌《えは》[#《えは》はママ]あり、チュクチュクチュク。」
夕は夕日に牛の鳴く。
永き日暮れぬ、モオオオオ。
務め終りぬ、モオオモオ
いざや休まん、モオモオモオ。」
夜は夜もすがら蛙鳴く。
人は眠れり、ロクロクロク。
世はわが世なり、レキレキレキ。
歌えや歌え、カラコロコロ。」
晴には空に鳶の声、
笛吹くかとぞ思わるる。
羽衣の袖ふりはえて、
舞うや虚空の三千里。
舞いすまし、吹きすます。
ピーヒョロリ、ピーヒョロリ。」
雨には軒の玉水の、
鼓打つかと思わるる。
緒を引きしめて気を籠めて、
打つや手練の乱拍子。
打ちはやし、打ちはやす、
トウトウタラリ、ポポンポン。」
ああ面白ろの自然かな。
ああ面白ろの天地かな。」

   一八 出獄雑記

 六月二十日午前五時、秋水のいわゆる「鬼が島の城門のような」巣鴨監獄の大鉄門は、儼然として、その鉄扉を開き、身長わずかに五尺一寸の予を物々しげにこの社会に吐き出した。
 久しぶりの洋服の着ごころ甚だ変にて、左の手に重たき本包みをさげ、からだを右にかたむけながらキョロキョロとして立ちたる予は、この早朝の涼気のなかに、浮びて動かんとするがごとき満目の緑に対して、まず無限の愉快を感じた。
 ようやく二三歩を運ぶとき、友人川村氏のひとり彼方より来るに遭うた。相見て一笑し、氏に導かれて茶店に入った。あああ、これで久しぶり天下晴れて話ができる。
 間もなく杉村縦横君が自転車を走らせて来てくれた。つづいては筒袖の木下君、大光頭の斎藤君などを初めとして、平民社の諸君、社会主義協会の諸君などが二十人あまり押寄せた。最後に予の女児真柄が、一年五個月の覚束なき足取にて、隣家のおばさんなる福田英子氏と、親戚のおじさんなる小林助市氏とに、両手をひかれながらやって来た。予は初めて彼が地上を歩むを見た。そして彼はすでに全く予を見忘れていた。
 かく親しき顔がそろうて見れば、その中に秋水の一人を欠くことが、予にとっては非常の心さびしさであった。彼はその病床より人に托して、一書を予に寄せた。「早く帰って僕のいくじなさを笑ってくれ」とある。笑うべき乎、泣くべき乎。一人は閑殺せられ、一人は忙殺せられ、而して二個月後の結果がすなわちこれであるのだ。
 予はそれより諸友人に擁せられて野と畑との緑を分け、朝風に吹かれながら池袋の停車場に来た。プラットフォームに立ちて監獄を顧み、指点して諸友人と語るとき、何とはなしに深き勝利の感の胸中に湧くを覚えた。
 新宿の停車場に降りれば、幸徳夫人が走り寄って予を迎えてくれた。停車場より予の家まで僅か四五丁であるが、その道が妙に珍しく感じられる。加藤眠柳君から獄中に寄せられた俳句「君知るや既に若葉が青葉した」とあったのがすなわちそれだ。わが家に入ればまたわが家が妙に珍しく感じられる。門より庭に入りて立てば、木々の緑が滴るばかりに濃く見えるのだもの。
 予の病妻は予の好める豆飯を炊いて待っていた。予は彼の如何に痩せたるかを見たる後、靴を脱せずして直ちに秋水を訪うた。秋水は、病床に半ば身を起して予の手を握った。彼は予の妻とともに甚だしく痩せていた。
 歌のようなものが一首できていた。
 いつしかに桐の花咲き花散りて葉かげ涼しくわれ獄を出ず
 監獄の中で風情のある木は桐ばかりであったから。

   一九 出獄当座の日記

六月二十日 出獄。終日家居、客とともに語りかつ食う。
二十一日 出社。社中諸君が多忙を極めている間に、予一人だけ茫然として少しも仕事が手につかず。
二十二日 同上。
二十三日 編輯終る。予は少々腹工合を悪くした。
二十四日 腹工合甚だ変也
二十五日 とうとう下痢をやりだした、よほど注意はしていたのだが。午後下剤を飲み、夜に入りて十数回の下痢があった。
二十六日 せっかくの出獄歓迎園遊会に出席はしたが、何分疲労が、甚だしいので、写真を取ったあとですぐに帰宅した。
二十七日 秋水の家に風がよく通すので、午後半日をそこで暮した。二個の病客が床を敷き並べて相顧みて憮然たるところ百穂君か芋銭君かに写してもらいたいような心地がした。
二十八日 ようやく下痢がとまった。粥を食い、刺身を食い、湯に入る、甚だ愉快。

  (附) 園 遊 会 の 記

 六月二十六日午前九時より堺生[#底本は「塀生」と誤植]の出獄歓迎を兼ねて園遊会が開かれた。……場所は、角筈十二社の池畔桜林亭である。……幸いに曇天で、……来会者は男女合せて百五十余名の多きに達した。……安部磯雄氏発起人総代として開会の趣旨を述べ、その中に「本日の会合はもとより堺氏出獄の歓迎を兼ねてでありますが、実をいえば、牢にはいるということは社会主義者にとりては普通のことでありますから、もしわが党の士のなかに出獄者あるごとに歓迎会を開くこととすれば、今後何百回ここで歓迎会を開かなければならぬかも知れぬ。で、私は今日の会も堺氏の出獄を期して、われら同志友人がここに一日の園遊会を開いたという風に思い」たいと語った。……
 (発起人の一人)
 (安部氏のこの意見は、当時としては、誠によく見透しのついた、適切な警告であった。――堺生)
[#地より2字上がり](一九一一年三月「楽天囚人」より)



底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
   1955(昭和30)年3月31日初版発行
   1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月27日公開
2002年1月24日修正
※誤植の確認には、「堺利彦全集 第三巻」法律文化社、1970(昭和45)年9月30日発行を用いました。
青空文庫ファイル:
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麦藁帽子   堀辰雄   【1万7244字】

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高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】

麦藁帽子
堀辰雄

【1万7244字】

 私は十五だった。そしてお前は十三だった。
 私はお前の兄たちと、苜宿《うまごやし》の白い花の密生した原っぱで、ベエスボオルの練習をしていた。お前は、その小さな弟と一しょに、遠くの方で、私たちの練習を見ていた。その白い花を摘んでは、それで花環《はなわ》をつくりながら。飛球があがる。私は一所懸命に走る。球《たま》がグロオブに触《さわ》る。足が滑《すべ》る。私の体がもんどり打って、原っぱから、田圃《たんぼ》の中へ墜落する。私はどぶ鼠《ねずみ》になる。
 私は近所の農家の井戸端《いどばた》に連れられて行く。私はそこで素っ裸かになる。お前の名が呼ばれる。お前は両手で大事そうに花環をささげながら、駈《か》けつけてくる。素っ裸かになることは、何んと物の見方を一変させるのだ! いままで小娘だとばかり思っていたお前が、突然、一人前の娘となって私の眼の前にあらわれる。素っ裸かの私は、急にまごまごして、やっと私のグロオブで私の性《セックス》をかくしている。
 其処《そこ》に、羞《はずか》しそうな私とお前を、二人だけ残して、みんなはまたボオルの練習をしに行ってしまう。そして、私のためにお前が泥だらけになったズボンを洗濯《せんたく》してくれている間、私はてれかくしに、わざと道化けて、お前のために持ってやっている花環を、私の帽子の代りに、かぶって見せたりする。そして、まるで古代の彫刻のように、そこに不動の姿勢で、私は突っ立っている。顔を真っ赤にして……

        ※[#アステリズム、1-12-94]

 夏休みが来た。
 寄宿舎から、その春、入寮したばかりの若い生徒たちは、一群れの熊蜂《くまばち》のように、うなりながら、巣離れていった。めいめいの野薔薇《のばら》を目ざして……
 しかし、私はどうしよう! 私には私の田舎《いなか》がない。私の生れた家は都会のまん中にあったから。おまけに私は一人|息子《むすこ》で、弱虫だった。それで、まだ両親の許《もと》をはなれて、ひとりで旅行をするなんていう芸当も出来ない。だが、今度は、いままでとは事情がすこし違って、ひとつ上の学校に入ったので、この夏休みには、こんな休暇の宿題があったのだ。田舎へ行って一人の少女を見つけてくること。
 その田舎へひとりでは行くことが出来ずに、私は都会のまん中で、一つの奇蹟《きせき》の起るのを待っていた。それは無駄《むだ》ではなかった。C県の或る海岸にひと夏を送りに行っていた、お前の兄のところから、思いがけない招待の手紙が届いたのだった。
 おお、私のなつかしい幼友達よ! 私は私の思い出の中を手探りする。真っ白な運動服を着た、二人とも私よりすこし年上の、お前の兄たちの姿が、先《ま》ず浮ぶ。毎日のように、私は彼|等《ら》とベエスボオルの練習をした。或る日、私は田圃に落ちた。花環を手にしていたお前の傍《そば》で、私は裸かにさせられた。私は真っ赤になった。……やがて彼等は、二人とも地方の高等学校へ行ってしまった。もうかれこれ三四年になる。それからはあんまり彼等とも遊ぶ機会がなくなった。その間、私はお前とだけは、屡々《しばしば》、町の中ですれちがった。何にも口をきかないで、ただ顔を赧《あか》らめながら、お時宜《じぎ》をしあった。お前は女学校の制服をつけていた。すれちがいざま、お前の小さな靴の鳴るのを私は聞いた……
 私はその海岸行を両親にせがんだ。そしてやっと一週間の逗留《とうりゅう》を許された。私は海水着やグロオブで一ぱいになったバスケットを重そうにぶらさげて、心臓をどきどきさせながら、出発した。

 それはT……という名のごく小さな村だった。お前たちは或る農家の、ささやかな、いろいろな草花で縁《へり》をとられた離れを借りて、暮らしていた。私が到着したとき、お前たちは海岸に行っていた。あとにはお前の母と私のあまりよく知らないお前の姉とが、二人きりで、留守番をしていた。
 私は海岸へ行く道順を教わると、すぐ裸足《はだし》になって、松林の中の、その小径《こみち》を飛んで行った。焼けた砂が、まるでパンの焦げるような好い匂《にお》いがした。
 海岸には、光線がぎっしりと充填《つま》って、まぶしくって、何にも見えない位だった。そしてその光線の中へは、一種の妖精《ようせい》にでもならなければ、這入《はい》れないように見えた。私は盲のように、手さぐりしながら、その中へおずおずと、足を踏み入れていった。
 小さな子供たちがせっせと砂の中に生埋めにしている、一人の半裸体の少女が、ぼんやり私の目にはいる。お前かしらと思って、私は近づきかける。……すると大きな海水帽のかげから、私の見知らない、黒い、小さな顔が、ちらりとこちらを覗《のぞ》く。そしてまた知らん顔をして、元のように、すっぽりとその小さな顔を海水帽の中に埋める。……それが私の足を動けなくさせる。
 私は流砂に足をとられながら、海の方へ出たらめに叫ぶ。「ハロオ!」……と、まぶしくて私にはちっとも見えない、その海の中から、それに応《こた》えて、「ハロオ! ハロオ!」
 私はいそいで着物をぬぐ。そして海水着だけになって、盲のように、その声のする方へ、飛び込もうと身構える。
 その瞬間、私のすぐ足許《あしもと》からも、「ハロオ!……」――私は振りむく。さっきの少女が、砂の中から半身を出してにっこりと笑っているのが、今度は、私にもよく見える。
「なあんだ、君だったの?」
「おわかりになりませんでしたこと?」
 海水着がどうも怪しい。私がそれ一枚きりになるや否や、私は妖精の仲間入りをする。私は身軽になって、いままでちっとも見えなかったものが忽《たちま》ち見え出す……

 都会では難《むずか》しいものに見える愛の方法も、至極簡単なものでいいことを会得させる田舎暮らしよ! 一人の少女の気に入るためには、かの女の家族の様式《スタイル》を呑《の》み込んでしまうが好い。そしてそれは、お前の家族と一しょに暮らしているおかげで、私には容易だった。お前の一番気に入っている若者は、お前の兄たちであることを、私は簡単に会得する。彼等はスポオツが大好きだった。だから、私も出来るだけ、スポオティヴになろうとした。それから彼等は、お前に親密で、同時に意地悪だった。私も彼等に見習って、お前をば、あらゆる遊戯からボイコットした。
 お前がお前の小さな弟と、波打ちぎわで遊び戯れている間、私はお前の気に入りたいために、お前の兄たちとばかり、沖の方で泳いでいた。

 沖の方で泳いでいると、水があんまり綺麗《きれい》なので、私たちの泳いでいる影が、魚のかげと一しょに、水底に映った。そのおかげで、空にそれとよく似た雲がうかんでいる時は、それもまた、私たちの空にうつる影ではないかとさえ思えてくる。……

 私たちの田舎ずまいは、一銭銅貨の表と裏とのように、いろんな家畜小屋と脊中《せなか》合わせだった。ときどき家畜らが交尾をした。そのための悲鳴が私たちのところまで聞えてきた。裏木戸を出ると、そこに小さな牧場があった。いつも牛の夫婦が草をたべていた。夕方になると、彼等は何処《どこ》へともなく姿を消す。そのあとで、私たちはいつもキャッチボオルをした。するとお前は、或る時はお前の姉と、或る時はお前の小さな弟と、其処まで遊びに出てきた。いつだったかのように、遠くで花を摘んだり、お前の習ったばかりの讃美歌《さんびか》を唱《うた》ったりしながら。ときどきお前がつかえると、お前の姉が小声でそれを続けてやった。――まだ八つにしかならない、お前の小さな弟は、始終お前のそばに附きっきりだった。彼は私たちの仲間入りをするには、あんまり小さ過ぎた。そんな小さな弟に毎日一ぺんずつ接吻《せっぷん》をしてやるのが、お前の日課の一つだった。「今日はまだ一ぺんもしてあげなかったのね……」そう云って、お前はその小さな弟を引きよせて、私たちのいる前で、平気で彼と接吻をする。
 私はいつまでも投球のモオションを続けながら、それを横目で見ている。
 その牧場のむこうは麦畑だった。その麦畑と麦畑の間を、小さな川が流れていた。よくそこへ釣りをしに行った。お前は私たちの後から、黐竿《もちざお》を肩にかついだ小さな弟と一しょに、魚籠《びく》をぶらさげて、ついてきた。私は蚯蚓《みみず》がこわいので、お前の兄たちにそれを釣針につけて貰《もら》った。しかし私はすぐそれを食われてしまう。すると、しまいには彼等はそれを面倒くさがって、そばで見ているお前に、その役を押しつける。お前は私みたいに蚯蚓をこわがらないので。お前はそれを私の釣針につけてくれるために、私の方へ身をかがめる。お前はよそゆきの、赤いさくらんぼの飾りのついた、麦藁《むぎわら》帽子をかぶっている。そのしなやかな帽子の縁《へり》が、私の頬《ほお》をそっと撫《な》でる。私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。しかしお前はなんの匂いもしない。ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするきりで。……私は物足りなくて、なんだかお前にだまかされているような気さえする。

