さよならなんてだいきらい

こんにちは、検索迷子です。


どんなお別れだって、さみしい。
仲の良かった人なら、そのさみしさはいっそう深い。


でも、お互い生きていれば、
どこかでまた会えるんだと思う。
そうやって、目の前のお別れを乗り越えることがある。


大人同士のお別れは、なんらかの選択や決断の結果であり、
誰かが何かを動かしたから起こることが多い気がする。
それは、転職であり、転居であり、他の理由かもしれない。


もしそれが、
不可抗力のお別れだとしたら、お別れを実感することもなく、
あれがお別れだったのだと知ることも、知らされることもなく、
時間が過ぎてやっとわかるのだろう。


そういうお別れはさておき、
お別れの挨拶を言えるような状況は、
選んだ行動によるお別れが多い気がする。



でも、子どもの頃のお別れは永遠のお別れのような気がした。
大人が選んだ行動に子どもは従うしかなく、
子ども同士はそれを受け入れるしかなかった。


たとえそれが隣の学校に転校ということだって、
子どものころの世界の狭さからすると、
自転車で行けない場所は、
外国みたいな、
地球の裏側みたいな、
あるいは別の星にいくみたいな、ものすごい大きな別れだった。


そういうことを思い出した一冊がある。
『さよならなんてだいきらい』、
レベッカ・ドーティ作、千葉茂樹(ちばしげき)さん訳、
ほるぷ出版刊だ。

さよならなんてだいきらい

さよならなんてだいきらい


さよならなんてだいきらい、と素直に言いたい。
そういう気持ちをストレートにタイトルにしていて、
子どものころの気持ちを思い出した。


夕方、遊んだ後の明日会えるまでの短いお別れ、
しばらく会えない人と過ごした後のほんの少し長いお別れ、
引越してしまって、ずっと会えないかもという、
無期限とも思えるような長い長いお別れ。


子どものころ、そういう気持ちになったなと思いながら、
絵本のページをめくった。


いつまでもいっしょにいたいのに。


その一言がやけにせつなくなった。


さよならなんて、言わずにずっとずっとこの時間が続けばいいのに、
なぜか、どこかで、さよならを言わなければならない。



大人になって、さよならを言う機会も増えたけど、
さよならなんて、ちっとも慣れない。
せいぜい、人前で泣かないように、
ほんの少し自制心がついたくらいで、
ぐちゃぐちゃに泣きたいときだってある。



小学生のころ、転校していった子がいた。
お別れ会もして、寄せ書きも書いて、
もう会えないんだとわんわん泣いた。


そして、二年くらい経った後、
修学旅行先の水族館の大型バスの駐車場で、
なんと、その子の学校のバスと隣り合わせになった。


バスで何時間も移動するような場所で、
学区も違うというのに、同じ日が修学旅行で、
同じ時間帯に同じ水族館にいたのだ。



ええーっと驚いた。
一生会えないんだというくらいの気持ちだったのに、
あれ、普通に他の学校の子として、
クラスメイトとお菓子を食べて笑ってる。


あ、そういえば自分もそうだ。
ふうん、そうか、こうやってまた会えることってあるのか、
と子ども心に驚いた。


お別れはさみしい。
でも、お別れの言葉を言わないのはもっとさみしい。
ちゃんと、一度は区切りのある形で、
お別れの言葉を言って、さよならをして、
また会おうねと約束しながら別れたい。


そういう気持ちにさせてくれる絵本だ。


子どもだけでなく、
大人だって、
大人を何年やってたって、
さよならなんてだいきらい。


さよならの挨拶を書いたエントリー


過去にさよならの挨拶のことを、いくつか書いています。
よければあわせてお読みください。

お別れの挨拶に聞きたい言葉 - 検索迷子
お別れの挨拶を言えますか。 - 検索迷子
さよならより、ありがとうを - 検索迷子


では、また。