悼む詩(いたむ詩)

こんにちは、検索迷子です。


高倉健さんが亡くなってじき一年になる。
そのニュースを見ながら、ちょうど同じ時期に刊行された詩集を思い返した。
今日は谷川俊太郎さんの詩集『悼む詩』のなかから、一編を紹介したい。


先日、笑う能力の詩を紹介したが、
対極のような詩を続けて紹介することになるが、これは偶然にすぎない。


検索迷子ではこれまでも、
お別れの挨拶を綴った一連の記事があって、長く読まれている。
お別れの挨拶に聞きたい言葉 - 検索迷子
お別れの挨拶を言えますか。 - 検索迷子
さよならより、ありがとうを - 検索迷子
さよならなんてだいきらい - 検索迷子
お別れの挨拶ができる喜び - 検索迷子


お別れをテーマとした記事が読まれるようになってみて、
このテーマでもっと書きたいと思いつつ、
死そのものをテーマに選ぶことには抵抗があった。
多くのかたが読みたいのは、お別れの場面にふさわしい、
弔辞の文例とか、職場でのスピーチとか、
ちょっとしたお別れの挨拶なんだろうかとずっと考えてきた。


永遠のお別れも、いっときのお別れも、
お別れって同じ言いかたをするんだなという、言葉の意味の広さも、
考えれば考えるほど深くて、答えがでないまま何年も過ぎた。


それで行き着いたのが、「お別れ」という定義の解釈を変えて、
「たいせつな何かを失う哀しみ」ととらえていこうと思うようになった。
そのたいせつな何かに向けて、心を癒す言葉を人は必要としているから、
検索迷子にふと流れ着いてくれたんだろうと思うようになった。


対象となるのが、人であれ物であれ、
亡くなったかたであれ、
生きているけれど、物理的にもう会える可能性が低いひとであれ、
やりがいがあった仕事であれ、
憧れていた夢であれ、
もう、それは対象が何であったとしても、
一度たいせつだと思ったものを失う、
その喪失の哀しみは大きくて、
乗り越えるのにエネルギーが必要なのはどれも同じかもしれないと、
お別れを広くとらえてみようと思った。


ここにあったものが、ここになくなってしまう。
何かがなくなってしまっても、
自分の心はあり続ける。
何かがなくなってしまっても、
自分はここにい続ける。
だから、哀しみは続く。


喪失の哀しみをいやしてくれるものが何かないだろうかと、
ずっと言葉を探していた。


それは、失意にある状態の人に声をかけたいときにもそうだし、
なりふりかまわず、今の自分を救いたいときもあるだろう。


なによりも、日々の小さな心のひび割れに、
他人から見ればなんてことのないような、笑ってしまうような、
ふとした哀しみだったとしても、
いまはもう立てそうもないときがある。


自分自身が立ち上がっていくためにも、
この一本の杖なしには立ち上がれないとき、
すっと自分のそばに寄り添ってくれるような言葉を探していた。


これから紹介するのは、谷川俊太郎さんが、
おもに親交関係のあったかたに向けた、いわゆる弔辞を集めた詩集だ。



個々の詩については、対象となる詩人との関係性もあり、
また機会を改めたいが、今日はそのなかから、
編集をされた正津勉さんが「全体の意図をよく語っている」として、
巻頭においた一編「そのあと」を紹介する。


『悼む詩』、
谷川俊太郎(たにかわしゅんたろう)詩、
正津勉(しょうづべん)編、
東洋出版、2014年11月刊より、「そのあと」。

悼む詩

悼む詩

悼む詩

悼む詩

そのあと
谷川俊太郎


そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべてが終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある
そのあとは一筋に
霧の中へ消えている
そのあとは限りなく
青くひろがっている


そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に


詩をどう受け止めるかは、ひとりひとり違うと思う。
だから、今日はこのあとはさらっと終えたい。


この言葉が、
いつか本当に必要となったときに、
検索迷子が心の杖を差し出すように、
その杖を見つけてくる係のような小さな役割を果たし、
どなたかの心を温めることができれば幸せだと思う。


あなたにも、私にも、
そのあとがある。


書き終えて気づいたが、
高倉健さんの遺作の映画となった『あなたへ』は、
妻を失った、そのあと、を描いた作品だった。


今日は草なぎさんの話題と交差しないと思いながら書き始めたが、
草なぎさんが出演されていた作品でもある。


草なぎさんをきっかけに、
ゆかりの深いかたや、
自分のなかに眠るいろいろな記憶や、
感性の引き金を引かれるかのような気がする。


だからいま、一年前に刊行された、
この詩を思い出させてくれたのかもしれない。


生きていれば、生きようと思い続ける、
そのあと、がある。


では、また。