 まだあんまり開けていない、そのT村には、避暑客らしいものは、私たちの他には、一組もない位だった。私たちはその小さな村の人気者だった。海岸などにいると、いつも私たちの周《まわ》りには人だかりがした程に。そうして村の善良な人々は、私のことを、お前の兄だと間違えていた。それが私をますます有頂天にさせた。
 そればかりでなしに、私の母みたいな、子供のうるさがるような愛し方をしないお前の母は、私をもその子供並みにかなり無頓着《むとんじゃく》に取り扱った。それが私に、自分は彼女にも気に入っているのだと信じさせた。
 予定の一週間はすでに過ぎていた。しかし私は都会へ帰ろうとはしなかった。

 ああ、私はお前の兄たちに見習って、お前に意地悪ばかりしてさえいれば、こんな失敗はしなかったろうに! ふと私に魔がさした。私は一度でもいいから、お前と二人きりで、遊んでみたくてしようがなくなった。
「あなた、テニス出来て?」或る日、お前が私に云った。
「ああ、すこし位なら……」
「じゃ、私と丁度いい位かしら?……ちょっと、やってみない」
「だってラケットはなし、一体何処でするのさ」
「小学校へ行けば、みんな貸してくれるわ」
 それがお前と二人きりで遊ぶには、もってこいの機会に見えたので、私はそれを逃がすまいとして、すぐ分るような嘘《うそ》をついた。私はまだ一度もラケットを手にしたことなんか無かったのだ。しかし少女の相手ぐらいなら、そんなものはすぐ出来そうに思えた。お前の兄たちがいつも、テニスなんか! と軽蔑《けいべつ》していたから。しかし彼等も、私たちに誘われると、一しょに小学校へ行った。そこへ行くと、砲丸投げが出来るので。
 小学校の庭には、夾竹桃《きょうちくとう》が花ざかりだった。彼等は、すぐその木蔭《こかげ》で、砲丸投げをやり出した。私とお前とは、其処からすこし離して、白墨で線を描いて、ネットを張って、それからラケットを握って、真面目《まじめ》くさって向い合った。が、やってみると、思ったよりか、お前の打つ球《たま》が強いので、私の受けかえす球は、大概ネットにひっかかってしまった。五六度やると、お前は怒ったような顔をして、ラケットを投げ出した。
「もう止《よ》しましょう」
「どうしてさ?」私はすこしおどおどしていた。
「だって、ちっとも本気でなさらないんですもの……つまらないわ」
 そうして見ると、私の嘘は看破《みやぶ》られたのではなかった。が、お前のそういう誤解が、私を苦しめたのは、それ以上だった。むしろ、そんな薄情な奴《やつ》になるより、嘘つきになった方がましだ。
 私は頬をふくらませて、何も云わずに、汗を拭《ふ》いていた。どうも、さっきから、あの夾竹桃の薄紅《うすあか》い花が目ざわりでいけない。
 この二三日、お前は、鼠色の、だぶだぶな海水着をきている。お前はそれを着るのをいやがっていた。いままでのお前の海水着には、どうしたのか、胸のところに大きな心臓型の孔《あな》があいてしまったのだ。そこでお前は間に合わせに、あんまり海へはいらない、お前の姉の奴を、借りて着ているのだ。この村では、新しい海水着などは手に入らなかった。一里ばかり向うの、駅のある町まで買いに行かなければ。――そこで或る日、私はテニスの失敗をつぐなう積りで、自分から、その使者を申し出た。
「何処かで自転車を貸してくれるかしら?」
「理髪店のならば……」
 私は大きな海水帽をかぶって、炎天の下を、その理髪店の古ぼけた自転車に跨《またが》って、出発した。
 その町で、私は数軒の洋品店を捜し廻った。少女用の海水着の買物がなんと私の心を奪ったことか! 私はお前に似合いそうな海水着を、とっくに見つけてしまってからも、私はただ私自身を満足させるために、いつまでも、それを選んでいるように見せかけた。それから私は郵便局で、私の母へ宛《あ》てて電報を打った。「ボンボンオクレ」
 そうして私は汗だくになって、決勝点に近づくときの選手の真似《まね》をして、死にものぐるいの恰好《かっこう》で、ペダルを踏みながら、村に帰ってきた。

 それから二三日が過ぎた。或る日のこと、海岸で、私たちは寝そべりながら、順番に、お互を砂の中に埋めっこしていた。私の番だった。私は全身を生埋めにされて、やっと、私の顔だけを、砂の中から出していた。お前がその細部《デテエル》を仕上げていた。私はお前のするがままになりながら、さっきから、向うの大きな松の木の下に、私たちの方を見ては、笑いながら話し合っている二人の婦人のいるのを、ぼんやり認めていた。そのうちの海水帽をかぶった方は、お前の母らしかった。もう一人の方は、この村では、つい見かけたことのない婦人に見えた。黒いパラソルをさしていた。
「あら、たっちゃんのお母様だわ」お前は、海水着の砂を払いながら、起き上った。
「ふん……」私は気のなさそうな返事をした。そうして皆が起き上ったのに、私一人だけ、いつまでも砂の中に埋まっていた。私は心臓をどきどきさせていた。私の隠し立てが、今にもばれそうなので。そうしてそれが、砂の中から浮んでいる私の顔を、とても変梃《へんてこ》にさせていそうだった。私はいっそのこと、そんな顔も砂の中に埋めてしまいたかった! 何故《なぜ》なら、私は田舎から、私の母へ宛てて、わざと悲しそうな手紙ばかり送っていた。その方が彼女には気に入るだろうと思って……。彼女から遠くに離れているばかりに、私がそんなにも悲しそうにしているのを見て、私の母は感動して、私を連れ戻しに来たのかしら?……それだのに、私は、彼女に隠し立てをしていた一人の少女のために、今、こんなにも幸福の中に生埋めにされている!
 おっと、待てよ。今のさっきの様子では、お前は私の母をなんだか知っていたようだぞ! そんな筈《はず》じゃなかったのに?……と、私は砂の中からこっそりとみんなの様子をうかがっている。どうやら、私の母とお前たちの家族とは、ずっと前からの知合らしい。私にはどうしてもそれが分らない。これでは、欺こうとしていた私の方が、反対に、私の母に裏を掻《か》かれていたようなものだ。突然、私は砂を払いのけながら、起き上る。今度はこっちで、あべこべに、母の隠し立てを見つけてやるからいい!……そこで、私はお前にそっと捜《さぐ》りを入れてみる。皆のしんがりになって、家の方へ引きあげて行きながら。……
「どうして僕のお母さんを知っていたの?」「だってあなたのお母様は運動会のとき何時《いつ》もいらっしってたじゃないの? そうして私のお母様といつも並んで見ていらしったわ」私はそんなことはまるっきり知らなかった。何故なら、そんな小学生の時分から、私はみんなの前では、私の母から話しかけられるのさえ、ひどく羞《はず》かしがっていたから。そうして私は私の母から隠れるようにばかりしていたから。……
 ――そして今もそうだった。井戸端で、みんなが身体《からだ》を洗ってしまってからも、私は何時までも、そこに愚図々々していた。ただ、私の母から隠れていたいばかりに。……井戸端にしゃがんでいると、私の脊くらい伸びたダリアのおかげで、離れの方からは、こっちがちっとも見えなかった。それでいて、向うの話し声は手にとるように聞えてくる。私のボンボンの電報のことが話された。みんなが、お前までがどっと笑った。私はてれ臭そうに、耳にはさんでいた巻煙草をふかし出した。私は何度もその煙に噎《む》せた。そして、それが私の羞恥《しゅうち》を誤魔化《ごまか》した。
 誰かが、私の方に近づいてくる足音がした。それはお前だった。
「何してんの?……もうお母様がお帰りなさるから、早くいらっしゃいって?」
「こいつを一服したら……」
「まあ!」お前は私と目と目を合わせて、ちらりと笑った。その瞬間、私たちにはなんだか離れの方が急にひっそりしたような気がした。
 せっかくボンボンやら何やらを持って来てやったのに、自分にはろくすっぽ口もきいてくれない息子の方を、その母は俥《くるま》の上から、何度もふりかえりながら、帰って行った。それがやっぱり彼女の本当の息子だったのかどうかを確かめでもするように。そういう母の姿がすっかり見えなくなってしまうと、息子の方ではやっと、しかし自分自身にも聞かれたくないように、口のうちで、「お母さん、ごめんなさいね」とひとりごちた。

 海は日毎《ひごと》に荒模様になって行った。毎朝、渚《なぎさ》に打ち上げられる漂流物の量が、急に増《ふ》え出した。私たちは海へはいると、すぐ水母《くらげ》に刺された。私たちはそんな日は、海で泳がずに、渚に散らばっている、さまざまな綺麗な貝殻を、遠くまで採集しに行った。その貝殻がもうだいぶ溜《たま》った。
 出発の数日前のこと、私がキャッチボオルで汚《よご》した手を井戸端へ洗いに行こうとすると、そこでお前がお前の母に叱《しか》られていた。私はそれが私の事に関しているような気がした。それを立聞きするにはすこし勇気を要した。気の小さな私はすっかりしょげて、其処から引き返した。――私はあとでもって、一人でこっそりと、その井戸端に行ってみた。そしてそこの隅《すみ》っこに、私の海水着が丸められたまま、打棄《うちす》てられてあるのを見た。私ははっと思った。いつもなら私の海水着をそこへ置いておくと、兄たちのと一緒に、お前がゆすいで乾《ほ》して置いてくれるのだ。そのことでお前はさっきお前の母に叱られていたものと見える。私はその海水着を、音の立たないように、そっと水をしぼって、いつものように竿《さお》にかけておいた。
 翌朝、私はその砂でざらざらする海水着をつけて、何食わぬ顔をしていた。気のせいか、お前はすこし鬱《ふさ》いでいるように見えた。

 とうとう休暇が終った。
 私はお前の家族たちと一しょに帰った。汽車の中には、避暑地がえりの真っ黒な顔をした少女たちが、何人も乗っていた。お前はその少女たちの一人一人と色の黒さを比較した。そうしてお前が誰よりも一番色が黒いので、お前は得意そうだった。私は少しがっかりした。だが、お前がちょっと斜めに冠《かぶ》っている、赤いさくらんぼの飾りのついたお前の麦藁《むぎわら》帽子は、お前のそんな黒いあどけない顔に、大層よく似合っていた。だから、私はそのことをそんなに悲しみはしなかった。もしも汽車の中の私がいかにも悲しそうな様子に見えたと云うなら、それは私が自分の宿題の最後の方がすこし不出来なことを考えているせいだったのだ。私はふと、この次ぎの駅に着いたら、サンドウィッチでも買おうかと、お前の母がお前の兄たちに相談しているのを聞いた。私はかなり神経質になっていた。そして自分だけがそれからのけ者にされはしないかと心配した。その次ぎの駅に着くと、私は真先きにプラットフォムに飛び下りて、一人でサンドウィッチを沢山買って来た。そして私はそれをお前たちに分けてやった。

        ※[#アステリズム、1-12-94]

 秋の学期が始まった。お前の兄たちは地方の学校へ帰って行った。私は再び寄宿舎にはいった。
 私は日曜日ごとに自分の家に帰った。そして私の母に会った。この頃から私と母との関係は、いくらかずつ悲劇的な性質を帯びだした。愛し合っているものが始終均衡を得ていようがためには、両方が一緒になって成長して行くことが必要だ。が、それは母と子のような場合には難しいのだ。
 寄宿舎では、私は母のことなどは殆《ほと》んど考えなかった。私は母がいつまでも前のままの母であることを信じていられたから。しかし、その間、母の方では、私のことで始終不安になっていた。その一週間のうちに、急に私が成長して、全く彼女の見知らない青年になってしまいはせぬかと気づかって。で、私が寄宿舎から帰って行くと、彼女は私の中に、昔ながらの子供らしさを見つけるまでは、ちっとも落着かなかった。そして彼女はそれを人工培養した。
 もし私がそんな子供らしさの似合わない年頃になっても、まだ、そんな子供らしさを持ち合わせているために不幸な人間になるとしたら、お母さん、それは全くあなたのせいです。……
 或る日曜日、私が寄宿舎から帰ってみると、母はいつものような丸髷《まるまげ》に結っていないで、見なれない束髪に結っていた。私はそれを見ながら、すこし気づかわしそうに母に云った。
「お母さんには、そんな髪、ちっとも似合わないや……」
 それっきり、私の母はそんな髪の結い方をしなかった。

 それだのに、私は寄宿舎では、毎日、大人になるための練習をした。私は母の云うことも訊《き》かないで、髪の毛を伸ばしはじめた。それでもって私の子供らしさが隠せでもするかのように。そうして私は母のことを強《し》いて忘れようとして、私の嫌《きら》いな煙草のけむりでわざと自分を苦しめた。私の同室者たちのところへは、ときおり女文字の匿名《とくめい》の手紙が届いた。皆が彼|等《ら》のまわりへ環《わ》になった。彼等は代る代るに、顔を赧《あか》らめて、嘘《うそ》を半分まぜながら

凍雨と雨氷 寺田寅彦

凍雨と雨氷
寺田寅彦

                                                                                                            • -

【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木花《きばな》と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十年二月『東京朝日新聞』)

                                                                                                            • -

 大気中の水蒸気が凍結して液体または固体となって地上に降るものを総称して降水と言う。その中でも水蒸気が地上の物体に接触して生ずる露と霜と木花《きばな》と、氷点下に過冷却された霧の滴《しずく》が地物に触れて生ずる樹氷または「花ボロ」を除けば、あとは皆地上数百ないし数千メートルの高所から降下するものである。その中でも雨と雪は最も普通なものであるが、雹《ひょう》や霰《あられ》もさほど珍しくはない。霙《みぞれ》は雨と雪の混じたもので、これも有りふれた現象である。
 以上挙げたものの外に稀有《けう》な降水の種類として凍雨と雨氷を数える事が出来る。
 我邦《わがくに》では岡田博士に従って凍雨の名称の下に総括されているものの中にも種々の差別があって、その中には透明な小さい氷球や、ガラスの截片《せっぺん》のような不規則な多角形をしたものや、円錐形《えんすいけい》や円柱形をしたものもある。氷球は全部透明なものもあるが内部に不透明な部分や気泡を含んでいるものもある。北米合衆国の気象台で定めたスリート(sleet)というものの定義が大体この凍雨に相当している。(英国で俗にスリートと言うのは我邦の霙である。)スリートとして挙げられているものの中には、以上のようなものの外に雪片のつながったのが一度溶けかけてまた凍った事を明示するようなものや、氷球の一方から雪の結晶が角《つの》を出しているのや、球の外側だけが氷で内部は水のままでいるのもある。
 次に雨氷と称するものは、過冷却された雨滴が地物に触れて氷結するものである。これが降ると道路はもちろん樹木の枝でも電線でも透明な氷で蔽われるために、道路の往来は困難になり電線の被害も多い。蝙蝠傘《こうもりがさ》の上などに落ちて凍った雨滴を見ると、それが傘の面に衝突して八方に砕け散った飛沫がそのままの形に氷になっている。
 凍雨と雨氷はほぼ同様な気層の状態に帰因する。すなわち地面に近く著しく寒冷な気層があって、その上に氷点以上の比較的温暖な気層のある場合に起る現象である。凍雨の方は上層で出来た雨滴が下層の寒冷な空気を通過するうちにだんだん冷却して外部から氷結し始めるということは、内部に水や不透明の部分のある事から推定される。また中層の温暖な層の上に雪雲がある場合には、そこから落ちる雪片の一部は中層を通る時に半融解して後に再び寒冷な下層に入って氷結し、前に挙げた特殊の形になるものと考えられる。雨氷の成因については岡田博士もかつてその研究の結果を発表された通り、やはり上層の雨滴が下層の寒気に逢うて氷点下に冷却され、しかも凝結の機縁を得ないために液状で落下し、物体に触れると同時に先ず一部が氷結し、あとは徐々に氷結するのである。
 昨年の一月下旬、北米合衆国で数日続いて広区域にわたって著しい凍雨と雨氷があった。その当時の気層の状態を高層気象観測の結果と対照して詳細に調査したものが彼《か》の地の雑誌に出ているのを見ると、当時の空中の状況がよく分って面白い。氷点に相当する等温線が大陸をほぼ東西に横断してその以北は雪、以南は雨が降っている、その雨と雪の境界に沿うて帯状をなした区域が凍雨や雨氷に見舞われている。この零度等温線とほぼ並行して風の境界線があり、その以北は北がかった風、以南では南風が吹いている。これは南から来る暖かい風がこの境界線から地面を離れて中層へあがりその下へ北から来る寒風がもぐり込んでいるのだという事は、当時各地で飛揚した測風気球の観測からも確かめられている。そのために中層へは南方から暖かい空気が舌を出したような形になっている。この舌状帯下の部分に限って凍雨と雨氷が降っている事が分るのである。
 このような特殊の気層の状態を条件としているために、この現象が稀有でその区域の割合が狭いのである。
 北米のような大陸で、ことに南北の気流の比較的自由な土地はこの現象の生成に都合が好さそうに思われる。いくら米国でもこの天象を禁止し排斥する事は出来ないので、その予報の手がかりを研究しているのである。
 我邦におけるこれらの現象の記録は極めて少数であるらしい。しかし現象の性質上から通例狭い区域に短時間だけしか降らないものだとすれば、降るには降っても気象学者の耳目に触れない場合もかなりあるかもしれない。それで読者のうちで過去あるいは将来に類似の現象を実見された場合には、その時日、継続時間、降水の形態等についての記述を、最寄《もよ》りの測候所なり気象台なり、あるいは専門家なりへ送ってやるだけの労を惜しまないようにお願いしたい。
 これらの天象について特に興味を感ぜられる読者には岡田博士著『雨』について詳細の説明や興味ある実例を一読される事をお勧めしたい。[#地から1字上げ](大正十年二月『東京朝日新聞』)



