石垣りん「夏の本」

こんにちは、検索迷子です。


石垣りんさんの詩集のなかに、
タイトルさえも知らなかった一遍を見つけた。
読んだことがないのか、他の詩のほうに心をとらわれたのか、
それは今となってはわからない。


でも、今日はこの詩を心に留めたいと思った。
それが「夏の本」だ。


石垣りん詩集「宇宙の片隅で」水内喜久雄(みずうちきくお)選・著、
伊藤香澄(いとうかすみ)絵、理論社発行の本だ。

宇宙の片隅で―石垣りん詩集 (詩と歩こう)

宇宙の片隅で―石垣りん詩集 (詩と歩こう)


本書から引用する。

夏の本
     石垣りん


夏が
一冊の書物のように
厚みをおびてきた。


一年が
一枚の紙のように
薄くなってきた。


去年咲いたおしろい花
同じ場所にことしも咲きそろっている
同じ色で。


時は過ぎ去ることなく
本のページを繰るのに似て
ただ重なる。


そうして物語は
終わりに近づくのであろうか。


私は背中のあたりに
大きな手のひらを感じる。
なぜなら
私の一日はいつも前のほうで
ふしぎに開かれていたから。


夏の思い出は重なっていく。
おしろい花の咲いている場所も色も覚えてしまうほど、
幾年もその土地で過ごし、いくつも年を越えて来た。


小さな記憶の積み重ねで、夏は思い出に厚みができる。
でも、不思議なことに、一年単位で考えると、
だんだんと記憶が生きてきた年数に比例するかのように、
薄く薄く重なっていくような気がする。


私はこの初見の詩(たぶん)を、
どう読みこなしていいのか少し戸惑う。


でも、同じ場所に同じ色の花が咲いて、
ああ、今年もこの花を見られた、
ここにこの花は去年もあった、
ということに感慨深さを覚える。
そして、来年も見られるだろうか、
見ていたいという気持ちとともにせつなくなる。



夏の本の厚みのように、
ミクロの記憶は掘り下げればどこまでもどこまでも厚くなる。
そういう思い出のシーンはいくらでもある。


だけど、その思い出は楽しかった時期に偏っていたりして、
毎年均一ではない。
記憶しておきたい夏もあれば、
何も思い出せない夏もある。


ふしぎに開かれたページのまま、
物語は終わりに近づくのかと、まだ達観はできない。


せめても今は、
夏の一日一日を厚みのある書物にできるように過ごしたい。
それだけを考えながら過ごしたい。



ちなみにおしろい花は、白粉花と書き、別名は夕化粧といい、
次のようなお花だと知りました。
季節の花300 − 白粉花(おしろいばな)


自分の夏の本を作ることも、
振り返ることも、
かといって作らないと意地をはることも、
その時々の自分によって違うような気がする。


今年はどんな夏の本になるのだろう。

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石垣りんさんの詩については、過去にもレビューしています。
よろしければあわせてお読みください。
石垣りんの「表札」の潔さ
石垣りんの『貧しい町』
石垣りんの先見性(私の前にある鍋とお釜と燃える火と)
石垣りんの「峠」
空をかついで
洗剤のある風景
川のある風景


では、また。