底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「東京朝日新聞
   1935(大正10)年2月11日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年10月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

【都内公立図書館一覧】=1万7876字

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2010年1月20日更新

東京にある公立図書館の一覧です。自治体名の50音順に並んでいます。開館時間や休館日などの詳しい情報は、各図書館のホームページ等でご確認ください。


索引 都立  中央  多摩
区部  足立区  荒川区  板橋区  江戸川区  大田区  葛飾区  北区  江東区
 品川区  渋谷区  新宿区  杉並区  墨田区  世田谷区  台東区  中央区
 千代田区  豊島区  中野区  練馬区  文京区  港区  目黒区
市部  昭島市  あきる野市  稲城市  青梅市  清瀬市  国立市  小金井市
 国分寺市  小平市  狛江市  立川市  多摩市  調布市  西東京市
 八王子市  羽村市  東久留米市  東村山市  東大和市  日野市  府中市
 福生市  町田市  三鷹市  武蔵野市  武蔵村山市
町村  奥多摩町  日の出町  瑞穂町  檜原村
島部  大島町  八丈町  青ヶ島村  三宅村  小笠原村  新島村


−都立−
都立 図書館名 所在地 電話番号
都立 中央 〒106-8575 港区南麻布五丁目7番13号 3442-8451
多摩 〒190-8543 立川市錦町六丁目3番1号 042-524-7186


−区部−
区 図書館名 所在地 電話番号
足立区 中央 〒120-0034 千住五丁目13番5号 5813-3740
(常東コミュニティ) 〒120-0026 千住旭町 9番16号 3881-8585
伊興 〒121-0823 伊興二丁目4番22号 3857-6537
梅田 〒123-0851 梅田七丁目13番1号 3840-4646
興本 〒123-0844 興野一丁目18番38号 3889-0370
江北 〒123-0872 江北三丁目39番4号 3890-4488
(新田コミュニティ) 〒123-0865 新田二丁目2番2号 3912-1767
(宮城コミュニティ) 〒120-0047 宮城一丁目15番14号 3913-0460
佐野 〒121-0053 佐野二丁目43番5号 3628-3275
鹿浜 〒123-0864 鹿浜六丁目8番1号 3857-6551
竹の塚 〒121-0813 竹の塚二丁目25番17号 3859-9966
東和 〒120-0003 東和三丁目12番9号 3628-6203
舎人 〒121-0831 舎人一丁目3番26号 3857-0771
花畑 〒121-0061 花畑四丁目16番8号 3850-2601
保塚 〒121-0072 保塚町 7番16号 3858-1553
やよい 〒121-0011 中央本町三丁目15番1号 3852-1433
荒川区 南千住 〒116-0003 南千住六丁目63番1号 3807-9221
(汐入図書サービスステーション) 〒116-0003 南千住八丁目12番5-114号 3807-8130
荒川 〒116-0002 荒川四丁目27番2号 3891-4349
尾久 〒116-0011 西尾久三丁目12番12号 3800-5821
日暮里 〒116-0014 東日暮里六丁目38番4号 3803-1645
冠新道図書サービスステーション) 〒116-0013 西日暮里六丁目25番14号 3800-3321
町屋 〒116-0001 町屋五丁目11番18号 3892-9821
板橋区 中央 〒174-0071 常盤台一丁目13番1号 3967-5261 ▲索引へ
赤塚 〒175-0092 赤塚六丁目38番1号 3939-5281
小茂根 〒173-0037 小茂根一丁目6番2号 3554-8801
清水 〒174-0054 泉町 16番16号(清水地域センター3階) 3965-9701
志村 〒174-0051 小豆沢一丁目8番1号 5994-3021
高島平 〒175-0082 高島平三丁目13番1号 3939-6565
成増 〒175-0094 成増三丁目13番1号 3977-6078
西台 〒175-0045 西台三丁目13番2号 5399-1191
蓮根 〒174-0046 蓮根三丁目15番1-101号 3965-7351
東板橋 〒173-0003 加賀一丁目10番15号 3579-2666
氷川 〒173-0013 氷川町 28番9号 3961-9981
江戸川区 中央 〒132-0021 中央三丁目1番3号 3656-6211 ▲索引へ
葛西 〒134-0013 江戸川六丁目24番地1 3687-6811
小岩 〒133-0052 東小岩六丁目15番2号 3672-0251
小松川 〒132-0035 平井一丁目11番26号 3684-6381
鹿骨コミュニティ) 〒133-0073 鹿骨一丁目54番2号 鹿骨区民館内 3678-6891
篠崎 〒133-0061 篠崎町七丁目20番19号 3670-9102
清新町コミュニティ) 〒134-0087 清新町一丁目2番2号 清新町コミュニティ会館内 3878-1926
(東部コミュニティ) 〒132-0014 東瑞江一丁目17番1号 東部区民館内 3679-1927
西葛西 〒134-0088 西葛西五丁目10番47号 5658-0751
東葛西 〒134-0084 東葛西八丁目22番1号 5658-4008
松江 〒132-0025 松江二丁目1番10号 3654-7251
大田区 大田 〒145-0076 田園調布南 25番1号 3758-3051 ▲索引へ
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大森西 〒143-0015 大森西五丁目2番13号 3763-1191
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羽田 〒144-0043 羽田一丁目11番1号 3745-3221
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寺島 〒131-0032 東向島三丁目34番4号 3611-4610
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八広 〒131-0041 八広五丁目10番1-104号 3616-0846
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梅丘 〒155-0033 代田四丁目38番10号 3323-8261
奥沢 〒158-0083 奥沢三丁目47番8号 3720-2096
尾山台 〒158-0082 等々力二丁目17番14号 3703-2581
粕谷 〒157-0063 粕谷四丁目13番6号 3305-1661
鎌田 〒157-0077 鎌田三丁目35番1号 3709-6311
上北沢 〒156-0057 上北沢三丁目8番9号 3290-3411
烏山 〒157-0062 南烏山六丁目2番19号 3326-3521
砧 〒157-0072 祖師谷三丁目10番4号 3482-2271
経堂 〒156-0051 宮坂三丁目1番30号 5451-0071
桜丘 〒156-0054 桜丘五丁目14番1号 3439-0741
下馬 〒154-0002 下馬二丁目32番1号 3418-6531
世田谷 〒154-0023 若林四丁目29番26号 3419-1911
代田 〒155-0033 代田六丁目34番13号 3469-5638
玉川台 〒158-0096 玉川台一丁目6番15号 3709-4164
深沢 〒158-0081 深沢四丁目33番11号 3705-4341
台東区 中央 〒111-8621 西浅草三丁目25番16号 5246-5911
(浅草橋分室) 〒111-0053 浅草橋二丁目8番7号 3863-0082
石浜 〒111-0023 橋場一丁目35番16号 3876-0854
根岸 〒110-0003 根岸五丁目18番13号 3876-2101
中央区 京橋 〒104-0045 築地一丁目1番1号 3543-9025
月島 〒104-0052 月島四丁目1番1号 3532-4391
日本橋 〒103-0013 日本橋人形町一丁目1番17号 3669-6207
千代田区 千代田 〒102-8688 九段南一丁目2番1号 千代田区役所9・10階 5211-4289・4290
四番町 〒102-0081 四番町 1番地 3239-6357
昌平まちかど 〒101-0021 外神田三丁目4番7号 3251-5641
神田まちかど 〒101-0048 神田司町二丁目16番地 3256-6061
豊島区 中央 〒170-8442 東池袋四丁目5番2号 ライズアリーナビル4・5階 3983-7861
池袋 〒171-0014 池袋三丁目29番10号 3985-7981
上池袋 〒170-0012 上池袋二丁目45番15号 3940-1779
駒込 〒170-0003 駒込二丁目2番2号 3940-5751
巣鴨 〒170-0002 巣鴨三丁目8番2号 3910-3608
千早 〒171-0044 千早二丁目44番2号 3955-8361
目白 〒171-0031 目白四丁目31番8号 3950-7121
中野区 中央 〒164-0001 中野二丁目9番7号 5340-5070
江古田 〒165-0022 江古田二丁目1番11号 3319-9301
上高田 〒164-0002 上高田五丁目30番15号 3319-5411
鷺宮 〒165-0032 鷺宮三丁目22番5号 3337-1044
野方 〒165-0027 野方三丁目19番5号 3389-0214
東中野 〒164-0003 東中野一丁目35番5号 3366-9581
本町 〒164-0012 本町二丁目13番2号 3373-1666
南台 〒164-0014 南台三丁目26番18号 3380-2661
練馬区 光が丘 〒179-0072 光が丘四丁目1番5号 5383-6500
稲荷山 〒178-0062 大泉町一丁目3番18号 3921-4641
大泉 〒178-0061 大泉学園町二丁目21番17号 3921-0991
春日町 〒179-0074 春日町五丁目31番2-201号 5241-1311
小竹 〒176-0004 小竹町二丁目43番1号 5995-1121
石神井 〒177-0045 石神井台一丁目16番31号 3995-2230
関町 〒177-0053 関町南三丁目11番2号 3929-5391
貫井 〒176-0021 貫井一丁目36番16号 3577-1831
練馬 〒176-0012 豊玉北六丁目8番1号 3992-1580
平和台 〒179-0083 平和台一丁目36番17号 3931-9581
南大泉 〒178-0064 南大泉一丁目44番7号 5387-3600
南田中 〒177-0035 南田中五丁目15番22号 5393-2411
文京区 真砂中央 〒113-0033 本郷四丁目8番15号 3815-6801
(根津図書室) 〒113-0031 根津二丁目20番7号 不忍通りふれあい館2階 3824-2608
(大塚公園みどりの図書室) 〒112-0012 大塚四丁目49番2号 3945-0734
(天神図書室) 〒113-0034 湯島三丁目20番7号 3837-1003
小石川 〒112-0002 小石川五丁目9番20号 3814-6745
水道端 〒112-0005 水道二丁目16番14号 3945-1621
千石 〒112-0011 千石一丁目25番3号 3946-7748
本郷 〒113-0022 千駄木三丁目2番6号 汐見地域センター内 3828-2070
本駒込 〒113-0021 本駒込四丁目35番15号 3828-4117
目白台 〒112-0014 関口三丁目17番9号 3943-5641
湯島 〒113-0033 本郷三丁目10番18号 湯島総合センター4階 3814-9242
港区 みなと 〒105-0011 芝公園三丁目2番25号 3437-6621
赤坂 〒107-0062 南青山一丁目3番3号 青山一丁目タワー3階 3408-5090
麻布図書サービスセンター 〒108-0073 三田一丁目10番4号 麻布十番日新ビル1階 3456-3225
港南 〒108-0075 港南三丁目3番17号 3458-1085
高輪 〒108-0074 高輪一丁目16番25号 高輪コミュニティぷらざ3階 5421-7617
三田 〒108-0014 芝五丁目28番4号 3452-4951
目黒区 八雲中央 〒152-0023 八雲一丁目1番1号 5701-2795
大橋 〒153-0044 大橋二丁目16番34号 3469-1323
洗足 〒152-0012 洗足二丁目8番26号 3719-7651
中目黒駅前 〒153-0051 上目黒二丁目1番3号 3710-7253
緑が丘 〒152-0034 緑が丘二丁目14番23号 3723-0661
目黒区民センター 〒153-0063 目黒二丁目4番36号 3711-1138
目黒本町 〒152-0002 目黒本町二丁目1番20号 3792-6325
守屋 〒153-0053 五本木二丁目20番15号 3711-7465


−市部−
市 図書館名 所在地 電話番号
昭島市 市民 〒196-0033 東町二丁目6番33号 042-543-1523
(つつじが丘分室) 〒196-0012 つつじが丘三丁目1番30号 042-545-5448
(やまのかみ分室) 〒196-0002 拝島町三丁目10番3号 042-543-3947
昭和分館 〒196-0003 松原町一丁目2番25号 042-546-8851
緑分館 〒196-0004 緑町四丁目13番26号 042-544-8818
あきる野市 中央 〒197-0804 秋川一丁目16番地2 042-558-1108
東部図書館エル 〒197-0823 野辺 39番地27 042-550-5959
五日市 〒190-0164 五日市 368番地 042-595-0236
増戸分室 〒190-0142 伊奈 1157番地5 042-596-0109
稲城市 中央 〒206-0803 向陽台四丁目6番地の18 042-378-7111
iプラザ 〒206-0824 青葉台二丁目5番地の2(稲城市立iプラザ内) 042-331-1731
第一 〒206-0802 東長沼 2111番地 042-377-2123
第二 〒206-0812 矢野口 1780番地 042-377-1866
第三 〒206-0823 平尾一丁目20番地の5 042-331-1439
第四 〒206-0802 東長沼 271番地 042-378-2401
青梅市 中央 〒198-0036 河辺町 十丁目8番地の1 0428-22-6543
今井 〒198-0023 今井二丁目908番地の1 0428-31-8600
青梅 〒198-0082 仲町268番地の9 0428-20-7150
小曾木 〒198-0003 小曾木三丁目1656番地の1 0428-74-5332
河辺 〒198-0036 河辺町六丁目18番地の1 0428-22-4885
沢井 〒198-0172 沢井二丁目682番地 0428-78-8304
新町 〒198-0024 新町四丁目17番地の1 0428-31-7337
大門 〒198-0014 大門二丁目288番地 0428-31-2251
長淵 〒198-0052 長淵六丁目492番地の1 0428-22-3249
成木 〒198-0001 成木四丁目644番地 0428-74-5204
梅郷 〒198-0063 梅郷三丁目749番地の1 0428-76-0404
東青梅 〒198-0031 師岡町三丁目9番地の6 0428-24-8110
清瀬市 中央 〒204-0024 梅園一丁目1番21号 042-493-4326
駅前 〒204-0021 元町一丁目4番5号 クレア4階 042-492-8751
下宿 〒204-0001 下宿二丁目524番地の1 下宿地域市民センター内 042-495-5432
竹丘 〒204-0023 竹丘一丁目11番1号 竹丘地域市民センター内 042-495-1555
野塩 〒204-0004 野塩一丁目322番地の2 野塩地域市民センター内 042-493-4086
元町 〒204-0021 元町一丁目6番6号 清瀬市民センター内 042-495-8666
国立市 くにたち中央 〒186-0003 富士見台二丁目34番地 042-576-0161
くにたち北市民プラザ 〒186-0001 北三丁目1番地の1 北市民プラザ内9号棟1階 042-580-7220
(青柳分室) 〒186-0013 青柳 244番地 青柳福祉センター内 042-540-7367
下谷保分室) 〒186-0011 谷保 5066番地 下谷保地域防災センター内 042-580-7215
(東分室) 〒186-0002 東三丁目18番地の32 東福祉館内 042-580-7219
(谷保東分室) 〒186-0011 谷保 135番地の1 谷保東集会所内 042-580-7214
(南市民プラザ分室) 〒186-0012 泉二丁目3番地の2 南市民プラザ内1号棟1階 042-580-7216
小金井市 市立(本館) 〒184-0004 本町一丁目1番32号 042-383-1138
東分室 〒184-0011 東町一丁目39番1号 042-383-4550
(西之台会館図書室) 〒184-0013 前原町三丁目8番1号 042-385-9563
緑分室 〒184-0003 緑町三丁目3番23号 042-387-7302
国分寺市 本多 〒185-0011 本多一丁目7番1号 042-324-2022
駅前分館 〒185-0012 本町三丁目2番17号 042-324-0505
恋ケ窪 〒185-0013 西恋ケ窪四丁目12番地8 042-324-1927
並木 〒185-0005 並木町二丁目12番地3 042-321-9972
光 〒185-0034 光町三丁目13番地19 042-576-5907
もとまち 〒185-0022 東元町二丁目3番13号 042-325-4222
小平市 中央 〒187-0032 小川町二丁目1325番地 042-345-1246
(小川分室) 〒187-0032 小川町一丁目1012番地 小川公民館内 042-345-3877
(上水南分室) 〒187-0021 上水南町一丁目27番1号 上水南公民館内 042-325-4151
(花小金井北分室) 〒187-0002 花小金井五丁目41番3号 花小金井北公民館内 0424-63-8377
大沼 〒187-0001 大沼町一丁目128番地 042-342-2001
小川西町 〒187-0035 小川西町四丁目10番13号 042-343-1200
上宿 〒187-0032 小川町一丁目345番地 042-344-3360
喜平 〒187-0044 喜平町三丁目3番18号 042-325-1300
津田 〒187-0025 津田町三丁目11番1号 042-341-1245
仲町 〒187-0042 仲町 145番地 042-344-7151
花小金井 〒187-0002 花小金井一丁目8番1号 0424-67-1215
狛江市 中央 〒201-8585 和泉本町一丁目1番5号 03-3488-4414
立川市 中央 〒190-0012 曙町二丁目36番2号 042-528-6800
上砂 〒190-0032 上砂町一丁目13番地の1 042-535-1531
幸 〒190-0002 幸町五丁目83番地の1 042-536-8308
柴崎 〒190-0023 柴崎町一丁目1番43号 042-525-6177
高松 〒190-0011 高松町三丁目22番5号 042-527-0015
多摩川 〒190-0013 富士見町六丁目51番1号 042-525-6905
錦 〒190-0022 錦町三丁目12番25号 042-525-7231
西砂 〒190-0034 西砂町六丁目12番地の10 042-531-0432
若葉 〒190-0001 若葉町三丁目34番地の1 042-535-8841
多摩市 市立 〒206-0033 落合二丁目29番地 042-373-7955
(行政資料室) 〒206-8666 関戸六丁目12番地1 第2庁舎 042-338-6888
関戸 〒206-0011 関戸一丁目1番地5 ザ・スクエア 2階 042-371-1004
豊ケ丘 〒206-0031 豊ケ丘五丁目6番地 042-374-6581
永山 〒206-0025 永山一丁目5番地 ベルブ永山3階 042-337-6211
東寺方 〒206-0003 東寺方 626番地7 042-371-2242
聖ケ丘 〒206-0022 聖ケ丘二丁目21番地1 042-339-7333
調布市 中央 〒182-0026 小島町二丁目33番地1 042-441-6181
国領分館 〒182-0022 国領町三丁目12番地1 042-484-2000
佐須分館 〒182-0016 佐須町四丁目42番地2 042-485-1306
神代分館 〒182-0006 西つつじケ丘一丁目40番地5 042-485-0054
深大寺分館 〒182-0011 深大寺北町五丁目6番地1 042-485-3350
染地分館 〒182-0023 染地三丁目3番地1 042-488-8393
調和分館 〒182-0006 西つつじケ丘四丁目22番地6 調和小学校内     042-485-2000
富士見分館 〒182-0033 富士見町二丁目3番地26 042-481-7664
緑ケ丘分館 〒182-0001 緑ケ丘二丁目25番地 03-3300-7672
宮の下分館 〒182-0035 上石原三丁目34番地10 042-486-5798
若葉分館 〒182-0003 若葉町三丁目16番地13 03-3309-3411
西東京市 中央 〒188-0012 南町五丁目6番11号 042-465-0823
新町分室 〒202-0023 新町五丁目2番7号 0422-55-1783
芝久保 〒188-0014 芝久保町五丁目4番48号 042-465-9825
ひばりが丘 〒202-0001 ひばりが丘一丁目2番1号 042-424-0264
保谷駅前 〒202-0012 東町三丁目14番30号 042-421-3060
谷戸 〒188-0001 谷戸町一丁目17番2号 042-421-4545
柳沢 〒202-0022 柳沢一丁目15番1号 042-464-8240
八王子市 中央 〒193-0835 千人町三丁目3番6号 042-664-4321
(北野分室) 〒192-0906 北野町 545番地3 きたのタウンビル7階 042-642-1350
川口 〒193-0801 川口町 3838番地 川口やまゆり館内 042-654-8448
生涯学習センター 〒192-0082 東町 5番6号 クリエイトホール2・3階 042-648-2233
南大沢 〒192-0364 南大沢二丁目27番地 フレスコ南大沢地下1階 042-679-2201
羽村市 羽村市 〒205-0003 緑ケ丘二丁目11番地2 042-554-2280
(小作台図書室) 〒205-0001 小作台五丁目6番地4 042-579-1523
(加美分室) 〒205-0016 羽加美三丁目10番12号 042-554-0130
(川崎分室) 〒205-0021 川崎四丁目2番4号 042-554-7225
(富士見平分室) 〒205-0013 富士見平一丁目18番地 042-555-5301
東久留米市 中央 〒203-0054 中央町二丁目6番23号 042-475-4646
滝山 〒203-0033 滝山四丁目1番10号 042-471-7216
東部 〒203-0011 大門町二丁目10番5号 042-470-8022
ひばりが丘 〒203-0022 ひばりが丘団地 185号 042-463-3996
東村山市 中央 〒189-0014 本町一丁目1番地10 042-394-2900
秋津 〒189-0001 秋津町二丁目17番地10 042-391-0930
萩山 〒189-0012 萩山町二丁目13番地1 042-393-3172
富士見 〒189-0024 富士見町一丁目7番地35 042-395-7241
廻田 〒189-0025 廻田町四丁目19番地1 042-392-2334
東大和市 中央 〒207-0015 中央三丁目930番地 042-564-2454
清原 〒207-0011 清原四丁目1番地 清原市民センター内 042-564-2944
桜が丘 〒207-0022 桜が丘三丁目44番地の13 桜が丘市民センター内 042-567-2231
日野市 中央 〒191-0053 豊田二丁目49番地 042-586-0584
市政図書室 〒191-0016 神明一丁目12番地の1 042-585-1111
高幡 〒191-0032 三沢四丁目1番地の12 042-591-7322
多摩平 〒191-0062 多摩平二丁目9番地 042-583-2561
日野 〒191-0011 日野本町七丁目5番地の14 042-584-0467
平山 〒191-0043 平山五丁目18番地の2 042-591-7772
百草 〒191-0033 百草 204番地の1 042-594-4646
府中市 中央 〒183-0055 府中町二丁目24番地 ルミエール府中3・4・5階 042-362-8647
押立 〒183-0012 押立町五丁目4番地 042-483-4122
片町 〒183-0021 片町二丁目17番地 042-368-7117
是政 〒183-0014 是政二丁目20番地 042-360-2882
生涯学習センタ- 〒183-0001 浅間町一丁目7番地 042-336-5702
白糸台 〒183-0011 白糸台一丁目60番地 042-360-3443
新町 〒183-0052 新町一丁目66番地 042-360-6336
住吉 〒183-0034 住吉町一丁目61番地 042-360-5775
西府 〒183-0031 西府町一丁目10番地 042-360-8998
宮町 〒183-0023 宮町三丁目1番地 042-364-3613
武蔵台 〒183-0042 武蔵台二丁目2番地 042-576-6390
紅葉丘 〒183-0004 紅葉丘二丁目1番地 042-360-7227
四谷 〒183-0035 四谷二丁目75番地 042-360-3663
福生市 中央 〒197-0003 熊川 850番地1 042-553-3111
武蔵野台 〒197-0013 武蔵野台一丁目12番地2 042-553-8881
わかぎり 〒197-0011 福生 1280番地1 042-552-7421
わかたけ 〒197-0003 熊川 199番地1 042-551-0083
町田市 中央 〒194-0013 原町田三丁目2番9号 042-728-8220
金森 〒194-0012 金森 1021番地 042-710-1717
木曽山崎 〒195-0074 山崎町 2160番地 042-793-6767
堺 〒194-0211 相原町 795番地1 042-774-2131
さるびあ 〒194-0021 中町二丁目13番23号 042-722-3768
鶴川 〒195-0061 鶴川六丁目7番地2(1棟101号) 042-735-5691
三鷹市 三鷹 〒181-0012 上連雀八丁目3番3号 0422-43-9151
下連雀 〒181-0013 下連雀六丁目13番13号 0422-43-9159
西部 〒181-0015 大沢二丁目6番47号 0422-33-1311
東部 〒181-0002 牟礼五丁目8番16号 0422-49-3851
三鷹駅前 〒181-0013 下連雀三丁目13番10号 0422-71-0035
武蔵野市 中央 〒180-0001 吉祥寺北町四丁目8番3号 0422-51-5145
吉祥寺 〒180-0004 吉祥寺本町一丁目21番13号 0422-20-1011
西部 〒180-0022 境五丁目15番5号 0422-53-1811
武蔵村山市 雷塚 〒208-0011 学園四丁目4番地 042-564-1284
大南地区 〒208-0013 大南五丁目1番地の69 042-562-3243
残堀・伊奈平地区 〒208-0034 残堀一丁目60番地の3 042-560-0171
中久保 〒208-0004 本町二丁目77番地の1 042-569-1501
中藤地区 〒208-0001 中藤三丁目16番地 042-565-0112
三ツ木地区 〒208-0032 三ツ木二丁目39番地の2 042-560-3301


−町・村−
町・村 図書館名 所在地 電話番号
奥多摩町
町のホームページに図書館の案内を掲載 古里 〒198-0105 小丹波 82番地 0428-85-1618(内200)
氷川 〒198-0212 氷川 199番地のロ 0428-83-8227
日の出町 日の出町立 〒190-0192 平井 2780番地 042-597-3496
大久野分室 〒190-0181 大久野 1167番地の6 042-597-5747
瑞穂町 瑞穂町 〒190-1211 大字石畑 1962番地 042-557-5614
殿ケ谷会館図書室 〒190-1212 大字殿ケ谷 988番地 042-556-5370
長岡図書室 〒190-1231 大字長岡長谷部 248番地 042-557-5980
武蔵野コミュニティセンター図書室 〒190-1214 むさし野一丁目5番地 042-570-0555
元狭山ふるさと思い出館図書室 〒190-1201 大字二本木 710番地 042-556-3233
檜原村
村のホームページに図書館の案内を掲載 檜原村立 〒190-0214 西多摩郡檜原村 621番地1号 042-598-1160


−島部−
島部 図書館名 所在地 電話番号
大島町 大島町 〒100-0101 元町一丁目15番1号 04992-2-2392
八丈町
町のホームページに図書館の案内を掲載 八丈町 〒100-1511 三根 26-6 04996-2-0797
青ヶ島村 青ヶ島村 〒100-1701 青ヶ島村無番地 04996-9-0201(教育委員会)
三宅村 三宅村立 〒100-1212 三宅村阿古497 04994-5-1453
小笠原村 地域福祉センター父島図書室 〒100-2101 父島字奥村 04998-2-2911
母島村民会館図書室 〒100-2211 母島字元地 04998-3-2106
新島村 住民センター図書室 〒100-0402 本村一丁目1番1号 04992-5-0203




日本国憲法 4万字

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日本国憲法

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日本国憲法

日本の法令
通称・略称 憲法昭和憲法、現行憲法など
法令番号 昭和21年11月3日憲法
効力 現行法
種類 憲法
主な内容 国民主権基本的人権の尊重、平和主義、象徴天皇制など
関連法令 大日本帝国憲法皇室典範、国会法、内閣法、裁判所法、人身保護法、国際法、国籍法、日本国憲法の改正手続に関する法律、公職選挙法、政党助成法、宗教法人法など
条文リンク 総務省法令データ提供システム
表・話・編・歴
日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、日本國憲法)は、日本国の現行の憲法典である。

日本国憲法は、第二次世界大戦における大日本帝国の敗戦後の被占領期に、大日本帝国憲法の改正手続を経て1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。施行されてから現在まで一度も改正されていない。そのため、日本国憲法の原本は旧かなづかいで漢字表記は、当用漢字以前の旧漢字体である。

国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を採り、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、国会・内閣・裁判所・地方自治などの国家の統治機構と基本的秩序を定める。この他、戦争の放棄と戦力の不保持が定められていることも特徴的である。

日本国の最高法規に位置づけられ(98条)、下位規範である法令等によって改変することはできない。また、日本国憲法に反する法令や国家の行為は、原則として無効とされる。




目次 [非表示]
1 概要
1.1 「憲法」の意味
1.2 成文憲法
1.3 硬性憲法
1.4 人権・統治規定
1.5 特色
2 基本理念・原理
2.1 憲法の目的と手段(個人の尊厳)
2.1.1 近代憲法日本国憲法の関係
2.1.2 憲法の本質ないし根本規範
2.2 基本的人権尊重主義
2.2.1 自由主義
2.2.2 福祉主義
2.2.3 平等主義
2.2.4 人権保障の限界
2.2.4.1 公共の福祉を根拠とする人権制限
2.2.4.2 その他の根拠に基づく人権制限
2.3 平和主義(戦争放棄
2.4 権力分立制
2.5 国民主権主義(民主主義)
2.6 法の支配
3 日本国憲法の構成
3.1 人権規定
3.1.1 包括的自由権法の下の平等
3.1.2 精神的自由
3.1.3 経済的自由
3.1.4 人身の自由
3.1.5 受益権
3.1.6 社会権
3.1.7 参政権
3.2 統治規定
3.2.1 国会
3.2.2 内閣
3.2.3 裁判所
3.2.4 財政・地方自治
3.3 憲法保障
3.4 憲法改正
4 制定史
4.1 大日本帝国憲法
4.2 日本国憲法の制定
4.2.1 ポツダム宣言の受諾と占領統治
4.2.2 日本政府および日本国民の憲法改正動向
4.2.3 マッカーサー草案
4.2.3.1 マッカーサー憲法改正権限(ホイットニー・メモ)
4.2.3.2 毎日新聞によるスクープ報道の波紋
4.2.3.3 総司令部による意思決定 
4.2.4 日本政府案の作成と議会審議
4.2.5 芦田修正について
4.2.6 日本国憲法の公布と施行
4.2.7 占領下における日本国憲法の効力
5 議論
5.1 成立の法理
5.1.1 大日本帝国憲法の改正の限界
5.1.2 占領軍の関与
5.2 憲法改正手続
5.3 そのほか各種の議論
6 憲法典に述べられていない問題
6.1 領土
6.2 国家の自己表現
7 日本国憲法の解釈
8 注釈・出典
9 関連書
10 関連項目
10.1 用語
10.2 制度・組織
10.3 法律・条約
10.4 その他
11 発行物
12 外部リンク

概要
日本の統治機構
日本国憲法
天皇
立法 行政 司法
国会
衆議院
参議院 内閣(鳩山内閣
内閣総理大臣
国務大臣
 ・行政機関 裁判所
最高裁判所
下級裁判所
地方自治
地方公共団体
・地方議会  
・首長
国民(主権者)
・日本の選挙 ・日本の政党
憲法」の意味
詳細は「憲法」を参照

憲法」という言葉には多くの意味があり、一義的ではない。次の3つの重要な意味がある。

形式的意味の「憲法」:「○○国憲法」など、憲法という形式を与えられた文書(憲法典)のこと。
実質的(固有の)意味の「憲法」:国家の統治の基本を定めた法のこと。
立憲的(近代的)意味の「憲法」:国家の専断を排し、国民の権利を保障するという立憲主義に基づく憲法のこと。
日本国憲法は、

日本国憲法」という形式の文書であることから、形式的意味の「憲法」にあたる。
日本における国家の統治の基本を定めた法典であることから、実質的(固有の)意味の「憲法」を定めているといえる。
基本的人権の保障を定め、そのための統治機構を規定した憲法典であることから、立憲的(近代的)意味の「憲法」を定めているといえる。
成文憲法
憲法は、多くの国では、憲法典という文書の形で制定される。これを成文憲法(成文法)という。日本国憲法成文憲法である。成文憲法の対義語は不文憲法である。誤解を招く表現であるが、不文憲法憲法典の不存在を意味するに過ぎず、憲法が全く文書によって規定されていないことまでも意味するものではない。著名な不文憲法の国としてはイギリスがある。イギリスには成文の憲法典はなく、大憲章(マグナ・カルタ)をはじめとする多くの文書や通常の法律、慣習法などの憲法的規律によって国家秩序が定められている。

硬性憲法
通常の法令の改正要件に比べて、改正のための要件が加重されている成文憲法硬性憲法という。これに対して、通常の法令と同様の要件によって改正できる憲法軟性憲法という。多くの近代憲法硬性憲法となっており、硬性憲法とすることによって、憲法に示された国家の基本的秩序を軽率に改変できないようにした。

日本国憲法は、改正の要件を「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民…の過半数の賛成を必要とする」(96条)と定め、通常の法律の成立要件である「両議院で可決したとき」(59条1項)よりも加重している。したがって、日本国憲法硬性憲法であると言える。

硬性憲法であっても、日本のように改正の少ない国もあれば、ドイツやフランスのように頻繁に改正する国もある[1]。また、イギリスのように、軟性憲法かつ不文憲法であっても、憲法的規律を容易には変えない国もある。

人権・統治規定
憲法には多くの場合、表現の自由や選挙権などの国民の権利についての規定(人権規定)と、立法府や行政府などの国家統治の基本的な組織についての規定(統治規定)が盛りこまれる。この人権規定の背後には自由主義があり、統治規定の背後には民主主義がある。これが近代的意味の憲法の特質である。日本国憲法も、人権規定と統治規定を含む。

特色
立憲君主制や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国防軍文民統制なども多くの国で採用され、憲法典に定められている。日本国憲法でもこれらの多くが採用され、さらに、象徴天皇制というかたちの立憲君主制や、戦力放棄規定、刑事手続(犯罪捜査・裁判の手続き)についての詳細な規定など、日本国憲法に特徴的なものもある。

これら個々の規定・条項にも増して重視されるのは、憲法が国家の基本的な秩序を定めた最高規範であるということから、その背後にある、国のあり方についての理念である。これを「主義」「原理」「原則」などと表現することもある。日本国憲法では、この理念の中心に「個人として尊重」(13条)、「個人の尊厳」(24条)という個人の尊厳の原理(個人主義ともいう)を置く見解が一般的である(異説もある)。個人の尊厳の原理は、人間の人格不可侵の原則とも言う。個人の価値を裁定するのは人間や社会ではなく、一人一人の個人は人間として最大限の尊重を受けるという考え方である。ここに、利己主義や、放縦な他害行為を容認するという考え方とは厳しく区別されねばならない。

基本理念・原理

日本国憲法原本「上諭」(1頁目)

日本国憲法原本「御名御璽(ぎょめいぎょじ)と大臣の副署」(2頁目)

日本国憲法原本「大臣の副署」「前文」(3頁目)
憲法の目的と手段(個人の尊厳)
日本国憲法は、「個人の尊厳」の原理(13条)の達成を目的とする とするのが憲法学の通説ないし定説である。これは、人間社会のあらゆる価値の根元が個人にあり、他の何にもまさって個人を尊重しようとする原理 である。「個人の尊厳」の意味については、具体的に明言されることは少ないが、およそ個々の人間の幸福という意味に理解されている。

個人の尊厳の原理の具体化手段としては、

基本的人権尊重主義
自由主義
福祉主義
平等主義
平和主義
権力分立制
民主主義(国民主権主義)
法の支配
を挙げるのが通説ないし定説といえる。

基本的人権尊重主義は、自由主義と平等主義とから成るが、自由主義を修正するものとして福祉主義も含んでいる。

個人一人一人が、人間として最大限の尊重を受けるからこそ、その基本的人権(自由)は尊重されねばならず、また、そのためには個人一人一人の考えを政治に反映させねばならないことから、民主主義(国民主権)が求められる。そして、個人が尊重される前提として平和な国家・社会が作られねばならないことから、平和主義(戦争の放棄)が採られる。

近代憲法日本国憲法の関係
近代憲法とは、近代立憲主義の精神(憲法に基づいて政治を行おうとする考え)に基づいて制定された憲法である。(権力者による権力濫用を阻止し、名宛人の利益保護を目的とする) そして、近代立憲主義の3原則としては、国民主権・人権保障・権力分立を挙げる説が有力である。日本国憲法は、近代立憲主義の原則を含んでいるといえる。

憲法の本質ないし根本規範
他方で、日本国憲法の中核をなす原理としては、基本的人権尊重主義・国民主権(民主主義)・平和主義を挙げる説が有力である。

一般に憲法は制憲権(憲法制定権力)に由来するものといえるが、日本国憲法については制憲権の上位規範として、個人の尊厳を中核とした原理(基本的人権尊重・国民主権主義・平和主義)の総体(自然法)というべきものが存在する という自然法型制憲権説が多数説である。(制憲権はこの自然法に拘束される)

基本的人権尊重主義や国民主権主義は各国の近代憲法においても重視される。他国の憲法においては平和主義の代わりに権力分立(三権分立)をいれる場合も多い。基本的人権の尊重の背後には自由主義があり、国民主権主権在民)の背後には民主主義がある。この両主義を融合して、自由民主主義(リベラルデモクラシー)ともいう。もっとも、これは両主義が全く並列にあることを示してはいない。自由民主主義は、自由主義を基礎とし、自由主義を実現する手段として民主主義が採られることを示す。これは、民主主義の名の下に、多数決により、広く自由を蹂躙した苦い歴史を踏まえて打ち立てられた考え方だからである。それゆえ、自由主義基本的人権の尊重こそが、憲法の最も重要な要素であるともされる。

これらは、根本法理、根本規範などとも呼ばれ、憲法改正手続を経たとしても否定することはできないと考える(限界説)のが多数説である。

ただし、この改正限界説に立っても、例えば基本的人権尊重主義については、基本的人権の尊重という原理が維持されていれば、個々の人権規定を改正することは可能である。例えば、個々の人権の規定を改正しても基本的人権の尊重を否定する内容でなければよい。
このように、自由主義・民主主義、そして平和主義は、基本的人権の尊重・国民主権主権在民)・平和主義(戦争の放棄)という日本国憲法の三大原理の背後にある考え方として尊重・保障されている。他方、日本国憲法には、自由主義・民主主義・平和主義に一見対立するとも見られる考え方も、その内実として含む。自由主義に対しては「公共の福祉」が、民主主義に対しては間接民主制が、平和主義に対しては自衛権の行使が各々対峙する。しかし、これらは、両者を伴って初めて安定的に機能する仕組みであると言える。

基本的人権尊重主義
基本的人権の尊重とは、個人が有する人権を尊重することをいい、自由主義と平等主義とから成る。

自由主義
憲法自由主義原理が採用されるのは、“個人に至上価値を認める以上は、各人の自己実現は自由でなければならないからであり、また、自由は民主政の前提となるもの”だからである。

自由主義の内容を人権面と統治構造に分けてみると、

人権 自由権の保障 第3章 11条 97条
統治
権力分立制 41条 65条 76条(国家権力の濫用防止のため)
二院制 42条(慎重・合理的な議事のため)
地方自治制 92条〜(中央と地方での抑制・均衡を図るため)
違憲審査制 81条(少数者の自由確保のため)
となる。

当初は、国家権力による自由の抑圧から国民を解放するところに重要な意味があった。基本的人権は、単に「人権」「基本権」とも呼ばれ、特に第3章で具体的に列挙されている(人権カタログ)。かかる列挙されている権利が憲法上保障されている人権であるが、明文で規定されている権利を超えて判例上認められている人権も存在する(「知る権利」、プライバシーの権利など)。

また、権力の恣意的な行使により個人の人権が抑圧されることを回避するため、統治機構は権力が一つの機関に集中しないように設計され(権力分立や地方自治)、個人が虐げられることのないように自由主義的に設計されているといわれる。

基本的人権の尊重は、古くは、人間の自由な思想・活動を可能な限り保障しようとする自由主義を基調とする政治的理念であった。政治的な基本理念である「自由主義」は、国家権力による圧制からの自由を意味し、国家からの自由の理念を示すため、「立憲主義」と表現されることも多い。特に、権力への不信を前提にすることから、単に「国家からの自由」ともいわれる。民主政治の実現過程において、国家権力による強制を排除して個人の権利の保障をするための理念として自由主義は支持された。自由主義は、政治的には市民的自由の拡大、経済的には自由政策の維持として表れるといわれている。さらに、自由主義は、個人の幸福を確保することを意図した理念でもあることから、国民が個人の集合体に変化するのにともなって、国のあり方を決定づける理念として把握されるようにもなった。日本国憲法における国家組織の規定も、国民主権の考え方と相互に関連して、自由主義を踏襲している。

福祉主義
憲法において福祉主義が採られるのは、資本主義の高度化は貧富の差を拡大し、夜警国家政策の下では、経済的弱者の生活水準の確保ないし個人の尊厳の確保が困難となったからとされる。

その内容を人権面と統治構造に分けると、

人権 社会権の保障 25条〜28条
統治 積極国家化(行政国家化)
が挙げられる。

ただし、積極国家化は自由主義原理と緊張関係にあり、一定の限界があるともいわれる。

現代においては、初期の自由政策的な経済によって貧富の格差が生じたことから、自由主義は、社会権所得の再分配など)による修正を受けるようになった。他方で、現代民主主義が個人の自由の保障に強く依存するのにともなって、自由主義は飛躍的にその重要度を増した。特に、ナチス・ドイツが民主制から誕生し、甚大な惨禍をもたらしたことから、国民の自由を保障できない制度は、民主主義といえないことが認識され、自由主義と民主主義が不可分に結合した立憲的民主主義(自由民主主義)が一般化し、自由は、民主主義に欠くことができない概念として多くの国で認知されるようになった。日本国憲法でも、個々の自由と国家が衝突する場面において、自由を優先させる趣旨の規定が見られる(違憲審査権による基本的な人権の保護など)。

平等主義
平等主義は、原則として、「機会の平等」(自由と結びついた形式的平等)を意味し、内容としては、

人権
法の下の平等 14条1項
両性の本質的平等
等しく教育を受ける権利
統治
平等選挙 44条
普通選挙 15条3項
貴族制度の否定 14条2項
栄典の限界 14条3項
が挙げられる。

ただし、資本主義下で貧富の拡大した状況下での弱者の個人の尊厳確保のための修正理念として、平等の理念には「結果の平等〜条件の平等」(社会権と結びついた実質的平等(福祉主義))も含むとされる。

人権保障の限界
憲法における自由主義ないし人権保障とは、国家から侵害を受けないことを意味する。そして、人権が不可侵のものとして保障されている以上、国家は人権を制限できない(国会は人権を制限する法律を制定できず、行政権は人権を制限する行為ができない)のが原則である。

しかしそれでは、例えば通貨偽造を犯した者を処罰することもできず、他人の名誉を毀損する言論を制限することもできず、およそ近代国家は成り立ち得ない。そこで、一定の場合には人権を制限できる(国会は人権を制限する法律を制定できる)とすべきとの価値判断がなされる。

人権を制限できる場合としては、「憲法が特に認めた場合(18条等)」があるが、それ以外にも一般に「公共の福祉」12条を根拠に制限できるとされる。

公共の福祉を根拠とする人権制限
公共の福祉を根拠に人権を制約できるとされる場合、どのような基準・範囲で人権を制限できるか、すなわち「公共の福祉」の意味については争いがあり、22条や29条のような明文がある場合に限って制限できるとする説もある。しかし、通説は、すべての人権について制限が可能と解しており、その理論構成として「公共の福祉は各個人の基本的人権の保障を確保するため基本的人権相互の矛盾・衝突を調整する「公平の原理」であり、したがってすべての人権について制限できる」との論旨を主張している。(一元的内在制約説)(一定の場合には国家はすべての種類の人権を制限できるとすべき との価値判断が最初にあり、その条文上の根拠として「公共の福祉」が用いられ、公共の福祉とは…公平の原理である とする解釈が採られる) このように、公共の福祉を人権相互間の調整原理であると考えることによって、制約はすべての人権に内在するものという結論を導くことになる。そこで、「公共の福祉」という語は明文上、12条、13条、22条1項、29条2項にしかないものの、すべての人権が「公共の福祉」により制約され得ることとなる。

但し、そこでは制限目的の合理性と制限手段の合理性が必要とされ、これらの合理性がない立法は立法権の裁量を逸脱し違憲とされる。但し、制限目的や制限手段の具体的限界や司法審査における判断基準(合憲性判定基準/違憲審査基準)は、権利の性質によって異なる。

その他の根拠に基づく人権制限
公共の福祉を根拠としない場合でも、憲法が特に認めた場合には人権は制限できる、とされる。

憲法に規定がある場合(刑罰・財産収用・租税賦課/徴収・憲法尊重擁護義務)
公共の福祉を根拠とするのに問題があるが、憲法の明文もない事例として、在監関係・公務員関係・未成年者の人権制限がある。これらについては、「憲法秩序の構成要素」であるから という論拠と、未成年者の保護・育成のため憲法が認めている という論拠を主張する説が有力である。
憲法秩序の構成要素とされる場合(在監関係・公務員関係)
未成年者の保護・育成のための措置(未成年者の人権制限)
これらの場合も制限目的の合理性と制限手段の合理性が必要とされ、これらの合理性がない立法は違憲と考えることができる。
国家からの自由という理念から、日本国憲法の重要な原則である基本的人権の尊重が導かれる。前文では「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し(後略)」と規定され、11条では「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と宣言されている。また、「表現の自由」(21条1項)など第3章の詳細な人権規定、権力分立による権力集中の防止(これによる権利の濫用の防止)、裁判所の違憲立法審査権(民主的意思決定による基本的人権の侵害を防止・81条)、憲法最高法規性(第10章)など、ほとんどすべての規定が自由主義の理念のあらわれといえる。

平和主義(戦争放棄
平和主義は、自由主義と民主主義という二つの重要な理念とともに、日本国憲法の理念を構成する。平和主義は、平和に高い価値をおき、その維持と擁護に最大の努力を払うことをいう。平たくいえば、「平和を大切にすること」である。

平和主義の内容は、

人権 平和的生存権の権利性 - ただし、判例及び有力説は、平和的生存権の権利性を否定する。
統治
戦争の放棄
戦力の不保持
交戦権の否認
国務大臣文民
とされる。

平和状態が国民生活基盤において重要であることについてほとんど争いはない。むしろ、その平和な状態を国際秩序においていかにして確保するかという点で、激しい論争がある。平和主義は、多くの国で採用されている国際協調主義の一つと位置づけることができる。深刻な被害をもたらした第一次世界大戦後、自由主義・民主主義と結びつき、国民生活の基盤としての平和主義が理念として発展した。

しかし第二次世界大戦後の日本では歴史的経緯をふまえ、日本国憲法前文および9条に強く示されるように、国際協調主義を超えた平和主義がめざされてきたと指摘されることもある。

日本国憲法は9条1項で、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳っている。さらに同条2項では、1項の目的を達するために「陸海空軍その他の戦力」を保持しないとし、「国の交戦権」を認めないとしている。つまり、国際平和のために日本は戦力をもたない、ということである。この点について、まず、日本は自衛戦争も放棄したとする解釈がある。この解釈は自衛の為の武力行使さえも行き過ぎると戦争に及ぶものとしたもので、即ち日本は全ての戦争を放棄しているとの解釈である。この解釈の背景には、近代以降の戦争の多くがたとえ侵略的性格をもったものであっても大義名分としては自衛や紛争解決等の名の下に行われてきたことから、「正しい」戦争の範囲を定めることは実際には困難であるという問題意識がある。またこの見解に立つならば、武力を持たなくても安心な世界を実現するにはどうしたらいいかという根本的な問題が議論されなければならないことになる。

他方、憲法9条は、国権の発動たる戦争を放棄しているが、多国籍軍の制裁戦争(国際法上の戦争概念)への参加や、独立国家に固有の自衛権までも放棄することを意味しない、とする解釈もある。この見解によれば、国家がその平和と独立を維持するためには、それを自ら防衛する権能を持つことが求められるからである。そして、自衛のための必要最小限度の実力(自衛隊)は、2項に言う「戦力」にあたらないと解される(1950年代以降の政府見解)。このように、平和主義と自衛権の行使は、対立するものではなく、達するべき目的とそれを実現するための手段という関係にある、という解釈も成り立つとされる。その代わりに政府は、海外派兵および集団的自衛権の行使(自国が攻撃されたわけでもないのに同盟国が行う実力行使に参加すること)は違憲であるという公式解釈上の歯止めを示してきた。1990年代以降は自衛隊海外派遣と憲法9条の平和主義との整合性をめぐって激しい論争が行われている。

平和主義という言葉は多義的である。法を離れた個人の信条などの文脈における平和主義は(一切の)争いを好まない態度を意味することが多い。一方で、憲法理念としての平和主義は、平和に価値をおき、その維持と擁護に政府が努力を払うことを意味することが多い。日本国憲法における平和主義は、通常の憲法理念としての平和主義に加えて、戦力の放棄が平和につながるとする絶対平和主義として理解されることがある。これは、第二次世界大戦での敗戦と疲弊の記憶、終戦後の平和を求める国内世論、形式文理上、憲法前文と第9条が一切の戦力・武力行使を放棄したと解釈できること、第二次世界大戦以降日本が武力紛争に直接巻き込まれることがなかったことによって支えられた、世界的にも希有な平和主義だとされる。この絶対平和主義については、安全保障の観点がないのではないかという意見がある一方で、世界に先んじて日本が絶対平和主義の旗振り役となり、率先して世界を非武装の方向に変えていこうと努力することが、より持続可能な安全保障であるとの意見がある。なお、これらとは別に自衛権は自明の理であり、自衛権の行使は戦争には当たらないとする意見がある。

権力分立制
権力分立制は、国家権力の集中によって生じる権力の濫用を防止し、国民の自由を確保することを目的とする制度である。

権力分立制は、古典的には、立法・行政・司法の各権力を分離・独立させて異なる機関に担当せしめ互いに他を抑制し均衡を保つ制度 といわれ、自由主義的・消極的・懐疑的・政治的中立性という特質を持つ。

ただし、近代においては、ある程度の変容を伴うのが一般的であり、ある程度の変容を伴ったものも、近代的権力分立制として認められる。

日本国憲法では、国会の内閣に対する統制強化 と 司法権の強化 という特徴を持つ。

国会の内閣に対する統制とは、具体的には議院内閣制や国会の最高機関性 であり、国民主権主義と行政権肥大に伴う行政の権限濫用の危険増大に対応したものといえる。

司法権の強化とは、具体的には行政事件についての裁判権違憲立法審査権 であり、法の支配の原理に基づくものといえる。

国民主権主義(民主主義)
民主主義は、平たく「民衆による政治」ともいわれ、この理念をもとにした政治形態は民主制(民主主義制、民主政)と呼ばれる。

民主主義を具体化したものとして、日本国憲法では、国民主権主義(前文 1段1文 §1)が採られる。

「主権」とは、国家の統治のあり方を最終的に決定し得る力である。

そして、国民主権の意味については、国家権力の正当性の根拠が全国民に存すること(代表民主制が原則)のみならず、国民自身が主権の究極の行使者であること(直接民主制が原則)も意味する とする折衷説が通説である。

そして、国民主権の内容としては、以下のものが挙げられる。

人権
参政権
選定・罷免権 15条 44条 (国会議員 44条 地方公共団体の長 93条2項 国民審査 79項)
国家意思の形成に直接参与する権利(国民投票 96項 地方特別法 95項)
参政権を補完する諸権利 (表現の自由 21条 知る権利 21条 集会・結社の自由 21条 請願権 16条)
統治

選挙制度
議院内閣制 66条3項 69条
地方自治
国民票決制 96条 95条
国政公開の原則 57条2項 91条
国会の最高機関性
政党制
国民代表の解釈
国民主権とは、国家の主権が人民にあることをいう(日本国憲法においては国民と表現されている)。主権も多義的な用語であるものの、結局、国民主権とは国政に関する権威と権力が国民にあることをいうとされる。当初は主権が天皇や君主など特定の人物にないところに重要な意味があった。国民主権は、前文や第1条などで宣言されている。国民主権は、統治者と被統治者が同じであるとする政治的理念、民主主義の国家制度での表れである。

民主主義を最も徹底すれば、国民の意見が直接政治に反映される直接民主制が最良ということになる。現に人口の少ない国(スイスなど)や日本でも地方公共団体地方自治法94条の町村総会、74条以下の直接請求)では、現在でも直接民主制が広く取り入れられている。しかし、現代国家においては、有権者の数が多いため直接民主制を採ることが技術的に困難であることや、直接民主制有権者相互の慎重な審議討論を経ず、多数決による拙速な決定に陥りやすいなど、国民意思の統一に必ずしも有利ではないことから、大統領や国会議員などを国民の代表者として選挙で選出し、国民が間接的に統治に参加する体制が採られる。この体制を間接民主制(代議制民主主義)という。日本国憲法は、原則として間接民主制を採用している(前文、43条など)。例外的に、憲法改正国民投票(96条)、最高裁判所裁判官の国民審査(79条)など一部の重要事項についてのみ、直接民主制を採り入れている。

「民衆による政治」は、「民衆によらない政治」との争いの中で次第に洗練され、現代の民主主義は、より実質的に「民衆による政治」の実現を目指す理念になっている。この理念の下では、単に投票ができることにとどまらず、政治に関する多角的な意見を知り、また発信できることなど、個人の権利が重んじられることが前提とされる。現代民主主義が、自由主義個人主義を基盤にしていると指摘されるのはそのためである。

この「民衆による政治」という理念から、日本国憲法において国民主権が重要な原則として制度化された。前文では、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し(中略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」と表現されている。民主主義の憲法上のあらわれとしては、国民の選挙権(15条)、国会の最高機関性(41条)、議院内閣制(66条など)、憲法改正権(96条)など、多くの規定が見られる。

法の支配
大日本帝国憲法のとる狭い意味の「法治主義」に対置する概念。「法の支配」とは、「人の支配」(つまり権力者の恣意的判断)を排して、理性の法が支配するという概念で、英米系法学の憲法の基本的原理を取り入れたものである。

この「法」は、自由な主体たる人間の共存を可能ならしめる上で必要とされる「法」とされ、国民の意思を反映した法、すなわち日本国憲法である。そこで、憲法に基づいて権力が行使されたか否かを審査する裁判所がなければならず、制度的には、裁判所に違憲立法審査権を与え、憲法の番人としての司法の優位が確立し、「法の支配」が守られる様に担保している。

法の支配の内容としては、

人権
基本的人権の永久不可侵性 11条 97条
法律の留保を認めない絶対的保障 3章
法律の手続き・内容の適正
制限規範ゆえに最高法規性が認められる 97条 98条1項
統治
裁判所の自主・独立性 77条 78条 80条
行政事件を含む争訟の裁判権 76条2項
法令審査権 81条
統治者に憲法尊重擁護義務 99条
が挙げられる。

日本国憲法の構成
日本国憲法の本文は、11章103条からなる。大別して、人権規定、統治規定、憲法保障の3つからなる。人権規定とは、国民の権利などを定めた規定であり、主に「第3章 国民の権利及び義務」にまとめられている。このことから、第3章は、別名「人権カタログ」と呼ばれている。統治規定とは、国家の統治組織などを定めた規定であり、「第1章 天皇」「第4章 国会」「第5章 内閣」「第6章 司法」「第7章 財政」「第8章 地方自治」など多岐にわたる。憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことであり、そのための規定や制度としては、憲法最高法規性が宣言され(98条)、公務員に憲法尊重擁護義務が課され(99条)、憲法改正の要件を定めて硬性憲法とする(96条)ほか、司法審査制(81条)や権力分立制なども挙げられる。

日本国憲法は、本文の他に、上諭と前文が備わっている。

上諭とは、単なる公布文であって憲法の構成内容ではない。しかし、制定法理との関係で問題となり、注目される。この上諭には、「日本国民の総意に基いて」という国民主権的文言と、天皇主権の帝国憲法の改正手続が並列して記されているからである。(下記「制定法理」参照。)

前文とは、法令の条項に先立っておかれる文章であって、その法令の趣旨・目的・理念などを明示するものである。日本国憲法の前文には、国民主権基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の三大原理が示されている。特に、大戦直後という歴史的背景から、平和主義が強調され、これを根拠に個人の人権として平和的生存権を導く見解もある。もっとも、権利の内容と主体がはっきりしないため、理念的な権利としてはともかく、裁判で主張できるような具体的な法的権利性を前文から直接に導き出すことは困難であると一般的に考えられている(参照:恵庭事件)。

条章構成は以下の通り。全文はウィキソースを参照のこと。各条章の詳細については条章別の記事を参照のこと。


日本国憲法下の統治機構図上諭
前文
第1章 天皇(第1条〜第8条)
第2章 戦争の放棄(第9条)
第3章 国民の権利及び義務(第10条〜第40条)
第4章 国会(第41条〜第64条)
第5章 内閣(第65条〜第75条)
第6章 司法(第76条〜第82条)
第7章 財政(第83条〜第91条)
第8章 地方自治(第92条〜第95条)
第9章 改正(第96条)
第10章 最高法規(第97条〜第99条)
第11章 補則(第100条〜第103条)
人権規定
人権規定は、主に第3章にまとめられている。人権は、包括的自由権法の下の平等、精神的自由、経済的自由、人身の自由、受益権、社会権参政権などに大別される。

包括的自由権法の下の平等
まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権(13条)がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。また、14条では法の下の平等が定められる。同条2項は貴族制度の禁止と栄典に伴う特権付与の禁止を定める。同条のほか、24条では両性の平等が、44条では選挙人資格などの平等が定められている。

精神的自由
精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、学問の自由(23条)がある。20条1項(後段)及び3項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治および学校の自治が導き出される。表現の自由は21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由・結社の自由・出版の自由や言論の自由のほか、知る権利、報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。

経済的自由
経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。

人身の自由
人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障が規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由(34条)、住居等への不可侵(35条)など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止(36条)、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権(37条)、自己負罪拒否特権(38条、黙秘権)、刑罰不遡及(39条)、二重の危険の禁止(一事不再理、39条)など被告人の権利がある。

大日本帝国憲法体制からの経験則として、英米法の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律によらなければ、逮捕・監禁・審問・処罰を受けないと定めていたが、実際には警察による拷問などが行われ、人身の自由の保障は不十分だった。

なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は人身保護法(昭和23年法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、最高裁判所規則である、* 人身保護規則(昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として民事訴訟の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を拘束(人身の自由を奪ったり制限すること)をする者を、公務員・公的機関だけに限定していない。

受益権
受益権とは国務請求権ともいう。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、請願権(16条)、裁判を受ける権利(32条)、国家賠償請求権(17条)、刑事補償請求権(40条)などがある。

社会権
社会権とは、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。社会権には、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)、勤労の権利、労働基本権(27条、28条、労働三権)などがある。

参政権
参政権とは、国民が政治に参与する権利である。15条で、選挙権・被選挙権・国民投票権などの参政権を保障している。選挙権は、普通選挙、平等選挙、自由選挙、秘密選挙、直接選挙の5つの要件(原則)を備えなければならない。普通選挙とは財力・教育などを選挙権の要件としない選挙をいい、15条3項と44条で保障される。平等選挙とは選挙権の価値は平等として一人一票を原則とする選挙をいい、14条1項や44条で保障され、投票価値の平等も保障されると解釈される。自由選挙とは投票を罰則などの制裁によって義務づけない選挙をいい、15条1項などにより保障されると解されている。秘密選挙とは投票内容を秘密にする選挙をいい、15条4項で保障される。直接選挙とは選挙人が公務員を直接に選ぶ選挙をいい、国政選挙では直接これを保障する条項はないが、地方選挙では93条2項で保障する。国民投票権は、憲法改正についてのみ認めている(96条1項)。地方自治特別法に関する住民投票権や、最高裁判所裁判官国民審査もこの権利の一種とされる。

統治規定
日本国憲法は権力分立制(三権分立制)を採る。権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別し、それを異なる機関に分離し、相互に抑制均衡を保つことで権力の一極集中と恣意的な行使を防止するものである。権力分立制は、自由主義をその背後の原理とする。通常、立法権・行政権・司法権の権力に区別する。日本国憲法では、立法権は国会(41条)に、行政権は内閣(65条)に、司法権は裁判所(76条)に配される。

日本国憲法は、第1章に天皇に関する事項を定める。天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定される(1条)。天皇は、内閣の助言と承認により、国民のため、憲法改正、法律、政令及び条約の公布(7条1号)、国会の召集(2号)、衆議院の解散(3号)、官吏の任免の認証(5号)、栄典の授与(7号)、外交文書の認証(8号)などの国事行為を行う(7条)。また、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命(6条1項)し、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命する(同条2項)(6条)。

国会
国会は国権の最高機関とされ、唯一の立法機関とされる(41条)。国会は衆議院参議院の二院からなる(42条)。二院のうちでは、衆議院の優越が定められている(予算先議権:60条1項、内閣不信任決議権:69条、決議の優越:59条2項・60条2項・61条、67条2項)。それ以外は対等であり、法律案は、両議院で可決したときに法律となり(59条1項)、予算案・条約の承認も国会の権能である(60条、61条)。また、両議院には各々、内部規律に関する規則制定権がある(58条2項)。

他の二権との関係では、まず、内閣に対しては、国会に内閣総理大臣の指名権があり(67条)、衆議院には内閣不信任決議権がある(69条)。また、院の権能である国政調査権(62条)を行使して、内閣の行う行政事項に関して調査監視する。裁判所に対しては、裁判官弾劾裁判所を設置して、非行のあった裁判官を弾劾する(64条)。もっとも、裁判官弾劾裁判所自体は国会から独立した機関である。また、裁判官は国会が作った法律に当然に拘束される(76条3項)。

内閣
内閣は行政権を担う(65条)。内閣は、内閣総理大臣国務大臣からなる合議制の機関である(66条)。内閣の首長たる内閣総理大臣は国会議員の中から国会により指名され(67条1項)、天皇に任命される(6条1項)。国務大臣内閣総理大臣が任命するが、その過半数を国会議員の中から選ばなければならない(68条1項)。内閣は、一般行政事務を行うほか、条約を締結し、予算案を作成し、政令を制定するなどの権限を行使する(73条)。また、内閣は、天皇の国事行為に対し、助言と承認を行う(7条)。

内閣は、天皇への助言と承認を通して衆議院を解散することができる(7条3号)。内閣は、最高裁判所長官を指名し(6条2項)、その他の下級裁判所裁判官を最高裁判所が作成した名簿より任命する(79条1項)。

裁判所
すべて司法権は、裁判所に属する。裁判所は最高裁判所および下級裁判所からなる。特別裁判所の設置は禁じられている。最高裁判所長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて行われる衆議院議員総選挙とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある(77条1項)。

裁判所は、法令審査権(違憲立法審査権違憲審査権)を行使する(81条)。同条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と規定するが、これは下級裁判所も法令審査権を行使しうることを示している(判例もそれを示している。「警察予備隊違憲訴訟」昭和27年10月8日大法廷判決昭和27年(マ)第23号日本国憲法に違反する行政処分取消訴訟。)。この法令審査権は、裁判所が裁判を行うにあたって適用する法令が違憲であるか否か判断する権限とされる(附随的違憲審査制)。ドイツの憲法裁判所やイタリア、オーストリア等の裁判所に見られる、具体的な事件から離れて抽象的にある法令が違憲であるか否か審査する権限(抽象的違憲審査制)は、日本国憲法に定められていない。

財政・地方自治
第7章は財政に関する事項を定める。国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使される(財政国会中心主義、83条)。また、租税法律主義(84条)、内閣の予算案作成権(86条)、国の収入支出の決算と会計検査院に関する事項などが定められる(90条)。なお、皇室経済に関しては、皇室費用の予算計上(88条)は第7章に、皇室への財産譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は第1章の8条に定める。

第8章は地方自治に関する事項を定める。地方自治は、住民自治と団体自治をその本旨とする(92条)。地方公共団体には、その長(首長)と議会が置かれ、住民は首長と議員を直接選挙で選出する(93条)。地方公共団体は、その財産を管理し、行政を執行する権能を有するほか、法律の範囲内で条例を制定する権限を有する(94条)。また、一の地方公共団体のみに適用される特別法(地方自治特別法)は、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は制定することができない(95条)。

憲法保障
憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことである。そのための規定・制度としては、まず憲法最高法規性が挙げられる。98条は、明文で憲法最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、97条の最高法規性の実質的根拠と、96条の硬性憲法の定めが支える。また、99条は公務員に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。

憲法改正
憲法改正手続は、96条で定められている。まず、憲法改正案は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には、「特別の国民投票又は国会の定める選挙」の際に行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。この憲法改正案が、国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

この改正手続を定める国民投票法(正式名称・日本国憲法の改正手続に関する法律)が、2007年5月14日、可決・成立した。その他の論点については、憲法改正論議の項目を参照のこと。

制定史
大日本帝国憲法
明治維新により近世の幕藩体制封建制社会から復古的な天皇制・国民国家へと脱皮した日本国は、1889年(明治22年大日本帝国憲法の制定により、近代市民国家へと変貌した。大日本帝国憲法は神権的な天皇制と古典的自由主義・民主主義理念が共存し、国家の統治権天皇にあることとともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。

大正時代には、都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動・普通選挙運動が展開された。民主主義(民本主義)、自由主義社会主義の思想が高揚、帝国議会に基礎を持つ政党内閣誕生に結実した。政党内閣は、制限選挙における投票条件を徐々に緩和、1925年(大正14年)に25歳以上の男子による普通選挙を実現させた。この時期、大日本帝国憲法は民主的に運用され、日本は実質的に議会制民主主義国であったと指摘される(「大正デモクラシー」も参照)。

大日本帝国憲法の第11条に、天皇の大権として陸海軍の統帥権を定めた規定があった。この規定は、天皇の直接的な軍の統帥を念頭においた規定ではない。実質的には、軍の統帥を政府の管轄から独立させ、陸海軍当局の管轄としたところに意味があった。しかしこの条項の解釈をめぐり、ロンドン海軍軍縮会議締結の際にいわゆる統帥権干犯問題が起き、政府の介入が天皇の大権を侵すものとの主張がなされた。この後、政府・議会の軍管理が徹底されず、民主的基盤を持たない軍が国政に強く関与することになる。1937年(昭和12年)には盧溝橋での部隊衝突をきっかけとする日中戦争支那事変)が勃発し、1941年(昭和16年)には太平洋戦争(大東亜戦争)に突入、戦時体制下において軍部主導の国家運営がなされた。

日本国憲法の制定
ポツダム宣言の受諾と占領統治
1945年(昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連スターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツのベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。この席で、三者は「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国蒋介石・国民政府国家主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名でこれを発表した(「ポツダム宣言」)。この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。

軍国主義を排除すること。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
民主主義の復活強化へむけて一切の障害を除去すること。
言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すること。
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島、同9日に長崎に原爆を投下し、ソ連軍は8月8日にソ連対日参戦した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」[2])。これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。

連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。[3]

降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為その必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」(SCAP)に従属する(subject to)。
From the moment on surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。
The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people.
日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日にポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。翌9月2日、日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦・ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。

降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部(GHQ)を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。

日本政府および日本国民の憲法改正動向
降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった。

日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆した[4]。

なお、この日、総司令部は、治安維持法の廃止、

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【マハトマ・ガンディー】=1万3000字

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モハンダス・カラムチャンド・ガンディー
મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી

インド独立の父 マハトマ・ガンディー
通称: マハトマ・ガンディー
生年: 1869年10月2日
生地: イギリス領インド帝国
グジャラート州ポールバンダル
没年: 1948年1月30日
没地: インド連邦、ニューデリー
活動: 公民権運動
インド独立運動
所属: インド国民会議
表・話・編・歴
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi, デーヴァナーガリー: मोहनदास करमचन्द गांधी, グジャラート語: મોહનદાસ કરમચંદ ગાંધી, / 1869年10月2日 - 1948年1月30日)は、インドのグジャラート出身、マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー:Mahatma Gandhi)として知られるインド独立の父、弁護士、宗教家、政治指導者。「マハートマー(महात्मा, Mahatma)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、アニー・ベザントが最初に言い出したとの説もある[1])。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(बापू:「父親」の意味)とも呼ばれている。日本では「マハトマ・ガンジー」というカタカナ表記が慣例的に使用されている。

1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが[2]、本人が固辞したため、受賞には至っていない。

ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガーンディー・ジャヤンティー」(गांधी जयंती:「ガンディー記念日」)という国民の休日である。

なお、インドの政治家一族として有名な「ネール・ガンディー王朝」(インディラ・ガンディーら)との血縁関係はない。

目次 [非表示]
1 人物
2 経歴
2.1 生い立ち
2.2 弁護士に
2.3 不服従運動
2.4 ガンディーとカースト制度
2.5 独立
2.6 暗殺
3 主義・信条
3.1 真理
3.2 非暴力
3.3 カースト制度
3.4 菜食主義
3.5 ブラフマーチャーリヤ
3.6 沈黙の日
3.7 現代におけるガンディー
4 ガンディーと日本
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目

人物 [編集]
南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。その形は民衆暴動の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」(よく誤解されているが「無抵抗主義」ではない)を提唱した。この思想(彼自身の造語によりサッティヤーグラハすなわち真理の把握と名付けられた)はインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。特にガンディーに倣ったと表明している指導者にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアダライ・ラマ14世等がいる。

性格的には自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対しては極端な禁欲を強いて反発を招くこともあったという。

経歴 [編集]

南アフリカ時代のガンディー (1895年) 生い立ち [編集]
イギリス領インド帝国、現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで、当時のポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンディーと、その夫人プタリーバーイーの子として生まれた。ポールバンダルの小学校に入学後、ラージーコートの小学校に入りなおす。成績が悪く融通もきかない面があった。

小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。

その後、12歳でアルフレッドハイスクールに入学。13歳の若さで生涯の妻となるカストゥルバと結婚。18歳でロンドンに渡り、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士となるために勉強する。

弁護士に [編集]
卒業後、1893年にはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士として開業した。しかし、白人優位の人種差別政策下で、鉄道の一等車への乗車を拒否されるなどの差別を体験したことで、イギリス領南アフリカ連邦の人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。1880年代以降、ガンディーはインドの宗教的叙事詩・バガヴァッド・ギーターとロシアの小説家・レフ・トルストイの影響を受けていたが、『新約聖書』の「山上の垂訓」など基督の十字架の道を深く理解し、「非所有」の生涯を決意する。後の非暴力運動思想を形成していく。

20世紀初頭には、南アフリカ連邦となり、1913年に原住民土地法が制定されるなど人種差別政策の体制化が進んだ南アフリカにおいて、インド系移民の差別に対する権利回復運動を行った。この時の経験は1915年にインドに帰国してからの民族運動にも生かされている。

1917年に第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の自治を約束して、植民地統治下のインド人に協力を求めた。ガンディーはこの約束を信じ、インド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を行った。しかし戦争がイギリスの勝利に終わっても、自治の拡大は、インド人が期待したほどの速度では進行せず、またドイツからの援助を受けていたテロリストグループの蛮行を抑えるため、インド帝国政府は強圧的な「ローラット法」を制定するにいたる。このことはガンディーに、イギリスへの協力が独立へとつながらないという信念を抱かせるようになった。

服従運動 [編集]

インドの糸車を廻すガンディー。但、本葉はライフ誌を飾った有名なCongress Party & Gandhiではない第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。「インドの糸車を廻すガンディー」の写真はこの歴史的背景による[3]。

こうした一連の運動のために、ガンディーはたびたび投獄された。たとえば1922年3月18日には、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受けている。第一次の不服従運動は、1922年にインド民衆が警察署を襲撃して20人ほどの警官を焼死させる事件が発生し中止されたが、1930年より不服従運動は再開された。とりわけ、「塩の行進」と称されるイギリスの塩税に抗議した運動は有名である。

ガンディーとカースト制度 [編集]
ガンディーは、カースト制度を職業の分担という観点から肯定的にとらえていた。しかし、生涯を通して、「不可触民」制度を撤廃する活動に精力的に励んだ。このようなカースト制度は容認してもカーストによる社会的差別に反対する姿勢は、同時期の政治指導者に多く見られる。このため、インドにおける仏教革新運動の指導者であるB・R・アンベードカルと意見を対立させている。

独立 [編集]

インド初代首相となったジャワハルラール・ネルー(左)とガンディー1939年9月に勃発した第二次世界大戦において、インド国民会議のスバス・チャンドラ・ボースやラース・ビハーリー・ボースは、アジアにおいてイギリスと対立した日本と緊密な関係を築くことで、イギリスに揺さぶりをかけようとした。しかしガンディーはアドルフ・ヒトラー率いるドイツと同盟関係にある日本と組むことをよしとせず、この様な動きに与することはなかった。現実的には、日本軍がイギリスの支配に打撃を与えたことに助けられた。

1945年8月に第二次世界大戦終結しイギリスは戦勝国となったが、国力は衰退し、もはやインドを植民地として運営していくことは困難であった。1947年8月15日に、デリーの赤い城にてジャワハルラール・ネルーヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した(その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった)。なお、ガンディーの思い通りにはいかず、イスラム教国家のパキスタン(独立当時は西パキスタンと東パキスタン、東パキスタンは後のバングラデシュ)との分離独立となった。

暗殺 [編集]
ガンディーはヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒にも影響を与えている。1947年8月のインドとパキスタンの分離独立の前後、宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは何度も断食し、身を挺してこれを防ごうとした。しかし、ヒンドゥー原理主義者からはムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視された。1948年1月30日、ガンディーはニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセー(नाथूराम गोडसे)らによって暗殺された。78歳であった。

3発のピストルの弾丸を撃ち込まれたとき、ガンディーは自らの額に手を当てた。これはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作である。そして、ガンディーは「おお、神よ」(「ヘー ラーム हे राम」)とつぶやいて事切れたという。国葬が行われ、遺灰は、ヤムナー川ガンジス川南アフリカの海に撒かれた。

主義・信条 [編集]
真理 [編集]
ガンディーは自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げた。彼は、自分の失敗や自分自身を使った実験などから学ぶことを通して、この目的の達成を試みた。実際、彼は自叙伝に『真理を対象とした私の実験について(“The Story of My Experiments with Truth”)』という題をつけている。

ガンディーは、非暴力運動において一番重要なことは自己の内の臆病や不安を乗り越えることであると主張する。ガンディーは、自分の理念を纏め、初めは「神は真理である」と述べていたが、後になると「真理は神である」という言葉に変えている。よって、ガンディー哲学における真理(Satya)とは「神」を意味する。

非暴力 [編集]
非暴力(アヒンサー;अहिंसा)の概念はインド宗教史上長い歴史を持ち、ヒンドゥー教、仏教(仏陀に代表される)、ジャイナ教の伝統において何度もよみがえった。また、彼の非暴力抵抗の思想は、新約聖書や『バガヴァッド・ギーター』の教えに特に影響されている。自らの思想と生き方を、ガンディーは自叙伝の中で書いている。以下にガンディーが語った言葉からの引用を列記する。

「私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利をしたことを思い出す。暴君や殺戮者はそのときには無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんなときも、私はそれを思うのだ」。
「狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか」。
「"目には目を"は全世界を盲目にしているのだ」。
「私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」。
また、ガンディーは自分の非暴力の信条を実行に移すとき、彼は極限まで論理的につきつめることを辞さなかった。1940年にドイツ軍がいよいよイギリス本土に侵入しようとしたとき、ガンディーはイギリス国民に次のように助言した。

持っている武器を下に置いてほしい。武器はあなた方を、ないしは人類を、救う役には立たないのだから。あなた方はヘル・ヒトラー (Herr Hitler) とシニョール・ムッソリーニ (Signor Mussolini) を招きいれることになるだろう。あなた方の国、あなた方が自分たちのものと称している国から、かれらは欲しいものを持っていってしまうだろう。もしこの紳士たちがあなた方の故郷を占領したなら、あなた方は立ち退くことになる。もし、かれらが脱出を許さなかったなら、あなた方は男も女も子どもも、虐殺されることになる。しかしあなた方は、かれらに忠誠を尽くすことは拒むだろう

また、1946年6月、ガンディーは伝記作者ルイ・フィッシャー (Louis Fischer) にこう語っている。

ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。かれらは崖から海に身投げすべきだった。英雄的な行為となっただろうに。

ガンジーはこうも言っている。

わたしの信念によると、もし、おくびょうと暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。

カースト制度 [編集]
当初ガンディーはカースト制度を「ヒンドゥー教の根本的な制度」[4]として擁護し、称賛した。 彼によれば「カーストは人間の本性であり、ヒンドゥー教徒はそれを「科学」に仕立てただけ」であり[5]、 同じカーストとしか結婚できないという制限も「自己抑制を深める優れた方法」[6]であった。 彼にとってカースト制度は「分離されているが平等」[6]なのである。 (「分離すれど平等」というのはアメリカで黒人を隔離・差別するために持ち出されたレトリックで、黒人用施設が白人用施設と平等であった例などほとんどなかった)。

そのうちガンディーは自分がある種の自己矛盾に陥っている事に気付き、カースト制度とヴァルナを区別し、ヴァルナを好むようになった。 ヒンドゥー教徒バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの四階層に区分するヴァルナの法則は、彼によれば人が両親に似て生まれてくるのと同じ「遺伝の問題」[6]であった。 またヴァルナによって両親の職業を選べば、「精神的な目的の為専念する時間が増える」[6]ので、「幸福と深い宗教的生活の為の最上の保証」[7]であった。 ただしガンディーは、ヴァルナを「神の創造物全体における絶対平等の法則」[6]ととらえており、ヴァルナの階層間に上下は無く平等なものだと考えていた。

一方ヴァルナをさらに細分化するカースト制度に関しては「宗教と何の関係もなく、起源不明の習俗に過ぎ」[6]ないと考えるようになり、後年『カーストはなくなれ』という小冊子を発行するにいたった。

菜食主義 [編集]
ガンディーはインドを初めて離れたときこそ肉食を試みたが、のちに厳格な菜食主義者になった。英国では菜食主義者協会 (Vegetarian Society) の集会に参加して菜食主義運動家ヘンリー・ソールト (Henry Salt) に出会い、この問題について、ロンドンに滞在する間、何冊かの本を著した。菜食主義の思想はインドのヒンドゥー教およびジャイナ教の伝統、そして彼の故郷グジャラートに深く根づいており、ヒンドゥー教徒のほとんどが菜食主義者であった。彼はさまざまな飲食物を試したのち、菜食は体に必要な最低限度を満たすという結論に達した。そして、最終的には果物しか食さないようになった。

ブラフマーチャーリヤ [編集]
ガンディーが16歳のときに、父が末期の病気にかかった。ガンディーは、父の臨床の場において精力的に看病に励んでいたが、ある夜、叔父が来て看病を交代してくれるよう言ってくれた。ガンディーはそれを快く引き受け、感謝の意を表し、寝室へと戻った。そこで、ガンディーは、部屋で寝ていた妻を起こし同衾している隙に、下僕がやって来て父の死を告げた。このため、ガンディーは、父の死に目に会えなかったのである。ドイツの心理学者エリク・H・エリクソン(Erik Homburger Erikson)は、ガンディーの禁欲主義的傾向や、特に36歳の時、結婚したまま一切の性行為を断って禁欲を開始するなどのブラフマーチャーリヤの誓いを果たしたことには、この経験が大きく関係していると指摘する。

このような禁欲主義や苦行と密接な関連を持ったブラフマーチャーリヤ(心と行為の浄化、ブラフマンすなわち宇宙の最高原理の探求)は、ヒンドゥー教の苦行者の間で昔から行われていた。ガンディーのユニークな点は、結婚と家庭を維持したまま禁欲生活を送ったことである。ガンディーはこのブラフマーチャーリヤを自らの指導する非暴力不服従運動の基礎であると考えていた。また、それは神に近づくための手段であり、自己の完成のための重要な土台であるとも捉えていた。彼は13歳の若さでカストゥルバと結婚をするが、自叙伝において当時における性欲や過激な嫉妬などに対する戦いを語っている。彼は独身者でいることを自分の義務と感じたので、欲情によらずに愛することを学ぶことができるのだと考えた。ガンディーによれば、ブラフマーチャーリヤは「思想・言葉・行為の抑制」を意味する。

ガンディーはブラフマーチャーリヤを生涯追求し、1948年78歳で暗殺される直前まで「ブラフマーチャーリヤの実験」を行っていた。しかしガンディーの弟子であったニルマール・クマール・ボースは『ガンディーとの日々(“My days with Gandhi”)』において、ノーアカーリーにおけるガンディーの晩年のブラフマーチャーリヤの実験に関して、批判的見解が述べられている。このことは、ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』の中にも引用されている。 彼らによれば晩年のガンディーは裸体の若い女性たちをぴったり体にくっつけてベッドを共にするのが常だった。こうした件を「問い詰められたガンジーは、最初は裸の女性を横にして眠ると言うことを公然と否定し、その後それはブラフマーチャーリヤの実験であると言った」[8]。 しかしガンディーの姪のアバ・ガンディーはボーズの主張を認め、結婚してからも彼と寝ていたと証言した[9]し、もう一人の姪のマヌや女医(厚生大臣であった時期もある)のスシラ・ナヤルも「ガンジーを暖めた女性であった」[10]。 またある女性は「裸になり、ガンジーの腕に抱かれた」と証言した[11]。

ボースや弟子たちはそのことに関して、ガンディーを批判したが、ガンディーは聞き入れようとしなかったようである。ボースの本の中には、ガンディーとボースとの手紙のやり取りの中でこのように述べていると書かれている。

私にとっては女性に触れぬことがブラフマチャリヤなのではない。今していることは私には新しいことではない。……実験の前提に女性の劣等性があるとお考えになるとは驚かざるを得ない。もし私が色情を持ちあるいは相手の同意なく女性を見れば、そのとき女性は劣等者であろう。私の妻は私の欲望の対象だったとき、劣等者であった。私の隣に裸で妹として寝るようになってからは、彼女はもはや劣等者ではなかった。かつてのように妻ではなく他の妹であっても同じことではないか。隣に裸で寝る女性に対して私がみだらなことを考えるなどと思わないでいただきたい。AあるいはB(ボースによる匿名)のヒステリーは私の実験とは関わりがないと思う。彼女たちはこの実験の前から多かれ少なかれヒステリーだったのだ。[12]

あるドイツの精神医学的人名辞典は、ガンディーのためにあてられた全8行ばからりの記事のうちの1行をさいて、彼が『一つのベッドで数人の女性使用人と眠った』という情報―――そのような習慣の時期や期間は明確にしないで―――を提供している。同様にアーサー・ケストラーはThe Lotus and The Robot, London:Hutchinson, 1996.の脚注において、老年のガンディーは一人の若い裸の女性とベッドにいるところを英国の官憲にみつけられたが、彼らは賢明にもそれを公表しなかったと述べている。

しかし、エリク・エリクソン著『ガンディーの真理2』を翻訳した星野美賀子は、脚注の中で、これらの情報を以下のように批判している。「このゴシップは以下の事実を無視している。つまり、伝えられる事件のおりにはもう英国の官憲がガンディーを夜中に急襲することはなかったこと。インドの寝室のつくりにはベッドもドアもないこと、熱帯地方においては裸体は特別なものではないこと、そして、その事件全体は秘密ではなかったこと、を」[13]。

晩年の女性とのブラフマーチャーリヤの実験に関しては、どこからどこまでが事実なのかを明確に判断することは難しい。しばしば、これらの実験が、ガンディーの他の莫大な業績に先行して指摘されるのは、エリクソンによると、「結局のところ、偉大な混乱は偉大さのしるしでもありうる」[13]からであろう。

沈黙の日 [編集]
ガンディーは週に一度を沈黙して過ごした。話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。これは モウナ(मौन:沈黙)と シャーンティ(शांति:平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。ガンディーは37歳からの3年半、騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらすとして、新聞を読むことを拒んだ。

現代におけるガンディー [編集]
独立後半世紀以上もの年月が経つにつれ、ガンディーならびに彼の思想はインドの社会一般において往時のような輝きを失ってきているといえる。これはガンディーが世界中で「偉人」として認知され、その思想に共感する人々の輪を広めてきた事と対照的とも言える現象である。

独立後20年近くの期間にも渡って国民会議がインド全土で政権の座を握り続けていられたのは「独立の父」ガンディーの威光によるところも大きく、それゆえ独立後間も無く暗殺されたガンディーは殊更に神格化されてきたとも言える。しかしながら、ガンディーの後継者とされた独立後初代首相のネルーは、経済政策の上ではガンディー主義(Gandhism)に真っ向から対立するネルー主義(Nehruvism)開発経済体制を導入し、生前ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。このため、インドで多くの人々がガンディーを「国家を独立に導いた偉大な人物」として表向きには称える一方、その反面では彼の人物像やその思想に対して「時代遅れで非現実的」という評価を下す風潮が徐々に顕在化してきた[14]。また、ネルーが独立直後にイギリス政府高官に「ガンジーはあくまでインドを引き裂いてはならないという。しかしイスラム教徒は我々がいかなる妥協を示しても自分達の国家をつくると言って譲らない。インド各地で起きている血塗れの惨劇はエスカレートするばかりである。我々は敢えて頭痛から逃れる為に、頭を切り落とさなければならない。最早ガンジーのような立場は非現実的である。残念ではあるが、ガンジーは今政治の中心から逸れてしまっている」と述べたように、当時から現在までイスラム教徒と他教徒との争いは顕在化しており、そうした実態を結果的に無視する形となった宥和政策も、民衆感情に反するものであった。

そのような状況の中、新たな形でのガンディー再考の試みが映画や演劇などの分野でなされてきている。なかでも現在インドで最も注目を集めているのが、2006年にインドで公開された『Lage Raho Munna Bhai』(लगे रहो मुन्नाभाई, ラゲー・ラホー・ムンナー・バーイー)というヒンディー語映画である。作品中ガンディーは、主人公である街のヤクザ者にだけ見える存在として登場し、DJとしてラジオで電話相談をする事になった主人公の口を通して街の人々に様々なアドバイスを与えている。この作品は、いくつもの批判を呼び起こしながらも、人々が新たな角度からガンディーについて考え直す大きな契機を作り出す事に成功し、娯楽作品としての大ヒットも合わせて大きな注目を浴びた。特にこの映画中で提唱された「ガーンディーギリー」(गांधीगिरी, Gandhigiri)という言葉は、ガンディー主義を意味する旧来の「ガーンディーヴァード」(गांधीवाद)という言葉が帯びていた、「理念的過ぎて現実的ではない」というイメージを払拭する役割を果たし、にわかにインドでの流行語ともなっている[15]。

ガンディーと日本 [編集]
第二次世界大戦中、ガンディーは1942年7月26日に「すべての日本人に」と題する公開文書を発表した。ここでは日本が、これまでアジア主義のもと欧米の帝国主義に立ち向かっているという事実に理解を示しつつも、友人として非暴力主義の観点から見た時に、中国や欧米との関係を暴力を用いて解決を図ろうとする日本の姿勢はいつしか帝国主義に染まってしまっているのではないかと疑問をなげかけている。

私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした[16]。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。 あなたがたの友 ガンディーより。

脚注 [編集]
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^ なお、ベザントはオカルト研究団体「神智学協会」の2代目会長でもあり、神智学では「マハトマ」はチベットに住まうという偉大な賢者クートフーミのことを指す。
^ The Nomination Database for the Nobel Peace Prize, 1901-1955のSimple Searchで「Gandhi」と入力して検索すると確認することができる。
^ 余談だが、『Congress Party & Gandhi』を撮影した『ライフ』誌のマーガレット・バーク=ホワイトは勝手に人の家に入ってきて光源のために戸を閉めたり執拗にフラッシュを浴びせるなどの暴行を加えたが本葉は大きな感銘を世界へ与えた。被害を受けたガンディーは文句は言わなかったが「彼女は私の目を焼こうとしている」と洩らしたという。
^ ロベール・ドリージュ「ガンジーの実像」、白水社、p157
^ M・K・ガンジーヒンドゥー・ダルマ」p9〜10。「ガンジーの実像」のp157より重引
^ a b c d e f 「ガンジーの実像」六章
^ M・K・ガンジーヒンドゥー・ダルマ」p48。「ガンジーの実像」のp159より重引
^ ロベール・ドリエージュガンジーの実像」今枝由郎訳、白水社文庫クセジュのp154
^ ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』p200〜201。「ガンジーの実像」のp154〜p155より重引
^ 「ガンジーの実像」p155
^ ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』p213。「ガンジーの実像」のp154〜p156より重引
^ ヴェド・メータ、植村昌夫訳『ガンディーと使徒たち 偉大なる魂の神話と真実』新評論、2004年12月、249頁引用。
^ a b エリク・エリクソン著、星野美賀子訳『ガンディーの真理2』みすず書房、2002年11月改版、xxiii頁参照
^  もちろん、独立前〜直後の時期においてもガンディーに対するその様な評価は少なからず存在していた。独立運動においてガンディーは「大多数」の支持を得た指導者かもしれないが、彼の方針に同調しない様々な思想を掲げた運動家およびその支持者は当時も各地に多数存在していた。
^ ちなみに、この「〜ギリー」というのは、ムンバイヤー・ヒンディー(ムンバイで話される特徴的なヒンディー語の口語)において用いられる「〜に特徴的な一連の行動」というような意味の接尾辞である。
^ 近代日本の経緯に関する映像資料→(日本の近代外交史・1・2・3・4・5・6・7)。
参考文献 [編集]
蝋山芳郎訳『ガンジー自伝』中央公論新社、2004年2月改版。ISBN 4-12-204330-1
ヴェド・メータ、植村昌夫訳『ガンディーと使徒たち 偉大なる魂の神話と真実』新評論、2004年12月。ISBN 4-7948-0648-5
E. H.エリクソン著、星野美賀子訳『ガンディーの真理2』みすず書房、2002年11月改版
ドミニク・ラピエール& ラリー・コリンズ著 『今夜、自由を』 早川書房 ISBN-10: 4150500746 2000年改版
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、マハトマ・ガンディーに関連するマルチメディアがあります。ウィキクォートマハトマ・ガンジーに関する引用句集があります。ベジタリアニズム
著名なベジタリアンの一覧
ジャワハルラール・ネルー
ラース・ビハーリー・ボース
スバス・チャンドラ・ボース
ムハンマド・アリー・ジンナー
ルイス・マウントバッテン
ビームラーオ・アンベードカル (B. R. Ambedkar)
ガンジー(1982年公開の映画)
自由インド仮政府
アジア主義

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC」より作成
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最終更新 2010年2月16日 (火) 09:40